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西村醇子の新・気まぐれ図書室(5)――色と形―― その昔愛読した、セシル・D・ルイスの『オタバリの少年探偵たち』(岩波書店、瀬田貞二訳)の書き出しに「はなからはじめて、終りまでつづける。終りでやめ…、」という言葉があった。自分たちの冒険譚を書くことにしたとき、主人公の「ぼく」が教師からこの助言を受け、いったい「はな」つまり物事の始まりが何かを悩んだあとで、事件の発端から時間順に語るとなっていた。内容はとうの昔に忘れたのに、なぜかこの部分だけが印象に残っていた。[もっともうろ覚えだったので、引用は本を見ておこなった。送り仮名表記は本のとおり。] 今年度受け持っているある英語の授業テキストにも、宇宙のはじまりに関する章があった。それによると、この宇宙は約150億年前にビッグバン【大爆発】によって生まれたという説が一般的らしい。爆発で宇宙のすべての物質とエネルギーがつくられたということも含めて、スケールが大きすぎて頭がくらくらする。 さて、ここで取り上げるローラ・ヴァッカロ・シーガーの絵本も、キーワードは「はじめ」である。縦横ほぼ同じ大きさの絵本で、赤茶色の背表紙には『はじめはタマゴ』(2014年5月)という書名やL・V・シーガー(作者名)、評論社(出版社名)がある。だが、くすんだ青が基調となっている表紙に黄土色で大きく描かれている文字は、「はじめは」だけ。この言葉の下は、鳥の巣のようなものと、その上に載った大きな卵。つまり、文字と絵が組み合わさって「はじめはタマゴ」という書名が完成する。触るとわかるが、白っぽい卵の部分は楕円形の穴。表紙カバーをはずすと、卵と見えた部分が、じつは白いニワトリの体の部分だったとわかる。 絵本の本体は、すべて見開き二枚でワンセット。一頁ごとに「はじめは」「たまご」「そして」「ニワトリ」と活字が続き、少しずつ形の異なる穴は見開きをめくるたびに、「卵」「ひよこ」の一部として現れる。仕掛けとしては単純な部類に属するだろうが、それが有効なのは、動物や背景が、絵の具を丹念に塗り重ねて表現されているからだ。つまり、自然界そのものが、実際にはたくさんの色で構成されていて、それが画面上でも再現されていたことに気づく。 絵筆のあとがみえるカンバス地に見とれながら頁をつぎつぎにめくっていくと、急に展開が変わる。「はじめは」「ことば」「そして」「おはなし」となったかと思うと、さらに「えのぐ」を通じて「え」となるプロセスが立ち現れるからだ。つまり絵本自体が、絵本や物語について読者に意識させるという、メタフィクションの仕掛けをも持っていたのだ。 ヨシタケシンスケの『りんごかもしれない』(ブロンズ新社、2013年4月)は、これと対照的な絵本になっていた。こちらのキーワードはフォルム(形)。ストーリーとしては、主人公の男の子がテーブルの上の大きなリンゴをみて、それは実際にはリンゴではなく、「大きなさくらんぼの一部かもしれない」とか、「じつはなにかのたまごかもしれない」といった想像をあれこれめぐらせていく。でも考えているうちに空腹になり、ふつうのリンゴとしてむしゃむしゃ食べた男の子が「おいしいかもしれない」と締めくくっている。 りんごを単純な赤色とほぼ球体の物体と捉え、ふたつの組み合わせからうまれる可能性をとことん追及したもの…といったら、言い過ぎだろうか。これもまた、作り手の遊び心が感じられる絵本である。 錯覚といえば、『かぞくのヒミツ』(エイアールディー、2014年4月)はシルエットの作りだすフォルムにこだわっている。表紙は茶系の地に白や黒の縦線が入り、中央に書名と作者・訳者の名前がはいったドアが描かれている。ただしドアの形は長方形というよりは上より下が小さな台形で、不安定さを印象付ける。そして少女が鍵穴からのぞいているところ。 この後、主人公の少女の錯覚が物語をけん引する。「ママは、ほんとはヤマアラシ」という文章にはだれもがぎょっとする。頁をめくると、じつは早朝、セット前の母親の頭が「トゲトゲあたまのヤマアラシ」に見えたものだと、見る者にはわかる。だが少女はあくまで騙されないと頑張る。自分もヤマアラシだったらどうしようとか、ともだちにばれたらどうしようとか。妄想には違いないのだが、思わず「そうかそうか、あんたもたいへんだねえ」と声をかけたくなるような、孤軍奮闘の物語。でも最後は、クマだったり、ライオンだったり、ワシだったりと、いろいろな顔をもつ人がいるのだから、他人の目を気にしすぎたり、他人と違うからと悩んだりしなくてもいいよ…という声が聞こえてくる。 輪郭線をあちこちではみ出すように入れられたくすんだ色調の色は、色のついたセルロイドを当てたりずらしたりして遊んでいるようでもある。全体にラフなスケッチ風のこの絵本は、アルゼンチン生まれの作家・イラストレーター、イソールが描き、宇野和美が訳したもので、リンドグレーン記念文学賞を受賞している。 今回掲げたテーマから逸れるが、最近出版された『快読「赤毛のアン」』(菱田信彦著、彩流社、2014年5月)が面白かったので紹介しておきたい。3部構成で、1部が『赤毛のアン』を1章ずつ解説したもの、2部が作品を取り巻く社会について、3部が訳者たちについての論考になっている。ただし全体が215頁なのに、3人の訳者を比較した3部はわずか20頁。比較の例がいくつか挙げられているとはいえ、物足りなさは否めない。 本書の約7割を占める1部は物語を1章ずつ取り上げているが、単なるあらすじ紹介になっていない。社会分野や歴史分野の関連資料を渉猟し、最近のモンゴメリ研究をも踏まえあた分析が、そこかしこに散りばめられている。たとえば登場人物の使う英語表現、文法的に標準的な話し方なのか、方言がまじっているのを区別したうえで、それらが、移民文化やカナダの歴史を反映したものだと指摘している。また、アンの発話が高度な付加疑問文や文学的引用にみちているのは、彼女の知性を示すものだとも。マリラやリンド夫人、ダイアナの母親といって女性たちの微妙な関係にも、宗教的な背景からの考察がなされると、このコミュニティの様相が今までと違って見えてきて、刺激的である。アンとマリラに限ってみても、それぞれの「成長」を言語能力のみならず、コミュニティから受けていた呪縛がいつ、どのように解けたのか・・・といった分析につながっていく。 アンの英語の正統性と格調の高さが指摘されているが、読んでいて気になるのは孤児院で育ったうえ、その後も劣悪な環境に置かれていたアンが、どうしてそのような英語を獲得できたのか、という点である。また、マシューの死後、アンが大学に進学せずにマリラのそばに残る選択――きわめて消極的かつ残念な道だと見えるーーについても、疑問が残る。菱田はそれらの疑問もすくいあげ、こたえを用意している。前者については2部IIの「赤毛のアンの階級とエスニシティ―」という項目で、モンゴメリが「血筋」に重きを置いていたからこそ、と彼の得意分野である階級にかんする研究と絡めて解釈しているし、また後者については伝統的な価値観にそった選択と思えるが、実際には「家」を守ることには現在考える以上の意味があったのだと、説く。 菱田はツッコミや問いかけを駆使して論述を進めている。ひっかかるのは何か、それはどうしてなのか、でもこれって気になるよね…といったやわらかな口調で、読者をアンの世界の知的探求にいざなっている。「無駄」(いえいえ!)と思われるほどの該博な知識を披露しつつ、研究って意外と面白いと思わせている。ただし、あらすじだけでは本を読んだことにはならない。読後はもう一度、アンの本と向き合うことをお勧めする。でも誰の訳本にするか…!? 本日はここまで。 【児童書】 『石の神』(田中彩子:作 一色:画 福音館書店) 村の境界の見回りを任されながらも、村に入ることは許されぬ人々の中で育った捨吉。彼はその身分から救ってもらえた、その状況を受け入れられずに逃げ出してしまい、放浪します。 石工を目指して修行をしている寛次郎。下に弟子が入らないので三年間も下働きのままで、未だに石工の修行をさせてもらえません。 そんな折り、流れ石工に連れられてきたのが捨吉。そのおかげで寛次郎は下働きから石工見習いになりますが、なにも話さない捨吉に戸惑います。 やがて、捨吉も下働きから見習いに上がり、その腕前はスタンダードではありませんが、異様な力があります。 ところが、彼は本気で石を掘ろうとはしません。なぜ? 大きな事件が起こるわけでもないですが飽きません。 最後辺りが急ぎ気味かなとは思いますが、筆力で読ませていきます。 一色の静かな絵が作品と合って、とてもいいです。 『ガマ 遺品たちが物語る沖縄戦』(豊田正義 講談社) ガマとは、沖縄にある洞窟のこと。戦争中、それは住民達の隠れ場所として使われましたが、そこで亡くなった人々がたくさんいます。最後は兵士も立てこもりましたから、彼らもそこで亡くなりました。数多くあるガマでは、未だに遺骨や遺品が残っています。 この物語は、ノンフィクション作家の豊田が、体験者達の話を、遺品を軸として物語り直しています。 『はじまりのとき』(タィン=ハ・ライ:作 代田亜香子:訳 すずき出版) 少女時代、南ベトナムから難民として渡米した作者の自伝的作品。日記形式になっていて、一〇歳の少女の思いや考え方が語られます。ホーチミン、北ベトナムへの怖れ。アメリカへの期待と、違和感。 日記ですから、はっきりと物を言う形式がとれて、それがなお一層リアルです。 『おんぼろ屋敷へようこそ 幽霊作家はおおいそがし1』(ケイト・クライス:文 宮坂宏美:訳 ほるぷ出版) 人気のゆうれい児童小説作家ムッツリーはスランプで二〇年間シリーズ最新刊を書けていません。もうお金も無く、ある屋敷を借りて書くことに。 が、そこには一一歳の少年と一九〇歳の幽霊が住んでいた! 幽霊の存在など信じないムッツリーは続編を書けるか? 愉快なお話でありつつ、新しい家族物語でもあります。 『なりたい二人』(令丈ヒロ子 PHP研究書) 幼なじみの「わたし」とムギ。男女だからカップルと見られる可能性は高くて、だから互いに知らない振り。授業の課題で、なりたい職業が出され、それが二人で組んで発表。なりたい職業どころかこの二人、それぞれにコンプレックスがあり、なにも思い浮かばないうちに組み合わせが決まってしまい、残されたのは「わたし」とムギ。仕方なく組むことになり、それをきっかけの幼なじみなのもばれてしまい、カップルと見なされ、しかもなりたい将来もない二人は、さてどうする? コンプレックスとは、世間や周りの価値観に自分も取り込まれてしまって、自分自身で自分を低く見積もってしまう症状ですから、なかなかやっかいなのですが、物語はそれを自信に変換するために具体的事例を示していきます。 こうした物語展開は、令丈の真骨頂! もっと「文学的」に書こうと思えば書ける作家ですが、そうはせずに、身近なノリで描いていくのです。 児童文学が、大人文学より冷遇される(下に見られる)困難さを引き受けつつ、子ども読者に伝えようとする方法論(覚悟)の意味もとてもよくわかる作品です。 『まぜごはん』(内田麟太郎:詩集 長野ヒデ子:絵 銀の鈴社) 内田の児童詩集五冊目です。 きつい詩も含めて、ええ具合に力が抜けて、ええ具合に楽しませ、ええ具合に考えさせてくれます。 内田さんの詩は、親子のがやはり強い光を放っています。 長野さんの絵がいいなあ。一緒に仕事がしたいなあ。内田さんがうらやましいなあ。 『図書室のふしぎな出会い』(小原麻由美:作 こぐれけんじろう:絵 文研出版) 勝は少年サッカーのレギュラー選手。ところが足をねんざしてしまい練習を休むはめに。図書委員もしているかれは担当の先生から地下倉庫にある古書の整理を頼まれます。そこで出会った真由子は、古びて読みにくい「動物の医学」という本を借りたがり、五年生だというのですが、在校生に彼女の名前はなく・・・。 スポーツ系の悩みが文化系の謎解きをしている内に、見方が少し変わって行きます。 ねんざが治りかけているとは言え、階段地下の作業をさせる先生はいかがなものか? 【絵本】 『ふしぎなともだち』(たじまゆきひこ:作 くもん出版) 島の小学校の転校してきた「ぼく」。その教室には自閉症のやっくんがいて、みんなはやっくんを見守りながら、一緒に学校生活や日常生活を営んでいます。「ぼく」もまたそこに加わって、やっくんとの毎日が始まる。 小学校の一時期における「優しさ」の物語では無く、就職してからの日々までが丁寧に切り取られています。 たじまの画は、どこまで柔らかく豊かに進化していくのだろう! 『うなぎのうーちゃん だいぼうけん』(くろきまり:文 すがいひでかず:絵 福音館書店) うーちゃんがマリアナの海で生まれてから、様々な危機を回避して、ようやく日本の川にたどり着き、そこで大きく育ち、またマリアナの海に帰っていく。そして産卵し一生を終えるまでを描きます。 まだよくわからないうなぎの生態ですが、うなぎの卵がマリアナで見つかって5年。そうやく起点がわかったわけです。 『12にんのいちにち』(杉田比呂美 あすなろ書房) タイトル通り、見開き画面にコマ割で、一つの街、12人の一日が、ページを繰るごとに進んでいきます。年齢も性別も仕事も違うそれぞれの時間が、それでも一緒に流れていて、時々交わったりもする。暮らしへの愛おしさを、杉田の表情豊かな輪郭線が描きあげていきます。 いやあ〜、楽しい。うれしい。 『いろいろいろのほん』(エルヴェ・テュレ:作 たにかわしゅんたろう:訳 ポプラ社) 『まるまるまるのほん』に続く二作目です。 色の組み合わせを絵本でどう表現するかがテーマですが、とてもいいのは、仕掛けなどを使わずに、ページを閉じたり、ページを繰ったりすることによって、それを見せるようにしていること。赤、青、黄色の丸が左右に位置を変えてドローで少々あらっぽく描かれ、そのページを閉じると、つまり、右と左のページの色が重なる仕草を読者がすると、次のページでは、赤と青が混ぜられた色が現れます。 なんて言うのでしょう、本の形で色彩を感覚的にとらえることに成功しているのです。 悔しいですが、やられたな。 『こんや妖怪がやってくる』(君島久子:文 小野かおる:絵 岩波書店) 中国少数民族トゥ族の昔話です。 今夜妖怪がおばあさんを襲いにやってきます。おばあさんはいろんな物に相談するとたすけてくれるといいます。玉子、雑巾、棍棒、石のローラー。みんなで工夫し協力したって妖怪退治! 君島さんも解説で書かれているように、「さるかに合戦」の後半を似ています。昔話の伝播は素敵ですね。 『いえのなかのかみさま』(もとしたいずみ:文 早川純子:絵 光村教育図書) 日曜日、ともきは両親と一緒に親戚に家に行きました。そこは古い家で、様々な神様が住んでいました。ちゃのま、だいどころ、なんど。 妖怪、怪奇絵本ではありません。逆で、安心絵本。どんなささいな場所にもそこを見守る神様がいると思って暮らす。 それは豊かな毎日ですよ。 『季節をたべる 夏の保存食・行事食』(濱田美里:著 藤田美菜子:絵 アリス館) シリーズ二巻目。春の次は夏です。夏だから梅干しからジャムまでたくさんの自然と、たくさんのレシピ! 親子で作るコンセプトですから、難しいことは書いてありません。でも、ここから、理科や科学や歴史や文化に知識を広げていくことができます。 このシリーズから、そうしたつながりを期待します。 『チュパカホワホワ』(こいでなつこ あかね書房) ザリガニのザリチには大好きなタオルがあります。ライナスの毛布ですね。初めて祖父の家にお泊まりに行く日、おかあさんはこのタオルを切って渡してくれます。でも、途中で失うことの繰り返し。 やがてザリチはそこから少しずつ成長していきます。 ライナスの毛布を小分けに切る話って発想は思いつきませんでした。 『おどかさないでよ、ガオくん!』(トマス・テイラー:さく 灰島かり:やく ほるぷ出版) タイガーの子どもガオくんは、自分の吠え声で他の動物をおどかしていましたが、みんなの作戦で、今度は脅かされてしまい・・・。 大人と子どもが吠え合いながら読む絵本です。 『ヒワとゾウガメ』(安東みきえ:さく ミロコマチコ:え 佼成出版社) ゾウガメの背中にはいつもヒワが乗っている。ヒワはこの世にゾウという生き物がいることを聞き込んできて、ゾウガメの仲間じゃ無いかと教えてくれる。長生きをする。草を食む。ゾウガメはそっくりだと思う。ヒワが消えてしまう。ゾウを探しに行ったのです。すると、今まで少しうっとうしかったさなかのヒワの重みが懐かしく愛おしい。 ヒワを心配するゾウガメ。海に落ちたという話を聞きます。甲羅の上の空虚感。 しかしヒワは戻ってきます。ウミガメに助けられたのです。ゾウは発見できなかったけど、ゾウガメの仲間らしいウミガメを見つけたのです。 でも、ゾウガメは思います。ヒワが大事だと。 寓話を得意とする安東の物語にミロコマチコの絵が寄り添います。 『童謡えほん』(萩原昌好:編 あすなろ書房) 「日本語を味わう名詩入門」全二〇巻を刊行し終えた萩原が、童謡も読んで欲しいと編纂した絵本です。 さこももみ、寺田順三、こみねゆら、はたこうしろうなどが競演。それぞれのイメージで童謡を描いています。 『こんにちは また おてがみです』(福音館書店) 福音館書店の人気作品からの封書が全部で10通入っています。郵便屋さんはホネホネさん。 「中川李枝子・山脇百合子」「筒井頼子・林明子」「なかのひろたか」「乾栄里子・西村敏雄」「加古里子」「西内ミナミ・堀内誠一」「西平あかね」「田中清代」「秋山あゆ子」「さとうわきこ」。 うん、すごい。 すごろくもおまけだぞ。 『ここにいるよ! ナメクジ』(皆越ようせい ポプラ社) 皆越さんの新作はナメクジです。表紙写真のナメクジの赤ちゃんが、かわいい。 中にはナメクジの情報と写真がいっぱい。いつものように、嫌いな人は観なくていいですけれど、一度観てみたら、親しみがわきますよ。そうか、そこから出すのか・・・。 『ダーウィンが見たもの』(ミック・マニング&ブリタ・グランストローム:さく 渡辺政隆:やく 福音館書店) ダーウィンの伝記的絵本。生まれた頃から、「種の起源」への世間の反応までを、リラックスした感じで描いています。ダーウィンの伝記的なものでこれほど明るい作品は初めて。 ラッセル・ウォレスに関してはもう少し描いておいた方がいいとは思いますが。 『なんでもあらう』(鎌田歩:作 福音館書店) けんちゃんは汚れた自転車のまま家を出ます。家族には洗った方がいいと言われているけれどね。見知らぬおじさんに呼び止められ、汚れた自転車をピカピカに洗ってもらうけんちゃん。汚れたままがいかに危険かも教えてもらいます。 けんちゃんはおじさんにつれられて、飛行機、高速道路など洗う現場を体験します。 どこをどう洗うか、なぜ洗うかなどが語られていく様は、気持ちいいです。 『トリックアート図鑑 ペーパークラフト ふしぎの館』(グループ・コロンブス あかね書房) 好調なトリックアートシリーズなのですが、これはいかん。この一冊で、色々ペーパークラフトが作れるのだ。ミシン目も入っているから、ついつい作ってしまうではないか! 「ありえないピラミッド」たとか「ぱたぱたケーキパズル」とか、仕事や勉強を中断し、ついつい作りたくなる誘惑度の高い、危険自作クラフト絵本。 『江戸っ子さんきちと子トキ』(菊池日出夫:作 福音館) 時代を江戸に移して、巣から落ちてしまったトキの雛を育てる人々を描きます。「おおきなポケット」からの単行本。 トキだって、他の鳥と同じように育てていくわけですが、そこから、今は特別な存在となったトキを考えます。 『ルコちゃんはどこ?』(間部香代:作 市居みか:絵 すずき出版) ルコちゃん二作目です。自転車に乗ったルコちゃんは、ルコちゃんを探して走り続けています。 なんだかよくわからないでしょう? 読んでね。 市居みかの画の勢いは止まらない。 『ふしぎなかばんやさん』(もちしたいづみ:作 田中六大:絵 すずき出版) 路上で鞄を売っているおじさん。買いたい人の要望通りの、いやそれ以上の不思議な鞄が次々出てきます。この想像力をまずお楽しみ下さい。 そして田中六大のベタなのに軽くて陽気でさらっとしている、いつもの素敵な画も味わって下さい。 『たかいたかい』(磯みゆき:ぶん かいちとおる:え ポプラ社) パパがママがゾウさんが、みんなたかいたかいをしてくれます。それを縦開きの絵本で見せていきます。 かいちとおるの切り紙で構成された画面は、手作り感に溢れています。 『パタパタハウス ミーコちゃんのおうち』(市原淳 ポプラ社) ページを九〇度に開いて立てると、折りたたまれていた面が床になります。封入の様々な家具を置けば、色んな部屋が出来る。ページは庭、リビング、キッチン、子ども部屋とございます。家具のお片付けボックスもついていて便利。よく考えられているなあ。 『くまさん はい』(長野ヒデ子 「こどものとも0.1.2」六月号) 女の子とくまさんが、毎ページ、一緒に歌って踊ります。 ああ、もう、長野さんの世界だ。長野さんのリズムだ。 かわいいなあ。ゆかいだなあ。気持ちいいなあ。 今度こそ、仕事をご一緒できますようにと願います。 『ぽんちんぱん』(柿木原政広:作 福音館書店 「こどものとも0.1.2」七月号) 食パン、バケット、ロールパン。ページを繰ると、表面に顔が浮かぶようにちぎってあります。それだけのことですが、なんやらおかしい。最後のあんパンがすごいぞ。 『わるいこちゃん』(リョジャー・ハーグリーブス:作 よねむら知子:訳 ポプラ社) 「MR.MEM LITTLE MISS」シリーズの一冊。キャラは八〇以上あるそうです。「ハッピーくん」「くいしんぼうくん」「ニコニコちゃん」「こうきしんいっぱいちゃん」など。そして本作の主人公は「わるいこちゃん」。町中でとんでもなく悪いことばかりしている彼女をニコニコちゃんの知恵で見つける段取りです。 キャラをくっきりわけることで、キャラの起こす出来事と、別のキャラの反応の組み合わせがたくさんできてきます。 キャラ同士ですから成長というより、対処を学ぶ絵本かな。 『はなちゃんとぷーのおみせやさん』(ねこしおり:さく 大島妙子:え 小峰書店) はなちゃんとネコのプーはおもちゃを広げて、お店屋さんごっこ。でも、プーがいたずらでお店はぐちゃぐちゃ。仕方が無いので、おもちゃ入れにプーと二人ではいっちゃいましょう! グーグーグー。包まれる安心感。 『一本の木に葉っぱは何枚?』(姉崎エミリー:文 姉崎一馬:写真) ミズキの青葉が茂る頃、子どもたちを一緒に葉っぱが何枚あるかを数えていきます。 この発想が「たくさんのふしぎ」的で、好きです。 もちろん、ミズキの一年を姉崎一馬さんが撮っていますよ。 『やさいばたけのやまねこさん』(こじまさとみ:作 「こどものとも年中向き」七月号) 畑を作り、育て、収穫し、市場で売る。 そうした営みの温もりを、動物を使って楽しく描いています。 『おぼえていてね』(小学館)の画よりずっと風通しがよくて素敵。 『おかお ない ない』(いとうせつこ:文 島津和子:絵 「こどものとも 012」七月号) 隠した顔を、ばあ! 絵本。カニさん、カエルさん、カマキリさん、カタツムリさんと、「カ」づくしです。 それぞれの表情が愉快。 『ギンヤンマそらへ』(松岡達英:さく 「ちいさなかがくのとも」七月号) 松岡さん、今作はギンヤンマです。縦開きの画面で、下の画面に水中を、上の画面に地上を配し、幼虫から育っていく様を、他の生き物の生態をさりげなく描き混みながら展開していきます。だから、無事に羽を広げたときはホッとしてしましたよ。 『だるまちゃんとにおうちゃん』(加古里子 「こどものとも」七月号) 「だるまさん」が大人気ですが、こちらは加古さんの代表作だるまちゃんシリーズの最新作です。 だるまちゃんだからですが、仁王もにおうちゃんです。てんぐちゃんも、かみなりちゃんも、だいこくちゃんもおますよね。なんか怖くないのがおかしい。 で、この二人が対決。さてどちらが勝ちますか。 『はなちゃんとぷーのおみせやさん』(ねこしおり:さく 大島妙子:え 小峰書店) はなちゃんとネコのプーはおもちゃを広げて、お店屋さんごっこ。でも、プーがいたずらでお店はぐちゃぐちゃ。仕方が無いので、おもちゃ入れにプーと二人ではいっちゃいましょう! グーグーグー。包まれる安心感。 【書評】 『子どもを本嫌いにしない本』(赤木かん子 大修館書店) 「本が嫌いな子どもなんて、いないんですから」。「でも、誰だって好きじゃない本ばっかり読まされれば本が嫌いになるでしょう?」。という、当たり前の話から始まるこの本は、子どもが本と出会って、それをいじくり倒して、本を嫌いにならず使いこなし続けられる大人になれるよう、子育てに関わる親や教師がどう考えればいいかについて語っています。 お読みになれば、「なんだ、こんなことか」と思われる人が多いでしょう。ここには、先ほどのような当たり前のことしか書いてありません。ただし、当たり前だからこそ、私たちが気軽に考えてしまい、子どもに対して間違った対応をしがちなことに関して丁寧に注意を促しています。 私たちにとって、本をいじくり始めた子ども、ようやく使いこなし始めた子どもとの付き合いは結構大変。彼らは本に夢中になっているので、しつこいです。 でも、赤木はそのときの子どもの心の動きをとてもリアルに説明してくれますから、私たちの気持ちも少し楽になります。 その内容を読んでも、「なんだ、こんなことか」と思ってしまうのは、あなたも子どもの頃はその気持ちを知っていたからです。知っていたけど大人になって忘れてしまっていたからです。 赤木はこの本の中で、そんな大事なことを何度も何度も思い出させてくれます。 本は情報の束です。そして人もまた情報の束です。本を通して得た情報は人を作り、人と人を結んでいきます。映画や漫画と同じく、本から情報を摂取するためにはスキルが必要ですから、子ども時代に育んでいた方が後々まで使えます。 日頃あまり本を読まない人は、自分のためにこの本を手にとってください。本をたくさん読みたくなりますよ。よく読む人もやっぱり、自分のためにこの本を手にとってください。凝り固まった本への考え方が心地よく溶け、子どもの頃のような新鮮な気持ちで向かい合えますよ。その後、子どもたちが本を使いこなせるよう、誘惑してくださいね。(「英語青年」八月号) |
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