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以下、三辺律子です。 『ウォールフラワー』スティーブン・チョボスキー著、田内志文訳 集英社 ―――偽りのない心に強烈な共感――― ここにぼく(わたし)がいる。そう感じさせてくれる小説がある。住む場所や時代、年齢や性別さえちがうのに、強烈な共感を抱かずにいられない。一九九九年にアメリカで刊行され、『ライ麦畑でつかまえて』の再来と騒がれた本作はそんな一冊だ。 人一倍感じやすく内向的な主人公チャーリーにとって、始まったばかりの高校生活は苦難の連続だ。けれど、アメフトの試合会場で同じ授業を取っているパトリックに思い切って声をかけた日から、生活は一変する。気さくなパトリックに一緒に観ようと言われ、おずおずと横に座るチャーリー。それが、パトリックと彼の義理の妹サムとの出会いだった。 友達の家でのパーティ、夜中のドライブ、内輪のジョークに、好きな曲だけ集めて編集したテープ。自分達は「果てしない」と感じる瞬間。そんな青春の「定番」とも言える日々が輝いて見えるのは、それがすべて、チャーリーが匿名の人物にあてて書いた手紙の形で綴られるからだ。 初めての「本物の」パーティで友達だと紹介されて泣いてしまったこと。パトリックとサムに挟まれて歩いた時、「生まれて初めて、自分は誰かと一緒なんだと感じた」こと。密かに想いを寄せ続けているサムが彼氏にふられたのを見て、喜ぶどころか「頭の中はサムが傷ついてしまったことでいっぱい」になって、「サムを心の底から愛しているんだと感じた」こと。チャーリーは不器用な言葉で偽りのない思いを語る。 本作を自らの手で映画化した作者チョボスキーは、プロデューサーのマルコヴィッチに、この「偽りのない心」こそ作品の核だと助言されたという。簡単そうに見えて実は難しいことを成し遂げたからこそ、本書は一見似たような作品群の中で、今もひときわ煌いているのだろう。 映画でも存在感を放つ八〇年代UKロックやチャーリーの愛読書が具体名で挙げられているのも、本作がカルト的人気を誇った理由の一つだ。九〇年代アメリカの一高校生の物語に、これだけ胸が熱くなるのだからふしぎだ。 (産経新聞 2013年12月8日 掲載) http://sankei.jp.msn.com/life/news/131208/bks13120811250001-n1.htm 追記:大学のクラスにいる韓国からきた学生が、森絵都さんの『永遠の出口』を読んだとき、「ここにわたしがいる!」と思ったと、話してくれたことがある。身近な題材を扱った作品はもちろんだが、彼女の場合のように、育った国も時代もちがう作品に対しても、「ここにぼく(わたし)がいる」と思う瞬間は確かにある。そんな貴重な体験を与えてくれるのも、外国文学の魅力の一つだ。 というわけで、わたしも先日、映画版『ウォールフラワー』を見たとき、(男子しかも高校生が主人公なのに)「わたしがいる!」と思ってしまった。小説はもちろん映画も、臆面もなく「切なくてきらきらした青春」という言葉を使いたくなってしまう魅力あふれる作品なので、未読(見)の方はぜひ。 でも、冷静に考えると、わたしの青春は「切なくてきらきら」なんてぜんぜんしてなかった。そもそも女子校だったので、日々の生活でときめくことなんてまったくない。ホームパーティもたいていは女子のみ。つまり、『ウォールフラワー』の主人公たちみたいにおしゃれする理由も動機もないので、スエットとかパジャマでごろごろしながら、ケンタッキーフライドチキンのパーティバーレル(← 一応、パーティ″)を食べながら映画のビデオを見たり、しゃべったりするだけだった。あるとき、友人宅でいつも通りグダグダしていたら、友人の弟、Hくんが帰ってきた。Hくんは空っぽのパーティバーレルの容器とスエット姿でごろごろしている女子高生たち(=わたしたち)を見て、ひと言「もう女には夢も希望もなくなった」。ごめん、Hくん。 友人宅だけでなく、学校でもやっぱりおしゃれする理由も動機もないので、『桐島、部活やめるってよ』の女子たちみたいに制服に工夫することもなく、とりあえずただ着て通学していた。一人の友だちなんて、うっかり左右ちがう色のハイソックスを履いてきたことがある。どうやったら「うっかり」ちがう色のを履いてくるのかと思うけど、どちらにしろ、「いいや、どーせ誰も見てないし」と、ぜんぜん気にする様子はなかった。 冬の朝、「寒くて、パジャマ脱ぐのやだよねー」と話していたら、「だからわたしなんて、脱いでいない」と制服をめくって見せてくれた友だちもいた。パジャマの上に制服を着ていたから多少(?)着膨れていたけど、やっぱりぜんぜん気にする様子はなかった。 女子ばかりの弊害は、ほかにもあった。よく語られる女子校の風景(暑いとスカートをばたばたさせるとか、公の場では口に出せない単語が飛び交うとか)はもちろんだけど、興味も偏る。夏に友だちとみんなで田舎にいったとき、わたしが「あ、ミヤマクワガタがいる」と言ったら、「クワガタって、ただクワガタじゃないの?【翻訳:クワガタに種類なんてあるの?】」「見ただけで種類がわかるなんて昆虫オタク」「キャー!!!【翻訳:触ってる!!!】」。文房具店で恐竜ペンを選んでいて「わたし、ステゴザウルスにしようっと」と言ったときも、同じ反応だった。男子がいれば、恐竜と怪獣って同じでしょ?"側のほうが、変人なのに・・・・・・。但し、大学に入って仲良くなった友だちが「え、だって、トラってライオンの雌でしょ?」と言ったときは、さすがに全員がわたし側(変なのは、彼女のほう)だった。彼女も女子校出身だったけど、この場合は関係ないと思う。 と、かなり気楽な学校生活だったけど、振り返ってみればもちろん、わたしを含めみんな、悩んだり、ヒリヒリしたり、ときめいたり、きらきらしていたんだと思う。だから、そんな気持ちを思い出させてくれる作品に今でもひかれるのかもしれない。 ちなみに、中学生にして女子への夢を失ったHくんは、今では幸せに結婚しているので、みなさんご安心ください。(三辺 律子) 以下ひこ・田中です。 【児童書】 『路上のストライカー』(マイケル・ウイリアムズ:作 さくまゆみこ:訳 岩波書店) ジンバブエのグツで暮らすデオ。大統領選の後、大統領に投票しなかった者の調査が行われ、不穏な雰囲気になります。やがて食料の強制調達が始まり、ついに警官による暴行、殺戮へと発展していき、自閉症の兄イノセントをつれてデオは何とか逃げ出します。南アフリカへの命がけの逃避行。 しかし、南アフリカも楽園ではありません。難民の彼らに職を奪われた(難民は搾取されているのですが)人々の暴動により、デオはイノセントを失います。 すべての希望が遠ざかったデオの前にあったのはサッカーだけでした。ストリートチルドレンたちによるワールドカップ。 現在起こっている外国人憎悪を描いたYA小説。他国ごとではありません。 『浮いちゃってるよ、バーナビー!』(ジョン・ボイン:作 代田亜香子:訳 作品社) バーナビーは浮いてしまう子どもです。原因はわかりませんが放っておくと天井にへばりついてしまう。ですから、外を歩くときは砂をつめたリュックを背負っています。 そんなバーナビーを両親は恥ずかしがっています。彼が浮く子どもだと世間に知られてしまった後、ついに二人は結審します。この子を捨てようと。母親と外に出かけたバーナビー。母親は彼が背負っているリュックにナイフで穴を開けます。軽くなったバーナビーは空へと浮き上がっていく・・・。 偶然にも気球に拾われて、それからバーナビーがシドニーに戻るまでの長い旅が描かれていきますが、要はネグレクト物語。それが、浮く設定なので妙にのんびり感じられるわけですが、ついに戻った彼は、両親が兄弟に嘘を言っていたことを知ります。彼自身の不注意で飛んでいってしまったと。 さて、バーナビーはどうするか? こんなに深刻な話をこんなに愉快に描いた作者の腕に感服。 『あたしがおうちに帰る旅』(ニコラ・デイビス:作 代田亜香子:訳 小学館) ペットショップの店主に脅かされて、そこで雑用係をしている口のきけない少女。彼女の名前すら杜撰にイヌとする店主。イヌの友達はハナグマのエズミだけ。イヌを不法に働かせていることを隠すために店主は、客の居るときは彼女表に出しません。 そんな日々の中、ある日わけのわからない荷物が店に送られてきます。やっかいごとに巻き込まれたくない店主は、荷物を捨てるようにイヌに命じますが、箱を開けるとそこには衰弱した大きなオウムが入っていました。カルロスと名乗ったオウムの導きで、イヌとエズミは店を逃走。カルロスの言う、オウチにたどり着けるのか? 子どもの人身売買、不法就労などを背景に持っているのですが、カルロスの導きもありながらエズラとも協力して一心に逃げていくイヌの姿に、暗さより希望を感じてしまいます。 あり得るような、あり得ないような、不思議な、けれど、惹かれる物語です。 『大地のランナー』(ジェイムズ・リオーダン:作 原田勝:訳 すずき出版) 南アフリカの黒人で最初の金メダルをもたらしたマラソンランナーの物語。伝記ではありませんが、モデルはいます。 アパルトヘイト時代に、抗議集会を見学に来ていたサムは、警官による発砲によって、両親と妹を失います。彼はホームランドへ送られ、厳しい労働を強いられます。唯一の楽しみは走ること。兄たちが反政府運動に向かい、サムの元から消えていきます。残されたサムは、走ることで黒人の強さを示す道を選びます。アパルトヘイト政策が崩壊し、黒人もようやく白人と混じって正式競技へ参加ができるようになる。南アフリカもまた、アリンピックへの参加が認められます。 才能を開花させたサムは、代表として出場し、無名でありながら優勝するのです。 子ども読者が、南アフリカのたどった道のりに興味を持つ手始めの一冊になればいいなあ。 『神の名はボブ』(メグ・ローゾフ:作 今泉敦子:訳 東京創元社) 『ジャスト・イン・ケース』のメグ・ローブ新作です。 神の中でも自己中心的で怠け者で、美しい女の子大好き若者ボブが、地球という惑星の神となり、創世します。自然は彼に気分次第でとんでもないことになるし、自分に似せた人類というものを生物のトップに据えた物だから、様々な生物は絶滅の危機に遭ったりしている現代。ボブはルーシーと言う女の子に惚れます。また始まったと周りは心配しきり。地球はいったいどうなるの? どんでもない設定みたいですけれど、人類による自然破壊や戦争などを、ボブという名のどうしようもない(でも、どこか憎めない)若者のやり口として描いているわけです。 『アンデルセン童話全集V』(ドゥシャン・カーライ カミラ・シュタンツロヴァー:絵 天沼春樹:訳 西村書店) すべての挿絵が考え抜かれた豪華な描き下ろしに、ため息。挿絵と言うより共演ですね。 童話全集が3巻本で、大きい、重いのですけれど、その大きさ重さが本を読む喜びに誘います。 そして忘れてはならないのが、天沼による活きのよい訳。新しい絵と新しい訳で、子ども時代とは別の体験をさせてもらえました。 『おばあちゃんは大どろぼう?!』(デイヴィッド・ウォリアムズ:作 三辺律子:訳 小学館) ベンの両親は社交ダンスが大好きで、その練習の日、おばあちゃんのところにベンを泊まらせる。 ベンにとっては最悪の金曜日。だって、おばあちゃんって、とっても退屈なんだもの。 ところがある日、ベンはおばあちゃんが箱の中にダイアモンドをいっぱい隠しているのを知ります。 ついにおばあちゃんはベンに告白。実は大泥棒なのだと。 おばあちゃん、めちゃめちゃ、すごいやん! おもろいやん! ってことで、ベンはおばあちゃんと一緒に、女王様の宝石を盗みにロンドン塔へ出かけますが・・・。 読者の子どもに話しかけるという、ちょっと懐かしい感じのナレーションが巧く笑いに持って行きます。 『おいしいケーキはミステリー!?』(アレグザンダー・マコール・スミス:作 もりうちすみこ:訳 木村いこ:絵 あかね書房) 舞台はボツワナ。七歳の少女探偵プレシャスの活躍を描きます。探偵になりたいなと思っているプレシャス。学校で、みんながおやつに持ってきているケーキや菓子パンが消える事件が! そして一番太っているポローコが疑われてしまいます。ポローコが盗みをするとは思えないプレシャスは犯人を捜します。 思い込みはよくないことなどをさりげなく伝えながら、みんなを掬い上げる展開が心地いいです。 木村の絵も好き。 『炎と茨の王女』(レイ・カーソン:作 杉田七重:訳 創元推理文庫) ファンタジーYA。 エリサは第二王女ですが、お腹にゴッド・ストーンを帯びて生まれてきた存在です。そのため大切にされすぎたのか、姉のように切れ者でも美しくもなく、お菓子大好きで太りすぎた凡庸な女の子。しかし、その特別さから、姉を差し置いて砂漠の王に嫁ぐこととなります。 砂漠の国と対峙しているのは魔法の力を持つ存在によって力を得ている異形の者たち。嫁ぎ先の王はなぜか、エリサとの婚儀を隠したまま。 エリサは、国境地帯の民族に誘拐されます。それはゴッド・ストーンを帯びた者の力を求めてのことでした。そこでエリサは自分の役目に目覚め、彼らと共に戦いに参加するのですが、果たしてゴッド・ストーンの意味は? 王の意図は? しっかりYA小説。凡庸な少女が鮮やかに成長していきます。 3部作とのこと。この続きが楽しみです。 『こぐまのくうちゃん』(あまんきみこ:文 黒井建:絵 童心社) くうちゃんは、大好きなぴょんこちゃんに会いに出かけます。路の途中にきれいな花。ぴょんちゃんにあげようと花を摘みますが、それは咲くのをぴょんちゃんが大切に待っていた花でした。 怒ってしまうぴょんちゃん。どうしたらいいかわからないくうちゃん。 ここから、あまんワールドの幸せへと向かっていきます。 『さらば自由と放埒の日々 スーパーキッズ2』(佐藤まどか 講談社) イタリアの小さな島にある、様々な能力に秀でた子どもたちが集められた学校ISA。リョウたちはそこで才能を伸ばしつつ快適な学園生活を送っているはずだったが、不況の中寄付金も減り、一企業によって運営されることに。が、才能を自由に伸ばす学校という方針は一変され、企業収益に沿った運営が始まる。クラッシック音楽のクラスは、アイドルグループバンドを目指すことを強要され、発明の才能は、学校が特許を取るために使われ、ITの知識豊かな子どもはハッカーもどきに。 リョウたちは、この企業の悪巧みを探るため、それぞれの才能を発揮する! この枚数の中に詰め込みすぎ感はありますが、こうした才能秀でたグループ物は、やはり王道の一つですね。 『小さなかがやき』(長倉洋海:写真 谷川俊太郎:詩 偕成社) 谷川の五編の書き下ろしも含めた詩たちと、長倉が撮った子どもの表情や姿を組み合わせた、小さな命たちの本。 それ以上言う必要も無い一冊です。 『魔法少女カルメラ』(末吉暁子:作 垂石眞子:絵 あかね書房) ぞくぞく村シリーズ17作目です。 顔半分が吸血鬼で半分が普通の女の子カルメラがやってきます。彼女は、母親のような立派な吸血鬼になりたくて魔女オバタンにお願いしますが、本当にそれでいいのかな? 「自分」と「なりたい自分」と「受け入れたい自分」とを、顔半分ずつにすることで、わかりやすく見せながら、本当に大切なことを伝える末吉の腕は素敵です。しかも物語展開が、おもしろいし。 『ツン子ちゃん、おとぎの国へ行く』(松本祐子:作 佐竹美保:絵 小峰書店) うそをついたことがなく、なんでも正直に口に出してしまうツン子ちゃん。それは親から嘘をつくのはよくないことだと教えられたのを守っているからですが、残念ながらそれでは人間関係がうまくいきません。 ママに「あなたは生まれる前に悪い魔女にたいせつなものを盗まれたのね」と言われてしまいます。 パジャマ姿のまま夜の散歩に出かけたツン子は昔話のような不思議の世界に入り込みますが、そこに現れるのは母親や先生に似た人物ばかり。たいせつな盗まれたものとは? それは取り戻すべき? 「自分探しの旅」の行方は? 物語はめでたく終結しますが、なにやらぞわぞわ、もぞもぞと残る不安が、実は読みどころ。 『サンドイッチの日』(吉田道子:作 鈴木びんこ:絵 文研出版) 四年生のもみこ、両親が別居し離婚寸前。引っ越し先のアパートの敷居で、もみこは意味不明の言葉が書かれた青い紙を見つけます。両親のごたごたにいらつくもみこは髪の毛も金色にしちゃいました。そんなとき、自分の住んでるアパートを眺めている怪しい男。もみこと友達の公平は、彼を探ります。 深刻になりそうな題材を謎解きをからめながら、現実を甘く描くことなく作り上げています。 『夏葉と宇宙へ三週間』(山本弘:作 岩崎書店) 「二一世紀空想科学小説」シリーズ。このシリーズは、福島正実記念SF同話賞を主催する岩崎書店が日本SF作家クラブとコラボし、子どもたちにSFのおもしろさを知ってもらおうと(今は、ミステリーとファンタジーの時代でSFは苦戦しています)始めた企画で、豪華な作家陣です。私もSFは近代小説の基本の一つだと思っていますので、この企画はとてもうれしいです。 SFへの入り口としてちょうどいい作品がそろっています。 これもまた入門にふさわしく、また児童書の要素も踏まえて書かれた作品。 海水浴で、UFOが出現。みんな逃げるのですが、なぜか夏葉だけがその物体に向かって泳いでいく。「ぼく」は彼女を救おうとUFOに近づくが、夏葉とともに内部に吸い上げられる。 そのUFOは乗組員が亡くなってしまっていて、しかし人間(地球人とはかぎりませんが)が乗り込んでいないと動けないようにプログラミングされていると、ロボットが告げます。 そうして二人は、ある任務を達成するために三週間の宇宙旅行に出かけるはめに。 その途次で、学校での夏葉へのいじめの問題などが浮上し、また、地球の存亡もからんできて、もう大変。 【絵本】 『ひとりでおとまりしたよるに』(フィリッパ・ピアス:文 ヘレン・クレイグ:絵 さくまゆみこ:訳 徳間書店) エイミーはおばあちゃんの家にお泊まりに行きます。はりきって三日も。大切な物を忘れず持ってね。ところが寂しさは募ります。持ってきたマットに足を乗せるとそれは空飛ぶ絨毯になって、エイミーは家族の様子を眺めて元気になります。でもまた次の日・・・。 最後に意外な展開と幸せな結末とほんの少しの成長。うん。これがいい。 『ゴナンとかいぶつ』(イチンノロブ・ガンバートル:文 バーサンスレン・ボロルマー:絵 津田紀子:訳 偕成社) モンゴルの昔話です。 勇敢な少年が、頭の三つある悪者の怪物をモンゴル相撲でやっつけてしまうお話です。 もちろん力ではなかなか敵いませんから、ちょっとした知恵も使います。 負け方の発想がすごいなあ。 バーサンスレンの画は、和洋中様々な要素が入り交じり、自分の世界を作っています。 『土の話』(小泉武夫:文 黒田征太郎:絵 石風社) 福島出身の小泉が阿武隈弁の土の言葉で語っていきます。 たくさんの動植物とののんびりとした日々。人間が現れ土を封じ込めたりもしますが、それもまあよい。 ところが人間はそこに原発を作り、事故があり、土を汚していく。 土は怒っていますが、それでも人を許し、これから先を見据えていきます。 黒田の絵の力が爆発。 『ペトラ』(マリア・ニルソン・トーレ:作 ヘレンハルメ美穂:訳 クレヨンハウス) 1000個の模様があるのがご自慢のペトラ。ところがある日、胸の辺りにあった模様のブチが消えてしまいました。うろたえるペトラ。 見つけた見つけた。ブチはペトラの体から飛び出して、外に冒険に出かけていたのです。 戻ってきたブチを、ほっとして抱きしめるペトラ。 一緒にいたいからこそ、自由にさせてあげてねというメッセージが巧く伝わってきます。 『ほんをよむのに いいばしょは?』(シュテファン・ゲンメル:文 マリー・ジョゼ・サクレ:絵 斉藤規:訳 新日本出版社) こねずみニリィは本を拾います。家に帰ってさっそく読もうとしますが弟たちの遊ぶ声がうるさくて落ち着かない。そこで森へ出かけますがキツツキさんがうるさい。どこを探しても何かの声や音でうるさい。 困ったニリィが考えついたのは? なるほど。これなら静かだ。 『また きょうも みつけた』(辻友紀子 ポプラ社) 筋ジストロフィーの著者が、子どもの頃からの様々な出来事を綴った絵本。 自分をウサギで表現する(もちろんこれは著者自身のイコンとしてあるのですが)ことで、障害のキツさを和らげ、読者が向かいやすくすると同時に、筋ジストロフィーと生きる恐怖を真正面から描いています。 つまり、伝える方法としてもウサギは機能しています。 『いぬのロケット 本を読む』(タッド・ヒルズ:作 藤原宏之:訳 新日本出版社) ロケットは遊ぶのが大好き。黄色い小鳥がやってきて学校を始め、本を読みますが、ロケットは無視。でも、耳に入ってくる物語の続きが気になって気になって。 ロケットは黄色い小鳥から文字を習い、言葉を習い、その面白さに目覚めていきます。 押しつけがましくなく、文字の面白さを伝えています。ロケットが可愛いですよ。 『おまめまめまめ123』(キース・ベイカー:作 二宮由紀子:訳 ほるぷ出版) 数の絵本はいろいろありますが、これはなんと100まで数える絵本。おまめさんたちが、数字ごとに、その数字の数だけ居ていろいろなことをしています。10の先はさすがに20,30と二桁で進みますが、とにかく数える数える。正直最初の20は「面倒くさい!」って思ったのですが、おまめさんたちを数え始めると、結構意地になってしまって、数える数える。100のページでさすがに疲れましたが、次をめくるとまた、1.2.3・・・。 『あかちゃんぐまは なにみたの?』(アシュリー・ウルフ:作 さくまゆみこ:訳 岩波書店) あかちゃんぐまが初めてどうくつから外を見ます。 光、色、音。 すべてが新鮮。 読者は、あかちゃんぐまと共に、その新鮮な喜びを感じ取れますよ。 『かくれんぼ どうぶつえん』(今森光彦:切り絵 石津ちひろ:文 アリス館) 写真家だけでなく切り絵作家の顔を持つ今森作品です。 このどうぶつ何かな? シンプルな構造に少し遊びを加えた文で石津が今森の切り絵を見せていきます。 『ネムネムのじかん』(メグ&キャサリン・パイバス:ぶん ペトラ・ブラウン:え 石津ちひろ:やく BL出版) ヤマネのネムネムは眠る時間なのに、遊びに出かけます。 ふくろうさんやハリネズミさんに眠る方法を教えてもらいますが、なかなかうまくいきません。ようやく家に戻ってきたネムネム。 ママがねむるための絵本を読んでくれます。 この、ママが読むお眠り絵本が仕掛けとして入っています。これ、ちょっと楽しい。 『鬼と行者さま』(総本山金峯山寺:著 松田大児:絵 コミニケ出版) 生駒に伝わる昔話を元にした絵本です。金峯山寺の節分もこれを元に、「福は内、鬼も内」と唱えるそうです。 日本画画家、松田によるちょっとユーモラスな鬼が、話の意図をよく伝えています。 『ピエロのあかいはな』(なつめよしかず 福音館書店) サーカス。出演の準備をしていたピエロ。くしゃみをしてしまい、赤い鼻が転がって・・・。 それを追いかけるピエロ、それを拾った色んな動物たちの反応。 「おむすびころりん」と同じように、その動いていく画面、変わっていく画面の爽快感をお楽しみに。 カラフルさもいいですよ。 『ワニのお嫁さんとハチドリのお嫁さん』(清水たま子:文 竹田 鎭三郎:絵 福音館書店) ウワベ族とチョンタル族は仲が悪く戦争ばかりしていました。そこで、平和のためにお互いにお嫁さんを嫁がそうとします。でもなかなか名乗り出る人はなくて、ウワベ族からはハチドリ、チョンタル族からはワニがお嫁さんになります。そうして花嫁は互いの村に迎えられますが・・・。 メキシコの神話や祭りのエピソードを使って作られた絵本です。 武田の絵は南米の薫り高く、平和への願いを込めた清水の物語を支えています。 『やさしいかいじゅう』(ひさまつまゆこ:さく・え 冨山房) かいじゅうはかいじゅうであるがゆえに、他のどうぶつから疎まれて孤独でした。でも、彼の体によって守られた一本の苗木が友達となり、やがてかいじゅうより大きく育ち、たくさんの実をつけます。飢饉のときその実は他の動物を助けてくれるのです。 木との対比でかいじゅうがしだいに小さく感じられていく部分がとてもいいです。 『リーかあさまのはなし ハンセン病の人たちと生きた草津のコンウォール・リー』(中村茂:文 小林豊:絵 斉藤千代:構成 ポプラ社) 一世紀前、宣教師のリーはハンセン病で苦しむ人々のために草津に住み、教会、病院、住居を作るために奔走し、患者たちの心を安らげるために尽くします。それは単に強い信仰心だけとはいえないでしょう。リー自身の持つ、相手の側に立って物事を考える想像力の豊かさに源はあるでしょう。 その治療法は確立され、また感染力が弱いにもかかわらず、戦後も日本ではハンセン病患者隔離政策は長い間変わりませんでした。それは、政治の無策と、偏見という名の貧困な想像力のためです。 今でも残る偏見が、この絵本によって少しでもなくなりますように。 『坂の街のケーブルカーのメイビル』(バージニア・リー・バートン:作 秋野翔一カ:訳 童話館出版) サンフランシスコで生まれたケーブルカーが、廃止の危機に見舞われ、住民運動で救われるまでを描いています。 効率主義より、利益優先より大切なことを伝えます。 詳しい構造説明も、バートンがいかにケーブルカーを愛していたかがわかりますね。 『ねこたちのてんごく』(シンシア・ライラント:作・絵 まえざわあきえ:訳 ひさかたチャイルド) 『メイおばちゃんの庭』のシンシア・ライラントが絵も描いた絵本。 で、これが、いかん。死んでしまった愛猫がテーマなのだ。いかん。わし、泣いた。 猫好きは必読。いや、猫好きは読まん方がいい。いや、やっぱり読んで。 絵がまた、まっすぐでいいんですよ。 『いのちあふれる海へ』(クレアA.ニヴォラ:さく おびかゆうこ:やく 福音館書店) 海洋学者シルビア・アールの電気的絵本です。 川辺の生き物と遊び、潜水艇で深海に潜った人の本で海にあこがれ、ダイビングに夢中になり、海に魅せられ、その環境保護に尽くしていく。 波瀾万丈ではなく、ごく自然に物事に関心を抱き、それを仕事としていく姿は、当たり前だけど忘れがち。 『まよなかのかくれんぼ』(織茂恭子 リーブル) お化けが怖いたっくん。ネコのポロンが夜の森に誘います。そこには色んな動物がいて、たっくんを狐が化けたのだと勘違いし、一緒にかくれんぼ。鬼になったたっくんですが・・・。 眠るときの暗闇の怖さを、愉快な世界へとイメージしてくれる絵本です。 『おはなしトンネル』(中野真典 イースト・プレス) 雨。真っ暗なトンネルの中へ、黄色いレインコートに黄色い長靴の子どもが入っていきます。と、そこに現れるのは不思議なサーカス。 トンネルの持つ怖さがカーニバルとなり、それを通り抜けた先に幸せが待っている。 『つきごはん』(計良ふき子:作 飯野和好:絵 佼成出版社) 昭和三〇年代の佐渡島。女の子は父親を亡くします。家族と一緒にその悲しみからゆっくりと立ち直っていく様を、静かに描きます。 「つきごはん」は造語のようで、月命日に僧侶にふるまうごはんのことをそう呼んでいます。 『ちいさいきみとおおきいぼく』(ナディーヌ・ブラン・コム:文 オリヴィエ・タレック:絵 磯みゆき:訳 ポプラ社) 孤独な大きいオオカミ。そこに現れたのが小さなオオカミ。二匹は一緒に暮らします。 大きいオオカミは小さなオオカミに気遣いながら、楽しい毎日。 が、突然小さいオオカミは消え、大きいオオカミは、孤独に包まれます。 もちろん、幸せな結末が用意されていますよ。 『じゅっぴきでござる』(エクトル・シエラ:作 高畠純:絵 佼成出版社) 一〇匹のお猿。一匹がざるそば食べて九匹でござる。一匹がバナナをあさる。八匹でござる。 と、お猿がどんどん減っていき、でも最後はもう! 言葉のリズムが跳ねて、高畠の画が軽妙に踊って、愉快、愉快。 『すなばのスナドン』(宇治勳 文溪堂) 引っ越ししてきたばかりで友達の居ないたっくん。砂場でひとりぼっち。 そこに現れたのが、スナドン。いっぱい遊んでくれますが、砂ですからばらばらになったり固まったり。楽しい、楽しい。そしてやがて、人間の友達が。 『かんじのえほん』(灰島かり:文 小中大地:絵 玉川大学出版部) 象形文字に期限を持つ漢字の面白さを、灰島と小中で絵本にしました。逃げ出した十くんを探しながら、漢字を知っていきます。 書き順を絵文字で表したおまけもございます。 『はじめまして』(近藤薫美子 偕成社) 春、桜の花が一輪咲きます。はじめまして。ミツバチがやってきますよ。 しじゅうからの子どもが顔を出します。はじめまして。 春だけではありません。夏も秋も冬も、いつもどこかに「はじめまして」はあります。出会いの喜びに満ちた作品です。 『ウマがうんこした』(福田幸広:しゃしん ゆうきえつこ:ぶん そうえん社) ウマ同士のコミュニケーションの一つのうんこを中心にした写真絵本。雄同士の激しい争いや、子馬のかわいさと一緒にうんこも眺めている視線がいいですよ。 そうえん社の「しぜんといっしょ」シリーズもそろってきました。 『カチンコチン』(新井洋行:さく 小林ゆき子:え くもん出版) おばけの暮らすピーカーブ村。ゆきおんなのゆきちゃんのところにママからゆきねずみのプレゼント。でも、ゆきねずみは風邪を引き、そのくしゃみで、ドラキュラもミイラ男も、まわりのものみんなを凍らせてしまいます。 大変だ! 新井のテキストのドキドキ感とスピード感。小林の画のさむ〜い感。いいコンビですね。 【そのほか】 『ぼくは満員電車で原爆を浴びた 11歳の少年が生きぬいたヒロシマ』(米澤 鐵志:語り 由井りょう子:著 小学館) 食料の調達に縁故疎開先から母親と共に市内に入った米澤は、満員電車にすし詰め状態の時、原爆に見舞われます。爆心地から1キロも離れていない場所で。しかし、電車が鋼鉄だった故か、満員電車の真ん中にいたためか、母子は死を免れ、何とか疎開先まで戻ります。その後母はすぐに亡くなり、米澤も死を目前にするのですが、理由不明のまま生き延びます。 その体験を語り続けていた米澤ですが、本にすることはためらっていました。その背中を押したのは福島の原発事故です。 そのことも重要なのですが、それ以上に、被爆体験が、11歳が見たまま、経験したままのように語られていることです。そこには反戦や反原爆以上に、とんでもないことに遭遇した、させられた人間の呼吸がします。 そのことで、「どんなつらい記憶でも、知らないよりは知っていたほうがいいと私は思います」という言葉の重みが増してきます。 米澤の語りを文にした由井の力も大きいはずです。 『患者さんが教えてくれた』(外尾誠:文 フレーベル館) 半世紀にわたって水俣病患者と共に戦い、歩んだ医師、原田正純の生涯を描いています。 原田が癌で余命幾ばくもない(それでも活動は続けていました)時、記録を残したいと新聞記者に語った話が元になっています。 この本がいいのは、原田が自分の偏見や失敗も進み隠さず語っているところ。そうしたまっすぐさこそが、こうした戦いには欠かせないことも伝えたかったのだと思います。 治せない水俣病と対峙したとき、医者はどうあることができるのか? 原田の考えは美しくシンプルです。 医者なのだから、患者の側に立つこと。 『こどものしゅげい』(大月ヒロ子:作 木村愛:絵 福音館書店) 手芸とは要するに、自分で制作する楽しみ、自分を表現する喜びを実感するための、よい方法なのですが、この本は子どもたちにむけて、そのための方法を示します。かなり細かく親切に解説されていますから、実は子どものみならず大人も楽しめるでしょう。 『調べよう! 世界の本屋さん』(秋田喜代美:監修 稲葉茂勝:文 ミネルヴァ書房) 本の売り買いの始まりから、世界中の本屋さんの様子までを邦舞名写真で紹介。 本を、本屋という角度から眺める企画はいいですね。 行ってみたいなあと思う本屋が目白押し。 四巻予定されています。 『錯視のひみつにせまる本1』(新井仁之:監修 こどもくらぶ:編 ミネルヴァ書房) 全三巻の錯視、つまり錯覚を巡る解説絵本。一巻目は錯視の歴史です。パルテノン神殿のエンタシス様式の柱から話は始まります。 錯視を歴史という流れで考えたことはなかったのでおもしろかったです。 Copyright(C), 1998 |
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