No.151 Copyright(C), 1998〜
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【児童書】 『わたしは、わたし』(ジャクリーン・ウッドソン:作 さくまゆみこ:訳 すずき出版 2010) 「わたし」の名前はトスウィア。「わたし」の名前はイーヴィー。一つ目は親がつけた名前で、二つ目は「わたし」がつけた。 遊びじゃない。今、「わたし」のIDはイーヴィー。トスウィアはもういない。「わたし」はイーヴィーを生きるしかない。 この物語の設定はとても重いものです。イーヴィー(トスウィア)の父は警官。ある日同僚二人が、両手を挙げている黒人少年を射殺するのを見ます。これを見逃していいはずはない。が、彼も黒人でした。ことは人種問題のように見なされ、父はもし裁判で証言すれば命に危険が及ぶようになります。これまで親しい仲間だったはずの白人警官たちは態度を変え、彼を脅します。トスウィアにとって、小さな頃から可愛がってくれたはずの父の同僚たちが牙をむき凶器となります。 それでも父は娘たちのためにも(だって、その少年は彼の娘だった可能性があるから)証言を決意。が、そんな彼と彼の家族の命を守るためには、彼らのIDを変えてしまうしかありませんでした。 こうして、トスウィアはイーヴィーとなり、見知らぬ街で過去を偽って生きるようになるのです。 ウッドソンですから、そこで描かれているのは偏見と無理解、そしてそれに対峙する寛容や理解、受け入れです。物語はそのように進み、この過酷な事態の中から主人公たちの幸せへの模索がなされています。 と同時に、この設定によってウッドソンは、ID,まさにアイデンティティとは何か?を私たちに考えさせてもくれます。 物語の密度という意味ではウッドソン作品の中でそれほど高いものではありませんが、根源的問いという意味では、重要な作品です。(ひこ・田中) 『マーチ家の父』(ジュラルディン・ブルックス 高山真由美:訳 武田ランダムハウスジャパン 2010) 児童書ではありませんが、ぜひ。 『若草物語』において異様なのは、徹底した父の不在です。 オルコットにとって父である、超絶主義者であり理想だけに生きた著名な教育者の父ブロンソンは、その理想を貫徹するために家族を捨てようとした存在です。オルコットが作家として金を稼ぎ家族を養おうと子どもの時に決意した動機の1つはそこにあります。 だからといって父親を憎んでいたわけではなく、父の面倒を見続けます。その愛情は、かろうじて残されている日記の一部からも伺われます。 二人は共に危篤となり、父の死後二日目にオルコットも亡くなりました。 このフィクションは、『若草』における不在の父の側を描いています。そのための資料やインスピレーションに使われたのは、ブロンソンの著作や、言及された書物。 見事なフィクション、そしてメタ・フィクションなのですが、『若草』の舞台を借りてブロンソンを描いたと考えるなら、優れた歴史・伝記小説ともいえるでしょう。 これを機会に『若草物語』の背景(深いです)に興味を持ってくだされば幸いです。 絶品。(ひこ・田中) 『わが家がいちばん!』 (トレイシー・ビーカー物語 3 ジャクリーン・ウィルソン:作 小竹由美子:訳 偕成社) 元『おとぎばなしはだいきらい』の名で出ていた作品を第一巻に、シリーズ全三巻が出そろいました。 第一巻は、カムの里子になるところで終わりましたが、はてさて、現実的に暮らしてみて、どうなの? という話が展開します。 そこはウィルソン。トレイシーのわがままぶりもめいっぱいに描いていきます。暮らすってそんなに夢物語ではないことをね。実母が現れて、すったもんだがありますが、でも、基本的には暖かい風が吹いています。 一人称の語りがやはり秀逸。(ひこ・田中) 『行け! シュバットマン』(村中李衣:作 堀川真:画 福音館書店 2010) なんだか脱力しそうなタイトルですが、それでめげてはいけません。なかなかおもしろい物語です。 ぼくの母親の職業はちょっと変わっている。巨大ヒーローのスーツアクター。父親はレストランをやっているけれど、やっぱり元スーツアクターで、今では母親のよきサポーター。母親はローカル放送でシュバットマンを演じている。そのことはクラスでは秘密にしている。なんかちょっと恥ずかしいから。 ぼくは最近、女の子にモテモテのげんが気に入らない。なんであいつは人気があるんだろう。同じ塾に入って知り合いになったぼくは、げんが巨大ヒーローものの大ファンで、シュバットマンに夢中なのを知る。ただクールなやつかと思ったら意外だ。父親の店に遊びに来たげんは、店にも興味を示し、父親を手伝い始める。ぼくはちょっとあせりぎみ。そしてついに母親のことが知られてしまい…。 巨大ヒーローという架空性を、しかもスーツアクターという匿名性で生きる母親の、子ども視聴者へのあふれる想いの本気度と、現実はなあと、少々引いているぼくとの差が、モテる男という現実を生きながら、ヒーローの架空性にリアルを感じているげんによって埋められていく構造を持った物語です。 村中が自分の属する中国地方に舞台をこだわっていることにも好感です。(ひこ・田中) 『だいすきだよ、オルヤンおじいちゃん』(カミラ・ボルイストレム:作 石井登志子:訳 千葉史子:絵 徳間書店 2010) オルヤンは自分の名前が好きではありません。なくなったおじいちゃんからもらってというのですが、なんだか古くさい。大好きなおばあちゃんがホームに入ることになり、オルヤンは遊びに行きます。そこで紹介されたのが、なんと同じ名前のオルヤンじいちゃん。ユーモアを忘れず話し上手な彼を、いつしかオルヤンくんは大好きになります。でも死は確実にやってきます。 老いから死を、子どもが知っていくというテーマですが、悲しみだけではなく、死を受け入れていく姿が良いです。(ひこ・田中) 『動物園ものがたり』(山田由香:作 高野文子:絵 くもん出版) 絵が高野さんだなんて! と、まず山田由香さんに嫉妬。 脚本家が本業である山田の初児童書です。 舞台は動物園。確信犯迷子のまあちゃん、その両親、カバの飼育係、老夫婦と、視点をどんどん変えながら、愛と理解と育て方について語っていきますから、結構複雑なのですが、語りが巧いので混乱することはないでしょう。 最後がまとまりすぎな気もしますが、達者故でしょう。 これからもどんどん書いてくださいな。(ひこ・田中) 『わたしの赤ちゃん ビッグサプライズ』(キム・フォプス・オーケソン:文 エヴァ・エリクソン:絵 森信嘉:訳 今人舎 2010) 待ち望んだ赤ちゃんを女の人はお腹に授かって、男の人も女の人も大喜び。生まれるまで、あれこれ準備と幸せな日々が続きます。そして、ついに出産。生まれてきたのはお猿さんでした。戸惑う二人。悲しむ二人。恥じる二人。 お猿の赤ちゃんの体の毛を全部剃ってしまいます。そうしたら人間の赤ちゃんに見えるかしら? でもやっぱり、毛を剃られたお猿の赤ちゃん。 二人は乳母車を覆い隠して、外へ散歩に出かけ、動物園に行くと、なんとお猿の檻の中、人間の赤ちゃんを育てているお猿の母親が! 取り替えようか、でもそれは…。 ここまで設定できるのはたいした物ですし、また児童書だからできるともいえるかもしれません。 ただ、タイトルの前に「個性を考える」とつけてあるのはいかがなものか? 物語が窮屈になってしまいます。 それと表紙に絵描きの名前は入れましょう(帯と扉にはあります)。(ひこ・田中) 【絵本】 『フリードリヒばあさん』(ハインツ・ヤーニッシュ:文 ヘルガ・バンシュ:絵 関口裕昭:訳 光村教育図書 2010) フィリードリヒばあさんは、素敵なすごいばあさん。人を見通す目、探偵のような好奇心、忍耐力、怪力…。の後は、ご自分でお読みください。 ヘルガ・バンシュの画は、物語そのものに沿って、軽やかに、時に激しく、そして安らかに。 傑作。(ひこ・田中) 『フィボナッチ』(ジョセフ・ダグニーズ:文 ジョン・オブライエン:絵 渋谷弘子:訳 さ・え・ら書房 2010) フィボナッチと言えば、「フィボナッチ数列」で有名ですね。自然の生物の形に共通して現れる数列です。 偉大な発見なのですが、それ以外にも、西欧にインドの数字を持ち込んだ人でもありました。1、2、です。こっちの方が10進法の繰り上がりなども把握しやすいのは今や明らかですが、受け入れられるには時間がかかりました。フィボッチはヘンなやつだったわけです。 この絵本は彼の生涯を、オブライエンの精緻なイラストとダグニーズの語りで描いていきます。 こういう絵本を読んで数学が好きになったりするのですよね。 ならなくても、世界の秩序というものは、権力者の思惑のことではなく、自然のバランスであるのを感じられれば吉。(ひこ・田中) 『あたしのくまちゃんみなかった?』(ジュールズ・ファイファー:さく れーどる&くれーどる:らく 石風社 2010) 一番好きなぬいぐるみのくまが見つからない。女の子は必死で探し回るけど、なにしろお片付けが好きでないようで、部屋も混乱の極み。家中探してもダメ。 おねえちゃんに相談に行くと、扉を開けてくれないおねえちゃんは、なにかてきとうなぬいぐるみを後ろに投げれば、そいつの落ちたところで見つかるかもなどど、いいかげんなことを言う。 でも、すがりたい女の子はそれを実行しようとするけれど、投げてもいいぬいぐるみなんかない! この後はおもしろいので秘密。 子どものしょうがなさと、必死さと、わがままと、大人から見ると変わった思考回路などが、見事に描かれていきます。 画はコミック系で、ポップに展開を見せていて、とてもいいです。 好きな絵本がまた一冊。(ひこ・田中) 『まっくろくろのおばけちゃんのぼうけん』(デヴィッド・カリ:作 フィイリップ・ジョルダーノ:絵 戸田理香:訳 岩崎書店 2010) まっくろのおばけちゃんはまっくろな島に住んでいて、写真を撮ろうとするけれど、そういうことだから、撮ったしゃしんはまっくろなまま。 そんなのいやだとおばけちゃんは、島をこぎ出し、ちゃんと写真が撮れる島を目指し、大冒険! でも行く先々の島にはいろいろ問題や困難があって、なかなか写真が撮れません。さてどうする、おばけちゃん! といったシンプルなお話構成です。オチもちゃんと予想通りに落としていて、良いですね。 やはりそれより注目すべきは、フィイリップ・ジョルダーノの画のすばらしさ。重厚だとか濃密だとか、軽やかだとか、さわやかとかではなく、カラフルな色彩を使って、黒を際立たせます。海への大冒険をページを超えた一連なりに描き、個々の生き物や物を愉快な「形」に落としています。かなりの上前です。こうした、抽象と具象の入り混じったグラフィックは、子どものセンスを磨いてくれるでしょう。すばらしい。(ひこ・田中) 『ぱぱごはん』(はまぐちさくらこ ビリケン出版 2010) 国立国際美術館が万博公園から中之島に移転一〇周年を記念して企画された「絵画の庭-ゼロ年代 日本の地平から」参加作家に選出されていたはまぐちは、個性を競う多くの作家の中で、なんだか一人居心地が悪そうだったのをよく覚えています。 最近の私は、展覧会を「絵本を描いて欲しい人発見」といった視線で観るようになってしまっているのですが、はまぐちも発見した一人でした。でも、そのときすでにその方向へも歩を進めていたのですね。うれしい。 ストーリーは説明してもあまり意味がないとは思いますが、ぱぱがパンツのままなので怒ったままは家を出て行きます。それで自由に遊べると喜ぶ子どもたち。ぱぱはごはんを作ったことないけど、作るぞ! で、いろいろ作るのですが、これがまあ、おもしろいけどおいしくなさそう。食べられるの? そこで子どももだんだん怒ってきて…。 このぱぱとままも子どものぱぱままごっこかもしれません。 とにかくそうした奔放なストーリー(ジェンダーバイアスが若干かかっているのは残念)は、とりえずページを繰るために存在していて、要は、はまぐちの画を堪能させられるわけです。 ピンク系統を中心に、塗りたくられたようなそれは一見、子ども画ですがもちろんそうではなく、隅々の描写も観ていけば、割とちゃんと配置され、バランスの良い構成となっています。それを、タッチが破壊していくのです。 画風は全く違いますが、長新太の目指していたものと重なってきます。(ひこ・田中) 『いたちのイジワリッチ・イタッチ』(ハンナ・ショー:作・絵 古橋香子:訳 岩崎書店 2010) イタッチは子どものことからわすさをして、ずるいやつ。わるだくみや、さぎや、たかりでお金持ちになり、自慢するパーテーィを開いたのですが、誰もやってこない。そこで昔の友達(?)を尋ねると、みんないじめられたりした経験を話します。イタッチの心はだんだん痛んできて…。 隅々まで遊び心いっぱいの絵は良いです。ただ、これは訳語の問題なのかもしれませんし、原作自体がそうなのかもしれませんが、いじめや、わるだくみや、さぎや、たかりで生きてきた者が、こんなに簡単に受け入れられるものかが今ひとつ納得できず。 つまりは、まあ、イタッチの問題ではなく、許す側が大切というのがテーマでしょうか。(ひこ・田中) 『おすわりくまちゃん』(シャーリー・パレント:ぶん ディヴィッド・ウォーカー:え 福本友美子:やく 岩崎書店 2010) 分配をテーマにしています。 四つのいすがあって、青、赤、黄色、プイプヨ、四匹の縫いぐるみの子グマが仲良く座ります。 と、そこへ、もう少し大きなちゃいくまがやってきて、座ろうとするのですが、もちろん無理。一個のいすに二人で座るのも難しい。さて、みんなはどうするか? が、順を経てわかりやすく描かれていきます。仲良くね。 ディヴィッド・ウォーカーの絵創りは、構図的な大胆さはないのですが、背景を白抜きにすることで、ことの顛末を見えやすく、わかりやすくしてくれています。(ひこ・田中) 『おじいちゃんのもうふ』(ミュエル・ブロック:文 ジェエル・ジョリヴェ:絵 ふしみみさお:訳 光村教育図書 2010) ジョセフは赤ん坊の頃からおじいちゃんが大好き。仕立屋である彼から贈られた毛布を大切にしています。でも、四六時中手放さない彼に母親はお冠で、捨ててしまう。もう大きくなったんだからとね。ジェセフはゴミ箱からそれを拾っておじいちゃんの元へ。おじいちゃんは裁断して服を作ってくれます。 でもやがてそれも小さくなって…。 という風に、ジョセフとおじいちゃんの愛情と、子どもの成長が巧みに絡ませてあり、上質な物語です。 絵は木版、手描き、パターンを組み合わせていますが、ポイントとなる毛布はパターンを使って、形は変わってもいつまでも変わらない愛情の印となっています。(ひこ・田中) 『きえた権大納言』(ほりかわりまこ:作 偕成社 2010) ほりかわによる今昔物語絵本の新作。陰陽師の家で碁を打っていた権大納言は、帰り道で鬼につばをかけられてしまう。と、その姿は誰にも見えなくなります。みんなも困ったが、一番困ったのは権大納言。彼の姿が見える少年に誘われて…、大丈夫か? 権大納言! 今昔の持つ物語力が乗り移ったほりかわの絵が踊っています。楽しいぞ。(ひこ・田中) 『アイスクリーム おいしいね』(エマ・クエイ:作 アナ・ウォーカー:絵 まえざわあきえ:訳 ひさかたチャイルド 2010) 「いっしょにあそぼう!」シリーズ第二作。今回はパンダと羊がチョコとイチゴのソフトを食べている真ん中で、背の低いフクロウが寂しげにしとります。でも、文句を言わないのがエライ。そしてパンダと羊がしたことは…。 この凹みトリオは、トリオ漫才のようで、これからも色んなエピソードを描けそうです。(ひこ・田中) 『世界のアート図鑑』(レベッカ・ライオンズ エミリー・シュライナー:総監修 青柳正規:日本語版監修 松浦直美:訳 ポプラ社 2010) 幸いなことにアートなどと呼ばれていなかった旧石器時代の洞窟画から、しょうがないダミアン・ハートまで、「アート」がてんこ盛りの図鑑です。基本的にこーゆーのが好きな私は、よだれもんで見とります。 ただ、日本の子どもたちには、このままではいささかわかりにくいのではと思います。美術館でワークショップとかしてもらうプログラムが豊富に、小学校の授業にあるのなら別ですが。「ゆとり教育」すら、まともにゆとりも持ってさせてもらえなかった教員たちの悔しさに思いをはせます。 でも、パラパラめくっていれば、どこかに食いつくところはあるはずで、そこから「アート」(人をおもしろがらせる暇つぶし)に興味を持てれば、それでもう本書は十分に役目を果たします。(ひこ・田中) 『おにころちゃんと りゅうのはな』(やぎたみこ 岩崎書店 2010) おにの子どものおにころちゃんは、人間の子どもと遊びたくって、鬼のお道具であるりゅうのはなをこっそり持ち出して地上へ。でも、このりゅうのはな、なんでもかんでも大きくするものだから、花もバッタも大きくなって、子どもが怖がるし、ついには火事まで大きくなって…。 思い切り笑わせてやろうなどというスケベ心なく、本来作者が持っているのでしょうユーモアがこぼれ落ちて、楽しい仕上がり。 いい才能だなあ。(ひこ・田中) 『リヤ王と白鳥になった子どもたち』(シーラ・マックギル=キャラハン:文 ガナディ・スピリン:絵 もりおかみち:訳 富山房インターナショナル 2010) リヤ王には四人の子どもがいましたが、なくなった妻の妹と再婚したとたん、彼女は魔女の力で子どもたちを白鳥に変えてしまう。というアイルランドの伝説を悲劇的結末から幸せな結末に変えて絵本化。 なんと言ってもスピリンの絵がもう、すばらしいことこの上なし。細かく、細かく描き込まれた断片が優美な画面となって立ち現れてきます。絵の背景に強く物語を感じさせるので、見ていて飽きません。(ひこ・田中) 『とんでいきたいなあ』(市川里美 BL出版 2010) 木製飛行機コスモスが、おもちゃ箱から飛び出して、窓の外に見えるドーム屋根の建物まで飛んでいきたいといいます。この窓の外には一度も出たことがないのです。その話に乗ったぬいぐるみの犬ウォギー。コスモスのプロペラを巻いて、バルコニーから出発! パリの街を見下ろしながら、モンマルトル大聖堂までの大冒険です。 雲や風、鳥などの困難に立ち向かうさまや、パリの風景を市川は愛情たっぷりに描いていきます。 目的を果たしたときの爽快感を一緒に味わってください。(ひこ・田中) 『うみべのいちにち』(ナタリー・チュアル:作 イルヤ・グリーン:絵 ときありえ:訳 講談社 2010) 兄リロと妹レオ。夏の海辺。砂遊びの楽しい時間を、丁寧に描いていきます。 元気なレオちゃんがお兄ちゃんをリードして、砂のお城を作っていきます。 でも満潮がやってきて、お城は海に中へ。 幸せな子ども時代のささやかな一日を、グリーンの絵は切り紙とペンで、少し懐かしめに描いています。(ひこ・田中) 『砂上の舟 水上の家 アラル海とツバル ふたつの水物語』(会田法行写真・文 ポプラ社 2010) 人の営みによって内海の水が消えてしまい砂漠化した街。そして海面上昇によって消えようとする小さな島国。 会田はごく素朴に、水が消えた場所と、水が増えた場所に出向き、写真を撮り、考えていきます。 考える言葉と、考えたことは、さほど目新しいものではありませんが、2つの地が同じ地平に置かれることによって発せられた問いそのものは、素朴故に、決定稿が見つからないまま考え続ける素地となります。(ひこ・田中) 『妖怪バリヤーをやっつけろ!』(三島亜紀子:文 みしまえつこ:絵 平下耕三:監修 生活書院 2010) バリアフリー啓蒙絵本。障害者のバリヤーになるものをやっつけていきます。 絵本としての出来はそれほどいいとはいえませんが、それはそれとして、この絵本は監修の平下の経験が背景にあります。 兄弟共、障害児で生まれ、母親は出て行ってしまうし、という大変であろう事実も含め、決して暗く描かれていません。 もちろんそれは、暗いことがなかったからではないでしょう。だからといって明るく振る舞っているわけでもないはずです。 彼らは障害者としての当事者です(よく誤解してしまいますが、親は当事者ではありません。親という当事者ではありますけれど。)。ですから、明るく生きるとか、暗く沈むとか、健常者より人の痛みがわかるとか、優しいとか、そんな幻想的な物語を語れないだけです。日常は日常です。 それでも彼らの方が生き難いとしたら、紛れもなく障害者だからで、そこを貶められることを彼らは許しませんが、持ち上げられることも困るのです。それでは、真実は何も伝わらないし、社会を変えることもできません。 論理はとてもシンプル。彼らにとって、バリヤーがあれば、それは社会がまだ、人(障害者だけではなくて)が生き易くなっていない証拠。 でも、これ言い続けてもう三〇年以上になりますが、まだまだですね。 うん、まだまだ。(ひこ・田中) 『イルカの子』(姫野ちとせ 主婦の友社 2010) 障害児の親による絵本。 まず、人間と比べて、イルカのすばらしさ、優しさ、平和さが語られます。 そこから、障害を持つ我が子を、「イルカの子」、イルカのような子と語っていきます。 ここにある思いはまさに、親という当事者の愛情あふれる思いです。 と同時に、納得の仕方でもあります。 しかし、それと、障害者自身、当事者としての思いや納得は違う可能性があることは心にとめておきたいものです。 当事者の障害児をイルカにたとえるのは、彼女にもイルカにも失礼だと私は思う。 彼女は障害を負っている人間として扱いたいし、描いて欲しい。そういう受け入れ方を、まずは近しい人間がして欲しい。でないと、理解は深まっていかない。差別は解消へと向かわない(100%解消するとは思いませんけど)。 読者は、この絵本が感動を誘うとしても、それは障害者の思いへの感動ではないことへの注意は払いたい。(ひこ・田中) 『バケミちゃん』(おくはらゆめ 講談社 2010) 一番乗っている絵本家おくはらの作品です。 今回は、おばけのバケミちゃんが登場。彼女はゴミのなかから「ええもん」を探す名人。今夜も今夜とて、ゴミ捨て場に向かい見つけた物を持ち帰ろうとするのですが、それらにはもう色んな先住者がいて…。 ほんわか気分は『くさをはむ』譲り。でもおばけさんですから、怖さが違う。ことはなくて、ほんわかです。(ひこ・田中) 『びっくり!? 昆虫館』(新開孝:写真・文 岩崎書店 2010) 絶好調、新開の昆虫写真物。図鑑と写真絵本の中間くらいの設定。観察絵本かな。 虫たちの様々な形、色、大きさの卵からいきなり全開で、次のページからそれぞれの卵の幼虫から成虫までを紹介していきます。昆虫を苦手は私が見ても、どれもきれいです。 子どもが夏休みに観察できるように、写真情報を多く入れているので、統一感は若干低めですが、生き物の力で飽きさせません。 今頃紹介するな! 夏休み前にしろと怒られそう。すみません。 昆虫と言えば、この前TVに出ていた栗林さん。えらい太りはりましたね。人気によるストレスか? はたまたおいしいものの食べ過ぎか。(ひこ・田中) 『カイジュウゴッコ』(山本孝 教育画劇 2010) はい、山本の『むしプロ』に続くコテコテシリーズ新作です。タイトルまんまの世界が繰り広げられています。 男の子二人が怪獣になりきってあぜ道で遊んどりますです。 絵はもちろん、大人から見て、とことんチープに見せかけてあります。いいなあ。 女の子が見れば、ただのバカ二人であります。いいなあ。(ひこ・田中) 『ぼくのしんせき』(青山友美 岩崎書店 2010) 『ならくんと かまくらくん』に絵で参加した青山のオリジナル。 古い缶の中から出てきた古い家族写真。ばくの小さな頃のから、知らないのまで。おかあさんが一つずつ説明していきます。その過程で、家族の歴史が浮かび上がる段取りです。 みんなちょっとにていて、ちょっと違う顔たち。小さかったから忘れていた人たち。 さあ、お盆でみんな久しぶりに集まるのだ! いい味でています。(ひこ・田中) 『だれかがぼくを ――――――ころさないで』(内田麟太郎:文 黒井健:絵 PHP研究所 2010) 心をストレートに語るタイプの内田の作品です。タイトルの助詞の使い方、その屈折度に、描きたいことへの想いがあふれています。 その救いの声が、ありきたりに聞こえるのは、私たちの人生そのものが結構ありきたりであることを示しています。そのあたりに対する冷静な詩人の目。 黒井の絵が使われるのは当然のように思われます。雰囲気ピタリ。でも、ずらしてもおもしろかったかもしれません。(ひこ・田中) 『おばけなんて いないよ!』(エマヌエル・エーコート:作 真木文絵:訳 偕成社 2010) 引っ越したとき、ママが言ったんだ。お隣のお屋敷はお化けがいるから絶対に行ってはだめよって。 だからぼくはお化けを捕まえに捕虫網を持って出かけた。真っ暗な家の中をあちこち、階段も寝室もソファーもさんざ探したけど、見つからない。やっぱりお化けっていないんだ。 もちろんお化けたちはたくさんいて、少年を大歓迎しているのですが、全然見えない。一緒に遊びたいのに見えない。ということが、読者の子どもにはよーくわかって、とても愉快な展開です。 画は、べた塗りではなく、見開きのあちこちに的確に散らせてあり、読みやすく見やすいです。 日本初登場の作家。もっと出て欲しい作家です。(ひこ・田中) 『ネコナ・デール船長』(おくはらゆめ イースト・プレス 2010) 絶好調、おくはらの新作。船長が船内で飼っている猫は、あごとお腹と足の先が白くてあとは黒い、ホワイトソックスと呼ばれることもある毛並み。それをくつ下って名付ける船長もわかりやすい人。そして船長はくつ下の背中をなでると、航海中の天気の移り変わりなどがわかるのでした。だから船長の名前はネコ・ナデール。このベタも素敵。絶好調の証。関西のノリですね。 今作も骨太の筆致でグングン描いていきます。画面の引き方と寄り方の差を大胆にすることで海の上の波の強さのような雰囲気を醸し出しています。(ひこ・田中) 『ノマはちいさな はつめいか』(ヒョン・ドク:文 チョウ・ミエ:絵 かみやにじ:訳 講談社) 韓国の七十年以上も前の童話に若い絵本作家が絵をつけています。 ノマ少年が段ボールを使って機関車を作っていく様子を語った文は、母親の愛情も含め、子どもが満足感を得る過程を巧く描いています。チョウ・ミエの画は、全体の色のトーンを薄茶色く段ボールっぽくし、そこに、ノマの仕草や表情を輪郭線を豊かに使って表現していて、見事です。リアリズムがリアルに堕ちる直前で寸止めしています。(ひこ・田中) 『みんながつかうたてものだから』(サジヒロミ 偕成社 2010) 一級建築士による、様々な建物の設備等の解説絵本。って言ったら、つまらなそうですね。実際大人が見れば、んなこと知ってるよというレベルかもしれません。でも、子どもが好奇心を抱くレベルは十分に満たしています。それってとっても大事。入りにくいと思っておられる方も多い、入ってはいけないと思っている人が多い障害者用トイレ(使っていいですよ。私は荷物が多いときなど使います)の中のこととかね。社会は人が暮らしいいように大人によって工夫されていることを知るのはいいこと。その上で、工夫が足りないと気づくのはもっといいこと。 絵そのものは、やはり絵本作家に及ぶべくもないですが、それは専門家じゃないですからね。(ひこ・田中) 『木? それとも草? 竹は竹』(柴田昌三:文 石森愛彦:絵 「たくさんのふしぎ」10月 福音館書店 2010) 高校で弓道部にいた頃、ちょうど百年目に一度の開花があって、弓矢の供給が大変だったのをよく覚えています。百年と言ってもそれは本当かどうかよくわかっていないのが、これを読むとよくわかります。竹のことを人間はよくわかっていないのがよくわかります。 あ、っと思ったのが、竹が花を咲かせるのは何十年に一度なので、人間が受粉して改良・管理できなかった植物だという指摘。だから竹は古形のまま。 それをなんとか人間は管理してきたけれど、プラスチックの普及で竹が使われなくなったため、元々野生の竹はその野生度とたちまち取り戻し、繁殖し始めたそうです。 いやあ、いい一冊だ。(ひこ・田中) 『学校ってどんなところ? 1ねん 1くみの 1にち』(川島敏生:写真・文 アリス館 2010) 教室の俯瞰撮影で、小学一年生の学校での一日を見せる試み。一ヶ月の給食などの資料映像もあります。 入学前の子どもに読み聞かせて、あらかじめ情報を与えてあげるのに使うのもよし、小学生が自分たちの学校での一日を客観的に見るのもよし。そして大人は学校、教室というものの器としての意味を、近代の子ども観の1つとして考えて見るのもよし。 一年生だからかなあ。もうちょっともめたり、けんかとかないのかなあ。というところは疑問ですが、おもしろい試みではあります。(ひこ・田中) 『ひるまの おつきさま』(遠藤湖舟 「かがくのとも」10月 福音館書店 2010) 昼の月って結構好きですが、それをちゃんと教えてくれるのって、案外なかったかな。これは、子どもにもわかりやすく見せていく写真絵本です。山の上、電車の上、橋の上、いるいる、お月様。 昼の月って、夜のそれより存在感ありますよ。ぜひご覧あれ。 解説に徹した作りがよいですね。(ひこ・田中) 『モリくんのおいもカー』(かんべあやこ くもん出版 2010) コウモリのモリくん、さつまいもで車を作ってお出かけ。途中でお腹をすかしている生き物たちに出会って、気のいいモリくん、おいもをあげますが、車はだんだんあちこち欠けてきて、ついに動かなくなります。さあ、この車どうしましょう? そりゃもう、決まってますよね。 イラストにするか絵本的にするか、構図も含め、絵が少し迷っていますけれど、物語の作り方は巧いです。絵本デビューおめでとうございます。(ひこ・田中) 『きいろいかさ』(リュウ・チェスウ:作・絵 シン・ドンイル:作曲 BL出版 2010) 俯瞰画面に一つの黄色い傘。そこにページを繰るごとに、青や赤次々と色んな傘が集まってきます。背景は道であったり、公園であったり、踏切であったり日常感覚あふれていますから、当然、傘をさしている人々に想像力は向かいます。最後のページで、それは通学する子どもたちだったとわかります。 静かでありながら活き活きと賑やかな絵本。もちろん文はありません。(ひこ・田中) 『おっとっと』(木坂涼:文 高畠純:絵 講談社 2010) おっとっとと踏鞴を踏む言葉のリズムで、犬のとうさんのお仕事に行くところから、帰宅後の家族との時間までを描きます。間で他の動物もおっとっと。それと犬のとうさんのおっとっとが連動していきます。 自由な想像と、決められたリズムの兼ね合いがキモ。(ひこ・田中) 『おうち』(まつむらまさこ:さく 松村太三郎:え そうえん社 2010) 「カシュウとナッツ」仲良しわんちゃんシリーズ二作目。 今日はお留守番の二匹。はりきって、遊び倒し、退屈して、おじさんを呼ぶことにしますが、おじさんはきれい好きなもので、部屋を片付けようと…。仲良し二匹の楽しい時間が流れます。(ひこ・田中) 『オオカミがやってきた!』(うちだちえ:作 山口マオ:絵 童心社 2010) 童心社の絵本テキスト募集第一回優秀賞受賞作。おめでとうございます。 オオカミが羊の村へとやってくる。あたふたと隠れる算段をする羊たち。が、森のじいさんは、それではいつまでも変わらないという。そこで、オオカミ撃退大作戦! 愉快な方法をみんなで考え出し、オオカミはあたふた。その辺りが子ども読者には愉快でしょう。 非常にスタンダードな物語展開で安定しています。山口の画はうちだの文をカバーし支えています。 ここからどう、逸脱した物語を生み出していくかうちだに期待です。(ひこ・田中) 『したきりすずめ』(那須田淳:文 はたこうしろう:絵 小学館 2010) 各出版社で東西の昔話の絵本化ブームですが、これもその一冊。 ただし、この物語は子供用の昔話化で消えていった部分も再現していて、読ませます。 今風にアレンジして、「どや!」ってものより好きです。 しかし、舌を切られたすずめがちゃんと話せるのが今も「?」。鳥だから?(ひこ・田中) 『みずたまりぴょん』(エマ・クエイ:作 アナ・ウォーカー:絵 まえざわあきえ:訳 ひさかたチャイルド 2010) 「いっしょにあそぼう」三作目。 いつも前向きに生きている、パンダとヒツジとフクロウの子どもたちですが、今回は水たまりを跳ぼうというのですが、メエメだけは怖がります。絶対跳べない、絶対尻餅をつくって。 大丈夫と、タンタンとクーは励まし、ようやく勇気を振り絞ってピョン! やっぱり尻餅ついちゃった。でもいいや。あそんでるんだもん。みんなでみずたまりで尻餅ついて遊びましょう。 っていった、遊びの前向きさがこのシリーズの素敵なところ。 とても単純で、何ほどのこともないのですが、何ほどもないことを描く難しさ。 それと、いつものように、アナ・ウォーカーの描く彼らの目線の微妙さが良いですねえ。(ひこ・田中) 『ちいさなボタン、プッチ』(あさのますみ:作 荒井良二:絵 小学館 2010) プッチは花の形をしたボタン。ボタン屋さんの引き出しで、何に使われるのか、ドキドキまっています。やっと決まった仕事先は女の子のスカートのボタン。エリちゃんとプッチは仲良しの日々が続きますが、エリちゃんが大きくなってスカートははかれなくなり、プッチは? 幸せな結末です。 近頃イケイケ気味だった荒井が呼吸を整えて、荒井画を描いています。(ひこ・田中) ------------- 8月 学校で生きる 中学入学時、転居で隣の学区に行くことになった時のドキドキはよく覚えています。両校の生徒は対立していて、私は仲間と別れ、敵陣への転校生になったのですから。恐る恐る出身校を告げると、敵が一人減り味方が増えたと歓迎され、ほっとはしましたが、あまり嬉しくもなかったです。 新学期がやってきますね。あなたのクラスにも転校生が現れるかも。そのとき、どう近付きますか? 『スターガール』(ジェリー・スピネッリ:作 千葉茂樹:訳 理論社)では、レオのクラスになんともの元気いっぱいのコが現れます。彼女は、ランチタイムにいきなりウクレレで、誕生日の生徒にハッピー・バースデーを歌うコ。誰もがこんな奴はいないと思うけれど、みんなの幸せを願う姿から人気者になります。チアガールになった彼女は、なんと、敵チームも応援するのです。だって彼女にとって敵チームも「みんな」の中に含まれますからね。彼女は無視され転校していきます。あなたは彼女をどうする? 『ファイヤーガール』(トニー・アボット:作 代田亜香子:訳 白水社)。交通事故で全身やけどを負ったジェシカが転校してきます。仲よくしてあげましょうと担任は言うけど、外見にびびって誰も近づけません。とうとう最後まで打ち解けないまま彼女は別の病院へと去っていきます。家が隣だったこともあって、主人公は自分の勇気のなさに落ち込み、彼女にわびます。それに対してジェシカは、私に重要なのは治療の方で、そんなことは些細な問題だと応えるのです。でもきっとうれしかったと思う。 この二人のガールはおそらくあなたと少し感じの違うコでしょう。それを気にしていない振りをする必要はありません。大事なのは、彼らを受け入れられない自分がいることをまず受け入れる勇気です。すべてはそこから始まります。(ひこ・田中 読売新聞2010/08) 【児童文学評論】 |
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