222

       
【児童文学評論】 No.222
 http://www.hico.jp
   1998/01/30創刊
西村醇子の新・気まぐれ図書室(21) ――絵があればこそ──

 昼と夜の物語を主題にした新・気まぐれ図書室(19)は、七夕の時期に書いたものだった。その後で『お月さまのこよみ絵本』(千葉望文、阿部伸二絵、理論社2016年8月)を見かけ、取り上げる時機を逸したなあ……と思ったが、よく考えれば(そんなに考えなくても)それは間違っている。月が重要な意味をもつのは七夕の時期だけのことではないし、中秋の名月(お月見!)ほか、古くから受けつがれてきたいくつもの行事とも関わっているのだから。
そもそも、正月という言葉自体、「一年のはじまりの基準となる最初の新月だから『正しい月』、『お正月』という」そうだ。また、七夕は立秋のころからそれ以降の秋のおまつりだった。それが新暦では梅雨のさなかになり、降雨の可能性が高まる。だから旧暦に従えば、天の川も見やすいのである。ではどうしたらいいのと思ったら、裏見返しに「旧暦で行事をたのしむカレンダー」があった。今年はもう、旧暦に基づいて七夕や十五夜を経験することはできないが、2017年に備えることはできる。ちなみにこのカレンダー表には、2016年から2026年までの主要行事とその日付が掲載されている。
絵本には子どもを意識したやさしいことばが使われているが、季節のずれと各行事の由来の説明などは、好奇心にあふれる子どもに対応しようとする、おとなにも役立つ本であろう。阿部伸二は淡い色調を多く使った絵で、季節や行事をわかりやすく表現している。「月は何時に出て何時にしずむんだろう」の見開きは、掛け軸を連想させる縦長の絵を4枚並べて四季を表していて、和の味わいが印象深い。 
 *
 夏休みに書いた先月号の図書室(20)では、クマを神として信仰する文化に触れた。このとき取りあげられなかったのが、『ひまなこなべ』(萱野茂文、どいかや絵、あすなろ書房、2016年8月)である。副題は「アイヌのむかしばなし」で、万物に魂が宿ると考え、「カムイ(神)」として信仰していたアイヌ先住民の話。書名を見たとき、判じ物(死語でしょうか?)のように謎めいていて、どこで区切ったらいいのかと迷った。この謎を解きたければ、絵本を広げるしかない。
前書きではアイヌの文化、命を敬うその思想が紹介されている。この物語を成立させているのは、肉や毛皮をもたらすクマに対してアイヌがお礼に心づくしのもてなしをすると、おもてなしをまた受けたくなったカムイが、アイヌの世界にクマとして戻ってくる、という考え方である。物語は、天からクマの姿でおりてきたあるカムイの視点で描かれているが、神ならではの自在さを示すところが面白い。
石狩川上流で、心と魂の美しい一人のアイヌのところでお客になろうと思ったわたし(カムイ)は、そのアイヌにわざとクマの姿をみせ、矢を射かけられる。気づいたときには体と頭は別々になり、魂が耳の間に座っている状態で、村まで運ばれていた。アイヌがわたしを山の神だと思って、お客として歓迎しようとしたのだ。家の中に招き入れられたわたしは、にぎやかな宴のもてなしを受けるが、そのとき、ひとりの若者がひときわじょうずな踊りを披露していることに目をとめる。この若者もまた神らしい。わたしは若者の正体を知りたいばかりに、何度もあのアイヌのもとで客となる。そしてそのたびに宴でもてなされるが、正体を突き止められないまま、みやげを背負っては神の国に帰っていた。あるとき。いっしょに踊って疲れてうとうとしたわたしは、目にしたもののおかげで、ようやくこの不思議な若者の正体を突きとめることができた……。
この絵本の文は、『アイヌの昔話 ひとつぶのサッチポロ』(平凡社)に収録された昔話のひとつが土台になっているそうだ。裏見返しには、小さな活字でもとになった昔話の名前も載っているが、それをここに書くと、先述の書名の謎が半分は推測できるので、やめておく。
アイヌの食事や道具など、生活全般を描いているのは、どいかや。アイヌの衣装では何種類もの刺繍の模様を描いている。そのほか、意匠化された模様がカムイの会話部分や一連の踊りの場面、あるいは文章と絵を隔てる縁取りなどに使われ、全体でアイヌの世界観を表現することに成功していると思う。
  *
ロアルド・ダール原案の『ダールのおいしい!?レストラン』(評論社2016年9月)は、クェンティン・ブレイクの挿絵を使った、ダールの物語本の派生商品(スピンオフ)である。(クェンティン・ブレイク[絵]、ジャン・ボールドウィン[写真]、ジョウジー・ファインソン、フェリシティー・ダール[編]、そのひかる[訳])。書名の「おいしい」の後ろに感嘆符と疑問符がついているので、ゲテモノ料理が登場するのかと思ったが、そうはなっていない。たぶん。
目次を兼ねた「お料理のリスト」をみると、「最初に出す料理」「メインコース」「ケーキとデザート」「のみもの」とあり、副題の「物語のお料理フルコース」に沿った構成だとわかる。最大の特徴は、ダールがみずから抜き出した作品に登場する食べ物を、フェリシティーが現実の食材で実際に作って楽しめるように、食材や作り方を述べていることだ。鍋やめん棒、クッキングシートのような一般的な用具ですむ場合もあるが、食べ物によってはメロン用くりぬき器やフードプロセッサーやオーヴンが必要となる。また全般に手間暇かけてつくるものが多い。そして、『チョコレート工場の秘密』に関係した食べ物が目立っている。表紙もそうだが、ブレイクの挿絵に出来上がりの写真を組み合わせていて、この本独自の「絵」ができあがっている。
この本で一番驚いたのは「烏のパイ」(『アッホ夫婦』より)の項目だった。用意するもののなかに「パイファネル」が挙げられている。これはパイの中心部に入れ、中の蒸気を逃がす煙突の役割を果たすものだというが、たぶん日本ではあまり一般的ではないだろう。説明文の「クロウタドリの形をしたものが好ましい」に至っては、お菓子を作る人でも、知らないかもしれない。気になってネットで検索すると、イギリスではマザーグースのひとつ、「6ペンスの唄」の影響でか、確かに「ブラックバード」型のものが存在していた。文化の違いまで味わえるとは、料理とはなんと奥が深いことか。

『あかいけいと』『あおいともだち』(偕成社、2016年10月)は、どちらも佐々木マキの絵本だ。
 最初に手にとったのは、『あかいけいと』。表紙は、女の子が赤い毛糸玉を両手で抱えているところで、女の子の身長に比べて毛糸玉の大きさが目立つ。この一本の毛糸に誘われて本を開けると、扉では同じ女の子が手ぶらで立ち、赤い毛糸の先を見つめている。この頁には書名と作者名が表示されているが、さらに「こんなところに あかい けいとが」という言葉がある。次頁からは女の子が毛糸を巻き取るにつれて、「ハートのかたち」「おはなのかたち」と変化する。
 一本の線で形を表す種類の物語といえば、クロケット・ジョンソンの『むらさきのクレヨン』を連想する。ジョンソンの絵本では、二次元と三次元の世界がいわば交錯する面白さに主眼があった。佐々木の場合は、線がつくりだす「形」を認識するようにと、促している。そんなことを考えながら、なおも毛糸をたどっていると、毛糸が示す形はつぎつぎに変化をつづける。「ぞう」がこんどは「おばけ」に化けたか、うん、楽しくなったぞ……と思うと、最後に種明かし(?)が待っていた。 
 つぎに『あおいともだち』を手にする。『あかいけいと』のように線と形という手を使うはずはない。なるほど、男の子が差出人不明の手紙を受け取り、差出人を探していく物語になっている。白いウサギや灰色のサイなど、次々と生き物に出会うたびに、その色を確認していくと、ついに青いともだちに出会う。結末はふたりが遊ぶところ。
 佐々木マキの絵本は楽しい。この2冊も、誰かと一緒に頁をめくりながら、感想を言い合ったらよいだろう。……と、ここまで書いてから気になったのが、「女の子と赤、男の子と青」、「女の子と編み物、男の子と外遊び」という組み合わせが、読み手にいつしか固定的な考えをもたらすのではないか、という懸念だった。もっと組み合わせを自由にしてほしかった。
 佐々木よりは対象年齢が少し上だと思われるのがフィリケえつこの『スコットくんとポワロくん』(あすなろ書房、2016年9月)という絵本。誕生日のお祝いパーティーに3つのものを持参してほしいと依頼されたスコットが、よくわからないまま、あれこれ探す過程が絵本の大半を占めている。品物の一つは、上から見ると丸、横から見ると長四角、それに毛のようなものが一本ついているという。もう一つは、上から見ると丸、横から見ると三角、パーティーのときにかぶると楽しいというヒントがある。(3つ目は省略。)
 スコットはこれらの謎を解き、品物を揃えなければならない。でも、「毛」を手がかりにして美容室へ行ったり、「かぶるもの」だからと帽子屋に行ったりしても、正解らしきものは見つからない。こんな調子でパーティーまでにお祝いの品が全部揃うのかしら……。
 この絵本は謎かけを含んだ筋も面白いが、各場面の色と形が魅力的だ。表紙は、小さな自動車に色が入っている以外は白地に黒で物や人を描いているので、全体として影絵のような印象を受ける。表紙中央の四角い広場空間の周りを占めるのは家や建物。その上方には、小さなヘリコプター1台と飛行船型の大きな乗り物が浮かんでいる。飛行船のなかに青字で書名と作者名が表示されている。目を凝らすと、上下が緑と赤の服を着ている小さな人影がみつかる。
表題紙は黒地で、青字の書名の下に、手紙を手にしている人物(?)。うーん、どう見ても骸骨っぽいと思っていると、次の見開きでその疑念が正しかったとわかる。青い浴槽で牛乳入りの風呂に入り、「わたしのなまえはスコット」と、骸骨が語っているからだ。ただし、それ以外の情報はない。また、スコットに手紙を出した、人間の言葉が上手ではない友だち(手紙には誤字や言葉の間違いがある)の正体についても謎のままだ。
 白黒を基調とした頁や、黒地にカラーを配した頁には、木々、帽子やロウソク、ケーキといったものが描かれている。たとえば木を表している大小の三角形は、少しずつ色の違う緑色で平面的に表現されていて、コラージュっぽい。美容室では、髪型の異なる頭部がずらり。丸や三角、四角といった形に注意を引く仕掛けだろう。そして、そこに色が加わることで、色のもつ味わいや色同士を対比させたときの面白さが引き立っている。私が一番惹かれたのは、ロウソクが並ぶお店の場面だ。このお洒落な絵本の作者は、フランスで活動しているイラストレーターとのこと。
 取り上げたい絵本はまだあるが、閉室時間が迫っているので最後に『ハルとカナ』(ひこ・田中作、ヨシタケシンスケ絵、講談社2016年8月)に触れておく。挿絵と改行は多いが、絵本ではなく、141頁の物語本である。
 小学2年生の同じクラスの小学生のハルとカナが、交代で視点人物となっており、ふたりの日常が切り取られている。この形式の面白いところは、似たようなフレーズを使いながら、男女差の有無や子どもの感じる疑問、彼らのもつ個性と普遍性を描いているところだ。そもそもふたりの名前、ハルとカナというのもきわめて戦略的で、性別がわかりづらくなっている。またヨシタケシンスケの、線を生かしたユーモラスな絵が、それを支えている。
 ハルは八歳。桜谷小学校の二年生。二年二組だ。
 八年間も生きているのでハルはもう、たいていのことはわかっているつもり。
これは1章「ハル、仲よしについて考える。」の冒頭の2行。ハルは両親を観察し、親同士の仲がよいときのほうが「家の中の空気がおいしい気がする。明かるい気がする。」といった発見をする。
 2章は「カナ、数を数える。」そして、2章の冒頭の文章は、さっき引用した2行の主語をハルからカナに変えるだけですむ。もっともカナは四人家族だし、カナが好きなのは数をかぞえることだ。
 この後、二人にはそれぞれ同性の仲良しができる。さらに幼なじみのハルとユズを介して、男の子同士、女の子同士にとどまらない交流がおこなわれ、それぞれ異なる考え方をぶつけあって、小さな発見を積み重ねていく。作者のひこは、『なりたて中学生』や「モールランド・ストーリー」などで、少し年齢の上の子どもたちの日常とその悩みを掬い上げるのが得意な作家である。8歳の子どもを主人公にした今回の『ハルとカナ』でも、子どもの考えを伝えているが、生身の子どもそのままというよりは、ヨシタケの絵と同様、凝縮させて描いているような感じをうけた。
表紙は二年二組が集合写真をとっている場面。「ハル」は茶色の「カナ」は緑色の字になっているうえ、二本の矢印が集団内のふたりをさし示す、いたずらが行われている。
 本日はここまで。(2016年9月)

――――
ぼちぼち便り◆ *作品の結末まで書かれています。

9月の読書会は『お静かに、父が昼寝しております ユダヤの民話』(母袋夏生/編訳 出久根育/さし絵 岩波書店 2015年12月)を取り上げました。各地に伝えられたユダヤの民話32話と、「創生記のはなし」6話から構成されています。

読書会のメンバーが印象に残った話として取り上げたのは、まずは、表題作。ユダヤ教の司祭の衣裳にはめこまれた宝石の一つが失われたため、使者たちはユダヤ教徒ではない商人の家に買いに行ったが、父親が昼寝をしているため、父の枕の下にある金庫の鍵が取り出せないから売れないと言われ、諦めて他の人から買う。一年後、罪を犯した者を浄めるため生贄用の赤牛を求めていた時、同じ商人の家に行き、宝石の時に提示された値段で赤牛を売ってもらう。これによって商人は大いに儲けるが、使者は親孝行の商人を褒めるというストーリー。商人の父は本当に寝ていたのか、これは親孝行の大切さを説いた話なのか、商人はなかなか頭がいいなど、解釈をめぐっていろいろな意見が出ました。

他には、「笛と羊飼いの杖」が挙げられました。アフガニスタンを治めていた偉大な王は、笛が上手いユダヤ人の羊飼いに出会い、都に呼び寄せ、羊飼いは大蔵大臣に任命されるが、他の大臣の嫉妬を買い、秘密の部屋にお金を隠し持っていると告げ口をする。王が羊飼いの家に行き、無理やり秘密の部屋を開けると、そこには笛と羊飼いのずた袋と杖だけがあり、羊飼いは、これらを見ておごり高ぶらないようにしていたと告げる。王は羊飼いを抱きしめて詫びる。差別をされる状況、王に認められる高潔さなど、語り継ぎたいと思った理由がわかる作品だという感想が出ました。

また、金貨を出す不思議な財布を拾ったのに、金貨を使わずためるだけで一生を終えてしまった農夫を描いた「ふしぎな財布」、ナツメヤシへの感謝の気持ちを祝福の言葉で表した男が年を取ってから再度砂漠を訪ねてナツメヤシの林を目にする「砂漠のナツメヤシ」などがおもしろかったという意見が出ました。

全体的な感想としては、民話の中にでてくる生活、風習がおもしろかった。ユーモアがある、知恵が深い、理を大切にしていることがわかる、なかなかシビア、お姫様たちの賢さがおもしろい、和を守る精神が読み取れる、ユダヤ人としての誇りを大切にしていることがわかる、キリスト教の旧約聖書では淡々と描かれている「天地創造」がドラマチックに書かれていて興味深い、口承で伝わってきたというのがすごい、短編で読みやすい、出久根育の挿絵が魅力的などの感想も出ました。

この民話集を読むと、裁判が多く出てきて、ルールに従って何が正しいかを判断する、公正さということが求められる、言葉で正当性を説明するなど、日本の民話とも西洋の民話とも全く違う点が多く、とてもおもしろかったです。一つ一つの話は短いながらも、その解釈はさまざまで、なぜ、その結末になるのか、このお話から何を伝えたいのかがはっきりわからない作品もありました。そして、そのこと自体が興味深いと思いました。

このようにユダヤの文化に触れることができるのも、翻訳者の母袋夏生さんがいらっしゃるからだとつくづく思いながらこの作品集を読みました。母袋さんは、これまでにウーリー・オルレブの作品をはじめ、多くのヘブライ児童文学、ヘブライ文学を日本に紹介してくださっています。子どもの本を通して視野を広げるという児童文学の醍醐味を感じた本でした。(土居 安子)

<大阪国際児童文学振興財団からのお知らせ>
●「第33回 日産 童話と絵本のグランプリ」作品募集
アマチュア作家を対象とした創作童話と絵本のコンテストです。構成、時代などテーマは自由で、子どもを対象とした未発表の創作童話、創作絵本を募集しています。締め切りは10月31日(月)です。詳細は↓↓
http://www.iiclo.or.jp/07_com-con/02_nissan/index.html

 今月は、産経新聞に書いた『あたらしい名前』(ノヴァイオレット・ブラワヨ 早川書房)の書評を転載しようと思っていたのですが、まだ掲載されていないので(書いたのは一ヶ月くらい前なのですが、掲載のタイミングとかあるみたいです)、断念。ブッカー賞最終候補まで残ったジンバブエの新人作家の作品です。
 金原瑞人さんとオザワミカさんと作っているフリーペーパー「BOOKMARK」の4号では、英語圏以外の本の特集をしました。間に合えばこの『あたらしい名前』も、掲載したかった! 4号では、チベット、台湾、韓国、中国、ユダヤの民話、フランス、イタリア、フィンランド、スウェーデン、ロシア、ドイツ、チェコ、の文学を紹介しました。アフリカ、南アメリカなどの文学も紹介したかったのですが、BOOKMARKは「一般的に」中高生から楽しめるような本を中心に選んでいることもあり、今回はなかなか「これ」というものが見つけられませんでした。次の機会に向けて、これからもいろいろな本を読んでいかなければと思っています。
 1〜4号はダウンロードで閲覧可能ですので、ぜひ。
http://www.kanehara.jp/bookmark/
 現在、配布中の5号は歴史物・戦争物特集です。こちらも、金原さんと早い時期から温めていた企画ですので、リストに載っている最寄りの書店で探していただければ嬉しいです。個人の方にも10月11日から送付受付けています。
 二年目に入りましたBOOKMARKをどうぞよろしくお願いいたします。

〈一言映画評〉 三辺律子 *公開順です

今回は、ここで紹介したい!と思える作品が少なかったような気がします(もともとわたしの独断と偏見で選んでいますが)。そんな中で、いわゆる「超話題作」が健闘。観た知人・友人と、ああでもないこうでもないと語り合うのが、楽しい作品たちです。

『シン・ゴジラ』
 いきなり超話題作。怪獣シーンは圧倒でした。ゴジラが多摩川を超えてくるシーンや、炎を吐くようすには釘付け。石原さとみの「ZARAはどこ?」はご愛敬(でもないか)。ただ官僚政治や自衛隊、日米関係まで踏みこむならば、もっと本気で掘り下げてほしかったかな−。現実とふつうにリンクさせて観ている人がわりと多いようなので、気になります。

『君の名は。』
 こちらはさらなる話題作。新海誠(監督)が、川村元気というプロデューサーを得て一気に大舞台へ出てきたという感じ?(たいして詳しくないのに、書いてます)ファンタジーとしては、途中の展開に「おっ」と意表を突かれました。まわりの中高(大)生に、絶大な人気です。

『ジェイソン・ボーン』
 "ボーン"シリーズの新作。トミー・リー・ジョーンズとアリシア・ヴィキャンデルが加わったことで、「新章」という宣伝文句にふさわしいアクションになってます。CIAと新興IT企業のつながりが、現代を象徴していて面白い。

『奇跡がくれた数式』
 ケンブリッジ大学の数学者ハーディの元に、インドから一通の手紙が届く。そこに記されていた定理に驚いたハーディは、手紙の送り主ラマヌジャンを大学へ招聘。しかし、ふたりの前には、文化や風習の違い、人種差別、学歴差別などあらゆる障害が立ちふさがる。折しも第一次世界大戦が勃発し……。20世紀初めのイギリスのアカデミックな世界の描写が興味深い。

『ブリジットジョーンズの日記 ダメな私の最後のモテ期』
 言わずと知れたブリジットジョーンズの日記の、11年ぶりの新作。人気作の続編+今ではすっかりありがちなアラフォーの独身女性物語、ということであまり期待してなかったのですが(ごめんなさい)、これが笑えるのです。コリン・ファースの「カチコチイギリス男」ぶりも健在。All by myselfで幕開け、最後には1と2の映像を挟むなど、ファンには嬉しいサービスも。

―――

【児童文学】
『ミスターオレンジ』(トゥルース・マティ:作 野坂悦子:訳 平澤朋子:絵 朔北社)
 戦争の描き方は色々ありますが、この作品では戦場ではなく兵士を送り出した家族を描きます。そしてその中心に想像力を置いています。
一九四三年。ニューヨーク。両親が食料品店を営むライナス。兄アプケが志願兵となります。母親はそんな熱情には否定的ですが、ライナスはそれなりに誇らしい。兄が抜けたのでライナスは配達の手伝いをすることとなります。慣れない仕事はきつい。そんな中、彼は、毎週オレンジを一箱注文する、ヨーロッパから避難してきた画家と出会うのですが、名前が難しく、ミスターオレンジと呼びます。
ライナスにとって心の支えはアプケが描いていたコミックヒーロー、ミスタースーパー。彼は心の中でミスタースーパーを兄代わりにして活躍させます。
しかし、ライナスも段々、戦争の本質が分かってきます。それはヒーローが活躍するような場ではないと。ライナスは思います。ミスタースーパーが悪者をやっつけるといった勢いで戦争は終わらない。想像力なんて戦争の前では何の役にも立たない、と。
ミスターオレンジの絵だってなんの力もない。そう詰め寄るライナスに、ミスターオレンジは想像力の力について語るのですが……。
遠い国で起こっている戦争。その手触り感のなさは、兄の出征によって変わっていきます。戦争がライナスと繋がる。戦争はこうして浸食してくるのです。
想像の及ばない戦争にどう想像力を伸ばしていくか。そして想像力で戦争とどう対峙できるのか?
そうした問いが、伝わりやすい形で書かれています。これぞ児童文学の力。
ところで、ミスターオレンジは、実在の画家です。後書きにそれは書かれていますが、先に読んではつまらない。この作品がオランダ作家によって書かれたことをヒントに探ってみてください。
平澤の挿絵がとてもいいです。

『エレナーとパーク』(レインボー・ローウェル:作 三辺律子:訳 辰巳出版)
 パークは韓国系の男の子、一六歳。時は1986年。スクールバスに転校生の女の子が乗り込んでくる。いじわるな子たちは彼女を座らせない。パークは彼女に隣の席を勧める。そうして二人の物語が始まる。
安定した家族を持つパーク。結婚した男の暴力で言いなりになっている母親を持つエレナー。中流家庭と、貧困家庭。そうした要素も含め、スタンダードな恋愛物語と言えます。が、決してお決まりではない魅力に満ちています。それは、交互に語られる二人の心の動き。行ったり来たり、勝手に誤解したり、思い込んだり、決め込んだり、迷ったり、イライラしたり、高揚したり。そうした気持ちが細かく細かく無駄なく丁寧に描かれています。1986年という設定をリアルに描写することによってこれは可能となっています。どういうことかと言うと、リアルタイムな物語の場合、物語背景は常に揺れてしまうので表層をなぞることが多くなりますが、過去、それもある世代ならリアルに覚えて過去に設定すれば、それは安定する。そのことで、フィクション部分は自由に描き込むことがしやすくなるわけです。例えば1977年などは、トピックが多いので使いやすいでしょう。
もちろんだからといってこれは簡単な技ではなく、レインボー・ローウェルの視線の届け方は並々ならぬ物があります。始めの方では、これは恋愛物語か? と思うことしばしば。なぜなら、お互いがお互いを気にはしていても、エレナーにとってもパークにとっても自分にとって大切なこと気がかりなことはまだ恋ではなく自分たちの日々だからです。ローウェルはそこを細かく描いていく。だから、徐々に彼のこと、彼女のことが増えていく様が迫ってきます。
痛くて切ない。

『ぼくが消えてなくならないうちに』(A.F.ハロルド:作 エミリー・グラヴェット:絵 こだまともこ:訳 ポプラ社)
 雨で濡れてほどけないスニーカーの紐を切ってしまい隠そうとしてアマンダは、タンスの中に男の子を発見。ラジャーは想像できる人だけに見える存在。アマンダは周りから奇妙がられながらもラジャーとの日々を楽しんでいましたが事故に遭ってしまいます。意識を失ったまま入院生活のアマンダ。ラジャーは存在することができません。そんな折り、彼は同じような想像で生きるものたちを出会い、次の相手を見つけるまで消えないようになりますが、アマンダのことが忘れられない。
子どもの想像力が衰えて弱ってしまった存在を食する怪物がラジャーに目を付けています。果たしてラジャーの運命は?
 多くの子どもが友だちにしていた想像上の存在を彼らの側から描きます。
 私にはいたかなあ〜と思い出そうとしますが、忘れてしまうともう思い出せないので、いたかどうかわかりません。でも、子どもたちが思い出させてくれるかもしれませんね。

『空飛ぶリスとひねくれ屋のフローラ』(ケイト・ディカミロ:作 K・G・キャンベル:絵 斎藤倫子:訳 徳間書店)
 リスが掃除機に吸い込まれかけたのをフローラは助ける。となんとこのリスは知恵も力もある空飛ぶスーパーヒーローに。詩人にもなってしまう。
 作家であるフローラの母親は、この奇妙なリスはフローラに普通の生活を送らせないと考えています。で、殺そうとする。
 母親に愛されていないと思っているフローラはリスを助けようとしますが……。
 タイプライターで詩を書くリスのユリシーズ。あることが切っ掛けで自分は目が見えなくなったと信じてサングラスを外さない少年、何度でもフルネームを名乗ってあいさつしてしまう父親などなど、ユニークな登場人物たち。奇妙さが奇妙ではなくなる物語空間で、それぞれが抱えるさみしさや心の傷が描かれていきます。
 子どもの本だから描ける奥底。

『リジェクション』(佐藤まどか 講談社)
 ミラノ。母親と二人暮らしの少女アシュレイは美術高校の三年、一六歳。事故で心臓移植をし、自分の中の何かが変わった気がしている。心臓の元の持ち主の意志のようなものが自分に付与された感じ。
 母親との関係が巧くいっていないアシュレイはバイクで旅に出ようとする。
そして、彼女が遭遇してしまうのは死体。それもなにやら曰くありげな。
 この唐突な設定で佐藤は思春期における社会や自分への違和感を描いていきます。他者の心臓が埋め込まれた身体とは、まさに違和感そのもの。

『ほんとうに怖くなれる幽霊の学校』(トビー・イボットソン:作 三辺律子:訳 偕成社)
 どうも最近の幽霊は情けない。芯から人間を怖がらせようとしていないし、そのスキルも落ちている。と嘆いた大いなるハグ三人が、幽霊学校を創設。
 一方、ある地域では、強欲な人物によって古い町が再開発で壊されようとしていた。
 この二つの要素がしだいに絡まっていきます。
 自信を無くしているそれぞれの幽霊のルーツも語られ、やがて彼らの特徴を活かして、怖がらせるミッションが始まります。しかし……。
 テンポの良い物語。
 妖怪も怪獣も、怖さ復権の時代です。

【絵本】
『がらくた学級の奇跡』(パトリシア・ポラッコ:作 入江真佐子:訳 小峰書店)
 識字障害の少女を描いた『ありがとう、フォルカー先生』の続編です。
両親が離婚しているため、父親とは夏休みを過ごすトリシャ。今年は一年間父親のいる地域の学校に行きたいと願い出て叶えられます。自分が特別クラスの生徒であることを知られていない学校にも通ってみたかったからです。が、やっぱりここでも特別クラスに通うことに。落ち込むトリシャですが、そこで出会ったピーターソン先生は、そのクラスをがらくた学級と呼びます。がらくた? その意味は?

『なんでもないなつの日』(ウォルター・デ・ラ・メア:詩 カロリーナ・ラベイ:絵 海後礼子:訳 岩崎書店)
 農家の家族。子どもたちと犬と猫。牧畜。ほんとうになんでもない一日の終わり。夏の日の夕暮れ。
 カロリーナ・ラベイは、その穏やかに流れる時間と風景を絵本のなかに描き止めています。
 ちょっと立ち止まるための絵本。

『微生物の図鑑』(赤木かん子・正道:著 荒井和人:絵 造事務所:編 新樹社)
 その名の通り、微生物発見の歴史から、その種類までがよくわかる図鑑でありますよ。
 発酵して食品を作るもの、医療に役立つもの、病気を引き起こすもの。様々な微生物を、ご紹介。
 自分ではなかなか手に入れようとはしない知識がすっと頭に入ってくる。こういうのはいいですね。

『とうだい』(斎藤倫:文 小池アミイゴ:絵 福音館書店)
 みさきに出来た一本のとうだい。目の前を行き来する客船、漁船、貨物船。とうだいは飽きることがありません。鳥たちの話も聞きます。遠くで見てきた様々な面白いこと。とうだいはわくわくして聞きます。けれど、やがて気づく。自分はどこにも行けないことを。
 けれど、じっとしているからこそ、やることがある。とうだいの仕事はくるくる灯りを照らすこと。
 定点と移動と飛翔。様々な有り様を斎藤はとうだいの視線で語っていきます。
 小池アミイゴは丁寧に筆跡を残しながら、一つ一つの色を置いて行き、静かでダイナミックに世界を描いています。

『10ねこ』(岩合光昭 福音館書店)
 もう、岩合さん、ずるい。あかん。かわいい。
 というのは当たり前なのですが、おもしろいのは、ネコを使って数え絵本をつくってしまったこと。
 一匹から始まって、段々数が増えていきますよ。ネコはそれぞれちがうわけですから、ついお気に入りに目が行ってしまったりしながら、いやいやそれでもネコはネコって具合に、数の概念を把握していくようになってます。
 岩合さんの数あるネコ写真からセレクション。
 でも、やっぱり、ずるい。

『おばあちゃんのあかいマント』(ローレン・カスティーヨ:さく たがきょうこ:やく ほるぷ出版)
 少年は大都会に住む大おばあちゃんの所へ遊びに出かけます。実は都会が苦手。どうしておばあちゃんがこんなごみごみしているところに暮らしているのかわからない。夜中までうるさいし。おばあちゃんは大好きなんだけど……。
 でも、刺激的で人の多い都会は、おばあちゃんにとって快適。
 おばあちゃんと二人で、都会の冒険に出かけた少年は、彼女がなぜ都会を好きなのかを発見していきます。
 実は、年寄りに都会は快適なのよ。

『つんっ!』(新井洋行 ほるぷ出版)
 新井の絵本で遊ぼうって、絵本の新作。
 今回は、タイトル通り、つんっ! って、指で絵本を突いてみる。すると次のページでは……。
 例えば積み木が崩れます。ゼリーはプルルン。
 なんか、妙に楽しいですね。

『あそぼ』(エルヴェ・テュレ:さく たにかわしゅんたろう:やく ポプラ社)
 『まるまるのえほん』で、絵本の新しいあり方を示した作者の最新訳です。
 黄色いまると一緒に、絵本の中で色々遊びます。ポップアップ絵本とは発想が違って、あくまでその平面を使って、いかに読者を誘い込むか。新井洋行の試みも注目ですが、テュレ作品の面白みは、シンプルな色を使って、その色の誘いかけに読者を乗せてしまうセンスの良さ。シンプル故の汎用性の高さ。スタンダード絵本になりましたね。

『ぐるぐるぐる』(内田麟太郎:作 長野ヒデ子:絵 「こどものくに チューリップ版」八月号 鈴木出版)
 のんちゃんは、指をぐるぐる回すんです。とにかく回すんです。すると、トンボはもちろん、イノシシだって、怖いお化けだって、目を回すんです。とにかくみんなそうなんです。
 内田の言葉のリズムに長野の絵が寄り添って、やっぱりぐるぐる。
 おもしろい。

『おたのしみ じどうはんばいき』(宮知和代 アリス館)
 自動販売機のボタンは数字だけ。何が出るかわかりません。1を押すとイチゴがごろごろ。まあ、普通。が、2を押すと、忍者がごろごろ。なんでやねん。忍者がイチゴを食べている間に3を押すとサンタが。4はしらすで5はごりら。と何だか愉快になってきたぞ。
 最後はどうなるのでしょうか?
 楽しいデビュー作です。

『ゆっくりゆっくり なまけものくん』(オームラ トモコ:作・絵 すずき出版)
 高い、高い木の上からナマケモノが、水浴びをしようと降りてきます。っても、ゆっくりゆっくり。
 縦開きの絵本は、それをゆっくりゆっくり描いていきます。途中で出会う様々な生き物たち。
 ゆっくりの時間。
 おいしい果実に手を出したマケモノが木から落ちる!
 さて、ナマケモノはまたゆっくりと帰ろうとしますが、ゾウさんがある提案をして……。
 縦開きのおもしろさを存分に。

『ゆうびんくまさんの おおきなれっしゃ』(海一慶子 小学館)
 『おおかみと7ひきのこやぎ』で素敵なデビューをした海一の新作です。
 郵便配達員のゆうびんくまさんの子ども、ちびくまさんは、いつも一人で留守番。おみやげを持って帰ると約束したゆうびんくまさん。
配達途中で見つけたのは列車の荷台。くまさんはそれを自転車の後ろにつないで配達を続けます。色んな動物がやってきて、荷台に乗り込み……。
ちびくまさんの幸せは、読者の子どもの気持ちとシンクロするでしょうね。

『平太郎のおばけやしき 稻生物怪絵巻より』(寮美千子:文:企画 ロクリン社)
 寮自身の企画による絵巻絵本。去年上梓された『へいきの平太郎 稲生物怪物語』のベースとなった絵巻を二巻にして、絵本化です。実に活き活きとした物の怪たちを存分にお楽しみください。

『アイヌのむかしばなし ひまなこなべ』(萱野茂:文 どいかや:絵 あすなろ書房)
 アイヌの自然との暖かなつながりを描いた昔話です。クマを獲った後、クマの神に心からの捧げ物をし、村人たちは宴をする。ある踊り手の神への踊りがあんまり楽しいので、それを見たいとまたクマの神は人の元へと訪れ、人はそれをいただき、また宴をする。
実はその踊り手とは、ちいなだお鍋。おおきなお鍋は宴でつかわれ、小さなお鍋はひまなので、お役に立とうとしたわけ。
なんとも楽しいお話しですが、どいかやの絵は、素敵な昔話をより一層奥深く、生きることの喜びとして表現しています。素晴らしい絵です。ぜひご覧ください。

『みんなにゴリラ』(高畠那生 ポプラ社)
 楽しい仕掛け絵本。
 子どもたちの親しい人々が、ページを繰るとみんなゴリラになってしまいます。観光地にある、絵が描いてあって、顔だけ出して写真を撮る、あの絵本版って感じ。シンプルですが、このシンプルさが何度も繰り返す楽しさを喚起します。
 こういうちょっとしたおもしろさの肝を掴むのが本当に巧い作家ですね。

『かみなりどん』(武田美穂 あすなろ書房)
 「こわいおともだち」シリーズ三作目。
 けんたが、おともだちになったかっぱやざしきぼっこと共に歩いていると雷が! ぶちうまさんが石を空に蹴り上げると、それが当たってかみなりの子どもが落ちてきた。
 みんなを威嚇しますが泣いてちゃ迫力無し。なんとかお空へと帰してあげます。
 ということで、かっぱ、ざしきぼっこに続いて、かみなりのどんくんもおともだちに。
 どんどん世界が拡がっていくぞ。

『もしも地球がひとつのリンゴだったら』(デビッド・J・スミス:文 スティーブ・アダムス:絵 千葉茂樹:訳 小峰書店)
 物事を比較するとき、身近なスケールに置き換えることで全体が把握しやすくなります。生物の歴史を一年に縮めたら人間の登場は何日? ってやつです。この絵本では、惑星をボールに喩えてみたり、世界のお金を一〇〇枚のコインにしてみたり、様々な見えやすさを示しています。こうしたスケールの置き換えは微妙な部分を消してしまうことでもあるので、そこは抑えておく必要はあるけれど、なんとなく全体が把握できると、そのことへ の興味もわいてきます。一〇〇枚のコインのうちたった一枚しか人口の50%は所有していないと示されれば、格差へと関心が向くでしょう。
 もちろん、こうしたスケールの置き換えは微妙な部分を消してしまうことでもあるので、そこは抑えておく必要はあるけれど。

『サリバン先生とヘレン―ふたりの奇跡の4か月』(デボラ・ホプキンソン:作 ラウル・コローン:訳 こだまともこ:訳 光村教育図書)
 ヘレン・ケラーの逸話をサリバンの側から描いた絵本です。二十一歳のサリバンがヘレンとコミュニケーションをとるために工夫していく様。親子ほども年齢が離れていなかったことや、サリバンが既成概念に縛られていなかったことが扉をひらきました。

『すべって ころんで すりむいた』(小野寺悦子:さく さこももみ:え 絵本塾出版)
 親子でサーカスに来ましたが、男の子、サーカス小屋に入ったとたん、「すべって ころんで すりむいた」。さあ、ここからサーカスの始まりです。サーカスの面々は、この痛がって泣いている男の子をどう笑顔にするのでしょう。

『スコットくんとポワロくん』(フィリケえつこ あすなろ書房)
 ガイコツのスコットくんは、ポワロくんからお誕生日会の招待を受けます。ポワロくんから持ってきて欲しいもの頼まれたけれど、それが何かよくわからない。3つのヒントで探しに出かけます。推理の楽しさと、最後のほっこりさ。
 黒を基調にしたフィリケの絵の切れ味が最高です。
 しかし、ポワロくんって、どんな子なんだろうか?

『ゾウはおことわり』(リサ・マンチェフ:作 ユ・テウン:絵 たなかあきこ:訳 徳間書店)
 ゾウをペットにしている「ぼく」。たぶんぼく一人。毎日のお散歩。敷石の隙間が怖くて越えられないゾウくん。ぼくは背負ってあげる。
ある日ペットと集まるパーティーに出かけると、ゾウをペットにしている人はだめだって。落ち込むゾウくん。
なら、ダメだと言われるペットを飼っている人たちでペットクラブを作ろう!
スカンク、キリン、アルマジロ、色んなペットとその飼い主の子どもが集まってきて公園でパーティー。
 排除しない、互いを認め合う物語。
 ユ・テウンの絵が、温い。 

『やきそば ばんばん』(はらぺこめがね あかね書房)
 「やきそば ばんばん」ですから、やきそばの話であろうとわかりますが表紙があんまりクールなんで、これは本当にやきそばをばんばんする話であろうか? と戸惑いながらページを繰ると、その話でありました。
 やきそがをやいていたおばあちゃんが途中で買い物に出かけます。すると、やってきた色んな人や動物が、様々な素材を勝手にばんばん入れていくのです。もう、おいしそう。おいしそうがどんどん膨らんできます。
 さっそく今夜作ろう。
 コテコテの話におしゃれな線と色使いの絵。良いあんばいです。

『まどべに ならんだ五つのおもちゃ』(ケビン・ヘンクス:作・絵 松井るり子:訳 徳間書店)
 おもちゃたちは何かを待っています。ふくろうは、月が出るのを。傘を差しているぶたは雨を。たこを持ったくまは風を。そりにのった犬は雪を。バネでゆらゆら揺れるうさぎは、何か楽しいことを。窓を眺めていると月が出る日も、雨の日も、風の日も、雪の日もあります。そんな日常を楽しむおもちゃたち。とはいえ、新しくやってきたぞうの置物は落ちて割れてしまうという現実もあります。ねこのおきものがやってきます。どもただの置物ではありません。それは……。
なごむといえばなごむ絵本ですが、それより、毎日の暮らしへの愛おしさが満ちていて、それにやられますよ。

『おはなをあげる』(ジョナルノ・ローソン:作 シドニー・スミス:絵 ポプラ社)
 フード付きの赤いコートの女の子と父親。家への帰り道。
 会話があるわけではありません。父親は携帯で話したりしています。
 女の子は路傍の花を摘みます。摘んで、誰かの元へ置いて行く。誰かを花で飾る。また摘んで。飾って。誰も気付きませんが、それを見ている私たちの心は明るく成っていきます。そしてたぶん、気付いたとき人々もそうなるでしょう。
 訳者がいないのは、ここに言葉がないから。
 言葉がいらない世界。
 でも、言葉が溢れています。


『きつねのみちは、天のみち』(あまんきみこ:作 松成真理子:絵 童心社)
あまんきみこの世界にはいつも不思議があります。けれどそれは例えば『指輪物語』や『ゲド戦記』のように異世界で起こるわけではありません。不思議はいつも普通に暮らす子どもたちのすぐ隣で生まれます。
『きつねみちは、天のみち』では、ともこがにわか雨の中を走っている時に起こります。赤いポストの前をまがると、ともこの周りの雨は止むのですが、二メートルほど前には激しく降っています。後ろもそうです。ともこのいる場所だけに雨が降っていない道ができます。そこにこぎつねたちがなにやら大きな荷物を抱えてやってきて……。
実はともこは友だちを喜ばそうと、約束もせずにたずねていったのに、相手は留守。そんながっかりした気持ちの隙間に不思議は生まれ、そこで楽しい時間が過ぎ、戻ってくると、幸せな気持ちに包まれるのです。
この隙間、普通に暮らす子どもたちのすぐ隣とは、日常と異世界のあわいです。ほんの少しさみしかったり、悲しかったり、がっかりしたりしている子どもを、あまんはこのあわいに優しく誘い込み、気持ち良く深呼吸をさせてくれます。子どもにはそんな時間、そんな空間が必要だと、あまんは教えてくれます。
ともこはこぎつねたちとどんな時間を過ごすのかな? ぜひ読んでみてください。


お知らせ。
*金原瑞人×三辺律子×越前敏弥 トークイベント
もっと海外文学を!〈BOOKMARK〉について語ろう!(2016/10/21)
紀伊國屋書店【グランフロント大阪店】
https://www.kinokuniya.co.jp/c/store/Grand-Front-Osaka-Store/20160907224540.html

*早いもので「ひこ棚か」ももう五年。ってことで、記念フェアをやってます。本棚十本使って、五年間のお薦め本の大放出。
場所:ジュンク堂 MARUZEN&ジュンク堂書店 梅田店七階児童書売り場。

*『なりたて中学生 上級編』(ひこ・田中 講談社)10/27発売です。二学期は文化祭。あ、その前に夏休みもあるなあ。これにて完結。

*「絵本カフェ」(公明新聞 2016.01〜06)
01月
『はね』(曹文軒:作 ホジェル・メロ:絵 濱野京子:訳 マイティブック)
 私たちは、自分が誰なのかを知りたいと思っています。思春期と呼ばれる時期、大人や社会にもの申すことが多いのは、大人の庇護を受ける「子ども」という存在を離脱するために最初に出来るのが、それまで享受してきたものを否定や拒否することだからです。すでに大人になった私たちは訳知り顔に彼らのそんな振る舞いを叱ったり、諭したりしようとしますが、まず大切なのは、彼らの不安に寄り添ってあげることでしょう。
 この絵本は、そんな思春期をテーマにしているわけではなく、もっと抽象度の高いものですが、今述べたようなことも頭に入れながら読むとより一層身近になるでしょう。
 一枚の羽は思う。「わたし、どんな鳥の羽なのだろう?」。もしそう思わなければ、羽は地面に落ちたままだったでしょうし、最初から何かの羽であったら、その問いは生まれなかったでしょう。
鳥の体から落ちたこと、そして問いが生まれたことで、羽は空を舞い、自分が何物かを捜す旅に出るようになるのです。カワセミ、カッコウ、アオサギ。羽は次々と問うていきますが答えは「ちがう」。この旅はさみしく、失望の繰り返しですが、同時に羽は何にも属することなく自由でもあります。
 最後に羽は自分が誰かを知りますが、大事なので書きません。ただ言えるのは、時勢に合わせるものでも、多数になびくのでもなく、一人一人が問いかけていかないと、自分が誰かという問いには意味がないことです。
 ホジェル・メロの絵を眺めるだけでも価値はありますよ。

02月
『チャーちゃん』(保坂和志:作 小沢さかえ:絵 福音館書店)
 死は、その当事者ではなく、残された者の心に欠落感を産むだけに、なかなかやっかいな事象です。なぜならその欠落感は残された者自身が生じさせたのではないし、唯一埋めることのできる存在はもういないのですから。
 そこで私たちは、代替を求めたり、そこから目を背けたりします。それでちっともかまわないし、むしろそうした方が先に進める場合も多いでしょう。
 この絵本は亡くなった猫について描かれています。といっても、それを嘆く飼い主の側からではありません。亡くなった猫からの言葉が解き放たれています。
「ぼく、チャーちゃん。はっきり言って、いま死んでます」と、いきなりど真ん中から猫のチャーちゃんは語りかけてきます。まるで、重要なのはそこじゃないと言わんばかりに。そして次のページで、「ってか、踊ってます」と続けるのです。
死んでいることと、踊っていることは同じなんだと。
こちら側では、チャーちゃんのパパとママ(飼い主)は泣いていましたが、チャーちゃんはそんな悲しみは気にもとめていないかのように踊ります。
「なんで悲しいの? パパとママだって、こっちに来るんだから」。
そこから絵本は色彩も鮮やかに、様々な生き物が歌って踊って飛んでいる姿を描いていきます。まるでそれは祝祭です。
読み終えると、残された者の心の中に生じる欠落感もまた、豊かで愛おしい命の一部分であり、ただ抱きしめればいいだけだと思えてきます。

03月
『わたしのいえ』(カーソン・エリス:作 木坂涼:訳 偕成社)
 わたしたち人間も含め、様々な生き物は、それぞれの家を持っています。
ひな鳥を育てるために一時的シェルターである鳥の巣でも、やどかりが使う貝殻でも、虫を捕らえるための網(蜘蛛の巣)でも、冬眠のための穴蔵でも、生き物たちにとって大事な家です。
それは、私たちが生活を維持するためや、世代をつないでいくための大切な場所です。
カーソン・エリスはこの絵本で、シンプルでありながら表情豊かな絵で、虫から人間、おとぎ話の登場人物まで、彼らの色々な家を次々と描いていきます。
人間の場合だと、単身者であろうと、夫婦であろうと、シェアハウスであろうと、子育てしてようといまいと、年齢が幾つであれ、外から帰ってくる場所として家は存在しています。
 どうぞそれらをじっくりとご覧ください。普通の家、船、馬車、テント、洞窟、氷、ビル。どれもが家であり、そこに住む人にとっては明るく暖かく、雨露をしのげ、ゆっくりと眠れ、食事ができ、そして彼らが疲れを休めに帰る場所です。
 ページを繰っていると、実は人間は、他の生き物よりずっと弱い存在であり、だからこそ帰る場所としての家を他の生き物以上に必要としているのではないかと思えてきます。
そして、ここに描かれた家の多様さを眺めていると、自分とは違う家に住み、違う生き方や考え方をしている人々への共感も生まれてきます。いくら違っていても、家を必要とする人間であることに変わりはないのですから。

04月
『文房具のやすみじかん』(土橋正:文 小池壮太:絵 福音館書店)
 最近「消す」が話題になっていますが、そんな絵本を一冊。
 宿題をしていた子どもが遊びに出かけたすきに話し始める文房具たち。「きょうは宿題があったから、いっぱい字をかいたなー。のびのび、らくがきしたいきぶんだよ」と鉛筆。
 らくがきは知られないように消さないといけません。そこで、鉛筆と色鉛筆の色に使っている素材の違いや、それが紙の上にどう定着することで文字が書けるのか、消しゴムはどのようにしてその字を消しているのかなどが語られていきます。
この作品の読者は子どもだけように見えます。しかし、字が紙に定着する仕組みやそれをこすり取る(削り取る)仕組みなど、これまであまり気に留めていなかったことが知識として蓄えらていく喜びは大人も味わえます。「そんなこと知らなくても、書くのに困らないから無駄な知識」ではありません。なぜ書けるかに興味を抱くこと。それは大げさでもなんでもなく、世界に向けての興味と繋がっています。
線を引いて消すや、ページを破って消すといった、同じ消すでも意味としては別のカテゴリーに属する方法も出てきます。前者は間違いの形跡を残しますし、後者は秘密をまるごと隠します。消すにも色々あるんだと子どもが気付いたとき、それは抽象的な思考への第一歩になります。
そうした拡がりを持つ知識の一端をこの絵本はうまく伝えています。
リアルでありつつ文房具の表情も豊かで、作りこみが素敵な小池の絵もご堪能ください。

05月
『つちはんみょう』(舘野 鴻 偕成社)
 どんな生物にも生と死があります。この絵本は、つちはんみょうが、どのように孵化し成長していくかを、ダイナミックに描いています。
孵化した幼虫たちは、こはなばちの巣の周りに集まります。羽化したばかりのこはなばちが地下から地面に出てきたとき、彼らは体にとりつき、長い旅に出るのです。
つちはんみょうは、ひめはなばち巣の中で、その餌と幼虫を食べ物にして育つので、なんとしてでも探さなければならない。こはなばちが行く先々でつちはんみょうの幼虫は落下します。そこが目的の地かはわかりません。その後また他の昆虫にしがみついて旅を続ける幼虫もいます。無事にひめはなばちの巣を見つけたものだけが次に命をつなげるのです。
命が命を、どうつないでいくかは、そうした偶然性の中にあることを、子どもが知るのはとても大切です。命の持つ貪欲さと、はかなさを感じることも。
そしてなにより見ていただきたいのは、舘野が描く昆虫たちです。極めて精細ですが、それだけなら、いくらでもあるでしょうし、もっと緻密な絵もあるかもしれません。しかしここに描かれた生き物たちは、とてつもなく生命力に満ちあふれています。ダイナミックな構図も功を奏し、むせ返るような命の匂いに圧倒されます。
その理由はおそらくこれが、画家が一つの生き物に誠実に、根気よく迫り、絵を紡いでいくことで生じる、贈り物のような画面だからです。
大人のあなたが、この絵本を眺めながらドキドキされるのが楽しみです。

06月
『おじゃまなクマのおいだしかた』(エリック・パインダー:さく ステファニー・グラエギン:え 三辺律子:やく 岩崎書店)
 絵本とは文と絵が抜き差しならない関係にあり、両者の均衡の上に成り立つ表現方法です。そのことがとてもよくわかるのがこの作品。
 トーマスはクッションや毛布を使って部屋の中に最高のほらあなを作ります。そこにこもれば誰にも干渉されない自由な時間が待っています。
 ところがなんと、トーマスのほらあなはクマに乗っ取られてしまいます。後ろ姿しか見えないのですが子グマみたいです。
 不思議な話ですが、まあ、絵本だし、まあ、子どもの本だし、ファンタジーなんだなと読み進めていきます。
 このクマ、なかなかしつこくて、なんとか追い出したと油断したら、もうほらあなにいる。キッチンで蜂蜜をあげて、これで大丈夫! クマを振り切ったぞ!
 次のページには、懐中電灯を使ってほらあなで本を読んでいるトーマス。その横で泣いているクマ。今まで背中しか描かれなかったクマの顔がここで初めて出てきます。それは、クマの着ぐるみを着た弟でした。
 そう。つけ回し、ほらあなを占領したクマとは弟であり、それから逃げていたのは弟をちょっと疎ましく思っていた兄だったのです。
 ファンタジーではなく、とてもリアルは兄弟物だとここで読者は気づくでしょう。兄の気持ちも、弟の気持ちも理解出来るでしょう。そこから、二人が仲良く過ごすまでは一瞬です。
 この物語を文章だけで書くのは難しいです。作家と画家がタッグを組んだ絵本でしか表現できません。絵本のおもしろさを味わってください。