No.154

       
【研究書】
『伝説の編集者 ノードストロムの手紙 アメリカ児童書の舞台裏』(レナード・S・マーカス:編 児島なおみ:訳 偕成社)ローラ・インガルス・ワイルダーから、マーガレット・ワイズ・ブラウンや、モーリス・センダックや、エズラ・ジャック・キーツ…たちへの編集者からの手紙。すごい資料です。と同時に、おもしろい。
出してくれた偕成社に感謝!

【創作】
『反撃』(草野たき ポプラ社 2010)
 五人の中学生たち、それぞれのありようを、少しずつ絡ませながら連作で仕上げています。
 様々な自我のかなりキツイ揺れを心優しく見つめる柔らかな視線が何よりうれしい。と書けば草野たきらしからぬということになりそうですが、いやいや。鋭い切り口はそのままに、距離を少し離して包み込んでいるといえばいいのかな。
 自我サバイバルの物語。
「あとがき」を書いたのがちょっと意外でした。(ひこ・田中)

『ヘブンリープレイス』(濱野京子 ポプラ社 2010)
 優しい両親は、「ぼく」が何を望んでいるかをさりげなく示し、優しく「ぼく」の生き方を縛っている。「ぼく」はもうそんなことは判っているけれど、それに抵抗もしない。だけど、それはやっぱり疲れること。
ある日、老師と呼ばれているホームレスのおっちゃんとの出会い、彼を慕う子どもたちとの時間の中で「ぼく」は「ぼく」ではなく、ぼくを見つけていく。
これも自我サバイバルの物語。(ひこ・田中)

『草の上で愛を』(陣崎草子 講談社 2010)
 小学校の時、頭の出来が違ったチーちゃんは、孤立しても平気な面持ちだった。なのに無視していたコたちは卒業間際、これまでのことをチャラにしたいかのように急に優しくなった。でも、そんな態度にもチーちゃんは動じない。
 別々の中学になった「わたし」にチーちゃんから電話。お誘いを受けた場所は競馬場。こうしてチーちゃんと「わたし」のつきあいは深まっていく。
 物語は、二人が大人になるまでを暖かく追っていきます。
 イラストレーターである作者の自伝的要素も入っているのでしょうか、細かいところでリアルです。
 友情という物が、ベターっと一緒にいることではなく、必要なとき呼びかけられる関係のことなのが、巧く伝わってきます。
 表紙も良いです。(ひこ・田中)

『まつりちゃん』(岩瀬成子 理論社 2010)
 空き家か留守宅かとおぼしき家に、独りで住んでいるらしき子ども、「まつり」とコンタクトした人々の物語。
 なぜまつりが、電灯も消して、たった一人で隠れるようにそこに住んでいるのかは後半明らかになり、少々強引ではあっても納得のいく設定。
 従って、なぜ、この特殊な設定でまつりちゃんは置かれたのか? です。
 父とも母とも距離を置く少年(ひょっとして幼い頃の母親の諸々は、ぼくへの虐待だった? とかは今頃気づいている)。自身がつかめなくて、老人の話を聞くボランティアをする女子高生。母親が離婚してから、時々「気もちが曲がる」少女。不登校の少女。夫が退職し、その身勝手さにうんざりしていながら、まつりの世話に生き甲斐を見いだす女性。別居しているが、いつか一緒に暮らしたいと思っている、まつりの父親。
 誰もがまつりと関わるのだけれど、まつりそのものは動かない。そうであることも設定としてリアルにされてはいるけれど、まつりの側に立つことはない。それは立つことではもう描けないということかもしれないし、まつりと向かい合う側から描こうということかもしれない。どちらにせよ、この作家がこの作品では、子どもの物語から去ろうとしていることが伺われる。残念ながら、まつりは、子どもとして祭り上げられている。まつりの物語ではなくまつりを使った大人の物語。ちょうどエンデのモモや、灰谷の鉄三がそうであったように。(ひこ・田中)

『さらば、シッコザウルス』(服部千春:作 村上康成:絵 岩崎書店 2010)
 おねしょを巡る、タクヤくんの戦いの記録です。
 夢に出てくるシッコザウルス。なんだかいい奴みたいで、タクヤはお誘いの場所でオシッコをするのですが、目が覚めると、やれやれ。
シッコザウルスを設定することで、子どものコンプレックスを回収しているのが巧いですね。(ひこ・田中)

【YA連載】
9月 居場所探し
 他の誰でもない存在として認められたいと、個性を固める努力をするけれど、いつまでたっても納得できない自分がいませんか? 仕方なく、とりあえずキャラを作っているって演じている人、多いでしょう? 使い分けできる程度のものだと自覚していれば、キャラはいくつ持っていても良いと思います。その代わり、キャラを馬鹿にされたくらいで全否定されたなんて思わないこと。そして個性を固めるのが大事だとも考えないでください。将来の選択肢を増やすためにはむしろ、考え方や感性はどんどん変えて、ストックを増やした方がいい。個性は周りが評価するものですから、心配しなくても年齢が行けば嫌でも固められていきます。
 『フランケンシュタイン』(メアリー・シェリー:作 森下弓子:訳 創元推理文庫)。SF小説の元祖です。フランケンシュタイン博士は、様々な遺体のパーツを集めて一人の人間を作り出します。彼は確かに他の誰でもない存在ですが、名前も与えられず、自分が誰なのか全くわかりません。自らの醜さに絶望した彼は、恋人を作ってくれたら二人で人間の前から消えると博士に言うのですが拒否され、復讐のために人を殺め、最後には北極の海に消え去ります。メアリーが何故この小説を書いたかを、彼女の生い立ちなどを調べ、色々考えてみてください。
『自分が好きになっていく』(高塚人志:監修・写真 五木田勉:文・インタビュー アリス館)。写真集です。高校生たちが授業の一環として保育園や老人ホームでボランティア。一人一人が担当の幼児や高齢者の世話をする。幼児とコミュニケーションするには、ガチンコ勝負。泣き出した子を目の前にして斜に構えてなんかいられません。キャラで攻めても通用しない。さあ、あなたならどうする? 彼らのいい表情をゆっくり眺めながら考えて。(読売新聞)

【子どもの物語】
子どもの物語(01)
                           ひこ・田中

 今月から書かせていただくことになりました。初回なので、何を今更と言われそうな話から始めます。
子どもの物語は、子ども自身ではなく大人によって用意されたものです。
と述べれば、炉端で老人から昔話を聞いている子どもたち。そんなシーンを思い浮かべた方もいらっしゃるでしょう。けれど昔話は元来、子ども向けの物語ではなく、ある民族・文化が、先人の知恵を伝えたり、集団に楽しみを与えたりするための口承で、リスナーの中心は大人でした。ところが科学の進展による価値観の変化や、活版印刷による安価な活字文化の普及などによって、昔話は大人のためのツールとして古びてしまいまい、居場所のなくなったそれは子ども部屋に安住の地を見つけることとなります。しかし、元々大人向けだった昔話をそのまま子どもに与えるのはいかがなものか? と改変されて行きます。グリムの『雪白姫』が実母から継母へと書き換えられた話はもっとも有名な改変の一つでしょう。
家族や社会の暗部の隠蔽。性的なものの排除。子どもは危機から救われ、幸せを得る。子どもに悪事をはたらいた大人は厳しく罰せられる。といった傾向は、大人から子どもへのまなざしがどのようなものであるかをほのめかしています。
その後登場してくる子ども専用の物語、すなわち児童文学においても、この傾向は引き継がれていくのですが、時代が過ぎるに連れてそれも少しずつ変わって行きます。これは、絵本でも、マンガでもアニメでもゲームでも、子ども向けの物語ではみな同じです。
 子どもの物語は、大人から子どもへのメッセージや思惑が少なからず含まれており、時代によるその変化に対応してきたのです。たとえそれがリアルな問題小説ではなく、とても楽しいエンタメ小説であったとしても。
誤解しないでいただきたいのですが、だからいけないと言いたいわけではありません。そうではなく、大人から子どもへと放たれた物語は、否が応でもなんらかのメッセージや思惑を含んでしまうものであり、そこから逃れることはできないことを、子どもの物語にかかわる大人は常に意識しておいた方がいいと思っているだけです。
たとえば、今月号の「私の新刊」に書いたような思惑が、私の新刊には含まれています。
 子どもの物語は子どものためにだけ書かれているわけではないと自覚した方が、大人は、子どもの物語を挟んで、子どもと謙虚に向かい合えます。

 さて、子どもの物語。
『赤い髪のミウ』(末吉暁子:作 講談社)は、心の行き違いから暴力もふるってしまい不登校になっている小学六年生航の物語。何もかもが行き詰まってしまった彼は、都会の小学校を止めて、南の島にある「留学センター」へやってきます。動けなくなった現在の事態からいったん退避するのです。
 留学センターには日本中から色んな問題を抱えてしまった子どもたちが集まっています。その意味で実はこの退避場所、決して安全地帯ではありません。むしろ問題素の集積地です。だから、子ども同士の軋轢もあります。それでも互いが訳ありでここに来たことはわかっていますから、心の探り合いはあっても、過剰な対応が生じることは比較的に少なくてすむのです。
また、「留学センター」は南の島の住民が始めたものではなく外部からやってきた人間によって作られています。従ってこのセンターそのものが航たち子どもと同じく、南の島ではよそ者です。だから、センターが南の島に受け入れられていること自体が、航たちが受け入れられている証の一つとなります。
そして、赤い髪のミウ。彼女の母親はこの島の出身です。それ故か、島の樹木の精霊キジムナーを見ることができます。キジムナーもまた赤い髪の精霊ですから、ミウ自身がその象徴にもなっています。と同時にその赤い髪は彼女がダブルであることを示しています。
ミウは南の島とヤマトンチューのどちらにも属していて、南の島とヤマトンチューを合わせた日本と、アメリカのどちらにも属しているのです。
こうした二重の両義性を持ったミウは、どこにも属してどこにも属さない存在ですから、「留学センター」の子どもたちと島人、両者を媒介することができます。
とはいえミウの特殊な位置づけは、物語全体の関心をどうしてもミウに集めてしまい、主人公である航もミウの観察者となります。
が、それは物語の瑕疵にはなっておらず、観察者になることで航は、自身の抱えている問題から目をそらすことが可能となり、その間に気力体力を取り戻していきます。そのために物語はミウを死の淵まで追いやり生還させるという荒療治まで配置するのです。
とはいえ航は、いずれこの島を出て、家に戻らなければならないし、彼が抱える問題を彼自身がどうしていくかはわかりません。そう、彼は自身の現場に戻って考えるしかないのです。航の物語はここから始まるというところで書物は閉じられます。
なぜ南の島が使われているのか? といった別の問い立ても必要でしょうが、物語は不登校という、この国が抱えている現象を示しながらも、その解答を預けることで子ども読者への信頼を表明しています。

一方、『アニーのかさ』(リサ・グラフ:作 武富博子:訳 講談社)で描かれる九歳アニーの場合。彼女は急病で兄を失って以来、過度に死を恐れ、病気に敏感になっています。「遺言書のことをずっと考えていた、とにかく早く書かなきゃ。いつ必要になるかわからないから、準備しておかないと」という風に。その恐れは、近所のガレージセールを手伝っているとき見つけた、病気とその予防の本を盗んでしまうほど高揚しています。
アニーをサポートできるはずの両親は息子を失ったショックからまだ立ち直る気配はなく、アニーを気遣う余裕はありません。物語はそんな両親を責めたり、眉をひそめたりはしません。大人であってさえ、そうなのだと描くばかりです。そこで周りの大人が声をかけ、友達が遊ぼうとしてくれるのですが、効果はあがりません。
というのは、アニーの症状は、兄の死を受け入れたくないことと、両親に注意を向けてほしいことが重なって生じています。アニーにとっての穏やかな日常が解体してしまっているわけですから、その日常の一部であった近所の大人や友達がかまってくれても回復は難しいのです。誰がどんな言葉をかけてくれても、彼らは死んだ兄を思い起こさせるのですから。親も承知して、南の島へ退避できた航よりも、これは深刻かもしれません。
そこで物語は、日常の外からアニーの元へ、航のミウに当たる人物を送り込みます。子どもたちが幽霊屋敷と呼んでいた家に、老人フィンチを引っ越してこさせるのです。彼女は部外者であるが故に、この町で、兄を思い起こさせない唯一の人物ですから、アニーは安心して心を開けます。
子どもの前に老人が現れるパターンは、児童文学ではおなじみです。『クローディアの秘密』や『西の魔女が死んだ』など多くの作品で老人は賢人としてふるまいます。彼らは子どもをコントロールして善き方向へと導いてくれので、大人の読者にはありがたい存在です。フィンチも同様なのですが、一つ違うのは彼女の場合、自分の弱みもアニーにさらけ出していることです。フィンチは夫の死を今も克服はしていません。それがなおいっそうアニーの背中を押してくれます。アニーは自分が一歩前へと進む勇気を持つ条件として、フィンチもまた夫の死と向かい合うように求めます。フィンチは同意し、二人は新しい環境に乗り出すのです。
『クローディアの秘密』や『西の魔女が死んだ』のような大人が力をふるう古いタイプの物語と、『アニーのかさ』の、この件に関する違いは案外大きいでしょう。
大人の思惑は、指導から信頼へと変わってきているのです。

 最後に絵本を一冊。
『マグナム・マキシム、なんでもはかります』(キャスリーン・T・ペリー:文 S.D.シンドラー:絵 福本友美子:訳 光村教育図書)はタイトル通り、何でもかんでも測らずにはおられないおじさんのお話です。それを生き甲斐にしている彼が、測らない生活の良さに目覚めるまでを描いています。
これだけで十分愉快な話ではあるのですが、今述べたストーリーから、私たちはなにか安心感を持つに違いありません。ここには、近代以降の大人が子どもに伝えたいと思っている価値観の一つ、科学や都会に対する、アナログや自然のすばらしさが称揚されています(先行する著名な物語が『ハイジ』)。
事物を正しく測る行為とは、それを支配したい欲望に他なりません。時計による生活時間の統一もまた、労働時間の支配に必要なものでした。そうした計測による標準化は曖昧さを排除していきますから、それへの反動として、計測不可能な事物への愛着や称揚が生まれたのでした。
 この絵本は、そうした近代の動きをマクシマスに託して描いています。どう猛なライオンがマクシマスに測られることでおとなしくなるのは支配の構造そのものです。しかしマクシマスは眼鏡を無くし、測れなくなります。そこに現れた子どもに誘われて、測れない自然との交流に目覚めるというわけです。
 シンドラーのイラストは遠近法が見えやすいような線を駆使し、測ることの意味を明確に描き出し、同時に自然の風景を、近代絵画が発見したままに示しています。(「子どもの本」2010.11 日本児童図書出版協会)

【絵本】
『トリゴラスの逆襲』(長谷川集平 文研出版 2010)
 本当に、長いこと待たされた続編がついに登場。前作のパロディでもあり、前作を好意的(私も含め)にであろうと、批判的にであろうと批評した者どもへの逆襲でもあり、そんで、やはり、
 めちゃくちゃおもしろい。
 さあ、昔たどれなかった道を、ここから再びたどってくれ。もちろん今の言葉と今の絵で。(ひこ・田中)

『かべ』(ピーター・シス:作 福本友美子:訳 BL出版 2010)
 シスの自伝絵本。チェコで生まれ、チェコで育った彼の、共産党支配時代の様子が、彼らしいユーモアと皮肉と誠実さで、事細かに描かれていく。
 本人の子どもの頃の日記からの挿入もあり、これも時代の資料としていい。
 自由に作品を作れないいらだち、その中で描いていく苦労、そしてなにより、洗脳された子どもであった意識。
 シスファンはシスの作品を新たに読み直せるでしょうし、シスに興味がない人にとっても、このチェコの記録は貴重な読書体験になります。むろん子どもでも読めるように描かれていますから、学校図書館にもぜひ。
 子どもの頃の日記、出版してくれないかなあ。めちゃくちゃいい本になるのは間違いない。
福本さん、口説いて!(ひこ・田中)

『むこうがわの あのこ』(ジャクリーン・ウッドソン::文 E.B.ルイス::絵 さくまゆみこ:訳 光村教育図書 2010)
 子どもたちの遊び場になっている広い敷地には、長い柵があります。こちら側では黒人の子どもが遊んでいます。向こう側から、白人の女の子が一人でさみしそうにそれを眺めていますが、みんなは無視しています。ママたちも向こう側の子と遊んではいけないと言っているからです。
 でもクローバーは、どうしても気になって、ある日、柵の向こう側の女の子に近寄る。女の子は柵に乗ります。この上ならどっち側でもないでしょ。
 こうしてクローバーとアニーは毎日柵の上で話すようになり、やがてついにアニーは柵を越えて…。
 テーマはわかりやすく、また豊かな展開ですが、その丁寧な描写による進展は、さすがウッドソン。
クローバーに自己紹介するアニーの言葉は、
「うちは あそこ。せんたくものが みえるでしょ。あの ブラウスは わたしのよ」
 いいなあ、こういうの。
 ルイスの画は、ルアルさに重点を置いていて、シーンシーンを的確にクリップし、好感が持てます。(ひこ・田中)

『カラス笛を吹いた日』(ロイス・ローリー:文 バグラム・イバトゥーリン:絵 島式子&島玲子:訳 BL出版 2010)
 長い戦いの後、戦場から帰ってきた父。どう接していいか判らない父と娘。
 一一月、早朝二人は、農地を荒らすカラス退治に出かけます。
なにを話していいかもわからない両者。だって、父は幼いとき戦場へと消えてしまっていたから。
 娘は父に買ってもらったお気に入りの男物シャツを着ています。それが父と娘をつなぐ印です。
 父は娘にカラス笛を渡します。今日の彼女の役目です。それでカラスを集めるのです。
 でも、猟銃を持っている父に娘は落ち着きません。銃は戦場を思い起こさせるからです。
 目的地に着いた二人。
 娘はカラス笛を吹きます。集まってくるたくさんのカラス。その後は…。
 ロイス・ローリー(傑作『モリーのアルバム』の作者)というだけで、ドキドキしてしまうのは七〇年代から児童書を読んでいるからでしょうか?
 イバトゥーリンの画は、一瞬を捉えるのに巧く、空気感から音まで伝わってきそうです。(ひこ・田中)

『かげ』(スージー・リー:作 講談社 2010)
 家の物置、女の子が想像力で遊んでいます。
 横向きの画面、上のページは現実、下のページは影ですが、まず下で想像力が開いていきます。影ですからすでにそれは幻想的であるのですが、上下で展開し、そしてついにそれが曖昧になる瞬間は、想像というものの本質を子どもにもわかりやすく伝えます。
黒と黄色だけの色使いも、闇と灯りだけに絞った故で、良いです。
『かいじゅうたちのいるところ』が、いかに安全で、お行儀が良いかわかりますね。(ひこ・田中)

『いつか、きっと』(ティエリ・ルナン:文 オリヴィエ・テレック:絵 平岡敦:訳 光村教育図書 2010)
 小さな島に一人の子ども。世界と、地球を眺め、思いをはせています。戦争、貧困、権力者、環境破壊、暴力。
 それでも子どもは思います、この地球を、まず自分が愛することから始めようと。
 テレックは、子どもの姿を、眺め、観察し、考える側に徹底して描ききります。そうすることで、子どもに眺め、観察され、考えられている私たちの側が、いっそう鮮やかに、そして痛く感じ取れます。(ひこ・田中)

『シモンのアメリカ旅行』(バーバラ・マクリントック:作 福本友美子:訳 あすなろ書房 2010)
 もう、なんでもかんでも落としてしまう、困ったシモンくんの落とし物捜し二作目です。
 しかも今回は、パリからアメリカ旅行です。もう、落としていく場所の規模が違います。正直言って、やれやれです。アデールちゃんもあきれています。
 落とし物捜しは難しくありません。たぶんもっと楽しいのは、二〇世紀初頭のアメリカの有名人物がカメオ出演しとりますから、それを探すことでしょう。福本の詳しい解説があります。
 ただ、アメリカの著名人をわれわれがそれほど知っているわけではありませんから、おもしろさは半減かな。
 でも、絵もいいし。楽しいからいいや。(ひこ・田中)

『魔女とケーキ人形』(デイヴィッド・ルーカス:さく なるさわ えりこ:やく BL出版 2010)
 楽しいお話の見本みたい。
 魔女はお誕生日だけど友達がいない。そこで一挙両得のアイデアが。バースディーケーキ人形を作って、それを友達に。命令通りにさせ、楽しんだら、さあ、食べましょう!
 って、それは困るケーキ人形さん。魔女に色々と言います。
 めでたしめでたしまでの流れの軽快さ、絵のおとぼけ具合と隅々までの心配り。
 良作とは、こういう絵本を言うのでしょうね。(ひこ・田中)

『十長生をたずねて』(チェ・ヒャンラン:作・絵 おおたけきよみ:訳 岩崎書店 2010)
 いつも一緒に遊んでくれていた、大好きなおじいちゃんが病気になった。「わたし」はおじいちゃんを元気にしたい。
 十長生というものがあり、それを手に入れると長生きができると聞いた「わたし」は探しに出かけます。
 という設定で、韓国の文化である十長生について語りつつ、祖父と孫娘の愛情、そして祖父の死を描いていきます。
 チェ・ヒャンランは物語表現に必要であると考えるのなら、布、陶器、金属なども自由自在に使います。コラージュという言葉には収まりきれないその幅広さが、この絵本の魅力をいっそう引き立てています。(ひこ・田中)

『あくたれラルフのたんじょうび』(ジャック・ガントス:さく ニコール・ルーベル:え こみやゆう:やく PHP 2010)
 ニコール・ルーベルの平面を強調した一見シンプルな絵は、その輪郭の不安定度によって強烈に印象に残ります。ただでさえそうなのに、ジャック・ガントスの物語そのものが不穏なので、絵本全体の吸引力は相当な物です。
 ネコのラルフは誕生日プレゼントをセイラに要求。なんでもかんでも食べていきます。パーティーの道具を買いに出かけたら、お店でパーティーを始めてしまうし。もうなんだかやりたい放題です。
 そんなラルフのノリが憎めないのは、彼があまりに欲望に忠実だからです。そしてそれは私たちが隠して生きている欲望でもあります。(ひこ・田中)

『エネルギーってなんだろう』(キンバリー・ブルベイカー・ブラッドリー:さく ポール・マイゼル:え やまじ けんじ:やく 福音館書店 2010)
 熱力学や、慣性や、質量や、作用反作用や、太陽エネルギーなどなど、様々なエネルギーについてわかりやすく解説した絵本です。
 別にこれで、エネルギーの知識が増える必要はありません。世界が「エネルギー」という概念でも捉えることができるとわかればいいと思います。(ひこ・田中)

『あかちゃんが やってくる』(ジョン・バーニンガム:作 ヘレン・オクセンバリー:絵 谷川俊太郎:訳 イースト・プレス 2010)
バーニンガムも近頃流行の、母親が妊娠出産すること自分で納得するために、生まれてくる赤ちゃん「あなた」をいかに愛しているかを訴えるという、子どもには迷惑このうえない、少子化対策「赤ちゃん絵本」を作ったのかと思ったら、ちゃんとバーニンガムでした。
「もうすぐお兄ちゃん」絵本。
 ママはもうすぐ赤ちゃんが生まれること、赤ちゃんはどんな仕事に就くかしら?とさかんに言うのですが、子どもは「赤ちゃんの医者」とか「赤ちゃんの絵描き」を想像しています。
 そんなの恐ろしい! わけですね。
 でも、ママとコミュニケートを繰り返すことで、彼にはだんだん、赤ちゃんっておもしろいかも? という思いが生まれてくるわけです。
 オクセンバリーの絵も、気持ち悪いカワイイさでなく、小憎たらしいそれで、良いですよ。
 ただし、帯のキャッチが本文最後の方の「あかちゃん いつくるの、ママ? あかちゃんの あいたいよ。」「もうすぐよ。おおいそぎで やってくるわ。」なのは疑問。
そこだけ切り離されてしまうと、偽装「赤ちゃん絵本」みたいで気持ちが悪い。
売るためなんでしょうけど、そんなことしない方が売れるのに。(ひこ・田中)

『ザザのちいさいおとうと』(ルーシー・カズンズ 五味太郎:訳 偕成社 2011)
 九五年作品の新装版。
 お兄ちゃん物です。
 シマウマの子どもザザくん。新しい赤ちゃんが生まれます。両親はどうしても赤ちゃんに注意がいってしまうし、なんだか不安。
 でも、そんな彼に両親は赤ちゃんを抱かせてくれるの。色んなこと言わないで、そのままね。
 だから、ザザは自分で、この新しい家族を受け入れていく。そこがさりげなく描かれているのが良いですね。(ひこ・田中)

『愛のほん』(ペニラ・スタールフェルト:作 川上麻衣子:訳 小学館 2010)
カワイイや重厚が好まれる日本の絵本では余り支持されない絵柄だと思います。ただし、訳者が芸能界で著名なので手に取られやすさがありますから、相殺して程よい動きかと。この絵本を探してきて翻訳にこぎ着けた川上さんに感謝。
 情報は大人社会では新しくはありませんが、様々な愛の形と様相がフラットに描かれているので、「愛」がこんな風に自然に受け入れるきっかけになればいと思います。「好き」や「匂い」や「仕草」や「憎しみ」までを含めて。その意味で子どもに読んで欲しい。
 もっとも私自身は、「愛」をこんなに情熱的には考えていないのですが。(ひこ・田中)

『えかきうたで あいうえお』(大沢幸子:作 あかね書房 2010)
 タイトル通りの絵本です。
 おもしろいです。なにがおもしろいかというと、ひらがな一字ずつの絵描き歌な点。
 だって、わざわざ絵描き歌で覚える必要がないほど、ひらがな一字は簡単なんですもの。
だからそれを無理矢理絵描き歌にしている工夫が素敵なの。「えびはねた がんぺき あらなみ にほんかい」で、「え」。「かたに かあさん かきのたね」が「か」ってね。
 苦しさをご賞味ください。(ひこ・田中)

『冒険! 発見! 大迷路 恐竜王国の秘宝』(原裕朗&ベースディ ポプラ社 2010)
 大人気の大迷路シリーズ(親戚の幼児なんかへの土産になら、このシリーズを持って行けば、まず外しませんよ)、今回は恐竜王国ときました。
 ただでさえおもしろいのに、恐竜王国なんて、原さんずるい。夢中になるに決まっているではありませんか。
 今作見て、思ったのは、RPGとその攻略本のおいしいところを取っている。
 RPGはダメだし、ネットで攻略サイトあるから攻略本もイマイチな今という時代、あのわくわく感を、このシリーズが満たしてくれます。(ひこ・田中)

『希望の木』(カレン・リン・ウィリアムズ:作 リンダ・サポート:絵 高岡美智子:訳 PHP 2010)
 ハイチの貧困生活の中、ファシールは妹にあげるものがありません、そこで実のなる木の種を植えるのですが、なかなか根付かない。
 ファシールはあることを考えて…。
 ハイチの現実を、わかりやすい物語で伝えてきます。リンダ・サポートの描き込まないドロー画は、素朴な雰囲気をよく伝えています。(ひこ・田中)

『ジキル博士とハイド氏』(スティーヴンソン:原作 リュック・ルフォール:再話 リュドヴィック・ドバーム:絵 こだましおり:訳 小峰書店 2010)
 古典を構成し直した文と、現代作家の絵で絵本化。
 やはりここは、ドバームの絵を楽しむべきなのでしょう。
著名な物語ですから、絵本的に溶け込むというよりもむしろ挿絵的に文に挿入されていかざるを得ないのですが、ドバームは人物の表情にこだわることで逆に、この物語から絵を抽出していきます。
 陽の落ちた世界で、人々の無表情から驚きまで、その癖のある表現は後を引きます。
どっちかというと、大人向けになってしまうのかもしれませんが、子どもがこうした印象深い絵本から物語に興味を持っていくのもいいですね。(ひこ・田中)

『エルマーとサンタさん』(デビッド・マッキー BL出版 2010)
ぞうのエルマーのクリスマス編です。
エルマーは子ゾウたちを連れてモミの木を探しに出かけます。
大きな、大きな木を持ち帰り、みんなは喜んで眠りにつきます。
でもね、エルマーは夜に子どもたちを呼んで、サンタさんに会わせるの。ゾウのサンタさん! 赤い体に白いひげですよ。いいなあ。(ひこ・田中)

『クリスマスのちいさなおくりもの』(アリスン・アトリー:作 上條由美子:訳 山内ふじ江:絵 福音館 2010)
 『時の旅人』のアリスン・アトリーの物語に山内が絵をつけた「子どものとも」作品からの単行本化。
 クリスマス、サンタの贈り物が欲しいネズミさんたち。それを見つけたネコさんですが、クリスマスですからね、一緒に準備をいたします。
 さてさて、サンタは来るかしら?(ひこ・田中)

『もうすぐおしょうがつ』(西村繁雄 福音館 2010)
 八九年「子どものとも」の単行本化。
 干支の動物たちが、暮れから大晦日とお正月の準備をしている姿を描いています。中に出てくるカレンダーは九〇年のものですが、風景はまだそうした風物が生きていた頃に設定して、餅つきやらしめ縄市などが、なつかしくそこにあります。(ひこ・田中)

『すっすっ はっはっ こ・きゅ・う』(長野麻子:作 長野ヒデ子:絵 童心社 2010)
 音楽学の麻子が気持ちのいい呼吸のために言葉を紡ぎます。
絵本描きのヒデ子が言葉にのせて、パステル、折り紙の切り絵コラージュと、愉快に画面を作っていきます。
 おもしろい音も色々出せるので、読み聞かせというよりも、子どもと一緒にやれば楽しいですね。(ひこ・田中)

『かみなりじいさんとぼく』(みぞぶちまさる 講談社 2010)
 とても懐古的絵本。
口やかましい近所のおじいさん。今日もある家の塀ごしに柿を取ろうとしたら怒られました。そしてこの家に昔怖いおじいさんがいた話を。
風景は、ラジオ、設置されたコンクリのゴミ箱、円筒のポスト、黄金バットの紙芝居。どれもが、今の子どもにはなじみのない物です。
歴史の一幕として、お楽しみください。(ひこ・田中)

『パパとニルス おやすみなさいの そのまえに』(マーカス・フィスター:作 那須田淳 講談社 2010)
 おやすみ絵本ですが、子カバのニルスくん、パパと遊びたくて…。ご飯を食べたら遊んであげる。歯を磨いたら遊んであげる。お風呂に入ったら遊んであげる。
もう大変です。
家族とちゃんとつきあっている父親ならものすごく判る話でしょう。
最後のオチも、「判る、判る」、でしょうね。(ひこ・田中)

『ベンジーのもうふ』(マイラ・ベリー・ブラウン:文 ドロシー・マリノ:絵 まさきるりこ:訳 あすなろ書房 2010)
 ライナスの毛布系絵本です。
 六二年の作品ですので、マリノの画も説明的で、文章と切り結んでいるというより挿絵的です。
 もうボロボロで見る影もない毛布ですが、手放せとは言わない親がいいですね。自分の中で納得できるまで、待ってあげて。
 どう手放すかが読みどころ。(ひこ・田中)

『どうぶつ ぴったんことば』(林木林:さく 西村敏雄:え くもん出版 2010)
 帯から、「かばと ばれりーなを ぴったんこ かばれりーな」。
 どうだ、すごいだろ。参ったか。
 絵は西村敏雄ですからあほくささの強度も上がっております。笑ってくださいませ。(ひこ・田中)

『みずたまちゃん』(林木林:作 あきくさあい:絵 すずき出版 2010)
 帽子からマフラー靴に至るまで、全身、赤地に白いみずたまに包まれたみずたまちゃん。
これは一体誰かしら?
寒い、寒い雪の中を歩いていると、色んな動物が凍えそうなので、一つずつ身につけているみずたまもようのものを、プレゼント。だんだん体が見えてきて、最後は、最後は、お楽しみ。
わあっと、うれしくなる結末ですよ。(ひこ・田中)

『ホネホネ絵本』(スティーブ・ジェンキンズ:作 千葉茂樹:訳 あすなろ書房 2010)
 ホネ絵本ですが、写真ではなく、パーツ一つ一つを作って、それを組み合わせることで、骨の機能を解説しつつ見せていきます。従って、見せやすい工夫も、骨格の表情も自由につけられていて、デザインとしてのセンスのよさも楽しめます。
人間の骨の数って、子どもと大人で違うのですね(減っていく)。知りませんでした。
大人の骨206パーツが並べられていて、折られた見開き画面を広げると、組み合わせて完成された人骨が現れるところなど、ちょっと感動しました。ああ、人間ってパーツなんだって。(ひこ・田中)

『熱気球 はじめて ものがたり』(マージョリー・プライスマン:さく 福本友美子:やく フレーベル出版 2010)
 パリのベルサイユ宮で行われた最初の熱気球実験を素材にした創作です。
 王様の前で、ひつじ、にわとり、アヒルを乗せて飛ばせます。
 ここから、動物たちへと視点を移して、大嘘で作られた危機また危機を乗り越えて、無事着陸までの彼らの冒険を描いています。
 最初と最後は史実をベースにした言葉が入りますが、冒険の間は当然ながらメーメー、ガーガーはあってもセリフはなしです。
それが良いのは、言葉の入っているところは読んであげるとして、真ん中の楽しい冒険部分は子どもが自分自身で楽しめる点です。
プライスマンの画はシンプルな線と色使いで、動きを大げさにして、楽しませるためのサービス満載。(ひこ・田中)

『石のきもち』(村上康成 ひさかたチャイルド 2010)
 この星の森の中に、ず〜っといる石のお話です。動けない石の所には、時代を超えて、鳥や動物、人間、色んなのがやってきて、色んな事をします。
 ただそれだけのことなのですが、自然の営みはいつもダイナミックなわけではありません。というか、ただそれだけであることのダイナミックさが、ここには描かれているのです。
 絵だけを担当しているのではなく、村上のオリジナル作品ですから、画は文に引っ張られることなく、村上画で、それを堪能できますよ。(ひこ・田中)

『まくらのマクちゃん』(花山かずみ:作・絵 徳間書店 2010)
 マクちゃんは本当に可愛そう。普通、枕はその使用者の夢を一緒に見るのですが、マクちゃんの使用者のたっくんは寝相が悪くて、いつもマクちゃんはどこかへけられてしまいます。夜中に踏んづけられたりもします。
 そんなマクちゃん、押し入れの中で行方不明に!
 たっくんとマックちゃんの関係はどうなるでしょう?
 ユニークなストーリーというよりも、「わかるわかる」系です。(ひこ・田中)

『どうして十二支にネコ年はないの?』(ドリス・オーゲル:文 メイロ・ソー:絵 福本友美子:訳 徳間書店 2010)
 エミリーとネコのマは仲良し。今日は親が留守なので祖母が来てくれました。でもちょっとケンカしてしまって…。
中国の昔話を使ったタイトル通りの話を、祖母と女の子の物語にからめて進んでいきます。
メイロ・ソーの画は、色使いのうまさがまず光りますが、画面構成も決して外連味におぼれることなく、ドリス・オーゲルの長目の文へと誘い込もうとしています。(ひこ・田中)

『うさぎちゃん ともだちできた』(きむらゆういち:作 ふくざわゆみこ:絵 ポプラ社 2010)
 「十二支キッズのしかけえほん」とありますから、シリーズです。
 「じゅうにしえん」に十二支の子どもが通っているという段取りです。
今回はうさぎが主人公。
うさぎちゃんはボール遊びをしています。みんなが次々に一緒に遊びたいと言うのですが、うさぎちゃんはボールを独占。でも、目を離した隙にいのししくんがボールを取って、さあ、どうなるか?
幼稚園で日常起こりがちな出来事と、そのおだやかな解決を示します。
今回の仕掛けは、キャッチボールを簡単なページの行き来で見せているのですが、ややこしくしないところが、巧いですね。(ひこ・田中)

『家族で遊ぼう!! すごろく・ふくわらいデラックスセット』(たかいよしかず ポプラ社 2010)
 先日、個展でお会いした折、たかいさんは、子ども向け絵本のアート化への危惧、逆に言えば子どもが楽しむための絵本へのこだわりを熱っぽく述べておられました。それは、アーティストとしての自己主張より、職人としていかに子どもへ作品を提供したいかの覚悟です。と同時にそれを語るたかいさんの姿こそが本来のアーティスト(個性を持った職人)のそれでもあると思いました。
 今作は、まあ、職人ぶりが目一杯活かされた、お正月向けの大盤振る舞い。お得感一杯の仕上がりです。(ひこ・田中)

『ツチオーネのおんがえし』(もりた かず:文 軽部武宏:絵 アスラン書房 2010)
 文も絵も、良くできた昔話風絵本。
 土が痩せていてソバくらいしか作れない貧しい村。それでもたろさくは毎日、一生懸命畑仕事。
旅のお坊様に、彼はソバを全部振る舞います。お坊様がお礼にくれたのは見たこともない、ツチオーネの種。
たろさくはそれを撒きます。
収穫されたツチオーネとは大根のこと。初めての食べ物ですが、おいしい。村人にも採れた種を分け、村はだんだん豊かになっていくのですが、そのために村人の心は…。(ひこ・田中)

『やさしい女の子と やさしいライオン』(ふくだすぐる アリス館 2010)
 大きな、大きな卵を見つけた女の子とライオン。どっちも自分の物だと主張して譲りません。名前を書いたり、爪でひっかき傷付けたり。もう、レベルの低い意地の張り合いです。
 そこへ動物たちがやってきて、彼らは人間じゃないものでみんなライオンに味方したものだから、とうとう女の子が泣き出して。
 まるで落書きのように制御された、ふくだの絵が素敵です。物語も最後の処理は普通ですが、意地の張り合いのところがおもしろい。(ひこ・田中)

『すいすいたこたこ』(とよた かずひこ:作・絵 すずき出版 2010)
 しろくまさん一家と、あざらしさん一家がたこあげ。
 あげているのは、本物の蛸だあ!
 お正月は蛸を空にあげるのだと誤解しています。
 いいです。楽しいから。
 当然のこと、ししまいのししは、ライオンさんがやっています。
 いいんです。お正月だから。
 このベタな展開は好きです。(ひこ・田中)

『くものむこうに なにがいる?』(田中てるみ:作 おざきみえ:絵 アリス館 2010)
「くものむこうに なにがいる?」といった問いかけ言葉と、少しだけ次のページが見える仕掛け画面。
繰ると、楽しく意外なことが起こっている段取りです。
なんてことはありませんが、そいつがそこ、そこ楽しいのですね、これが。(ひこ・田中)

『くれよん れすとらん』『のりもの くれよん』(まつなが あき:さく はやし るい:え くもん出版 2010)
 くれよんくんが描いた物はなにかな?
 で、次のページで答えを示します。
 クレヨンの線の、少しあいまいな、でも勢いのある形を活かしています。
 想像力養成絵本でしょうか。子どもには受けると思います。
 ただ、これは読んであげるより、直接実践した方がいいなあ。子どもと描きっこしながらね。
 それをあえて絵本でやるには、くれよんくんたちのキャラクターをもう少し立てた方がいいのかもしれません。(ひこ・田中)

『かわうそ3きょうだいの ふゆのあさ』(あべ弘士 小峰書店 2010)
 かわうそ大好き、あべのシリーズ2作目。冬、目覚めると雪、川も凍っています。氷の下に大きな魚を発見!
 さっそく兄弟は川に潜ります。
 忙しすぎるあべが、好きなものを好きに描く、ほっとした楽しさが伝わります。(ひこ・田中)

『とうさん とうさん いかがなものか?』(穂高順也:作 西村敏雄:絵 あっかね書房 2010)
 息もぴったりコンビの作品です。
 タイトルの呪文のような言葉は、中を読むまで意味不明ですが、ページを繰っていくと言葉のリズムの良さから、しだいになじんできます。
 やおやといしやとはなやのおじさん三人が主人公。
やおやでは、菜っ葉がおじさん(とうさん)に話しかけ、はなやの娘と結婚したいという。一方いしやの石も、はなやの娘と結婚したいという。そこで二人ははなやに出向き……。
クスリと笑わせてくれます。(ひこ・田中)

『しろぱかとくろぱか ふたりのハッピーバースデー』(p.yuqi ポプラ社 2010)
 お誕生日が同じ黒羊と白羊。
明日の誕生日のプレゼント。黒羊はちゃんと考えているようなのですが、白羊はまだ。大丈夫かしら?
から始まって、二匹がどんなプレゼントを贈るか、そして「仲良し」について物語は紡いで行きます。
p.yuqiの画は、いささか過剰ながら申し分なく個性を発揮しています。ただし、言葉の過剰さに関しては、次回からもう少し考えてみてもいいと思います。元々画で勝負している人ですから、絵本という言葉もからんでくる(必ずしもそうとは限りませんが)時、不安感からできるだけ説明しようとしてしまうのかもしれませんが、読者に親切過ぎると思います。そのため、絵本として読みにくい。この言葉の半分近くは、絵の中に落とし込めば十分でしょう。
そんなにたくさん語らなくても読者はわかりますし、二匹も、仲良しなんですからお互いの気持ちがわかりますよ。(ひこ・田中)

『サイレンカー のりもの図鑑DX3』(小賀野実:監修・写真 ポプラ社 2010)
 様々な専用車を写真で解説するシリーズ三作目。
 今回は、パトカーや消防車など、緊急用の車たちです。
 専用車は、その用途のために特化し、そこにお金をかけていますから、一般車と比べると奇妙なものなのですが、そこが魅力。
 特段工夫のある作りではありませんが、普段は詳しく知ることができない専用車も、こうした図鑑だとゆっくりと眺められます。(ひこ・田中)