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宣伝:『なりたて中学生 初級編』(ひこ・田中 講談社)。悩んでいる小学生の話でも、悩んでいる中学生の話でもなく、中学生になってしまうことにうろたえている子どもを描いてみました。よろしくお願いします。 以下、西村醇子です。 *** ノエル・ストレトフィールド作『ふたりのエアリアル』 フォーブズ家のソレル、マーク、ホリーは八年前に母に先立たれ、父と暮らしていた。やがて第二次世界大戦がはじまると、父は海軍に戻り、三人は祖父の牧師館に移った。そこへ父が行方不明になったという衝撃的な知らせが届く。しかも祖父はそのショックからか、まもなく心臓発作で死亡。牧師館にいられなくなった三人は、祖父の家政婦ハンナとともに、ロンドンの母方の祖母の家に身を寄せる。 じつは母は演劇界で高名なウォレン家の出身だったが、身勝手な結婚をしたため、生前、祖母に絶縁されていた。だから三人は祖母と暮らし始めるまで、母方のおじやおば、いとこたちの存在も知らなかった。もうひとつ新たにわかったのは、祖母には金銭感覚がなく、貧乏だということだった。三人は祖父の遺産が検認されるまではお金が使えない。そこで、不本意ながら、祖母と親しい校長のいる舞台芸術学院に入学し、その校長の計らいで奨学金を得ることができた。三人は、ウォレン家の血を引く子どもにたいする好奇の目にさらされながらも、同学院の教授科目となっているバレエや演技、音楽のレッスンに取り組む。 本作『ふたりのエアリエル』(一九四四)に描かれているのは、我々とはかなり隔たった世界だ。執筆より少し前の一九四二年、つまり第二次世界大戦中のロンドンの話なので、戦争が影を落としている。たとえば祖母の家のある広場のあたりはほとんどが空襲で焼かれ、かろうじて祖母の家とごく小さな庭園が残っていた。室内の窓には灯火管制用のカーテンがかけられているし、子どもたちは海軍病院に入院中の負傷兵や療養中の兵士や休暇中の将校のために慰問公演をおこなう。また衣料や物資の不足、食料不足なども描かれている。しかし、この物語を「戦争物語」とみなす必要はない。子どもたちは戦況に一喜一憂する余裕はなく、当面の暮らしと課題で手一杯となっている。 物語の舞台は、多くの人に縁のない演劇界の裏側である。その点は同じ作者による『バレエ・シューズ』(一九三六)と共通する。そして三人が得ている奨学金は、『バレエ・シューズ』の主要登場人物だったフォッシルの三人が出資者だという。物語内ではフォッシルたちは間接的に手紙を通して紹介され、三人の話をもっと読みたいと思う読者へのサービスとなっている。 一方、フォーブス家の子どもたちは、父のように海軍将校になりたいマークに代表されるように、これまで演劇とは縁のない世界、どちらかというとピューリタン的な価値観に接して暮らしてきた。それが祖母の家にきて、根底から覆されるのを経験する。 物語は登場人物たちが全知の視点から描かれているが、なかではソレルが中心といえよう。ソレルは長女として弟や妹を気づかい、また将来への不安を抱いていた。だがなじみのない演劇の世界で、戸惑いつつも興奮を味わううちに、自分もまたウォレン家のひとりなのだという自覚が芽生える。そして劣等感にさいなまれるだけでなく、いとこに負けたくないと思い、女優をめざしたいと考えるほどに成長する。ちなみに邦題は、シェイクスピアの『テンペスト』中の妖精の名前で、ソレルはこの役をめぐっていとこと争う立場になる。 物語の作者ストレトフィールド(一八九五年―一九八六)は、孤児を中心に彼らが生計をたてるために仕事を得るキャリア・ノヴェル(職業小説)を多く書いた。そして『サーカスきたる』で一九三八年のカーネギー賞を受賞した。また評伝も出版されていて、高い評価を得たことがわかる。ただ、現代の子どもの本とは縁遠い、昔の作家だという印象があった。けれども、どの作家にもそれぞれ果たしてきた役割があり、単に出版年代だけをみて、古臭いと十把一絡にみなすのは早計であろう。 ストレトフィールドの場合も、ラジオのオーディションや舞台の稽古風景、あるいは劇場の様子といった、素材的な物珍しさに加え、個々の出来事をくっきりと描き出し、深い心理描写がみられ、読者をひきつけてきた。大人には少し懐かしいような時代の物語、現代の子どもにはかえって、新鮮に映るかもしれない。 西村醇子 (にしむら・じゅんこ)白百合女子大学非常勤講師(英語圏児童文学専攻) 週刊読書人 2015年1月16日号5面掲載 *** 以下、三辺律子です。 2014年に共同通信で担当した「14歳からの海外文学」。全七回のうち、今月は四回目を。前にも書いたように、「古典からも選んでください」という条件があったので、まさに14歳が主人公のこの作品を選んでみました。テーマは今、佳境の「受験」。 「受験の試練は昔から。今に通じる『車輪の下で』」(ヘルマン・ヘッセ著 松永美穂訳) 中2女子ゆい そろそろ高校受験のことも考えないとなー。昔はいいなあ、受験が厳しくなくて。 三辺律子(翻訳家) そんなことないよ! 例えば100年以上前に書かれた小説『車輪の下で』(ヘルマン・ヘッセ著、松永美穂訳)だって、14歳のハンスの受験の場面から始まるんだから。 ゆい ヘッセってドイツの人だっけ? 律子 そう。これはヘッセの自伝的小説でね。つまり19世紀にも受験はあったってこと。 ゆい げーっ。で、ハンスは合格するの? 律子 当時のエリートコースだった神学校に見事合格する。 ゆい なんだ、順風満帆じゃん。 律子 それで、地元の級友のことを今や「自分より下」と思ったりね。 ゆい やなやつ! 律子 ところが、進学してみたら、周りは優秀な子ばかり。節約のため人のランプのそばで勉強するガリ勉くんとか、気の効いた校内新聞で人気を博する子とか、詩人を目指す異端児とか、個性的な面々にすっかり気圧されちゃって。 ゆい ああ、その気持ちちょっと分かるかも。 律子 その異端児と仲良くなるんだけど、教師にも反抗的な彼についていくほどの勇気はなくて、振り回されちゃう。彼にキスされるとか! ゆい えっ! 律子 多感な時期だからね。その後、地元の女の子に迫られて、恋らしきものも経験するし。 ゆい 草食男子なんだ。 律子 どうかな(笑)。同世代からはどう見えるか、ぜひ読んでみて。 ゆい 古典って難しそうだけど、案外今に通じる話もあるんだね。 【追記】 わたしは昼間に電車に乗ることが多いのだが、たまに、ふだんは見かけない中高生で混み合っていることがある。テスト期間中だ。そのたびに、中高生時代を思い出す。テスト前のくら〜い気持ち、ついつい寄り道してなかなか家に帰らなかったり、ふだんはしない部屋の片付けをしたり。そして、終わった後の、あの開放感―――と書いて、なにかに似ていると思ったら、今の締切前の自分だった。ちっとも成長していない。 先日も、前の席で男子高校生三人がテスト勉強をしていた。が、勉強そっちのけで、「こいつクズだな」と言い合っている。こらこら、友だちの悪口はいけないよ、と思いながら聞いていたら(←こらこら、盗み聞きはいけないよ)、「グダグダ言ってるけど、要は妊娠させて、捨てたんだろ」。う、話が深刻すぎる、と思ってそっと彼らの手元を(盗み)見ると、『舞姫』が握られていた。 某オンライン書店も、どうせ本を勧めるなら、「『舞姫』を読み終わったひとは『高瀬舟』!」じゃなくて、「豊太郎をクズだと思ったひとは『妊娠小説』(斎藤美奈子著)!」とかにした方が効率がいいかも!? (三辺 律子) その2 (三辺律子) このコーナーでもたびたび書いているが、わたしは映画が好きで、学生にもしょっちゅう強引に勧めている。さらにここ1〜2年、映画評のサイトの手伝いをしていることもあり、試写会に行く回数がぐっと増えた。 自分だけで楽しんでいてももったいないので、公開中〜公開間近の作品で印象に残ったものを一言ずつだけ、紹介させてください! 児童文学・YA作品が原作のものや、若い人に勧めたい作品を中心に。 『6才のボクが、大人になるまで』 監督:リチャード・リンクレイター 出演:パトリシア・アークエット エラー・コルトレーン ローレライ・リンクレーター タイトル通り6歳の主人公が18歳になるまでの12年間を描いた作品。同一キャストで撮ったの(だけ)がウリかと思いきや、一人の少年の成長をさらりと追っていて、語りすぎず想像の余地があって◎。児童書やYAが好きな人はたまらないはず。 『天才スピヴェット』 監督:ジャン=ピエール・ジュネ 出演:カイル・キャトレット ヘレナ・ボナム=カーター ジュディ・デイヴィス 『アメリ』の監督らしく、凝りに凝った映像がきれい。やさしく愛情もある両親に恵まれつつも、家庭に居場所のない少年を主人公にしたところが面白い(そういうこともあるのだ)。 『ストックホルムでワルツを』 監督:ペール・フライ 出演:エッダ・マグナソン スペリル・グドナソン シェル・ベリィクヴィスト スウェーデンのジャズシンガー、モニカ・ゼタールンドの半生を描く。音楽映画に外れなしだなと思う。「働く母親」という隠れテーマも。 『幸せのありか』 監督:マチェイ・ピェプシツァ 出演:ダヴィド・オグロドニク カミル・トカチ アルカディウシュ・ヤクビク 80年代のポーランドを舞台に重度の障がいを抱えた少年の人生を描く。これが、ベン・マイケルセンの『ピーティ』のポーランド版といってもいいような作品! 『トラッシュ! この街が輝く日まで』 監督:スティーヴン・ダルドリー 出演:ルーニー・マーラ マーティン・シーン ヴァグネル・モーラ 児童書『トラッシュ』(アンディ・ムリガン)の映画化。現実のブラジルを舞台にしたわりにはちょっとおとぎ話ふうな感はあるけど(原作は、場所は特定されていない)、主演の少年たちはよかった。役柄と同じく、スラム出身とのこと。 『ビッグ・アイズ』 監督:ティム・バートン 出演:エイミー・アダムス クリストフ・ヴァルツ クリステン・リッター 夫のゴーストペインターをしていたマーガレット・キーンの実話をもとにした作品。一言。ティム・バートンぽくないです! 『女神は二度微笑む』 監督:スジョイ・ゴーシュ 出演:ヴィディヤー・バラン パラムブラト・チャテルジー ナワーズッディーン・シッディーキー 今熱い(!?)インド映画。この映画はややハリウッドふうサスペンスになっていて、インド映画のはじけた感がない気はしたけれど、インドの(きれいでない)街並みの映像が印象的。若いひとには、欧米以外の作品も勧めたい。 『きっと、星のせいじゃない。』 監督:ジョシュ・ブーン 出演:シャイリーン・ウッドリー アンセル・エルゴート ナット・ウルフ 全米で驚異の快進撃をつづけるYA『さよならを待つ二人のために』の映画化作品。難病ものだけど、泣ける作品ではない! けど、泣いてしまいます。原作でもくせ者の作家ヴァン・ホーテンをウィレム・デフォーが演じていて必見。 あとは、"児童文学評論"からは、ずれてしまうけれど、ベストセラー小説『ゴーン・ガール』の映画化作品『ゴーン・ガール』(イヤミスっぽいストーリーが苦手なわたしですが、さすがデヴィット・フィンチャー監督)や、セドリック・クラピッシュの『ニューヨークの巴里夫(パリジャン)』(最高! 前二作を観ていなくても楽しめます!)が印象的だった。 最後に【宣伝】。わたしも未見なのですが、ミュージカル『アニー』の映画版『ANNIE アニー』も公開されています。主演はクヮヴェンジャネ・ウォレス。つまり、初の有色人種のアニー。原作『アニー』(トーマス・ミーハン あすなろ書房)もよろしくお願いします。(三辺 律子) 以下ひこです。 『ボクはじっとできない』(バーバラ・エシャム:文 マイク&カール・ゴードン:絵 品川裕香:訳 岩崎書店) 授業中、色んなコトを考えたり、思いついたりしてしまって、じっとしていられないディヴィッド。先生と両親が困っているので彼は、その解決法を自分で考えます。 ADHDの子どもと授業。ここで生じる状況にその子自身がどう対応するかという発想がいいですね。 『ぼくはまいごじゃない』(板橋雅弘:作 シゲリカツヒコ:絵 岩崎書店) お兄ちゃんたちと新しくできたショッピングもールへでかけた「ぼく」。トイレから出てくるとお兄ちゃんたちがいない。実はお兄ちゃんたちのいたずらなんですが、「ぼく」は探しに出かけます。迷子になったらしいお兄ちゃんたちを! ショッピングモールというジャングルで、「ぼく」とお兄ちゃんたちの探しあいが始まります。 『のりもの日本一周』(小鹿野実 ポプラ社) 全国の鉄道とその列車を詳しく紹介。車体とそれが走っている路線の地図が一緒に掲載されていますので、単に車体や列車へと興味が向くのではなく、面としての世界を把握し、喜びが膨らみます。 『しもばしら』(細島雅代:写真 伊地知英信:文 岩崎書店) 「ちしきのポケット」シリーズです。 しもばしらっていうと、割と単純な一つのイメージしかなかったのですが、この写真絵本のおかげで、しもばしらへの知識というか、頭の中のフォトグラフが豊かになりました。 デザートみたいにおいしそうなのから、本当に冷たそうなのから、生命力を感じてしまう姿まで、細島さん、すてきな写真をありがとうございました。 『どこにいるかわかるかな?』(ブリッタ・テッケントラップ:作 木坂涼:訳 ポプラ社) たくさんの同じ動物図形のなかから違うものをみつける趣向。言葉のリズムも楽しめます。 細かな差違による探しもあるのですが、まったく違う生き物が置いてある場合もあり、実はこれが案外見つけにくくておもしろいです。 動物に表情をつけた一瞬の絵がかわいい。 『女の子のための人生のルール188』(イザベル・バサス&イザベラ・ソードセン:作 灰島かり:訳 木下綾乃:絵 ポプラ社) 八歳と十歳の女の子が生きていくためのルールをノートに書きためていました。ところがそれをなくしてしまいます。拾った人が、よほど大切なノートだと思ってネットで持ち主を探したことから話題になったものを書籍化です。 この二人がそうなのか、子ども一般がそうなのかはわかりませんが、人との付き合いや、自分日々をコントロールする言葉がたくさん出てきます。 言えるのは、彼らだって心地よい時間を過ごしたい。トラブルはできるだけ起こしたくないということ。 私たちが思っている以上に子どもはまじめなのか? と色々考えてみるのも楽しいです。 『おとなになるためのベストアンサー71のQ&A みんなこうなるの?』(ヤン・フォン・ホレーベン:写真 アンチェ・ヘルムス:文 北村邦夫:監修 畑澤裕子:訳 講談社) 成長。愛。セックス。急激の変わっていく体とそれに追いつけない心。 この本は、大人の都合の偏見を交えず、写真も使ってわかりやすく情報を伝えています。性交もあるけど、キスにも言及している所なんかがいいですね。セックス中心じゃないではなく、心地よい生活のための情報本です。 *** 「青春ブックリスト」(読売新聞) 2013年度4〜6月 四月 人間が他の動物と大きく違うのは、生きていくために必要な食料や住居や衣服を大人が自らの手で新たに作り出していることです。大人は、未来の大人を確保するために子どもの面倒を見ます。どの大人がどの子どもの世話をするのか? その件に関して人間は、他の動物と同じように実の親子がほとんどです。子育て以外のほぼすべてを人工的に作り上げ運営している人間であることを考えれば、これは奇妙な現象ですが、その関係なら、互いに愛情を抱き、子どもの安全を保証できる可能性が一番高いからです。 しかし、それはあくまで可能性の問題で、血縁関係にある親が、子どもにとってベストな保護者であるとは限りません。もしあなたが、色々不満を抱えていながらも、さしたる問題もなく実親を暮らして行けているのなら、それはついているのです。 『いつも いつまでも いっしょに! ポレケのしゃかりき思春期』(フース・コイヤー:作 野坂悦子:訳 福音館書店)に出てくる少女ポレケには、母親と別れた父親がいます。彼女は父親を大好きなのですが、この人は詩人に憧れながらも詩を一度も書いたことがない夢想家で、子どもの世話をする能力など全くありません。しかも、別の女性たちとの間にも子どもたちがいて、マリファナを取引した歌がいて捕まり、釈放後に旅へ出てしまいます。 母親は、学校の担任に先生とつきあい始めます。先生はポレケに家から学校へ出勤。近所や学校で、うわさになってしまいます。 それでも二人は実の親。そんな人物たちと、とどう付き合っていけばいいの? 『ミンのあたらしい名前』(ジーン・リトル:作 田中奈津子:訳 講談社)のミンは捨て子で、里親から施設に返されてしまいます。事の始終を見ていたのは自らも孤児であったジェス。彼女はミンを里子として連れ帰ります。何度も里子に出され、いらないと返されてきたミンは不信感と恐れから、本心を出さずいつも大人の顔色をうかがっています。実の親の育てられた経験のない二人が手探りしながら、本物の親子になっていく姿を描きます。 実の親だから、実の子だから、何もしなくてもわかり合えているというのは誤解です。信頼関係を気づいて行くにはそれなりの努力が必要なのです。 五月 「昨年末、部活動中の体罰を背景とした高校生の自殺事案が発生」(二〇一三年三月三一日付け文部科学省通知文より)しました。 体罰は是か非か? どこまでなら許されるのか? といった議論は百%成立しないと私は思います。なぜなら、そんな線引きは誰にもできないからです。そして体罰は、被害者にはかかわりなく、それをしてしまう側の「私はなぜ暴力を振るってしまうのか?」という問題です。 私たちは毎日、言葉や仕草を使って他者に何かを伝えていますが、暴力も時には有効だと考えている人たちが存在します。彼らの多くは過去に自分も同じような暴力を受け、そのおかげで成果が上がったと信じています。だから、幻想だと指摘されても納得はしません。今回のような事件が起こると、一時収まりますが、時が過ぎれば復活してしまいます。 問題の根本は体罰よりもっと奥深くにあります。それは、経験はごく個人的なものにもかかわらず、他の誰にでも適用できるはずだと思い込んでいることです。自分の経験は、他の人の経験や、客観的なデータや、歴史の中に置いてみないと、他の人にも適用できるかの判断はできないにもかかわらず。 経験だけを自分の価値基準の中心に添えてはいけないと学ぶこと。彼らが暴力を手放せるようになるための術はそこにあります。 『穴』(ルイス・サッカー:作 幸田敦子:訳 講談社文庫)は、矯正施設に送られたスタンリーが、ひたすら毎日、大きな穴を掘らされる話です。その本当の目的は徐々に明らかになっていきますが、何の意味も見いださせないまま、穴を掘らせることが罪を犯した子どもを立ち直らせる方法だとの嘘がまことしやかに通用している点にも注意を向けてみてください。ただ従順であればいいのですというメッセージ。これでは経験を客観的に見つめ直すことなどできないでしょう。 『パパと怒り鬼−話してごらん、だれかに−』(グロー・ダーレ:作 スヴァイン・ニーフース:絵 大島かおり 青木順子:訳 ひさかたチャイルド)は、家族への暴力を止められない父親の姿を子どもの側から描いています。 父親は、暴力は間違った行為だとよくわかっているのですが、精神的な病が原因で止められません。暴力は被害者だけではなく、それを振るう加害者をも傷つけることが痛々しく伝わってきます。 六月 体罰は是か非か? どこまでなら許されるのか? といった議論は、誰にも線引きができないので意味がありません。体罰は暴力の一種にすぎません。 人間は、家族、学校、会社といった組織の中で生きているのですが、暴力を使って人を従順にさせることは、組織をスムーズに動かせるすための有効な手段の一つだと信じている人たちがいます。しかし、この考えは二つの点で間違っています。支配によって維持される組織は、自ら積極的に行動しようとする人が育たないので、リーダーが消えれば瓦解しやすく脆弱です。そして、属する人々をおびえさせることはあっても、幸せや喜びをもたらさない点において、組織としては出来が悪い。 暴力を振るう人たちの中には、同じような組織において支配された経験を持っている人が少なからずいます。ならば反対の意見を持ちそうですが、残念ながらそう考えない人も生まれます。おびえと向き合えない彼らは、その経験は間違ってはいなかったと思い込むことで納得しようとするのです。そして、それを証明したいかのように同じ暴力で支配する側になってしまう。 暴力に恐怖やおびえを感じた自分の弱さを恥じることなく受け入れ、愛おしく抱きしめてあげること。彼らに必要なのはその一歩を踏み出す勇気です。 『穴』(ルイス・サッカー:作 幸田敦子:訳 講談社文庫)は、矯正施設に送られたスタンリーが、ひたすら毎日、大きな穴を掘らされる話です。その本当の目的は徐々に明らかになっていきますが、何の意味も見いださせないまま、穴を掘らせることが罪を犯した子どもを立ち直らせる方法だとの嘘がまことしやかに通用している点にも注意を向けてみてください。 『パパと怒り鬼−話してごらん、だれかに−』(グロー・ダーレ:作 スヴァイン・ニーフース:絵 大島かおり 青木順子:訳 ひさかたチャイルド)は、家族への暴力を止められない父親の姿を子どもの側から描いています。父親は、暴力は間違った行為だとよくわかっているのですが、どうしても止められません。暴力は被害者だけではなく、それを振るう加害者をも傷つけることが痛々しく伝わってきます。 |
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