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【児童文学評論】 No.213
 http://www.hico.jp
   1998/01/30創刊

西村醇子の新・気まぐれ図書室(15)  ――棚からひとつかみ──

2015年が終わろうとしている。今回は、ラジオでパーソナリティもしているアーティストTさんの真似をして、「棚からひとつかみ」したい。もっとも、対象は楽曲ではなくて、絵本や物語の本だが。
 まずナサニエル・ベンチリー文、アーノルド・ローベル絵、こみやゆう訳の『かわうそオスカーのすべりだい』(好学社)から。発行は2015年5月と、少し前である。この本と出会ったのは、2015年に出版された絵本をチェックしていたとき。ローベルは絵本作家なので、これも絵本に違いないと思っていたら、64頁の絵物語だった。1966年に出版された原書も「一人で読める」シリーズの1冊になっている。すべるのが大好きなこのカワウソの話は楽しい。
ひとつの遊びに熱中するのは、子どもに限らず、カワウソも同じ。そして川のそばに暮らすオスカーは、天然の地形を利用したすべり台がお気にいり。平にした土手の坂を滑っては池に飛びこむ遊びをくり返していた。ところが冬に備えてオスカーたちのすべり台の先の地点に、ビーバーが木を倒して家を作るという。別の場所にすべり台を作ろうと考えたオスカーは、池から離れると危ないという父親の忠告も無視して、高い山のてっぺんから滑るコースを作ったのだが・・・。 
物語前半は、子どもをカワウソに置きかえただけに思える。でも後半ではナーサリーライムにでもありそうな、つながりが見られ、どきどきの展開となる。山を高くのぼりすぎて迷子になったオスカー。彼をこっそり狙っているのは腹ペコのキツネ。そのキツネを腹ペコのオオカミが狙い、さらにそのオオカミを腹ペコのピューマが狙う。そのピューマを、こっそり見ていたのがヘラジカ。でもヘラジカだけは、サーカスのパレードの一種かと勘違いする。
ヘラジカが鼻を鳴らすと、びっくりした動物たちはつぎつぎに反応する。キツネがオスカーに、オオカミがキツネに、ピューマがオオカミにとびかかる。オスカー、ピンチ! と固唾をのんでページをめくると、オスカーは機転をきかせてビーバーの助けを乞い、助かる。話に緩急があるうえ、木を扱うビーバーの技も効いていて、動物の世界を舞台にしただけのことはある。
上記の本のときと同様に、『ゆうかんな猫 ミランダ』(津森優子訳、岩波書店、2015年12月)でも、エドワード・アーディゾー二が絵を描いていることにまず注目した。物語は、円形競技場コロッセオが、過去の遺跡ではなく現役の場所だった古代ローマを舞台とし、人間の家族とはぐれた猫の母ミランダと娘の活躍を描く。サバイバルのためにがんばっていたら、いつのまにかそれが伝説となっていく。少し前のアメリカの子どもの日常を描いた『モファットきょうだい物語』のシリーズが有名なエレナー・エステスが、こんな話も書いていたというので、少し意外な気もした。1967年にアメリカで出版された作品が日本で今ごろ日の目をみたのは、アーディゾーニの絵の力も大きいだろう。彼の絵は、一目見ただけでわかるほど、クロスハッチングを駆使した絵のスタイルが確立している。この挿絵でもクロスハッチングによる猫のシルエットが効いている。 
誰にでもすぐにその人とわかるような絵のスタイルを確立するのはとても大変なことだと思う。私の場合は、手元にある2015年に出た絵本のなかで『やぎのしずかの しんみりしたいちにち』(偕成社、2015年5月)と、『オオカミのはつこい』(文きむらゆういち、偕成社、2015年11月)の2冊は、すぐに田島征三だとわかった。どちらの絵本もシリーズの一冊で、それぞれストーリーにも工夫が凝らされているのだが、それでもなお、勢いのある筆で描かれた、輪郭線に特徴がある田島の画に目を奪われる。
自分の絵のスタイルという意味では、おそらくC・ロジャー・メイダー作『てっぺんねこ』(灰島かり訳、ほるぷ出版、2015年9月)も、それを作りあげつつあるだろう。前年出版の『まいごになったねこのタビー』(徳間書店)がデビュー作で、今回の絵本は2作目(だと思う)。表紙は一瞬、写真と錯覚させるようなリアルさで描かれたアップの猫の顔。「わたしを見て!」と訴えてくる。
物語は、新しい家で暮らすようになった猫の様子を、猫の気持ちと視点に寄り添って描く。見開きページを横3段に使ったページと、見開きいっぱいにストップモーションで一瞬を切りとったページとの変化のつけ方がうまい。こういうところは、アニメーション映画やマンガの手法に近いだろう。そして物語の4枚目の見開きと最後の見開きは、猫が屋根の上の煙突にのぼり、遠く──エッフェル塔がみえている──まで見渡す場面。同じ場所で同じポーズをとる猫の昼と夕方を描き、時間経過を示している。というより、落下してプライドを傷つけられ猫が、一日の終わりに穏やかな気持ちになっていることが伝わる。
猫の気持ちといえば、保坂和志作、小沢さかえ画の『チャーちゃん』(福音館、2015年10月)は、意外性に満ちた猫の話。いきなり、「ぼく、チャーちゃん」という自己紹介の見開きにつづき、次の見開きで「はっきり言って、いま死んでます。」とあるのだから。テーマをとりだせば、死の受容ということになるのだろうが、インパクトある保坂のことばに寄り添うのが、小沢の画。表紙を見たときに、草花の描き方に比べて白地にオレンジ色?のもようを背負った猫が妙にぼやけているのが気になったのだが、死後の話とわかって納得した。その後もチャーちゃんは白っぽさの度合いを変えながら、さまざまに画面内をおどっていく。こういう表現もあるのかと、目からうろこが落ちる思いだった。
絵本の後ろの小沢の経歴に、「挿絵を担当した作品に『岸辺のヤービ』(梨木果歩作、福音館)」という部分を見つけて、小躍りした。画家つながりに気づいたからだ。
『岸辺のヤービ』は2015年9月刊。「マッドガイド・ウォーター」と命名されたシリーズの1冊目になるそうで、大人の男性「わたし」が岸辺の小さな生きものを見かけ、交流をもつ。この小さな生きものは梨木のオリジナルで、環境の変化でじょじょに暮らしが困難になっているという。佐藤さとるの『誰も知らない小さな国』を――およびムーミン・シリーズも、かな──かすかにこだまさせるような不思議なテイストのファンタジー作品。そして、小沢の挿絵がこの世界を支えている。物語の表紙と扉絵以外は白黒のペン画の挿絵が使われているが、表紙で植物などの描き方に『チャーちゃん』に似たものを感じたのだが、不思議ではない…か。
ところで先ほど、その人らしい絵のスタイルという表現を使ったが、スタイルが確立すればそれでよいとならないのが、厄介な点だろう。今年の本から大きく逸れるが、最近、ケヴィン・ヘンクスへのレナード・マーカスのインタビューを読むために、ヘンクスの絵本を時系列でたどってみた。(表記をケビンとしている絵本もある。)
ヘンクスは、『せかいいちのあかちゃん』(小風さち訳、徳間書店1996、原1990)や『いつもいっしょ』(金原瑞人訳、あすなろ書房1994、原1993)、『おしゃまなリリーとおしゃれなバッグ』(いしいむつみ訳、BL出版1999、原1996)など、動物それも小さなネズミを主人公にした物語を多く出している。そんななかで異色だったのが、『まんまるおつきさまをおいかけて』(小池昌代訳、福音館2005、原2003)。太い輪郭線を使い、色は白黒だけ、背景も極端にそぎ落としていた。百八十度、画風を変えたこの作品のあとでまた色のある世界に戻ったのが、『はるまちくまさん』(いしいむつみ訳、BL出版2009、原2007)。冬眠して春夏秋冬の夢を見るクマを描いているが、見開きひとつずつが春夏秋冬の各季節を表し、字を含めて色分けされていた。その後、ヘンクスはネズミたちの物語も書いているが、いったん確立した画風に飽きたらず、おのれの領域を広げる実験をしていたことを知って、改めて感じ入った。
2015年刊の絵本に戻ろう。スティーブ・アントニー作『女王さまのぼうし』(せなあいこ訳、評論社2015年10月)は、諷刺と絵画的引用もあって、好みの一冊だった。表題紙につづく見開きは、建築図面のような(ただし横から見た建物図)バッキンガム宮殿。てっぺんにはユニオンジャック(国旗)があり、女王が現在この宮殿にいることがわかる。
女王は、アーガイル模様のセーターを着こんだ愛犬と外出するところ。だがそのとき、帽子が風に吹き飛ばされた。女王も犬も衛兵たちも、必死に後を追うのだが、帽子はどんどん飛んでいく。それを追って一行も走る、走る…。そうなると、ナンセンスな場面のオンパレードである。トラファルガー広場のライオンがあれほど大きいはずもないし、地下鉄のなかを飛ぶのは無理だし、おまけにお茶のセットをもった執事が一行にまじっているのは、なぜ?と、つっこみたくなる。
ロンドンのあちらこちらを回った一同が、傘につかまって空からゆっくり降りてくる場面は、画家のマグリットの絵を引用している。それだけでなく、2012年英国で開催されたオリンピックの開会式で、(女王に扮したスタントが実際の降下はおこなったそうだが)エリザベス女王がパラシュートで登場する演出がされていたことも思い出させるではないか! ちなみに原作が出たのは2014年。また、ケンジントン宮殿と乳母車の赤ちゃん(ロイヤルベイビー)を含め、女王一家のことを気軽に絵本にできるあたりは、日本とはだいぶちがうお国柄といえようか。
さて、地域によって多少の違いはあるだろうが、寒さはこれからが本番。そして、シェイクスピアがいうように、冬のお話は「こわいのがいい」。
大野隆介作『夜の神社の森のなか 妖会録』(ロクリン社、2015年10月)は、深い暗闇のもつ怖さを描く。サブタイトルの「妖会録」については、帯の──「妖」怪に出「会」ってしまった、記「録」の書──という説明で十分だろう。ふつうなら見返しのつぎは扉ページだが、この本では表見返しにはじまり、「少年たちは、神社で遊んでいた」という、物語の導入部分が見開きにして2頁分ある。そしてさっき遊んでいた子どもの一人、ケンジが約束に遅れたとあわてて走る場面が、扉の部分を兼ねた見開きになっている。
ケンジは大テングの団扇を持っているのでは?と聞かれて、つい、返しいくところだと返事する。すると提灯お化けが森のおくにいる大テングのところへ連れて行く。途中ではさまざまな妖怪が見守っているのを感じ、つくづく団扇を拾ったことを後悔したケンジ。大テングに団扇を返し、お礼がわりの花火ショーを楽しんだところまでは良かったが、ひとりで森の中を抜けて帰る途中、さらに怖い思いを味わう……。黒を基調としたモノトーンの画面のそこかしこに妖怪が潜んでいて、その得体の知れなさがいっそう恐怖心をあおる。なお最後の見開きは、登場した妖怪たちの説明ページになり、得体の知れなかった恐怖心の一部が、名前がわかることで、やわらげられている。
大野の絵本に描かれていた妖怪たちは、好奇心の度合いも人間との関わり方や危険度もさまざまだったが、そういう差異など問題にならない、「闇」の恐ろしさを強烈に見せつけているのが、サリー・ガードナー作、デイヴィッド・ロバーツ絵の『火打箱』(山田順子訳、東京創元社、2015年11月)である。絵本ではないが、作者ガードナーの希望で挿絵が入れられた結果、絵と文が緊密に物語を展開する一冊となった。ヤングアダルト向けのグラフィック・ノベルに近いかもしれない。とにかく、圧倒的な迫力をもつ一冊だ。
周知のように、ハンス・クリスチャン・アンデルセンは、すべてではないが、たびたび民話にインスピレーションを得ていた。彼の「火打ちばこ」もそうだった。サリー・ガードナーはアンデルセンのこの作品を下敷きにしてはいるが、そこに17世紀のヨーロッパの歴史にもとづく人間ドラマを盛り込み、たんなる再話をこえた独自の物語を展開している。
戦場に出現する死神も怖いが、呪いを武器とする魔女も、欲望に操られている人間も、みな恐ろしさに満ちている。挿絵は白黒のモノトーンを基調としているなかに血や目の色に赤が効果的に使われ、不気味さとおどろおどろしさを増している。決して心地よい話ではないのだが、夢とうつつを行き来するような不思議な物語に、先を読みたくなる力があることは確かだ。
取り上げようと思っていた本はまだ残っているが、そろそろ閉室の時間である。いつも献本をくださる関係者のみなさまに感謝しつつ…また来年。

***
以下、土居安子です。
◆ぼちぼち便り◆ *作品の結末まで書かれています。

 あけましておめでとうございます。本年もどうぞよろしくお願い申し上げます。

 読書会の課題本はいつもは読物作品ですが、12月は絵本を取り上げます。今回は、2月のイベント(お知らせをご覧ください)のプレもかねて、エミリー・グラヴェットの『オオカミ』(ゆづきかやこ/訳 小峰書店 2007年12月15日 WOLVES. 2005)と『もっかい』(福本友美子/訳 フレーベル館 2012年4月 AGAIN! 2011)を取り上げました。

 『オオカミ』は、ウサギが図書館で『オオカミ』という本を借りて歩きながら夢中で読んでいるうちに、本からオオカミが出てきて危機一髪。結末は二つ用意されていて、「やさしい読者のため」には、オオカミはベジタリアンでうさぎと親友としてずっと仲良く暮らしたという結末。二つ目の結末は次のページにあり、郵便受けの中の様子がコラージュで表現されていて、その中に、図書館からの返却督促状の入った封筒もあります。うさぎが食べられたのか、逃げたのかなど、解釈はいろいろできますが、しばらくうさぎが家に帰っていないということはわかります。

 『もっかい!』は、ドラゴンの子どもがお母さんに寝る前に絵本を読んでもらっているところから始まります。絵本の内容も画面に紹介され、ドラゴンの子どもがトロルを泣かせ、お姫様をパイにして食べてしまい、「あしたも もういっかい やるからな!」と宣言します。子どもは、母親に「もっかい!」読んで欲しいと言い、母親はドラゴンの子どもを少しずつ「よい子」にして読みます。そして、3度目には母親はほとんど寝ながら読み、子どもは「もっかい!」と叫び続け、火をはいて、ついに本の一部が燃えて穴があいてしまうという結末です。『オオカミ』の督促状同様、穴が実際に空いているしかけ絵本になっています。

読書会のメンバーからは、本の中に本があるという重層的な構造がおもしろい、『オオカミ』では、本から出てきたオオカミがどんどんクローズアップされていく様子に迫力がある。ベジタリアンの部分のちぎり絵の工夫が楽しい。緊張の頂点から結末に向かい、そこにまた、どんでん返しが用意されているのがおもしろい。『もっかい!』では、「おやすみなさい絵本」と言っても子どもを寝かせるのではなく、子どものエネルギーを噴出させるという描かれ方が楽しい。親子のやりとりがユーモラスで自分の経験を思い出す。字体やドラゴンの色が変化するところがおもしろい。など、絵の表現の工夫やストーリー展開に活発な意見が出ました。

 『オオカミ』を見た時、すぐに思い出したのは「赤ずきん」。森が出てきて、ウサギが読んでいるオオカミの描写には爪や目や口のことが出てきて、「なんて大きなおめめ」という語りを思い出します。そして、うさぎは白、オオカミは濃い灰色で描かれる中で、『オオカミ』という本の表紙が真っ赤で、その表紙が破れて血のように見える場面があります。入れ子型の物語構造や二つの結末だけでなく、「赤ずきん」や「オオカミ男」など、昔話や過去の文学作品との重なりが読み取れることで、重層的な物語世界を楽しむことができる点がこの作品のおもしろさの一つだと思いました。
 
『もっかい!』も、おかあさんが読んでいる本の世界、ドラゴンたちのいる世界、この本を読んでいる私たちの世界がリアルな「穴」でつながっているおもしろさがあると同時に、癇癪を起して火をふいて穴をあけてしまう子どもドラゴンの激しさにもリアリティを感じました。

 『オオカミ』も『もっかい!』も、動物やドラゴンになぞらえながら、人間の持つ暴力性や残酷さや恐怖感に目をそらさず、子どもに向けて率直かつユーモラスに描いている点が興味深いと思いました。

 グラヴェットさんは英国では10冊以上の絵本を出版されていて、多くが仕掛け絵本で美術的にも、また、ストーリー展開としてもユニークな作品です。自作について語る講演会が、大阪以外に東京、仙台でも行われる予定ですので、ぜひ、足をお運びください。

<大阪国際児童文学振興財団からのお知らせ>
● 国際講演会&ワークショップの参加者募集
講 師:エミリー・グラヴェット(イギリスの画家・絵本作家)
◇ 国際講演会
「イギリスの絵本作家 エミリー・グラヴェット−絵に生きる」
日 時:平成28年2月27日(土)午後1時〜4時
通 訳:松下宏子さん(関西大学ほか非常勤講師)
対 象:中学生以上
定 員:80名(申込先着順)
◇ ワークショップ
「イギリスの絵本作家 エミリー・グラヴェットさんと絵本をつくろう!」
日 時:平成28年2月28日(日)午後1時〜4時
対 象:小学生   通訳あり
定 員:30名(申込先着順)
○ 共通事項(国際講演会、ワークショップ)
会 場:大阪府立中央図書館 2階多目的室 (東大阪市荒本)
参加費:無 料
申込期間:平成28年1月6日(水)〜2月19日(金)必着
主 催:国立国会図書館 国際子ども図書館 /大阪府立中央図書館 /
    一般財団法人 大阪国際児童文学振興財団
協 賛:近鉄グループホールディングス株式会社/サントリーホールディングス株式会社/パナソニック株式会社/株式会社富士通システムズアプリケーション&サポート/ムサシ・アイ・テクノ株式会社
詳細は、大阪府立中央図書館のHP↓↓
http://www.library.pref.osaka.jp/site/jibunkan/event2015.html

●「日産童話と絵本のグランプリ」受賞作品が出版されました
当財団主催「第31回 日産 童話と絵本のグランプリ」(平成26年度実施)の
大賞2作品が、BL出版より出版されました。
『タンポポの金メダル』山本早苗/作 童話部門大賞作品
           青井芳美/絵(第3回絵本部門大賞受賞者)
『せかいのはての むこうがわ』たなかやすひろ/作・絵 絵本部門大賞作品
詳細、表紙写真はこちらからご覧ください。↓↓
http://www.iiclo.or.jp/07_com-con/02_nissan/index.html#31shuppan

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以下ひこです。

『戦火の三匹:ロンドン大脱出』(ミーガン・リクス:作 尾高薫:訳 徳間書店)。
戦時下ロンドンに残された犬二匹と猫一匹は疎開先の飼い主の元へと旅立ちます。
当時のイギリスでのペット事情もよくわかり興味深い。
ペットたちの視点で描く戦争児童文学です。

『ハルと歩いた』(西田俊也:作 徳間書店)
 一年前に東京から、父親の意向で今は亡き母親のふるさと奈良へと引っ越してきた陽太は、小学校を卒業した所。ホームレスから迷い犬の飼い主を探すようたのまれて受け取ったのはフレンチブルドッグ。
 こうして陽太と犬による探索が始まります。
 奈良になじんでいないこと。小学校と中学校の狭間にいること。そしてフレンチブルドッグは飼い主がいなく、陽太も彼女に名前を付けていないこと。何物にも染まっていない状態の一人と一匹の彷徨です。彼らは何を発見し、何を得ていくのか。
 YA成長小説ですが、メリハリの強いドラマを排除し、本当に毎日の散歩(彷徨)とその間のフレンチブルドッグの振る舞い、陽太の思考の流れが描かれていきますから、とても静かなのです。が、それだけに、日頃私たちが見逃してしまいそうなささやかな驚きが新鮮に響き、ああ、こんな風にして子どもは色んな事に気付いていくのだと実感できます。主人公と同じ世代の読者には、「あ、この気持ち、わかる、わかる」の世界でしょう。
また犬との散歩の楽しみや喜びを知っている人にはたまらない世界でしょうし、どちらかというと猫好きの私ですら、うらやましくなってきたのでした。
 犬というより、フレンチブルドッグの描写がもう秀逸で、読者の私もこのフレンチブルドッグの友達になれたような気分になれました。
 これから犬を飼うか迷っている人には、その背中を押してしまうかもしれない一冊ですよ。

『少年キム』(ラドヤード・キプリング:作 三辺律子:訳 岩波少年文庫 上下巻)
 一九世紀、インドに暮らす孤児キムが、イギリスとロシアの情報戦「大いなるゲーム」で活躍する冒険劇であり英国目線ですが、読んでいくとどうやらキプリングはそこにだけ興味を抱いているわけではなく、というかそこは物語の枠組みとして作っているだけで、描きたいのはインドの日常風景や匂いや、息遣いなんだろうと思えてきます。そしてキムという子どもの生き残り戦術。

『つくしちゃんとすぎなさん』(まはら三桃:作 陣崎草子:絵 講談社)
 小学二年生のつくしちゃんは、近所に一人で住んでいるおばあさんのすぎなさんと友達になります。
 穏やかな日常と、ちょっとした事件と。二人はどんどん仲良しになっていく。
 すぎなさんが、物知りで子どもを導くタイプでないので、本当に友達って感じで気持ちいいですよ。

『えほんからとびだしたオオカミ』(ティエリー・ロビレヒト:作 グレゴワール・マビール:絵 石津ちひろ:訳 岩崎書店)
 床に落ちた絵本からオオカミが飛びだしてしまう。心細いオオカミ。飼い猫も狙っているし。
 オオカミは色んな絵本に跳び込むのですが、相手にしてもらえません。
 というおもしろメタ絵本です。
 最後に跳び込んだ先では、赤いずきんの女の子がいて、さてオオカミ、どうする?

『かようびのドレス』(ボニ・アッシュバーン:文 ジュリア・デーノス:絵 小川糸:訳 ほるぷ出版)
 大好きなドレスは火曜日だけに着るのと決めている少女。でも、体は段々大きくなって行く。それでママは、ドレスをシャツにと作り替えてくれるの。やがてそれは靴下になります。
 『おじいちゃんのコート』(ジム・エイルズワース:文 バーバラ・マクリントック:絵 福本友美子:訳 ほるぷ出版)は、一つのコートで移民の歴史をたどりましたが、この絵本は、少女の歴史を描いていきます。デーノスの絵がはじけていて楽しいったら!

『おしゃれなクララとおばあちゃんのぼうし』(エイミー・デ・ラ・ヘイ:文 エミリー・サットン:絵 たかおゆうこ:訳 徳間書店)
 クララお気に入りの、羽根飾りがついたおばあちゃんの帽子を、おにいちゃんが壊してしまいました。
 博物館にでかけるとき、その帽子を持って行ったクララは、なんとそこで帽子を直してもらうお願いをします。
 おばあちゃんの帽子っていう個人的思い出と、博物館というみんなの思い出が出会う発想がいいなあ。
 サットンの絵は、隅々までいいぞ。

『ゆき』(きくちちき ほるぷ出版)
 雪、純白、綺麗、ピュア、新しい気持ち、リセット。なんて展開をきくちちきはもちろんしません。
 降り続く雪の合間から見える命たちの躍動を描きます。ドキドキ。暖かい。

『しろもちくんとまめもちくん』(庄司三智子 アリス館)
 しろもちくんとまめもちくんがさ、お買い物に行って、黒豆ときなこを買って帰るけど、その途中の坂でそれらを落として、自分たちも転げ落ちて、まあ、おもちなもんだから黒豆もきなこも草も体中についてしまって、さあ、大変。
 って、庄司さんって、よくこんな話を思いつけるなあ。うらやましい。
 もちろん、幸せな結末でめでたい、めでたい。

『とおいほしでも』(内田麟太郎:文 岡山伸也:絵 絵本塾出版)
 宇宙には双子の星がある。そこでもきっと地球と同じようなことが起こっている。
 絶滅していく生き物、自然破壊、戦争。
 私たちの周りで、側で、現実に起こっていることを、距離を置いた語りで逆に身近に感じさせてくれます。

『ありがとうエバせんせい』(ヒラリー・ロビンソン:文 マンディ・スタンレー:絵 きむらゆかり:訳 絵本塾出版)
 大好きな担任のエバ先生は病気でお休み。みんなは先生との楽しい思い出を語ります。
でも、エバ先生はなくなります。
子どもたちの心の回復を描きます。

『誰がネロとパトラッシュを殺すのか 日本人が知らないフランダースの犬』(アン・ヴァン・ディーンデレン ディディエ・ヴォルカールト:編著 塩崎香織:訳 岩波書店)
イギリス人が書いたフランダース。それをイギリス以上に受け入れた日本。結末をハッピーエンドにしたアメリカ。なぜかオランダとフランダースが混じってしまった受容。そして、何より、それらを知らなかったフランダースの人々。
この本は、自分たちが他の文化圏でどのようにイメージされ続けたかを、アメリカ映画と日本アニメに沿って語っていきます。
日本の価値観や感性がフランダースに上書きされ、そして観光の名の下、日本人向けのフランダースが脚色され、やがて廃れていく。
文化交流ではなく、奇妙な文化阻害。
フランダース人が日本のアニメをどう見たかだけでも興味深いでしょう。

『鳥』(オ・ジョンヒ:作 文茶影:訳 段々社)
 子どもの本ではありません。
 宇美、宇一の姉弟の母親は消え、父親もいなくなったので親戚をたらい回しにされる二人の姿から物語は始まります。視点は宇美。彼女は大人を信じてはいませんが、頼るしか生きてはいけません。ある日突然父親が現れ彼との生活が始まりますが、新しく迎えた母親の失踪により父親はまた消えてしまう。やがて宇一は腐ったものを食べて死んでしまうけれど、宇美は彼を寝かせたまま、幻影の中をさまよっていく。
 かなりキツイ永遠のテーマが極めて現代的様相で語られていきます。匂いや音や感触が体の中に入っていく感じ。
 宇美の視点で書かれていること、つまり子どもの視点が貫かれていることによって、この作品は成立するし、色んなことが見えてくる。それは子どもの本とも通底しますが、と同時に『鳥』は子どもの本ではないこと、その両面がとても大事。