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【児童文学評論】 No.205 http://www.hico.jp 1998/01/30創刊 以下、三辺律子。 先日、日本翻訳大賞第一回の授賞式があった。翻訳家・作家の西崎憲さんが旗振り役となり、金原瑞人さん・岸本佐知子さん・柴田元幸さん・松永美穂さんを審査員として創設。前年一年間で「もっとも賞賛したい」翻訳作品に贈られる、読者参加型の賞だ。資金はクラウド・ファンディングで集めたが、ほぼ一日で目標額を達成、多く集まりすぎたからと締切を前倒しにしたほど。 そして結果、 『カステラ』パク・ミンギュ/ヒョン・ジェフン、斎藤真理子訳(クレイン) 『エウロペアナ:二〇世紀史概説』パトリク・オウジェドニーク/阿部賢一、篠原琢訳(白水社) が受賞した。初の日本翻訳大賞は韓国文学とチェコ文学が射止めたわけだ。(詳しくは、https://besttranslationaward.wordpress.com/ をぜひ) 先日、作家の星野智幸さんが対談で「旅行のときは、どんなガイドブックより、その国の小説を読むのがいちばん」と言っていたが、こうしてさまざまな国の作品を味わえることこそ、真の「グローバル化」への道なのでは(敢えて、〈今うさん臭い言葉ナンバー2〉の言葉を使ってみました)。 というわけで、今回は共同通信の連載の再掲をお休みして、同じくあまり日本にはなじみがなかった現代チベット文学を。こども時代というものが人生においてどれだけ重みを持つか、ひしひしと感じさせてくれる。 『雪を待つ』ラシャムジャ ラシャムジャという耳慣れない名の著者は、チベット人。本書は、八〇年代にチベットの山村で少年時代を過ごした著者の自伝的要素を含む現代チベット文学である。 二部構成の前半では、冬は雪に覆われる半農半牧の村で過ごした「ぼく」の少年時代が描かれ、後半では、三十歳手前になり都会で暮らしている「ぼく」と幼なじみたちの現在が語られる。 文化大革命が終わった八〇年代前半、辺鄙な山村にもじわじわと変化の波が押しよせる。学校ができ、壊された僧院も復活、自転車やラジオ、そして電気が引かれると電灯やテレビがやってくる。 「ぼく」が賢い「策略家」と評する父は、そうした物をいち早く村に持ちこむ。初の交通手段である自転車を巡る騒動には、笑わずにはいられない。最後には誰も使えないように、天井から吊下げられてしまうのだから。 初めて電気が通った夜、母はわざと縫い針を床に落とし、子どもらに探させる。後に「ぼく」は「村に電気が引かれた意義と言っても、母にしてみれば夜に床に落ちた針を簡単に見つけ出せるという程度」と振りかえる。その程度の進歩とひきかえに、かつての暮らしは失われていく。 大人になって都会に出た「ぼく」は、昔とは比べものにならない便利な生活を手に入れている。だが、彼はひたすら、都会には降らない雪を待ちわびる。春の種まきに必要なものとして雪を待つ村と比べると、自分の気持ちなど「生活の心配のない者たちの戯れ言」だと自嘲しながら。 一粒のミルク飴を分け合って舐めた幼なじみたち(かつての「ぼく」の許嫁、化身ラマとなった少年、気のいい劣等生)も、それぞれ苦しみを抱えている。彼らの輝かしい子供時代を知る読者は、やるせない思いを禁じえ得ないが、一方で、そんな彼らをぎりぎりで支えているのも子供時代なのだ。そう思うと、きっと彼らは大丈夫というふしぎな確信がわいてくる。 なじみがないと思っていた場所や人々に近しさが宿る瞬間は、読書がもたらす幸福のひとつなのだ。 (三辺律子 2015/04/26産経新聞掲載) 〈一言映画評〉第四回 三辺 律子 児童書・YA世代を対象にしていると思われる映画や、そうした世代に見てほしい映画を中心に紹介します。 『セッション』 ジャズドラマーを目指す青年と名門音楽学校の鬼教師の交流(?)を描いた本作。血まみれの手でドラムを叩いて練習する青年・・・・・・一瞬、もしやただのスポコンか!?と思いかけたが、そうじゃなかった。なにしろ主人公の性格が悪い。そしてそれに輪をかけて教師の性格も悪い。ところが、そんな二人の性格悪王決戦を見ているうちに、なぜか、感動の波が押しよせるのだ。こんな終わり方のかっこいい映画はひさしぶり。 『追憶と、踊りながら』 昨今、映画の世界にもLGBTの登場人物が増えてきた。かつてのような"色物"でなく、主役だったり、ごく自然に存在する脇役として。 カンボジア系中国人の老女ジュンはロンドンの老人ホームで一人暮らし。彼女のもとを訪れるのは、かつて息子の恋人だった青年リチャードだ。この国の言葉(英語)にも、息子がゲイだという事実にも、すべてに背を向けるジュンを、なんとか幸せにしようとリチャードはあらゆる手を尽くすが・・・・・・。 『チャッピー』 あの『第9地区』のニール・ブロムカンプ監督最新作。前作の成功で、正統派超大作になっていたらどうしようという懸念も吹っ飛ばし、『第9地区』をさらにバージョンアップ。一方で、単にB級と呼ぶにはあまりに個性的なあの独特の精神はしっかり継承。学習機能を備えたAI(人工知能)を搭載したロボットと、その開発者、そしてなぜかストリートギャング(!)の三つどもえを描く。 日本版は残虐シーンをカットした"自粛版"で、物議を醸しているが、こどもといっしょにこの映画を見られるなら、子連れには「吉」かも。 *** 西村醇子の新・気まぐれ図書室(11) 今年の春休み中にあるカフェで仲間とともに数人の外国人の出身国あてゲームをした。このときフィンランド出身の人が、自国について私たちが何を知っているかと問うた。一同はなかなか適切なことが思い浮かばず、もっと知っていると思ったのにと、じれったがっていた。そんななかで私は「シラカバの枝とサウナ」を思い出し、なんとか面目を施すことができた。じつは子どものときに見たフィンランドを紹介する本のなかで読んだ覚えがあったのだ。自分とかけ離れた「お風呂」のありように、強い印象を受けたのかもしれない。 きょう最初に取り上げるのは偕成社から出ている「世界のともだち」という、継続中の写真絵本シリーズである。同社のパンフレットによると、30年前(1986~1989)に出版した「世界の子どもたち」(全36巻)の趣旨を踏まえ、さらに80周年記念企画として新たに国と写真家を選びなおし、3期にわけて制作するものだという。現在は第2期、つまり36巻中24巻まで出版されている。「フィンランド」の巻は2013年4月刊で、松岡一哲が写真と文を担当している。サウナは確かに「冬のくらし」の頁で取り上げられていた。でも私が覚えていたのはこの本の記述ではない。また年代が合わないから30年前のシリーズ中の1冊でもないだろう。というのも、子どもの頃は蔵書が少なくて、どの本も呆れるほど繰り返し見ていた。「シラカバの枝とサウナ」も、そうなかで刷り込まれたはずだ。 私の記憶がどこまで正しいかはさておき、子どもがこういう本で世界と出会うことは悪くない。このシリーズでは子どもの暮らしを「衣・食・住・移動」を軸として撮影し、その後で家庭・学校・地域というテーマで整理をおこなっているそうだ。各国の特徴を明らかにする一方、10歳前後の子どもの暮らしという共通項から、共感ないしは理解を深めてもらう狙いがあるのだろう。カラー写真はどれもきれいだし、情報がぎっしり詰め込まれた分冊百科だ。 日本の子どもたちは、これらのシリーズから何を読み、何を記憶に残すだろうか。素直に受け止め、ステレオタイプ化した偏見をもたないとよいのだが。 ヴォーンダ・ミショー・ネルソン著、R・グレゴリー・クリスティのイラスト、原田勝訳の『ハーレムの闘う本屋――ルイス・ミショーの生涯』(あすなろ書房、2015年2月)は本の置き場所としては伝記コーナーだろうか。1939年からニューヨークのハーレム街に黒人専門書店「ナショナル・メモリアル・アフリカン・ブックストア」を開いたミショーは、作者にとって大伯父にあたるという。このミショーの波乱に満ちた人生を、本人や関係者の言葉と文書、イラストレーションで構成したというと、ノン・フィクションのように受け取られるだろうが、実際にはフィクションとノンフィクションの混合というべきだろうか。 作者は、ミショーがおこなったインタビューの記事や録音などに加え、さまざまな資料にあたった。またミショー本人と面識があった人には聞き取り調査をおこない、さらに新聞報道やFBIの記録文書などを調べたうえで、実在の人物たちとフィクションの登場人物の証言で構成する形式にしたそうだ。そのため彼らの発言もまた、想像を加味したフィクションとなっている。 作者覚書の内容を見るまでは、こうした経緯はまったく知らなかった。複数の独白から真実を浮かび上がらせようとしている点は、カレン・ヘス作の『11の声』という作品に似ているなと思っていた。ご存じだろうが、ヘスは1920年代のアメリカ南部の町で起きた事件を描くために、複数の声に語らせる「多声」の手法をとった。一方『ハーレムの闘う本屋』は、ミショーのみならず、さまざまな人の声を用いて、ミショーの子ども時代から彼の亡くなった1976年までの長い年月を描いている。ルイスは働く親を尊敬する子どもだったが、黒人の置かれている立場に目覚めてからは、周囲を心配させる非行を重ねる。やがて故郷を離れてアブナイ商売や片方の目を失う経験をもする。その後はニューヨークで本屋を開くと、そこを活動拠点とし、黒人への啓蒙活動に残りの人生を費やした。なお訳注によると、原書ではさまざまな呼称が使われているが、彼らにとって好ましいとされる表現が時代によって異なることもあり、翻訳では基本的に「黒人」の訳語を使ったという。 原書のタイトルは直訳すると「ガラスの階段ではない」となり、成功の象徴といえる(室内用の)ガラスの階段に、「天国への階段」という表現を重ねあわせ、ミショーは恵まれない環境に生まれ、また天国への道をすんなり歩めるような(つまり善行をする)環境にはいなかったが・・・という苦労が多かった人生を表しているようだ。180頁もあり、読み応えのある本である。 ずしりと重たい本のあとは、出版直後に紹介しそびれた絵本を2冊、取り上げてみたい。 デビ・グリオリ作・絵、長友恵子訳『オオカミさん、いまなんじ?』(すずき出版、2014年11月)は、子どもの追いかけごっこのゲームを下敷きにしているそうで、ゲームのやり方の説明はカバーの袖に載っていた。 基本は子どもたちが「オオカミさん、いまなんじ?」と問いかけると、オオカミ役の子どもが「〇時」と答え、そのときその時間に適した食事の「なになにの時間」と返答すると相手を追いかけられる。答えた時間数に応じて歩数を進められ、最終的には両者が勝ち負けを争うという。ただし、このゲームを知らなくても、絵本を楽しむことはできる。ある日のオオカミの日常を、一時間ごとに「オオカミさん、今なんじ?」と問い、オオカミがそれに返事することで物語が展開している。画面からは彼らの楽しそうな様子が伝わってくる。 オオカミの当意即妙の返答を引き出す相手がクロツグミ、三びきのこぶた、あかずきん…となれば、ナースリーライムや昔話の登場人物の世界が描かれていると気づく。また、白を背景として、人物や事物がにぎやかに見開き面に登場しているが、細部には「あれ?」と思うようなものが描かれているので、じっくりみるのに向いている。 朝の7時に始まり、一時間ずつ進むことには「時計」とか「時間」に絵本を見る者の意識を向けさせる働きもある。そして夕方、家に帰りついたオオカミを待っていたのは、なんと…! 知りたかったら、絵本を手にとるしかないでしょ。 もう一冊は『トラさん、あばれる』ピーター・ブラウン作、青山南訳(光村教育図書、2014年8月)だ。出会ったときから、取り上げたいと思っていた。 日本語には四角四面の(つまり真面目で堅苦しいこと)という表現があるが、この物語中の社会がまさにそういう状態だった。ブラウンはそれを平面的で直線が多い造形表現を使って示し、まず登場人物たちの暮らす社会がいかに堅苦しく、薄っぺらいかを描く。 主人公のトラさんはある日それにうんざりし、暴れたりわめくといった逸脱行為を始める。そして文明の記号ともいえる衣服を脱ぐに至って、仲間に「森へ行け」と、街から追放されてしまう。トラさんはそれに応じ、森での暮らしを満喫するが、やがてともだちに会いたいし、街が恋しくなる。おそるおそる戻ってみたトラさんが見たのは、前とちょっとちがう、街の様子だった。 『オオカミさん』が、日常風景とその楽しさを描いていたのにたいし、同じように動物が登場していても、『トラさん』は社会批評を含んでいる。それでいて物語としての楽しさを失っていない。好きです、この絵本。 なお、前号の新・気まぐれ図書室(10で、『クララ先生、さようなら』の記述中で、主人公ユリウスに生後すぐに死んだ「兄」がいるとしたが、これは明らかに間違いで、正しくは「姉」だというご指摘をいただいた。その通りなので、ここにお詫びし、訂正したい。 (2015年4月) 以上、西村醇子。 *** 『ABC! 曙第二中学校放送部』(市川朔久子 講談社) ある出来事で運動部をやめたみさとは、放送部に入りますがそこはみさとも含めて三年生二人しか属しておらず、廃部寸前。やっと一年生が一人入部。でもまだ足りない。部としての存在意味を示さないといまないと昼の放送なんかも始めます。そんな折、みさとのクラスに転校生葉月が。とてもきれいな彼女は注目の的ですが孤高を守っています。近づきがたい葉月ですが。彼女は放送部のコンテストで入賞した実力の持ち主であり・・・。 廃部寸前の放送部。力を持ちながら何故か放送部員であったことを隠す美しい転校生。 そこから放送部復活のドラマを作ることはできますが、作者はそちらに力を注ぐのではなく、みさとと葉月が抱えたものを、二人が出会い交流していくことでどう解放していくかを、あわてず少しずつ描いていきます。 その先にある、幸せをどうぞ。 『向かい風に髪なびかせて』(河合二胡 講談社) 女子中学生四人の「かわいい」を巡る連作集。 付き合っている六輝にはそのままがいいよと言われても、やっぱり「かわいい」が気になる小春は、同じように「かわいい」を気にしている亜梨沙や夢見とグループに。そして、小春が飛び抜けて「かわいい」と思っている長谷川優貴とも友だちになるけれど・・・。 優貴はモデルをやっているけれど、そこは「かわいい」を競う場でもあります。そしてモデルであることが学校でも知られるようになり、すこしギクシャク。優貴は自分が「かわいい」ことを知っていますし、それを引き受けようとしてはいるのですが・・・。 「かわいい」に全く自信がなかった夢見はまひろおばさんのアドバイスによって「かわいい」になってはいくのですが、それは周りからあまり受け入れられていない「かわいい」であるようで・・・。 夢見の従姉妹の野乃は父親譲りのあごの持ち主。それを外科整形したいと願っているけれど・・・。 それぞれの事情を抱えた彼女たちの、おざなりには出来ない「かわいい」との葛藤や思索が綴られていきます。 『いくたの こえよみ』(堀田けい 理論社) 転校生のイクタ。彼女には人の心の声を読む、こえよみの能力があると知ったオガタは、教えてもらおうとする。と、イクタはオガタにこえよみを習得するための修行を課すのだった。果たしてこえよみは本当なのか? その能力を持つことは幸せなのか? といった謎で読ませながら、オガタはイクタを理解していく様を描きます。 『まいごになった ねこのタビー』(C・ロジャー・メイダー:作・絵 斉藤絵里子:訳 徳間書店) あばあちゃんがお引越し。残されたタビー。おばあちゃんがあわてて戻ってきたときはすでにタビーはおばあちゃんを探す旅に・・・。 色んな人が優しく声をかけてくれるし、飼ってもくれそうだけど、すぐに逃げてしまうタビーですが・・・。 スパーリアリズムで描かれたタビーが、変に可愛くなくて、リアルでいいぞ。 『おおかみと7ひきのこやぎ』(?一慶子 小学館) おなじみのグリム童話です。理屈がちな展開なので、一般的に描かれる絵はその物語をうまく説明しようとするものが多いのですが、この作品は場面の効果に注力しています。優しい声を出そうとするオオカミの顔、襲いかかる爪の長い手。舞台のように少し大ぶりな仕草がユーモアを誘いながら、ハラハラ感も醸し出します。 『おひめさまは ねむりたくないけれど』(メアリー・ルージュ:さく パメラ・ザガレンスキー:え 浜崎絵梨:やく そうえん社) ねむりたくない女の子のお話です。色んな動物が眠る所を想像しながら、眠りへと導かれる展開がとても自然。 なにより、絵がすばらしい。微睡む夜の静けさと、想像のドキドキ感、光の優しさが、画面から伝わってきます。 『絵本で学ぶイスラームの暮らし』(松原直美:文 佐竹美保:絵 あすなろ書房) イスラームの家族の日々を通して、イスラーム社会を知るための一冊。誤解や偏見をなくして違う文化と向き合う一歩です。 国や民族によって、その戒律を守る厳しさ度は違っているでしょうけれど、まずは基本を。 『はらぺことらたと ふしぎなクレヨン』(あまんきみこ:作 広瀬弦:絵 PHP研究所) チイおばあちゃんの飼い猫とらたはおなかが空いている。おばあちゃんがクレヨンでタイの絵を描くとパクリと食べちゃった。体は赤いタイのようになったとらたが逃げていく。 チイおばあちゃんが見つけたのは? 愉快なナンセンスで、最後はごちそうさま。 広瀬の画が、楽しそうに大胆ですよ。 『おおきな3びき ゆうえんちへいく』(クリス・ウォーメル:作・絵 小風さち:訳 徳間書店) クマとゾウとセイウチが遊園地に出かけようってことになったけれど、ゾウさんは帽子屋さんで品定め、疲れたからとカフェによる。セイウチさんは映画も見たいって言い出すし、クマさん、いつになったらゆうえんちにたどり着けるのかしら? 寄り道は楽しいね。 『事前学習に役立つ みんなの修学旅行 京都2』(山田邦和:監修 小峰書店) 京都だけではなく、今月、色々な修学旅行地のが出ます。「2」ですので、京都の人気振りがうかがえますね。 事前学習と銘打っているように、文学散歩や史跡巡りのための予備知識から、軽いランチの出来るお店も載っています。学食が出ているのが嬉しいですね。 修学旅行の最大の楽しみは友達を色々、企むことなんですが、だからどこに行こうがかまわないと言えばかまわないのですが、でもせっかく出かけたのだから、その地の文化に触れておいた方が、印象も深くなりますので、こうした本は役立つでしょう。 私個人的には、旅行ガイドブックも、これくらいの見せ方をしていただけたらいいかなと。 『はじめての手づくり科学あそび3』(塩見敬一:監修 西博志:著 こばようこ:イラスト・おもちゃ制作 アリス館) 速くも3の登場です。遊びながら科学する。科学は遊びだ。ということで、使い倒して欲しいシリーズですが、今作のテーマは「かぜ・くうき・みず」で、レベルが高くなって参りました。といっても、科学的発想の話で、おもちゃはちゃんと作れます。くうき動物園が好みだなあ。 『はなちゃんの はやあるき はやあるき』(宇部京子:さく 菅野博子:え 岩崎書店) はなちゃんが通っている保育園では、避難訓練を月に一度しています。はなちゃんは、避難の際のはやあるきがなかなかできなくて悩んでいました。練習、練習。 そして、あの震災が起こります。 岩手県にある野田村保育園が、毎月訓練をしていて、無事避難が出来たことにインスピレーションを得た作品です。 『あるひはるがきていました』(小渕もも アリス館) ふーこちゃんが目覚めたら、春、春、春。春の服を着て、お出かけ。池にも、木立にも地面にも、たくさんの春、春、春。 春がいっぱいの絵本です。 『原発事故で、生きものたちに何がおこったか。』(永幡嘉之:写真・文 岩崎書店) 自然写真家の永幡は、福島県阿武隈山地の昆虫分布を調べようとしていました。そこに起こった原発事故。永幡はそれから、事故により福島がどう変わったかを辿っていきます。人がいなくなり、田畑が使われなくなることで、バランスの崩れた植物、動物の生態。表土がはぎ取られることでの変化。 静かな語りと写真が、そこにある現実を示します。 『ネコのナペレオン・ファミリー』(木坂涼:文 はたこうしろう:絵 福音館) ナペレオン一家に三匹の子猫が誕生! ダルタニャン、ダルメシニャン、タルタルソースと名付けられた三匹の活躍(いたずら?)をご覧じろ。はたの絵が、やっぱりいい味です。 『日本列島、水をとったら? 海の底にも山がある!』(加藤茂、伊藤等 徳間書店) 海の水を取り除いた海底地形。うん。確かに魅力的。というか見慣れない風景が、ときめきを呼び起こす。 地震への関心から始まるのでしょうけれど、世界の地理的、地形的把握は、私たちの目先の日常にも案外関わっています。グーグルマップ、そしてGPSが身近になる前と後では、私たちの空間把握も、日常の捉え方も変わったでしょう。同じ事です。 このシリーズの場合は、科学的知見と解説があるので、知識として頭に入ってきます。 学校の受業、社会科で地理に人気がないのは残念なことです。 『木の実は旅する』(渡辺一夫:文 安池和也:絵 「たくさんのふしぎ」5月号) 風、鳥、動物。様々な方法で未知の場所へと旅する種たち。種が落ち、芽吹いていくドキドキを、そうした視点にすることで、新たに発見させてくれる作品です。見せ方のおもしろさ。 『おまめ』(蒲田暢子:さく 「こどものとも」年少版) お豆の一粒が、たくさんのお豆になるまでを、成長の喜びとして、ぐんぐん伸びていく楽しさとして、収穫のうれしさとして描きます。蒔いた尾豆が、世代を替えてまた戻ってくる感じが、また楽しい。 『子ども文化の現代史』(野上暁 大月書店) 35年前に上梓された『おもちゃと遊び』(現代書館)は、野上の仕事(小学館編集者)と子育てに裏打ちされた説得力のある子ども文化論でしたが、本作はその現代版で、今度は野上の子ども時代から戦後のサブカルチャーの流れが語られます。やはりここでも、自身が時々に思ったことと、起こっていたことが編み込まれ、生きた現代史となっています。 短いスパンではなく、長いスパン(「戦後」)で見る視線を、この本で手に入れておけば、今の子ども文化(だけじゃなく、この時代も)の風景もちょこっと変わって見える。この本のどこかに必ず、自分の子ども時代があるから、大人の振りをしないで、そこから考えられる。 この時代を冷静に眺めるためにも役に立ちます。 『リンドグレーンとサラ』(アストロッダ・リンドグレーン サラ・シュワルト 石井登志子:訳 岩波書店) すでに名声を得、祖母にもなっていたリンドグレーンは、数多くのファンレターを読み、返事も書いていましたが、その中の一人、53歳違いの13歳、サラの手紙に心動かされ、彼女との長い手紙のやりとりが始まります。これはその手紙をまとめています。 なぜリンドグレーンがサラに惹かれたのか? サラは彼女にとってどういう存在であったのか? サラに取ってリンドグレーンはどうなのか? 作家とファンという関係からいつか二人は友達になっていきます。 二人の魅力が詰まった一冊です。 |
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