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【児童文学評論】 No.214
 http://www.hico.jp
   1998/01/30創刊
*西村醇子の新・気まぐれ図書室(16)――古い・新しい── 

 数日前のこと。ふだん利用していない朝の時間帯に、ある駅からの始発電車に乗った。同じ駅から乗ったランドセルを背負った数名の小学生の一人が、座るとすぐに本を広げて読み始めた。隣でちら見しただけだが、那須正幹の<ズッコケ三人組>か、原ゆたかの<かいけつゾロリ>のシリーズ本のように思えた。その子は、仲間に干渉されるのもお構いなしに、本から目を離そうとしない。それを見ていて、スマホの画面ではなく「本に読みふける」「子ども」という情景を嬉しく感じ、また、このように子どもに支持され、読み継がれる本は幸せだと思った。
忘れられて欲しくない本は、世の中にたくさんあるが、子どもたちはそうした本にアクセスできているのだろうか。
関東地方のローカルな話となるのでほかの地域の方には申し訳ないが、この原稿を書いている時点で『児童読物作家 山中恒展』が東京都町田市にある「町田市民文学館ことばらんど」にて開催中だ。会期は2016年1月16日から3月21日まで、入館無料で、毎日10時から17時まで(休館日は3月21日以外の毎月曜と2月12日、3月10日)。
また会期中には講演会、映画、朗読会といった関連イベントも企画されている。
この市民文学館の売りのひとつは町田市ゆかりの文学者の展示をすることだそうで、たとえば2013年10月には町田市玉川学園に9年ほど居住していた赤川次郎展「三毛猫ホームズから愛をこめて」が開催された。この時期、同館ではランサムを改訳中(後述)の神宮輝夫が、同館で「幸福な冒険小説――アーサー・ランサム『ツバメ号とアマゾン号』シリーズの魅力」という連続講演会をおこなってもいた。
山中恒の場合は1964年から、1983年に藤沢市へ転居するまでの約20年、町田市に住み、『ぼくがぼくであること』(1969)や『あばれはっちゃく』(1977)ほか、多数の子どもの本を執筆したという。展示は作家・山中恒をつくったもの、つまり子どものときに読んだ本や学校関係の資料、影響をうけた人物録、原稿といったものを、年代順に並べている。なかには今となってはとても貴重な資料も含まれていたし、映画やドラマなどに映像化された作品についてはパネル展示になっていて、山中恒の全仕事を、多角的に示している。
山中はある時期から第二次世界大戦をめぐるノンフィクションの執筆に大きくシフトするのだが、流行を積極的に取り入れ、子どもに支持された諸作については新装版を出している。流行が変化すると、ちぐはぐさが生まれるからだが、それに応じた修正の一例が示されていたのが、『この船地獄行き』のパネル展示。たとえば賞品のテレビの価格を修正するだけではく、その前後の説明や会話内容をかなり書き換えていることが展示からわかり、興味を引かれた。
まったく異なる方法で過去の作品に命を吹き込むケースもある。前回の新・気まぐれ図書室(15)で扱いそびれた、有川浩(ありかわ・ひろ)作『だれもが知ってる小さな国』(講談社、2015年10月)がそれにあたる。佐藤さとる『だれも知らない小さな国』(1959)を踏まえていることは書名からもすぐに推測できるが、事実、『だれも知らない小さな国』(以下、『だれも知らない』と略す)があったからこそ、書かれた作品のようだ。
海外には、人気のある登場人物や確立した作品世界を、ほかの作者が継承する例はいくつもある。たとえばF・L・ボウム作「オズ」シリーズは、複数の作家がシリーズを書き継いでいる。ローラ・インガルス・ワイルダーの『大きな森の小さな家』シリーズには、翻訳権を継承したW・T・アンダースンによるローラの娘ローズの子ども時代を描く続編シリーズがある。さらにイギリスのケネス・グレアム作『たのしい川べ』には複数のスピンオフ作品があるが、なかでもウィリアム・ホーウッドによる『川べにこがらし』とその続編は、グレアムの登場人物を再登場させ、性格を含めて作風を継承している。
有川もまた、佐藤が『だれも知らない』で作りあげたコロボックル物語の世界を「間テクスト」し、継承している。
間テクストをざっくりいうと、先行テクスト(神話や昔話から、一般の作品まで幅広いものが含まれる)を、作者がさまざまな形で直接・間接的に作品(テクスト)に借用したり変形したりすること。(作者の意図とは関係なく、読者が相互のテクストの関連性を読み取ることも、間テクストである。)有川は、もちろんこれを意図的におこなっている。そして直接的には、作中で登場人物がたびたび『だれも知らない』に言及することで、先行テクストとの関連を示している。物語内では『だれも知らない』は、コロボックルや小人に関する情報源ないしは一種の教科書のような位置づけもされている。
さらに、物語の筋にも大枠での重ねあわせがある(1作目との比較に限定する)。
佐藤の『だれも知らない』のあらすじは、有川の作中でも、登場人物の口を借りて簡単に紹介されているので、その一部を引用する。
太平洋戦争が始まる前に生まれた子ども、小学校3年のせいたかさんは、とりもち探しがきっかけで、秘密基地のような小山をみつける。「せいたかさんはその小山で、さまざまな大切な人と出会う。村に伝わる小人の話を教えてくれた野菜売りのおばあさん。小山に迷い込んできた小さな女の子」そして、女の子の「赤い運動靴の中から手を振っていた、小指ほどしかない小さな人」(102ページより)。その後、コロボックルの気配を感じたり、目撃したりする。せいたかさんが小山で出会った女の子も、この小山を大切に思っていたとあとでわかるが、ふたりはこのときはそれ以上交流をもつことなく、成人する。電気技師として働きはじめたぼくは、小山を守るために、いつかは買い取らせてくれと持ち主に交渉する。幼稚園の先生となっていた女の子とも偶然、再会を果たす。コロボックルの住処であるこの小山に道路を通す計画があったが、ぼくたちは知恵をこらしてコロボックルと共闘し、危機を回避、ふたりはこれからもコロボックルの同志となることを約束する。
有川作品でも、小学生の子どもふたり、ヒコとヒメが、それぞれ「コロボックル」とニアミスし、その後彼らと関わりをもっていく。また、コロボックルの存在が暴かれそうになるという危機にたいし、協力して回避してもいる。
ただし、いくつかの違いもある。『だれも知らない』を読んでいると、背景の第二次世界大戦後の日本の状況、とくに物資が不足し、「ぼく」たちが空腹をかかえている様子が印象に残る。だが、ヒコ、ヒメというふたりの子どもが中心となって小人たちと出会う現代の『だれもが知っている小さな国』は、親が養蜂家という職業についているため、(転校にまつわる悩みはあっても)各地の植物をはじめ自然と密接にかかわるという設定になっている。そして作中では、はちみつやそれを利用した食べ物がいろいろ描かれているせいか、『だれも知らない』より、おいしそうで幸せなイメージを受ける。ふたりが途中で友だちになる「ミノル」さんといっしょに食べるおやつも、その幸福感を強めているだろう。ミノルさんは、あたりの山を全部持っている地主の家の人間で、年齢的にはおとなだが、「ふつうの人より、ゆっくりした時間を生きている人」(161ぺーじ)。そして、図鑑にのっている植物を探す散歩が趣味という人物。コロボックルにも、養蜂家たちにも守られてもいる。
小人とのかかわりの大半が、「ぼく」の成人後に起こる『だれも知らない』にたいして、ヒコとヒメは子どものまま、小人と関わり、物語がすすむ。そして、テレビ番組によってもたらされたコロボックル一族の危機は、彼らが守ってきたミノルさんによって、じょうずに回避されている。弱者にみえたものが、守られるだけではないという展開は有川がコロボックル物語につけ加えたものであり、素敵な継承の仕方だと思う。
翻訳にも賞味期限があることは、前に触れ…ていないか。翻訳者・研究者の神宮輝夫は、2006年には、20世紀の古典ともいうべきリチャード・アダムズの『ウォーターシップ・ダウンのウサギぎたち』の改訳新版の上下巻をだし、同作を生き返らせている(訳者あとがきによると、アダムズによる原書の変更も反映したという。)その後、『ツバメ号とアマゾン号上下』(2010年7月)以来、手がけていたアーサー・ランサムのランサム・サーガ全12巻24冊(!)の改訳文庫版が『シロクマ号となぞの鳥上・下』(2016年1月)をもって完結した。このシリーズで初めて岩波少年文庫入りを果たし、入手しやすく、かつ持ち運びが楽になったことも嬉しい限りだ。
最後に絵本を数点。
スティーブ・アントニー作・絵の『やだやだベティ』(平田明子訳、すずき出版、2016年1月)前号でとりあげた『女王さまのぼうし』と同じ作者の絵本だが、スタイルがあまりに異なるので、名前を見るまでは同一人物と思えなかったほどだ。表紙も、あざやかな黄色を背景として、ピンクのリボンをつけた黒っぽいゴリラの女の子の顔が、画面の半分以上を占めている。バナナを散らした見返しをあけると、なかは空腹のゴリラの女の子ベティが、バナナをめぐって起こす騒動となる。
ベティは、バナナをむけないといっては泣き、親切なオオハシがむいてやると、今度は自分でやりたかったといって泣く。さらにはバナナが折れて、泣く…というふうに展開する。このわがままぶりは、あっぱれ! 色の工夫で面白いのは、ベティが泣きわめく場所になると、見開きの地色が(ほかでは黄色や白が使われているのに)真っ赤になっていることだ。強烈な赤を背景に、ころげまわり、じだんだ踏むベティ。本当に泣き声が聞こえてきそうだ。
ちなみに作者や訳者の紹介のしかたもユーモラスで、ゴリラの着ぐるみ風の枠からそれぞれの顔がのぞいている。裏表紙をみると、6ステップのえかきうたが掲載されていて、おとなが子どもといっしょにベティを描けるようになっている。
ロバート・E・ウェルズさく『ホッキョクグマくん、だいじょうぶ?』(せなあいこ やく、評論社、2016年1月)は、うってかわって静かな知識絵本。「ふしぎだな?知らないことがいっぱい」というシリーズの1作目ということだが、本作には「北極の氷はなぜとける」という副題がついていて、地球温暖化について、北極の住民であるホッキョクグマを中心に、わかりやすい説明を試みている。基本的には横長の判型だが、2か所だけ、縦方向の見開きを使っている。1か所は、太陽のエネルギーが層になって地上に伝わることを示す。もう1か所は、世界中の車を3台ずつ積み上げてみせるもの。横組みの絵本を縦にすること自体は、物語の絵本でもときおり見られるが、この知識の絵本の場合はこの手法が生かされていると感じた。
なお、この作品は知識の絵本シリーズの1冊目で、カバーの袖をみると、この後もいろいろなテーマが用意されているらしい。個人的には気になったのは「ベッドのしたにはなにがある?」と「いつでもふたり」、それぞれ具体的に何を扱う本なのか、気をそそられた。
本日はここまで。 (2016年1月)

*以下、三辺律子です。

 最近、圧倒的に面白かったのは、『魔人の地』(カイ・マイヤー著、酒寄進一・遠山明子訳、東京創元社)と、『美について』(ゼイディー・スミス著、堀江里美訳 河出書房新社)。
 言わずと知れたファンタジーの名手カイ・マイヤーによる前者は、魔法のじゅうたんが登場する「千夜一夜風」ファンタジー。異世界の細部の描写にファンタジーの醍醐味を感じつつ、冷静な兄と情熱的な弟と謎めいたうつくしい少女の三角関係からも目が離せない。こちらはいずれ、別のところで紹介する予定。
 後者は、「ボストン近郊の大学都市で、価値観の異なる二つの家族が衝突しながら関係を深める。レンブラントやラップ音楽など、多様な要素が交錯する21世紀版「ハワーズ・エンド」。オレンジ賞受賞。」
この河出書房新社の宣伝文句を見て、買わずにいられない人はいない―――ってことはないだろうけれど、少なくともわたしはすぐに釣られました。そしてさっそく、某新聞に書評を書いたので、今月はそれをこの「児童文学評論」に転載しよう、と虫のいいことを考えていたら、なんと現時点でまだ掲載されていない! 楽をしようという目論見はあっさり崩れた。
先程「釣られた」と書いたけれど、著者ゼイディー・スミスに関して言えば、デビュー作の『ホワイト・ティース』からのファンなので、どちらにしろ買っていたと思う。著者を一躍スターダムに押し上げた『ホワイト・ティース』だが、現在は絶版とのこと。本当に惜しい。というわけで、今回は当時、産経新聞に書いた書評を紹介したいと思う(と、結局、楽をする……)。

『ホワイト・ティース』上・下 (ゼイディー・スミス著、小竹由美子訳、新潮社)
 ポストモダンのディケンズ、ラシュディばりの才能、二十一世紀のジョン・アーヴィング。デビュー作を発表するや否や、これだけの賛辞を贈られた弱冠二四歳の黒人女性作家スミスは、移民の多い地区として知られるロンドンのウィルズデンを舞台に、人種、性、宗教、階級、歴史など重いテーマを軽やかに描いてみせる。コミカルに、ファンタスティックに、そして驚くほど正確に。
 第二次世界大戦の「掃き溜め部隊」で知り合った、ことなかれ主義の優柔不断男アーチーと、ベンガル出身のプライド高きムスリムサマード。肌の色や信条の違いを超えて二人の間に芽生えた友情を軸に、二人の家族を五十年近くにわたって追った壮大なクロニクルだ。人種や信じるものもまるで違う雑多な人々の集まる大都市にのみこまれそうになりながら、アーチーは「みんながなんとなく仲良く一緒に」過ごすことだけを願い、サマードは西洋の退廃した文化からムスリムの伝統を守ろうと苦悩する。
 しかし、そのささやかな願いも叶わず、妻たちは夫に愛想をつかし、子どもたち(片やスラム原理主義者、片や無神論者にして西洋文明の賛美者!)も自分勝手に二世としての生き方を探りはじめている。移民である彼らは、なぜ自分はここにいるのだろう、という不安に常に苛まれている。自分のルーツに縛られ、過去から逃れることのできない彼らに、アーチーの娘アイリーが叫ぶ。「ここにいるなかで、ひいじいさんの足の長さを知ってるのは、サマードただ一人だわ。(そんなの)どうでもいいことだからよ」(セポイの乱の英雄のひいじいさんはサマードの誇りなのだ)ここには、過去から、今の自分を条件づけている時空から、自由になろうとする意志が感じられる。アイデンティティ喪失の危機とルーツの確認を描いてきたマイノリティー文学とは一線を画す、新しい希望と楽観を描いた作品だ。
                     (三辺律子)

〈一言映画評〉
 先月おやすみしてしまったので(すみません)、12月公開の作品もいくつか併せて紹介。〈公開順〉

『独裁者と小さな孫』
クーデターで転落した独裁者が幼い孫を連れ、国中を逃げ回る旅を描く。イラン映画(映画の舞台は、架空の国)。孫の目から見た独裁国家の現状が、胸と頭に迫る。大統領の独裁ぶりを示す冒頭のシーンなど巧みで、幅広い層を取り込む映画に仕上がっている。中学生くらいからお勧め(少々、衝撃的なシーンもありますが)。

『スター・ウォーズ フォースの覚醒』
 観てください。(エピソード4(初代スターウォーズ)からのファンより)

『ひつじ村の兄弟』
 アイスランドの辺境で暮らす羊飼いの兄弟グミーとキディーは40年間、口をきいていない。ところが、羊たちに疫病が流行って、殺処分することになり……。都会で暮らしているとなかなかわからない、人と地域と生活の糧(羊)の結びつきのあり方に圧倒される。一方で、コミカルなシーンもあり、バランスが絶妙。

『ストレイト・アウタ・コンプトン』
 今も音楽業界に影響を与え続けているヒップホップN.W.A.の結成、解散、その後を描く。治安の悪いことで有名なカリフォルニア州コンプトンで生まれ育った彼らは、街の現実をラップという形で表現していく。有名なF*** the Policeなどの曲がなぜできたか。アイス・キューブを演じるのは実の息子オシェア・ジャクソン・Jr.! アメリカでは『8miles』を超えた大ヒット。これも―――観てください!

『ディーン、君がいた瞬間(とき)』
 50年代、スターへの階段を駆け上がる直前のジェームズ・ディーンと、後に天才写真家と呼ばれるデニス・ストックの交流を描く。ファンでなくても知っているディーンの有名な写真(雨のタイムズスクエアをくわえ煙草で歩くディーン、床屋のディーンなどなど)の背景が描かれ、興味をそそる。ディーン役のデイン・デーハンに注目。

『消えた声が、その名を呼ぶ』
 1915年、オスマントルコで起きたアルメニア人大虐殺を描く。アルメニア人のナザレットは愛する妻と二人の娘と引き裂かれ、強制労働の末、殺されかけ、声を失う。行方不明になった家族を探し、地球を半周することになるが……。やや冗長に思える展開もあるが、そこまでしないと描けないという監督の強い思いを感じる。同じアキン監督の『そして、私たちは愛に帰る』もぜひ。

『フランス組曲』
1940年、ドイツの占領下に置かれつつあったフランスを舞台にしたベストセラー小説(こちらもぜひぜひぜひ)の映画化。小説世界を見事に映像化しただけでなく、この未完の名作に納得のできる結末を付けたところが素晴しい。主演二人もとてもよかった!

『愛しき人生のつくりかた』
 夫を亡くしたばかりの祖母マドレーヌと、妻に離婚を切り出された中年の息子ミシェル、小説家志望の孫ロマンのささやかな冒険と、平凡な日々に宿る幸福を描く。フランス映画とは思えない「ちょっといい話」の映画(偏見に満ちたフランス映画観←自分)。

『ニューヨーク 眺めのいい部屋売ります』
 こちらも「ちょっといい話」。ブルックリンの最上階の部屋に暮らす老夫妻は、エレベーターがないため思い出の詰まった家を売りに出すことにするが……。モーガン・フリーマンとダイアン・キートンという大物二人を配したわりには、こじんまりとした印象。黒人と白人の夫婦という設定や、途中挟まれるイスラム系の運転手のエピソードにもう少し突っこんでもよかった気もするが、敢えて抑えたところが大人の妙かも。

『ロイヤル・コンセルトヘボウ オーケストラがやって来る』
 世界三大オーケストラのひとつ、オランダのロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団のワールドツアーを追うドキュメンタリー。前半やや単調ながら、後半、南アフリカの黒人の少女や、ペテルスブルクの老人が捕虜時代の話をするころからぐっとひきこまれる。音楽映画に外れなし。


 最後に宣伝を。2月20日に銀座の教文館で、法政大学教授の金原瑞人さんと「もっと海外文学を!『BOOKMARK』を知っていますか」というイベントを行います。よろしくお願い致します。
(あと、1月末に、アメリカで話題のYA『エレナーとパーク』(レインボー・ローウェル著)も出ます。11月に出た『少年キム』(キプリング)と併せ、こちらもよろしくお願いします。以上、大宣伝でした。三辺律子)

以下土居安子です。
◆ぼちぼち便り◆ *作品の結末まで書かれています。

 今回の読書会の課題本は『カンボジアの大地に生きて』(The Clay Marble、ミンフォン・ホー/作 もりうちすみこ/訳 さ・え・ら書房 2014年5月15日)でした。カンボジアに住む12歳の少女ダラは、父をクメール・ルージュに虐殺され、集団労働から逃げてきた兄と母とともに、難民キャンプへ種もみを手に入れようと向かいます。そこで、13歳の少女ジャントゥと友だちになり、泥で作った魔法の玉をもらいます。ダラは家族と離れ離れになりますが、魔法の玉を信じて再会を果たします。ところが、兄は軍隊に夢中になっており、ダラは魔法の玉を握りしめて兄に故郷へ帰ろうと訴えます。
 
読書会のメンバーからは、カンボジアを舞台にした児童文学作品をほとんど読んだことがなかったのでそのこと自体に価値があるということ、シリアを含め難民が社会問題になっている今だからこそ、子どもに読んで欲しいということ、難民の状況などは、事実として知るだけでなく、このような作品でどのように感じるのかを体験できることが貴重であるというような意見が出されました。一方で、子ども向けとは言え、もう少し、社会的な背景があった方がよかったのではないかという意見や、ダラが視点人物になっているとは言え、兄の気持ちの変化(特に結末で、軍隊から抜けようと思ったところなど)はもう少し丁寧に描いて欲しいと思ったなどの意見もありました。

著者のミンフォン・ホーは、『夜明けのうた』(飯島明子/訳 佑学社 1990年5月)でデビューしたアメリカ在住の作家で、ミャンマーで生まれ、シンガポールとバンコックで育ちました。母語は中国語で、タイ語、英語が自由に話せ、1980年にカンボジアの難民キャンプで仕事をした経験があります。日本で読める難民のことが描かれた多くの作品は、ヨーロッパやアメリカの作家によるものが多く、時に彼らの価値観と難民が持つであろう価値観とのズレを感じてしまうことがあります。そういう意味で、例えば、ダラが家のリーダーである兄に対する時の気の使い方は、男女平等の視点からは不自然に感じるかもしれませんが、それが当たり前だと育った人にとっては自然と感じるのではないかと思われるなど、アジア的な価値観に親しんでいることが作品から読み取れるところがあり、興味深く感じました。とはいえ、ホー自身は、難民キャンプ出身の作家ではありません。経験しないと書けないということはないと思いつつ、登場人物の心の痛みが描き切れていないという物足りなさは、その辺りとつながるのかもしれないと思いました。

子どもたちが多様な社会や文化を理解するために、『カンボジアの大地に生きて』のような作品はとても意義深いと思います。特に、少女が自らの信念のために、家族や社会に立ち向かっていく勇気を持つというのは『夜明けのうた』と共通するテーマであり、日本の子どもにもつながるテーマだと思いました。

<大阪国際児童文学振興財団からのお知らせ>
●「日産 童話と絵本のグランプリ」受賞作品原画展
当財団主催「第31回 日産 童話と絵本のグランプリ」(平成26年度実施)の入賞作品の原画展を開催しています。3月上旬に予定しています第32回(平成27年度実施)グランプリの発表後は、新しい入賞作品の原画に展示替えします。
日 時:開催中〜3月27日(日)*ただし、国際児童文学館の開館日時
場 所:大阪府立中央図書館 国際児童文学館 (東大阪市荒本)
入場料:無料
http://www.iiclo.or.jp/07_com-con/02_nissan/index.html

*以下、ひこ・田中です。

『火打箱』(サリー・ガードナー:作 デイヴィッド・ロバーツ:絵 山田順子:訳 東京創元社)
 アンデルセン作品を元に、舞台を30年戦争時代に置き換え、焦点は戦争とテロと不振と不寛容が蔓延する現代に当てた新構築。
 村が焼かれ両親を殺され、少年時代にさらわれ兵士にされた青年は死の目前、不思議な出会いによって命を取り留める。しかも山のような金貨と、捨てても。捨ててもよみがえる火打箱を得る。と同時に、謀略で結婚を迫られている少女サファイアと出会い恋におちる。
 彼はサファイアを救い結ばれるのか? 火打箱が呼び出す三人の人狼は何物か?
 デイヴィッド・ロバーツの挿絵が物語に食らいつき、テキストと挿絵が溶け合い、私たちを離さない。

『3+6の夏 ひろしま、あの子はだあれ』(中澤晶子:作 ささめやゆき:絵 汐文社)
 三つのお話。絵画教室に通う子どもたちのスケッチブックに浮かび上がる子どもは誰?
 70年の時を超えて現代の子どもがあの日の子どもを探します。

『ようこそ、ペンション・アニモーへ』(光丘真理:作 岡本美子:絵 汐文社)
 両親がペンションを始めることになり、自然の中へと越してきた新菜。
 最初のお客さんの佐藤さんは、なんだか熊みたいな人。え、ひょっとして熊が人間に化けている?
 その後も、次々やってくるお客さんが何かの動物のようなそうでないようなという具合に、懐かしい子どもの物語の雰囲気を漂わせています。
 古くさいかというとそうでもなくて、さわやかなのは、「不思議」と寄り添う作者の姿勢故でしょう。

『だいすきなマロニエの木』(オーサ・メンデル=ハートヴィク:文 アネ・グスタフソン:絵 ひだにれいこ:訳 光村教育図書)
 「わたし」の部屋から見える、中庭のマロニエ。大好きだけど、なかなか芽が出ない。花なんか咲かない。わたしは毎日毎日待っているけど。他の木や花は育っていくのに。
 マロニエは古木すぎて、もう死んでしまったとされ、もし倒れたら危ないので切られることになる。
 それをなかなかうけいれられないわたしは、切るのを阻止しようと、木の上で眠ることにする。すると、マロニエの木が心に話しかけてくる。決して死なないのだと。種が命をつないでいくと。
 信頼に満ちた力強い絵本。

『むねがちくちく』(長谷川集平 童心社)
 次々とリリースの長谷川。
 ちょっとした誤解でけんかをしてしまった子ども。キツイ物言いの子と、ちょっとぼ〜っとした気弱な子なので、余計うまく近づけない。でも、ここは直球で素直に話すのが一番ね。

『ひつじの王さま』(オリヴィエ・タレック:作 あさのあつこ:訳 くもん出版)
 ある日風に吹かれてころがってきた青い王冠を拾う羊のルイ。王様になって気分上々。みんなを統率、支配し始めます。従順な羊たちが怖い。
 そこはまあ、ルイも羊ですから頭から王冠が飛んでいくと、普通の羊に戻ります。でも、その王冠を次に手に入れたのは?
 今の日本の寓話みたい。

『おもち!』(石津ちひろ:文 村上康成:絵 小峰書店)
 抜群のリズム感ある言葉。遊びが一杯なのに無駄がない絵。作家と画家のこんなにも上手い組み合わせは、絵本の醍醐味そのものですね。
 で、もう、なんと言えばいいのか、おもちなんですよ絵本が。何を言っているのか自分でもわかりませんが、おもちですよ。

『ねこだらけ』(あきびんご くもん出版)
 400匹の猫を描いてしまおうという、大挑戦です。種類だけでは足らないので、各国民族衣装を着せたり、日本にいる色んな毛並み猫を並べたりと、無理矢理感に満ちていて、あきさんらしい楽しさです。猫好きなら必ず、この子好き!という猫が見つかるでしょう。

『くれよんがおれたとき』(かさいまり:さく 北村裕花:え くもん出版)
 学校課題のお絵かきを家でゆうちゃんとしていたら、ゆうちゃんは白がたりなくなって私のクレヨンを使ったのだけど、力を入れすぎて折れてしまった。しかももう、ほとんど残っていない。
 なんとなく気持ちがぎくしゃく。ゆうちゃんが持ってきた代わりの白いクレヨンを受け取れない。
 そんなとき、ゆうちゃんが描いたにわとりの絵がクラス代表として選ばれる。ゆうちゃんは私のことを思って、だめって言うけど、言うけど、私は……。

『築地市場 絵でみる魚市場の一日』(モリナガ・ヨウ:作・絵 小峰書店)
 移転前の筑地の姿を遺す絵本です。
 積み荷が降ろされ、競りが始まり、仲卸の商売があり、それらを陰で支え出るお店があり。
 モリナガはそれを静かに描いていきます。まあ、市場内の運搬用の働く車たちのページでは私が興奮しましたけど。
 ここにあるのは多くの人が知っている日常とは少し違う、しかしこれもまた日常である大切な風景です。
 絵の隅々まで楽しめますよ。

『モンスターはぐハグ』(デヴィット・エズラ・シュタイン:作 中川ひろたか:絵 ポプラ社)
 赤い怪獣と青い怪獣が遊んでいます。といっても何しろ怪獣ですから、太陽を投げて木のバットで打ってと大変。それに仲がいいのか悪いのか、かなり競っています。でも、実はこの怪獣たちは……。それは読んでのお楽しみ。
 躍動感溢れる絵ですよ。

『ちょんまげとんだ』(中尾昌稔:作 広瀬克也:絵 くもん出版)
 相撲取りのちょんまげが飛んで行きます。で、ブルドーザーとかペンギンさんとか、困っている方の頭に乗ると、みんなパワー全開! ってお話しです。といっても誰も信じてくれそうもないですが、本当なんです。そんな絵本があるんです。

『まめまきバス』(藤本とよひこ すずき出版)
 おしゃべりバスとねずみたちのシリーズ四作目です。
 今回はまめまきってことですが、鬼は風邪鬼で、風邪を引くとどんどん合体して怪獣状態になり、次々と風邪をうつしまくっております。
そこでねずみたち、ちゃんと手を洗って、バスさんの力を借りて、怪獣に豆をぶつけると、合体していた風邪引きねずみたちがバラバラになり……。
まめまきと風邪予防。両方楽しい絵本です。

『ぞうさん、どこにいるの?』(バルー:作 柳田邦男:訳 光村教育図書)
 ぞうさんと、おうむさんと、へびさんを見つける絵本です。
 って言うと、またかいなとなるでしょうけれど、ページを繰るに従って、彼らが隠れている森が段々消えて行くという、自然保護物になっています。ってか、そうは思わず読み進めていくと、そこがじわ〜っと伝わってくる仕掛け。

『わたしのいえ』(カーソン・エリス:作 木坂涼:訳 偕成社)
 小さな家で暮らす人、船で、地下で、宇宙で。人間の家だけでなく、こびとの家も。
 家は様々。というか暮らし方は様々。
 日常の穏やかさの漂うカーソン・エリスの画からは、幸せや平和が伝わってきます。

*『今すぐ読みたい! 10代のためのYAブックガイド 150!』トークショー(金原瑞人+ひこ・田中)のお知らせ。
 3月18日19:00〜 丸善丸の内本店
 3月27日16:00〜 丸善&ジュンク堂梅田店