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【児童文学評論】 No.208 http://www.hico.jp 1998/01/30創刊 === 三辺律子 すみません、今月はたいへんたいへんせっぱ詰まっているため、8月にお勧めの三冊だけ、挙げさせてください(先月「たいへんせっぱ詰まっている」と言い訳していたのはわたしです)。 わたしにしては珍しく海外文学ではないのですが、『世界の果てのこどもたち』(中脇初枝)、『波止場にて』(野中柊)、それから新刊ではないけれど『小さいおうち』(中島京子)。 三冊とも、太平洋戦争前〜後の時期を舞台にしているところが共通しています。 『世界の果てのこどもたち』は、開拓民として高知県から満洲にやってきた珠子、同じく満州から後に日本に渡ることになる朝鮮人の美子、横浜の裕福な家庭に生まれたものの戦災孤児となる茉莉、の三人の物語。子ども時代に三人が会ったのは一度きりですが、その出会いが、その後の三人の心の持ちように大きく影響することになります。 『波止場にて』も、少女時代に出会った異母姉妹の慧子と蒼の物語。舞台は同じく横浜で、二人の通うミッションスクールや、両親が愛するジャズミュージックなど、異国の風に吹かれていたヨコハマ文化が活写されます。が、その生活も戦争で様変わりすることになります。 『小さいおうち』は、東京の中流家庭の生活が、女中のタキの視点から描かれています。ここでも、「赤い三角屋根の小さいおうち」のモダンな生活が、戦争にこわされていくさまが描かれます。 三冊に共通しているのは、戦争になって、当たり前だったものが当たり前でなくなる過程を、市井の目から描いていること。そして、それは、なにか大きな境目があるわけではなく、「まさか、そこまでは」と思っているうちに、いつの間にか、非日常の状態に突入していること。そしてそれが、簡単に日常化してしまうこと。 今、この時期に読むのにふさわしい三冊だと思います。若い人たちに勧めたいです。 〈一言映画評〉第七回 三辺 律子 タイトルを"一言"映画評にしておいてよかったと思う今日この頃・・・・・・。 8月はさすが、面白い映画がたくさんあります! 『ベルファスト71』 アイルランド紛争制圧に派遣され、一人敵地に取り残されてしまったイギリス軍兵士の物語。複雑にからむ活動家たちの思惑に翻弄されながら、サバイバルを目指す。いわゆる先進国でも、一般市民を巻きこんだ戦争がいつでも起こりうることを再認識させられます。 『セバスチャン・サルガド 地球へのラブレター』 「ブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブ」のヴィム・ヴェンダース監督が、ブラジル出身の写真家セバスチャン・サルガドを追いかけるドキュメンタリ。 アフリカの紛争地域からガラパゴスの大自然まで。鑑賞後、思わずサルガドの(とっても高い)写真集まで買ってしまったわたしが、強くお勧めします! 『ふたつの名前を持つ少年』 ウーリー・オルレブ著『走れ、走って逃げろ』の映画化。 ナチスから逃れ、過酷な時代を生き抜いたユダヤ人少年の実話をもとにした物語。ややあらすじをなぞっている感はあるものの、ストーリー自体の持つ力でぐいぐい引き込まれます。 『夏をゆく人々』 イタリアトスカーナ地方の人里離れた土地を舞台に、養蜂園を営む一家の夏を描いています。愛情深いけれど、一家を支配し、養蜂という仕事に打ち込む父親に複雑な思いを抱く娘。そこへテレビ出演の話が舞い込み・・・・・・。結果的に家族の誰にも共感してしまう、ふしぎな魅力を湛えています。 『僕たちの家に帰ろう』 中国北西部の少数民族、ユグル族の幼い兄弟が、両親のもとへ帰る道中を描いた作品。兄弟のサバイバル能力に長けたたくましさと、最後の場面が胸を打ちます。 夏らしい大作も目白押し。『マッドマックス 怒りのデスロード』や『ジュラシック・ワールド』は、理屈抜きに楽しめる作品! === 西村醇子の新・気まぐれ図書室[(13) ――クールジャパンーー 2014年に出た本などをまとめてチェックする必要が生じ、久しぶりに書庫で絵本をひっくり返しては出版年で分けていた。と、まえに書きそびれた絵本が出てきた。今頃になって申し訳ないけれど、『よふかしにんじゃ』(バーバラ・ダ・コスタ文、エド・ヤング絵、長谷川義史訳、光村教育図書、2013年12月刊)を取り上げたい。 まず印象的なのが、黒を基調とした表紙画面。やや下よりに覆面からのぞく大きな黒目。そして表から裏表紙にかけては、濃淡を効かせた数本の竹とその尖った葉。満月が遠くの空にあり、夜の物語への期待を抱かせる。表見返しと裏見返しは、小さなシルエットが五段横並び、サーカスの芸人さながらに綱の上で十五通りのポーズをとっている。この横線に誘われて目を右方向へ向け、次のページをめくると、右画面が表題紙になっている。五本のロープは「よふかしにんじゃ」という文字につながり、綱から文字が下りてきたような印象を受ける。 つぎの頁からは、いよいよ物語。最初の見開きには「さて、まよなか で ござる」というセリフ。濃い紫が外側の太い枠となり、畳の縁を思わせる縁取りのなかに夜の闇が切りとられている。淡く浮かび上がっているのは屋根瓦の一部だろうか。 続く見開きでは文字ぬきで、この瓦めがけて、先端に鎖ガマ(?)がついた縄が飛んでいくところ。次いで、裏表紙では小さかった満月が、左画面からはみ出すほどの大きさとなり、その白をバックに黒覆面の忍者が綱を登っていくのがくっきりと見える 次の見開き頁からまたセリフが復活し、この忍者といっしょに、家のなかへと誘いこまれる。 左画面にふすま絵らしきものがある頁までくると、右画面に再びあの大きな黒目。クローズアップされる大きな手。次は? 最後までは書くべきではないだろうが、ネタばらしを覚悟で少しだけ補足を。忍者の狙うお宝は冷蔵庫の中にあったのだが、その寸前に阻まれる。 夜中に活動する忍者の物語は、夜更かしをしたがる子どもとその母親の攻防の物語でもあった。訳者による関西弁の台詞が、ユーモラスな雰囲気にあっている。全編コラージュを効かせた、この見事な絵本の作り手はふたりともアメリカ人。海外でニンジャや和風テイストが受容されていることが、この絵本からも伝わってくる。 * 和風テイストといえば、花形みつるの『しばしとどめん北斎羽衣』(理論社、2015年6月)は海外でも人気の葛飾北斎を描いた物語。ストーリーはかなり跳んでいる。 表紙絵は東京スカイツリーや東京タワー、東京ドームなどのミニチュアの立体模型の上を、携帯を手にしたミニスカートの女子高生が体重を感じさせずに歩いているところ。これを見て、物語は女子高生が主人公だろうと思いこんでいたが、実際は違う。観察力のある人なら、女子高生の顔が浮世絵風の細面になっているのに気づき、あれっと思ったはずだ。 ボク(林為一)は、ある事情から不登校中の中学生、15歳。古道具屋の祖父は優れた目利きだったが半年前に亡くなった。父親には書画骨董への愛情も鑑定眼もなく、商売は傾いている。ある晩、父親が待乳山聖天宮(まつちやま しょうてんぐう)で倒れていた老人を拾ってきた。薄汚い掻巻布団(かいまきぶとん)を身にまとった老人こそ、皆既月食のときに時空がゆがんだせいでタイムスリップしてきた、江戸時代の有名な絵師葛飾北斎だという。 父親は老人に絵を描いてもらい、もろもろの借金を返す腹積もりで、ボクに世話を押しつける。ボクは、父の妄想だと思った。江戸からきた数えで89歳の老人(中島鉄蔵)が、こんなにすんなり現代を受け入れるはずはないからだ。だが、調子を合わせるつもりで、鉄蔵に下町を案内したボクは、彼の描いた人物スケッチをみて、ただ者ではないと悟った。祖父から聞かされてきた北斎に関する話(たとえば住んでいた場所)や、インターネットで調べた情報と鉄蔵の話も符合する。鉄蔵というのは北斎の本名なのだ。 つぎの満月がくれば、鉄蔵は再び江戸へ帰ることができる。その前に、なんとしてでも売れる絵を描いてもらおうと父は、ボクに都内観光を続けさせる一方、モデル事務所に依頼して女性を派遣してもらうが、鉄蔵はすぐに追い返す。ボクも鉄蔵に興味をもち、あれこれ資料を調べる。そんな二人の思惑や興味をよそに、鉄蔵は自由に好き放題に暮らし、見学を続ける。でも浮世絵美人画はいっこうに描こうとしない。どうもある女性を探しているらしい。その女性とは? そしてボクの不登校の事情とは…? 為一が案内する東京の下町は、鉄蔵(北斎)が描いてきた江戸の世界とは大きく変貌していて、海の位置さえ同じではない。でも為一は、亡き祖父から聞かされていた昔の東京の話を手がかりにして再構築する。我々もまた、さまざまな情報を手がかりにして、鉄蔵の見てきた風景をほんの少したどることができる。 タイムスリップとは双方向である。鉄蔵が探していた「羽衣の天女」とは、現代から江戸にタイムスリップし、再び現代に帰ってきた女性らしい。それを確かめたとき、江戸の絵師である鉄蔵は自分の時代へと戻る。世話になった為一へのみやげは、空の高みを目指し飛翔する女の絵。為一にはこの天女の絵を売るなどできない。でも、鉄蔵の描いたたくさんの人物デッサン──現代版の北斎漫画――は(祖父の絵として)インターネットに投稿した。するとネットで評判となり、デッサンが利益をもたらしたおかげで為一と父とは借金を返済できた、という。羽衣天女と北斎とは一見ミスマッチに思える。花形みつるにはすっかり騙された! 和風つながりで、去年の本だが、まはら三桃の『風味さんじゅうまる』(講談社、2014年9月)を挙げておこう。(書名中の「さんじゅうまる」は記号なのだが、再現できません。) 福岡にある菓匠(かしょう)、「一斗餡」は大正時代から続く老舗。石炭産業で栄えた町の店として、かつては炭鉱労働者に喜ばれる菓子をつくってきた。 風味は中学2年生。三代目の祖父とは仲がよかった。家族それぞれに所縁の菓子があるなか、自分の名前をつけた菓子はまだない。作ってくれると言った祖父は、約束を果たさずに亡くなってしまった。四代目となった父和志は忙しすぎて、それどころではない。要領がよく、女性にもてる「ちゃら男」の兄北斗は。高校を卒業して現在は長崎の製菓専門学校に進んでいる。祖母カンミによると、天才的な味覚の持ち主だというし、つぎの当主になることが期待されている。 風味は和菓子が好きだが、それほど鋭敏な味覚はもっていない。だからこそアニメ好きの美術部員として、文化祭で看板を製作することを楽しみにしていた。ところが熱意がからまわりし、ほかの部員と衝突。その気まずさから部活動を休む。そのころ、長崎街道沿いの菓子店が創作和菓子を競うイベントへの誘いがあり、参加するかどうかで家族がもめる。長崎で修行しているはずの兄北斗の突然の帰宅、ぎっくり腰だと思われた祖母カンミが入院、手術…と、事件が続き、風味が悩んでいることには気づいてもらえない…。 やがて父が苦心した新作菓子は風味の名前をいれたものとなり、イベントは無事に終了する。風味もまた、家族に自分の気持ちをぶつけ、祖母の助言を受けて部員と仲直り。そして看板制作を仲間とおこなうことができた。 このあらすじから抜けているのは、物語の舞台となっている地域の人々との交流や、歴史的側面だ。祖母や、祖母を訪ねてきた老夫婦などとの交流が、地域の過去の痕跡が今もあることを教える。商店街の密な交流も含めて、決して悪くない物語だ。でも何かはぐらかされたような印象があったのは、風味が視点人物に徹していて、菓子製作まっしぐら…といった物語の王道をはずしていたからだろう。同じ作者の『伝説のエンドーくん』(小学館2014年4月)の印象があまりに強烈かつ素敵すぎたせいで、きちんと評価しそこなっているかもしれない。 * 最後に、子どもの声を描いた絵本「まって」を。アントワネット・ポーティス作、椎名かおる訳、あすなろ書房2015年7月。横長の絵本で左から右へと頁をくるたびに、時間を気にしている母親らしい女性に手を引かれている男の子が展開していく。犬を見ても、工事中の現場でも、公園でも、何度も立ち止まってほしいと懇願する子ども。そのたびに「だめ」とか「いそがないと」と急かされ続ける。どうやらバスの時刻に間に合わせたいらしい。でもいざバスに乗るときになって、子どもの「まって」に引きとめられた女性は子どもを抱きかかえたまま、雨上りの虹にいっしょに見とれる。子どもの声が、最後におとなに届いたことに、ほっとする。 今月はここまで。 (2015年7月) 以下、ひこです。 『子どもたちへ、今こそ伝える戦争 子どもの本の作家たち19人の真実』(講談社) 長新太、和歌山静子、那須正幹、長野ヒデ子、おぼまこと、立原ありか、田島征三、山下明生、いわむらかずお、三木卓、間所ひさこ、今江祥智、杉浦範茂、那須田稔、井上洋介、森山京、かこさとし、岡野薫子、田畑精一が書いた戦争の記憶。 それぞれを編み込むようにして、戦争の顔を描いてみること。 『君たちには話そう かくされた戦争の歴史』(いしいゆみ くもん出版)陸軍の秘密研究所、登別研究所「歴史は親から子へ伝わることは難しいけれど、祖父母から孫の代に伝えられていくものかもしれない」。「自分の考えや気持ちなんて、口にしてはいけなかった・それで、これはお国のためだ、自分の家族を守るためだといい聞かせ続けた。そして・・・・・・それがいつのまにか、いやでなくなってくるんだ」 *学研で出ていた『パール街の少年たち』を偕成社が復刊! ちょうど読み返そうと、古いのを引っ張り出していた矢先だっただけに、ものすごくうれしいです。こんなことってあるんだなあ。新訳ではありませんが、訳者の岩崎悦子さんが手を入れておられます。 『まって』(アントワネット・ポーティス:作 椎名かおる:訳 あすなろ書房) 母親はなにやら急ぎらしく、子どもの手を引っ張って足早。でも、子どもは、その低い視点から見える楽しそうなこと、犬、工事現場、蝶などが気になり、「まって」。でも親は気づきません。 ポーティスは一瞬の仕草をシンプルな輪郭線と、押さえた色合いを使って、見る者の心にしみ通るように描きますから、結構ほのぼのですが、大事なテーマを語っています。 親子連れを眺めていて、本当に残念な時が多いです。親はスマートフォンに夢中で、子どものサインに気づいていない。子どもが話しかけていてもスマホで言葉を打つのに夢中なんて風景です。カフェなどでは、子どもが話しかけるのをあきらめる姿もよく見かけます。なんてもったいないことをしているのかと思います。 この絵本には幸い、最後にほっとするオチがあります。 『ピーテル、はないちばへ』(広野多珂子 福音館書店) 花を売りに市場へ出かけたおとうさんが、おつりを持って行くのを忘れた! ピーテルはボートをこいで運河を進んでいくのですが、おつりを落としてしまって・・・。 運河沿いのオランダらしき街の風景に、様々な人の暮らしが描き出されていきます。異国のはずなのにとっても懐かしいのは、描かれている出来事たちが、日常という名のいとおしい欠片だからでしょう。 『はみがき あわこちゃん』(ザ・キャビンカンパニー:作・絵 すずき出版) 『だいおういかのいかたろう』が素敵に愉快だったコラボの新作。 朝、あわこちゃんが歯を磨いているとその泡が大きくなって町中にあふれ、家を飛び出したあわこちゃんの大活躍! そこからは、おもしろ発想の連鎖で楽しませてくれます。 濃いのに、ノスタルジックで軽やかな画がいいな。 『猫が好き』(アヌシュカ・ラヴィシャンカ:著 デュルガ・バイ他:絵 野坂悦子:訳 グラフィック社) インドの各部族出身アーティストによる猫の絵たち。それをシルクスクリーンで一枚ずつ印刷。 それだけでももうすてきに楽しいのに、この本は一冊ずつ手作業で製本され、シリアルナンバーも手書きで記されています。 手作り感一杯というよりも、人の手が感じられる暖かさを味わってください。 『いもうとガイドブック』(ポーラ・メトカーフ:文 スザンヌ・バートン:絵 福本友美子:訳 少年写真新聞社) 「いもうと」という生き物を知らない人のための、いもうと解説絵本です。 なるほどなあ。生まれた頃は食パンみたいにふわふわだけど、食パンよりギャーギャー五月蠅いのか。 いもうとは、自分よりちやほやされる存在なのか。 なんでもかんでも半分こにわけたがるのか。 と、色々わかって便利です。 絵が、とってもいい。 『アンナとわたりどり』(マクシーン・トロティ:文 イザベル・アルスノー:絵 浜崎絵梨:訳 西村書店) 季節労働者家族の一年を、末娘アンナの視点で描いていきます。「まえに はたらいていた ひとたちの けはいが のこっていて、まるで ゆうれいがいるみたい」といった、落ち着くことのない環境を過ごしているアンナはときどき自分のことを渡り鳥だと思い、時々ウサギだと思い、そうした想像力でしのいでいます。 だからといって暗い苦労話ではなく、鉛筆、水彩、クレヨン、色紙のコラージュが、アンナの前向きな心を表現しています。 『なんにもできなかった とり』(刀根里衣 NHK出版) 続々リリースされる刀根の、これがデビュー作。日本語版です。 一緒に生まれた鳥なのに、他の誰より劣る一羽。なんの役にも立たないと思っていたけれど、草花をその体で守り育むことなら出来る。 自分を納得させる話なので少し痛いですが、その発想の飛び方と、最初は頼りなさげな画がしだいに力強くなっていく様が見所。 『おおきな おおきな にんじん』(刀根里衣 小学館) 大きなにんじん一本。はてさてこれをどうしましょう? 飛行船やお家にと、楽しい想像が拡がって、最後はやっぱり食べなくちゃ。 刀根の画は「カワイイ」ではなく愛らしく、だからといっておもねるでなく自立していて心地いい。 各場面の色のバランスもすばらしい。 今作は絵本らしい枠組みの中でストーリーを展開していますが、もう少しはみ出せると思います。 『ウホウホあぶない ウホウホにげろ』(日隅一雄:原案 一色悦子:文 市居みか:絵 子ども未来社) 先生と一緒にモリに遊びに出かけた猿の園児たち。楽しい時間のはずなのに、ヒョウが襲ってきて先生が殺された。 大人たちは相談し、もう子どもたちを外へ遊びに出さないように決めるが・・・・・・。 子どもを育むとは、安全に閉じ込めることではなく、出来る限り自由に遊ばせることだと訴えます。 『だいすきなパパへ』(ジェシカ・バグリー:作 なかがわちひろ:訳あすなろ書房) 海辺の家。パパがいない母と息子。少年は船の模型を作り、海に流す。パパに届きますように。何隻も何隻も。どんどんりっぱな船を作れるようになっていく。きっとパパに届いている。 でも、少年は発見してしまいます。流した船は岸辺に戻ってきていて、息子が悲しまないように、母親がそっと回収して隠していたことを。 そこで、少年がしたことは? 心が寄り添う絵本です。 『このみち』(内田麟太郎:作 たかすかずみ:絵 岩崎書店) 夏、祖母の住む村までの「このみち」。 内田は、なんでもないような、ただそれだけの道を語っていきます。 ただそれだけの道なのに、それは他の誰の物でもない、少年と祖母を結ぶ大切な道。 少年とすれ違う人、車窓から見える人々、それぞれにもきっとそうした道があること。 ここには描かれてはいませんが、「このみち」を暴力的に遮断するのが戦争です。 『クラゲすいぞくかん』(村上龍男:写真 なかのひろみ:文 ほるぷ出版) 鶴岡市立加茂水族館は、クラゲに特化することで人気となりました。 この写真絵本は、そこで飼われているくらげたちを紹介しています。 恥ずかしいことにクラゲって、クラゲ科とかクラゲ目とかあるのだと思ってました。「みずのなかを ただよう 『ゼリーのような いきもの』をクラゲと よぶんじゃ」とのこと。 まあいいや。 クラゲって、やる気があるのかないのかよくわからないけど、きれいってところが好きです。 『あひる』(石川えりこ くもん出版) 家にはお父さんが作った鶏小屋があって、毎日卵を取る。 ある日そこにあひるがやってきた。ちょっと元気がないので私は、弟と一緒にあひるを川で遊ばせてあげる。きっと大丈夫。 これから毎日あひるを一緒に遊ばせようと弟と約束。でも、下校するとあひるはいない。母は死んだという。その日は久しぶりにの鍋。私も弟もそのお肉があひるかどうか心配だけど。 生きていくことと食べていくことがもっと身近だった時代。その風景の中に命のリアルさが宿っています。 石川えりこの視点は、いつもいいなあ。 『いそあそび しようよ!』(はたこうしろう 奥山英治 はるぷ出版) もう、タイトル通りの、そしてタイトルから期待されることを一杯描いた、海へ行きたくなる絵本。 磯にいる生き物観察は楽しいけれど、波に洗われた岩肌が滑りやすかったり、とがっていたりしますが(ちなみに、十七世紀頃までのヨーロッパでは浜辺を大洪水による神の爪痕として醜いものとして感じていました)、それへの対策もばっちりです。ってか、この絵本を作っている大人たちが楽しそうなのが伝わってくるのが気持ちいいです。 『つまさきさん、おやすみ!』(バーバラ・ボットナー:文 マギー・スミス:絵 ふしみみさお:訳 光村教育図書) 今日は海で一杯遊んだフィオナ。足が疲れちゃった。 ベッドでつま先から順に、お休みなさいを言いながら、海辺での楽しかった一日を一つ一つ思い出していきます。 疲れたつま先からゆっくり眠りについていくって感じ、わかるなあ。そこに幸せの時間を重ねていく。興奮からの心地よい弛緩を巧く表しています。 **** 「青春ブックリスト」(読売新聞) 2014年01月〜03月 01月「飼う」 大学生時代、住んでいた長屋に帰ってくると黒い縞模様の子猫がいました。玄関のガラスが割れたままだったので、そこから入ってきたようでした。飼い主が見つからず、結局猫は私の相棒になりました。残念ながら猫語は話せませんが、鳴き声のちょっとした変化で、猫の要求や気分はだいたいわかるようになりました。私の方は日本語で話し、猫は猫語で話すので、横から見ていると、ただの変な男ですが、ペットとコミュニケーションを取り合えていると思えるかどうか、たとえそれが幻想であっても、そう信じられるかどうかが、飼う上で一番大事なことなのだと思います。猫は二二年生きてくれました。今でも時々膝に猫が乗っかっているような気がしたり、その額を撫でたいと思ったりし、私は心の中で話しかけています。 『ネコの目からのぞいたら』。ダンテが補講をしてもらっている先生の家に子猫が生まれます。先生は子猫の目が開いた時、最初に瞳をあわせた人と心を通わせると言い、ダンテは信じます。その日を待ち望み、ついに瞳をあわせることができたダンテでしたが、先生が突然亡くなり、子猫は行方不明に。でも、目を閉じると子猫の目で周りを見ることができるのがわかります。子猫は見知らぬ少女に飼われるのですが、少女と子猫は誘拐されたみたいで・・・・・・。 『おいでフレック、ぼくのところに』。犬を飼いたいと願っているハル。しかし両親にはその気がなく、飼ってみればきっと飽きてしまうだろうと、それがレンタル犬だとは知らせずにハルに与えます。名前はフレック。ハルはフレックを大好きになるのですが、レンタル屋に戻されてしまいます。ハルとフレックの運命は? どちらもペットを飼いたいと願う気持ちにあふれた物語です。飼うというのは一つの命と生涯付き合うことを意味します。多くの場合は私たちの方が生き残り、彼らの死と向かい合わねばなりません。でも、彼らに触れた感触や、語りかけた時の楽しさの記憶が消えることはありませんから、飼いたくて、そして飼える人は、ぜひ飼ってください。彼らとの時間は、あなたの一生支えてくれますよ。 02月「理解」 人は、目で見て、耳で聞いて、鼻で嗅いで、口で話して、表情を交えた仕草をして、他者と情報を交換し合い、自分はどういう人間かを伝え、相手がどういう人間かを判断しています。ほとんどの人はそれらの機能を使えることから、そうしたコミュニケーションの方法が発達し、流通しているわけで、確かに便利です。が、これはその中の機能の一つでも旨く使えない場合、不便になる方法でもあります。 便利であることに無自覚であると、不便な人への想像力がなかなかはたらきません。はたらかなくても便利なまま過ごしていけますが、それは世界の半分しか知らないということです。 『わたしたち手で話します』。耳の聞こえないリーザは母親が家のドアを開けると外に必ず人が立っているのが不思議でたまりません。母親は魔法使いなのかな? 公園でリーザは転がってきたボールをどうしていいかわかりません。相手の子どもの言葉が聞こえないからです。彼女に手話で話しかけてくる少年がいました。トーマスです。彼の両親は耳が聞こえないので手話を覚えたのです。聞こえることと聞こえないこと、両方の側から描かれていますので、音が聞こえない人の世界がほんの少し理解できます。 『吃音のこと、わかってください』。吃音の人たちと、その親へのインタビューです。吃音を受け入れる人。隠そうと努力する人。隠す方が格好悪いと考える人。病気なのだと宣言した方が楽だと思う人。「ゆっくり話していい」と言われるのがいやな人。自分の育て方のせいではないかと悩んだ親御さん。同じ吃音でも、一人一人の考え方が違うのがよくわかります。それを知ることはとても大切だと私は思います。あなたの世界が広がります。 見る、聞く、話すなどに困難さを抱えている人と初めて接した時、あなたは戸惑うでしょう。ひょっとしたら戸惑った自分を差別者だと責めて、一生懸命さりげなさを装うとするかもしれません。でもそんな必要はないのです。戸惑ったら戸惑ったことを隠さない。正直にそうすれば相手はきっと、あなたをサポートしてくれます。だって、あなたは無自覚なままでも生きて来られたけれど、彼らは自覚して生きてきましたから、ベテランなのです。知らなかった世界を教えてもらいましょうよ。 03月「お家」 大人は子どもを保護します。きれい事のようですが、ほとんどの場合はそうです。これは、自然に生まれてくる愛情や本能のなせる術もありますが、子どもは社会全体で保護すべきだと考えられているからでもあります。そうした価値観が生まれてきたのは、そんなに昔のことではありません。たとえば法律をみると、イギリスでの児童法の制定が一九〇八年。日本での児童福祉法の制定が一九四七年です。 どんな時でも親や大人はすべて、子どもを保護してくれると考えるのは甘い。大人がそうした意識を持っていることと、法律での縛りによって、それは維持されているのです。 もしあなたが、親や社会に反発したくなるほど気持ちに余裕があるのなら大丈夫、あなたは保護されていますよ。 『浮いちゃってるよ、バーナビー!』。空気が読めなくて学校でみんなから浮いているのではなく、生まれつき体が浮いてしまう子どもの物語です。そんな息子を両親は恥ずかしがり、彼の真実が世間に知られてしまった後、耐えきれずに息子を捨てようと決心します。一緒に散歩に出かけた母親は、浮かないために彼が背負っていた砂袋にナイフで穴を開け、彼は浮かび上がり消えていく。それからバーナビーが家に戻るまでの長い旅が描かれます。 『あたしがおうちに帰る旅』の主人公は口がきけず、ペットショップで不法労働をさせられている少女。店の主人が少女につけた名前はイヌ。店主が少女をどんな風に扱っているかがよくわかりますね。ある日、店に届けられたオウムのカルロスは人間の言葉を上手に話すことが出来るので、店の人気者になりますが、少女を助けてペットショップを脱出します。友達のハナグマと共に、彼女は安住の地を探して旅をするのです。 これらの作品は児童遺棄や児童虐待という過酷な状況を背景に持っているのですが、浮いてしまう子どもとか、人間と話が出来るオウムが手助けするとか、ファンタジー仕立てになっているので、あまり深刻な気分にならずに、ハラハラドキドキ物語を楽しめなす。楽しみながら、そうした親や大人がいることも、ちょこっとだけ考えてください。 |
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