225
|
西村醇子の新・気まぐれ図書室(23) ――ほっこり、しみじみ── 数年前から絵本学会の機関誌用に、分野別絵本モニターをしている。その年に出版された絵本のなかから、3点(私の担当は「創作物語・ファンタジー絵本」)を選んでコメントするのだが、実はこれを書いている時点でも、2016年に出た絵本をひっくり返している最中である。そこで、本図書室で取り上げてこなかった絵本から、順不同で少し紹介することにした。 * メアリー・リン・レイの詩に、クリストファー・サイラス・ニールが絵をつけた『どこかでだれかがねむくなる』(こうのすゆきこ訳、福音館2016年9月)は、就寝前の子どもをモチーフにした絵本。古くはマーガレット・ワイズ・ブラウンの『おやすみなさいおつきさま』(評論社)や近年ではペギー・ラスマンの『あと10ぷんでねるじかん』(徳間書店)などが浮かぶ。『どこかでだれかがねむくなる』の表題紙は、日没寸前の戸外の風景がシルエット風に展開している。次の見開きではパジャマ姿の女の子が、ぬいぐるみのクマをぶらさげて窓際に立つ。日没直後らしく、明るさの残っている窓の外を、小さなハチがとぶ。次の見開きでは、大きく描かれた白ばらのひとつに、このハチが止まろうとしている。次からは戸外のビーバーやくまの寝場所が描かれ、それに対応した室内の女の子の様子が続く。さらにネズミ、子ぎつねといった動物たちの寝場所、そして屋内で女の子がじょじょに眠りにつき、そよ風やおはなしがねむりにつき、夜がふけていく。ところどころで、女の子の部屋の置時計の針が時間経過を示しているのは、『おやすみなさいつきさま』へのオマージュだろうか。物語のしずかな雰囲気が絵をみるものの心を落ちつかせる。 荒井良二の『きょうは そらに まるいつき』(偕成社、2016年9月)も、夜の時間を描いている。書名にもなっている「きょうはそらにまるいつき」という言葉が随所で繰り返され、心地よいリズムを生んでいる。最初は空を見る赤ちゃん。そして、バレエの練習帰りの女の子や山中では遊んだあとのクマが、それぞれ帰るところを、空の満月が照らす。絵筆の跡が目立つカラフルな見開きには、控えめに白抜きの文字がつけられている。ページをめくるうちに、基調となる背景色が少しずつ黒っぽさを、鮮やかな満月が明るさを増していく。これもまたページをめくる喜びの味わえる静かな絵本である。 先にとりあげたメアリー・リン・レイの『どこかでだれかがねむくなる』は、アメリカの農場を中心とした世界が舞台だったが、カーソン・エリスの『わたしのいえ』(木坂涼訳、偕成社2016年1月)は「わたし」が住む丘の上の家を出発点とし、そこからさまざまな人の住まいが背景の白地のなかに描かれていく。ところどころで地下や海の底、さらには小人や神さまの家などにまで広がりをもち、多様性が追求されている。絵本の終わりは再び、女の子の家にもどり、「これがわたしのいっけんや そとをながめているのがわたし」「あなたのいえはどこ?どんなふうなおうちかな……」と締めくくる。このようにはじめと終わりをもったことも含めて、図鑑を脱したユーモラスな味わいの絵本となっている。 * ところで、このようにまとめて振り返っていると、ときに絵本のあいだに、思わぬつながりが見えることがある。今回は画家のクリスチャン・ロビンソンがそうだった。『ことりのおそうしき』(なががわちひろ訳、あすなろ書房、2016年3月)は、文がマーガレット・ワイズ・ブラウンで、絵がクリスチャン・ロビンソン。(ブラウンの文にレミー・シャーリップが絵をつけた『ちいさなとりよ』もあって1978年に岩波書店から出ている。)物語は死んだ小鳥を見つけた子どもたちが、小鳥のために葬式をおこない、その死を悼む。でも時間がたつと、いつしか小鳥のことを忘れるといった内容である。緑を基調とした絵で死の受容をごく自然に描いていた。いっぽう『おばあちゃんとバスにのって』(石津ちひろ訳、すずき出版、2016年9月)でクリスチャン・ロビンソンが絵をつけたのは、マット・デ・ラ・ペーニャの文。絵本は青を基調とし、雨の日にはじめて祖母に同行してスープキッチンに行く孫の目で、アメリカの日常を表現している。この絵本は作者が2016年のニューベリー賞受賞で、画家がコルデコット賞オナーをとっているので、高い評価を受けたとわかる。 賞といえば、『しろいゆき あかるいゆき』で1948年のコルデコット賞をとったロジャー・デュボアザンが1960年に出版した作品が、今年初めて訳された。それが『みみずくのナイトとプードルのデイ』(安藤紀子訳、ロクリン社2016年6月)だ。夜行性のミミズクはある夕方、帰る途中の飼い犬に命を助けられ、友だちとなる。でも両者の生活時間帯はずれている。しかたなくミミズクが夜に犬を訪ねて窓ガラス越しに会話するようになると、犬の飼い主一家は、眠りを妨げられて迷惑する。でも観察力に優れた一家の子どもが解決策を実行に移し、みなが幸せになる。物語の主要な時間帯は夕方や夜間なので、白黒のページでの表現に違和感はないが、交互にはさまれたカラーページになったときに、情景がよりくっきり見え、色の力が感じられる。 色が力をもつと言えば、『北極のたからもの』(ダナ・スミス文、リー・ホワイト絵、みはらいずみ訳、あすなろ書房2016年11月)にもそれがあてはまる。もっともデュボアザンの作品と異なり、原作の出版そのものが2016年と、新しい。最初の画面は氷山の海を祖父らしき人物が漕ぐカヌーで移動する女の子と犬で、北極圏で暮らす家族の話だとわかる。表題紙を兼ねた見開きでは、雪の家イグルーも見える。次の見開きでは女の子と犬は舌を出し、空から降ってくる雪を味わっていて、厳しい気候や雪を積極的に受け入れていることが伝わる。でも、青みがかった白(凍った地面)、黄色っぽい白(ホッキョクグマ)、銀色まじりの白(ホッキョクギツネ)と、昼もうす暗い北極の、白とそのバリエーションしかない世界で、女の子は色に飢えている。だから、まれにしか見られないオーロラは貴重。その色彩を全身で味わい、帰宅してからも余韻に浸ってしまうのだ。物語としてはシンプルだが、これもまた色彩が雄弁な絵本だ。 * リンジー・マティック・文、ソフィー・ブラッコール・絵『プーさんとであった日――世界でいちばんゆうめいなクマのほんとうにあったお話』(山口文夫訳、評論社2016年8月)は、クリストファー・ロビン・ミルン(父のA・A・ミルンが『クマのプーさん』の作者)と実在のクマとの交流の物語。外枠は、クマを見つけた獣医師ハリー・コールボーンの曾孫の女性が、息子のコールにお話をするというもの。物語の本体は、ハリーがカナダ生まれのクマと出会い、買い取ったところから。ハリーはそのままこの小さなクマの女の子ウィニーといっしょに、軍医としてカナダの連隊に行き、ウィニーはそのマスコットとなる。一行はイギリスにもウィニーを連れて海を渡った。だが戦場となるヨーロッパへは連れていかれず、ロンドン動物園に預ける。そして動物園をたびたび訪れたクリストファーはウィニーと仲良しとなり、やがて父ミルンが物語の主人公とする。最後はまた、外枠の女性と息子コールの対話に戻る。最後はアルバムページで、ハリーの写真や日記、ウィニーとクリストファーの写真などが載っている。フィクションとノンフィクションが地続きになっているこの絵本は、2016年のコルデコット賞を受賞している。 ジェフ・ゴッテスフェルド文、ピーター・マッカーティ絵『庭のマロニエ──アンネ・フランクを見つめた木』(松川真弓訳、評論社、2016年6月)は、意外なことに、川べりの一本のマロニエを視点人物(?)に利用している。マロニエは、オランダである一家の隠れ家での生活や一家がほかの連中に連れ出され、その後男の人(アンネの父)が一人だけ戻ってきたことなどを目撃する。ただし物語の各場面は、あるときは室外から、あるときは室内から描かれている。その後マロニエも強風で倒れるが、このマロニエのタネや苗木は、世界各地で育てられているとか。「おわりに」を読むと、マロニエが平和と自由の象徴となったことや、マロニエが見ていた少女が、ナチスによって隠れ家から収容所に連行され、病死したアンネ・フランクであることなどが解説されている。全ページがセピア色で統一され、戦争の被害者となった少女の様子を、抑えた筆致で語っている。 最後に、『かえるふくしま』(矢内靖史 写真・文、ポプラ社2016年2月)に触れたい。表紙は緑色の葉っぱと枝を背景に、一匹の青っぽいカエルが、上を見上げているところ。その後も、さまざまな種類のカエルとその生息地を写した写真が続き、いわば序章をなす。つぎに2009年のモリアオガエルの産卵からカエルが生まれて、成長していく様子。だが転機は2011年3月の原発の事故。 まっさおな地色の頁は、放射能で汚染された土を入れた袋の色と同じ。この袋のあいだにくっつく二ホンアマガエル。ナレーションを待つまでもなく、こんなところで、と思う。人間は事情がある程度わかって暮らすことができるが、カエルのような生物は何もわからないまま、ひっそり命を落としていたであろうと。裏表紙は、画面左に汚染土をいれた青い袋と、そこにくっついたカエル、そして画面右には雲の浮かぶ空と、緑の畑。声高なメッセージはないが、この構図からもまた、福島再生への著者の熱い思いが伝わってくる。 しんみりしたところで、2016年の気まぐれ図書室は閉室。来年も、どうぞよろしく。(2016年12月) ● ぼちぼち便り◆ 12月の読書会は毎年絵本を取り上げます。今年は、国際アンデルセン賞の日本でのノミネートが決まった田島征三さんの絵本から、『ふきまんぶく』(偕成社 1973年)、『ガオ』(「こどものとも」2001年、福音館書店 2005年)、『やぎのしずかのしんみりしたいちにち』(偕成社 2015年)を課題本に選びました。最初に私が3冊を声に出して読み、その後、感想を語り合いました。 『ふきまんぶく』については、離れて絵を見ることによって、一人で読んでいる以上に絵の奥行が感じられた、画面によって余白の使い方が異なり、秋の場面は特に時間の経過を感じさせる、夜の青い風景が美しく、遠くからも、夜道がはっきりと見える、ふきちゃんの顔がにこにこしていない、最後の蕗の中に顔がたくさんある絵が不気味な感じがした、観音様のようにも見えた、自分の子ども時代は、子どもはみんなふきのような顔をしていた(80代女性)など、絵についての感想がある一方、ふきちゃんが、山の中で寝てしまう場面について、夜露の玉の美しさが、ふきちゃんを蕗の世界へと誘った、眠るところで死んでふきのとうになってしまうのかと怖くなった、父親が見つけてくれてよかった、などの感想が出されました。 また、ふきちゃんが好奇心に動かされて夜に星をとりに行ったり、春になって登りたくてがまんできなかったりする気持ちに共感した、山で光っていた正体が蕗だとわかったときの文章で「は行」がたくさんあり、読んでもらって音が美しいとの発言がありました。参加者全員が、人間を超える力である自然が表現されており、芸術作品だと思ったという意見に納得していました。 一方、『ガオ』については、まず、素材である実について、たいへんな作業で圧倒された、子ども時代に拾ったこと、故郷のことを思い出した、実を並べることに夢中になるという行動が、子どもの遊び感覚とつながっている、実(み)にパワーがある、実は、種であり、花を咲かせ、再び実になるという植物の生態を思い起こさせた、実についている軸の部分が効果的、実の一粒一粒が細胞のように感じられた、などの気づきが語られました。そのほか、表現の工夫については、山がコラージュになっていて、影があることで奥行が感じられる、擬音語がおもしろい、鳥の目の位置の変化が鳥の気持ちを表現している、背景の色の変化でストーリーがわかる、山犬の向きの変化がストーリー展開と呼応している、などが挙げられました。 ストーリー展開については、展開が想像を超えている、ガオと言いたくなった、へびが山犬になりたいのに、かえるになってしまったところがおもしろい、鳥と蛇に分裂したとき、蛇の中に賢さとずるさを感じ、蛇の背負うものに思いをはせた、山犬は吠えることで自分の存在を確かめている、最後に山犬に戻った時、それは以前の山犬とは違う再生された(生まれ変わった山犬)、結末が「ほえたくなった」とあるので、また繰り返されることが示唆されている、などの意見が出ました。 『やぎのしずかのしんみりしたいちにち』については、多くの参加者が最も印象に残った場面として、しずかが花をぱくっと食べるところが挙げられました。アップになっていてユーモラス、バッタにからかわれたときの悲しい気持ちが次のページでしずかが小さく描かれることによって表現されている、しずかの食べた花が裏表紙に描かれていた、などの気づきと同時に、思わず食べることに感傷への批判がこめられているという意見も出ました。 そして、その後、しずかが「しみじみと なく」場面で、子どもが「しみじみ」とは何かを納得するのではないか、泣いた後、みんなが集まって調子はずれの歌を歌う場面で、「みんな」であることと「調子はずれ」であることが重要で、元気のないときに元気づけられる、しみじみするのも大事だが、生きていくためにはそれを忘れる楽観性も必要、生きるとはそういうもので、人間が勝手に感傷を持つだけ、歌は自然の中で生きているすばらしさが表現されている、との発言がありました。 そのほか、しずかのピンクのお乳が印象的、セミがぽてんと死ぬところにマンガ的な手法によるおもしろさを感じた、しずかが自然のいろいろに一つずつ目を止めていく様子が印象深い、友だちのガマガエルと出会ったしずかの表情がおもしろい、などの意見も出ました。この絵本を通して、癒される、哲学している、生きることと死ぬことの循環が描かれているなど、作品全体に関わる意見も出されました。 私もこの機会に読み直し、改めて田島征三作品に宿るパワーに圧倒され、強く惹かれました。『ふきまんぶく』は、自然の息吹に魅入られ、取り込まれそうになる子ども(ふき)が描かれ、蕗と一体になった様子に、子どもの中にある野性がぷんぷん匂う作品だと思いました。日の出村の子どもたちが「ふきのとう」のことを「ふきまんぶく」と言った言葉に惹かれた作者が、土絵の具を用いて描いた作品は、自然に生える「まんぶく」=まんじゅうの怖さを感じるほどのおいしさが描かれており、その思いは、少女ふきに対する狂おしいほどの愛とも読める作品だと思いました。 『ガオ』は、一人の人間の分裂と再生の物語として、先走る気持ちとそれを冷静に見つめる気持ち(冷めた目)の中を行き来する「私」を読み取りました。けれど、自然に生きる山犬は、火山や大地に例えて読むこともでき、野生動物の中にある飢餓との戦いと読むこともできるかもしれません。作者は、かつて自分の家の鶏を食べた野犬を捕まえて食べるという経験をしており、山犬には「オオカミ」につながる神聖な動物であることが感じられます。 『やぎのしずかのしんみりしたいちにち』は、感傷への溺れに対する微妙な距離に共感しました。食べるとは何か、歌うこと、友だちの意味などがしずかの実感を持って語られ、生きる者の持つ矛盾を抱えたまま、「生きる」ことが肯定されている点が読んでいて楽しい気持ちにさせられるのではないかと思いました。 田島征三作品に共通しているのは、土の匂いであり、自然の力であり、食べること、生きることであり、人間や社会に対する痛烈な批判であり、思想性があり、哲学的です。子どもの本だからだといって、決して妥協することなく、そこには、エロスも描かれています。今回は3冊しか読めませんでしたが、作家のそれぞれの年齢の中で自分自身や社会と対峙し、作られたことが伝わってくる作品で、国際アンデルセン賞ノミネートにふさわしい作家だと思いました。 今年も一年たいへんお世話になり、ありがとうございました。みなさま、よいお年をお迎えください。 (土居 安子) <大阪国際児童文学振興財団からのお知らせ> ●「日産 童話と絵本のグランプリ」受賞作品原画展 当財団主催「第32回 日産 童話と絵本のグランプリ」(平成27年度実施) の入賞作品の原画展を開催します。3月上旬に予定しています第33回(平成28年度実施)グランプリの発表後は、新しい入賞作品の原画に展示替えします。 場 所:大阪府立中央図書館 国際児童文学館 展示コーナー (東大阪市荒本) 日 時:平成29年1月6日(金)〜3月28日(火) * ただし、国際児童文学館の開館日時 入場料:無料 http://www.iiclo.or.jp/07_com-con/02_nissan/index.html * 三辺律子です。 今年さいごの児童文学評論です(配信は新年だったらごめんなさい、それはわたしが遅れたせいです)。いつもお付き合いいただき、ありがとうございます。来年こそは、もっと本の紹介や【追記】も書きたいと思っています―――たぶん。どうぞよろしくお願いいたします。 先日、翻訳者の方々と「あとがきを書くのが好きか?」という話題になりました。その後も、翻訳者の方にお会いするたびにうかがっているのですが、答えは今のところ、6:4くらいで「嫌い:好き」。実は、わたしもとても苦手なのです。それで、「子どもと読書」にこんなエッセイを書いてみました。ご一読いただければ幸いです。ちなみに大人になった今、あとがきを(書く方でなく)読む方は、大好きです。 〈ただ楽しむだけでいいんだ!〉 私は今、翻訳家の金原瑞人さんとイラストレーターのオザワミカさんと「BOOKMARK」という海外小説を紹介するフリーペーパーを発行している。「海外小説は読まれない」とか「海外小説は小難しい」という声をしょっちゅう耳にし、また、若い読者から楽しめるような海外小説を紹介する場が少ないのも残念で、だったら自分たちで作ってしまおう、と思ったのが出発点だ。 今(16年秋)、配布されている5号のタイトルは、「過去の物語が未来を語る」。歴史小説を中心とした特集だ。ところで、私は「本は知識の宝庫」というような言い方に、妙に反発してしまう。子どものころ、読書感想文は大の苦手だったし、心底楽しんだ本のあとがきを読むと、いつも私が思ってもいなかったようなことが書いてあって、「これがこの本のテーマだったのか・・・・・・」と自分の理解力のなさにショックを受けたりした。本は知識を得たり学んだりするためのもので、ただ楽しむだけじゃだめなんだ、と思っていたのだ。本を読むのは好きだったから、読み続けたけれど、自分はわかっていないという思いはずっとつきまとっていた。子どもにとって、そのくらい「エラい大人」たちの言うことは大きいのだと思う。だから、(エラくないけど)大人になり、自分で価値判断を下せるようになって初めて、楽しみのためだけに本を読んだっていいんだ!と気づいたとき、嬉しいのと同時に、腹が立ってしまい、本=知識といった考えにアレルギーを持つようになった。 けれど、BOOKMARKの歴史物特集の選書をしているとき、ふと一年ほど前に読んだ、元駐中国大使の宮本雄二氏の日経新聞のコラムを思いだした。中国課に赴任した宮本氏が中国共産党の文献を「真面目に」読んでいたところ、先輩に「共産党の文献をいくら読んでも中国のことはわからないよ。三国志や水滸伝を読みなさい」と言われたそうだ。そして、そちらのほうがずっと中国という国や中国人のことを理解するのに役立った、と。 ああ、そうなのだ、と思った。本はもちろん、教科書で習うような知識も教えてくれる。でも、それ以上に、文献だけでは説明しきれない国や時代の空気やにおいという「知識」も伝えてくれるのだ。 というわけで、大人になっても相変わらず「エラい大人」に影響を受けている私である。(「子どもと読書No.421」より」 〈一言映画評〉 三辺律子 *公開順です 『ネオン・デーモン』(←1月公開なのに間違えて先月載せてしまったので、再掲です) 『ドライヴ』のレフン監督。モデルを夢みてロサンゼルスへやってきた16歳のジェシーが、ファッション業界の毒に染まっていくさまを描く。美に固執する女性たちというストーリー展開はやや紋切り型な気もするけど、毒々しい映像はさすがです。主演のエル・ファニングが最高にかわいい。 『スノーデン』 あのオリヴァー・ストーン監督が次に題材に選んだのは、これ。NSA(米国国家安全保障局)のエドワード・スノーデンが、アメリカ政府の情報収集・監視システムの存在を告発するに至るまでの道のりを描く。これを見たら、ぞっとせずにいられないと思う! 秘密にできる情報なんて皆無に等しい。日本では、監視カメラで犯人逮捕、といったいい側面しか報道されていない印象があるけれど、今ここで、もう一度考える必要があると思う。 ドキュメンタリの『シチズンフォー スノーデンの暴露』と併せて観ると、尚いいです! 『ぼくと世界の方程式』 自閉症スペクトラムで数学に希有な才能を持つ少年ネイサン。善き理解者であった父親を事故で失い、息子を愛し理解しようと必死な母親と二人の生活に。彼の望みは、高校生の数学オリンピックに出場すること。その願いを叶えるべく、英国チームの一員として台湾での合宿に参加する。さまざまな悩みや苦しみや望みを抱える子どもたち。やがてネイサンは、中国チームの少女チャン・メイと親しくなり・・・・・・。 ネイサンの苦しみ、母親の哀しみ、ネイサンの教師マーティンの過去、チャン・メイの抱える不自由さ、やはり天才だけれど周囲と軋轢を起こしてしまうチームメイトの少年の絶望。すべてがきりきりと切ない。 *以下ひこです。 【児童文学】 『わたしたちが自由になるまえ』(フーリア・アルバレス:作 神戸万知:訳 ゴブリン書房) 60年代初め独裁政権下のドミニカ共和国での物語。12歳アニータは、ボスと呼ばれる大統領の下、平和に暮らしていると信じていましたが、しだいに真実を知っていきます。この国は息災国家だと。そんな中いとこ一家はアメリカに逃亡する。秘密警察はいつも目を光らせている。おじさんの一人は行方不明。大統領が暗殺され、後を継いだ息子はその報復に出る。 父親が逮捕されたアニータ一家は、友人の家のウォークインクローゼットで暮らすことに・・・・・・。 知らないこと、見えていなかったことが、アニータの前で明らかになっていく描き方は児童書ならでは。 私たちの目の前にある兆候への気づきともなる一作。 『十一月のマーブル』(戸森しるこ 講談社) 波楽(はら)は小学六年生。作家の父親は再婚で、TVレポーターの義母と妹がいる。何の不満もない生活。友だちのレイは、学校ではしらん振りをするという妙な関係だけでそれでも学校生活で困っていることもない。 はらは父親宛ての実母の七回忌の知らせを読む。実母絵御父親から奪った男からの。はらは、彼に会いに行く。あることを確かめたくて。 人が生きていくことの、ある意味での切実な矜持が、ここには描かれている。 『スパゲッティ大さくせん』(佐藤まどか:作 林ユミ:絵 講談社) あっくんは料理が大好き。キッズシェフコンテスト県大会で三位に入って全国大会に進みたいと思っています。 今年の課題はスパゲッティ。 麺を湯がくのにも一苦労。そんなとき、祖母が貸してくれたイタリアの料理本。そこから現れたスパゲッティの精たちは、一から教えてくれます。 レシピも付いていますので、これを読んで、ぜひ料理を好きになってくださいませ。 麺はとにかくかために湯がいて! 固くてもソースで調整は効くし。 『カレー男がやってきた!』(赤羽じゅんこ:作 岡本順:絵 講談社) 子どもたちの家にカレー男がやってきて、各家庭のカレーを味見する。どれもおいしいが、何かがちょっと違う? 男はキャラメルをくれて去って行く。 当然「ぼく」もカレー男に来て欲しい。手作りカレーで待っていたら・・・・・・。 おもしろい発想で、日本のカレーを描きます。 これを読んで、ぜひ自分のカレーに挑戦してください。 『魔女になりたい! 見習い魔女ベラ・ドンナ』(ルース・サイムズ:作 神戸万知:訳 はたこうしろう:絵 ポプラ社) 養い親が必要なベラですが、彼女の「魔女になりたい」という気持ちを受け入れてくれる人はなかなか見つかりません。 そんなベラですが、リリスさんには何故か一目惚れ。自分の希望を隠してよい子になってでも、彼女の子どもになりたいと思います。 そうして、二人は一緒に暮らすことに。服も黒からピンクに変えて、良い子を演じるベラ。しかし、実はリリスさんは……。 【絵本】 『それでも、海へ 陸前高田に生きる』(安田菜津紀:写真・文 ポプラ社) 津波で壊滅的打撃を受けた陸前高田の漁港。犠牲者を思い、漁をやめてしまった猟師。彼が再び海に出たのは……。 ある家族を通して、震災後の暮らしを安田が切り取っていきます。 『シラユキさんとあみあみモンスター』(アンネマリー・ファン・ハーリンゲン:作 野坂悦子:訳 BL出版) やぎのシラユキさんは編み物が大好き。今日はいつもと違う物をと、子羊を編んでみたら、あらまあ、元気に走り出しました。でもね、文句を付ける人は必ずいるもので、ひつじおばさん現れて、私の方が上手だと言い始めます。そんな話を聞きながらわけがわからなくなってシラユキさんが編んでしまったのはオオカミ。あっという間にやぎおぼさんを食べてしまいました。 物置に逃げ込んだシラユキさん。編みだしたのはライオンですが……。 オオカミは食べられたけど、ライオンはまだ食べ足りないらしく、おいしいやぎに匂いに惹かれて……。さて、どうしましょうか? 人の心理を絵本という媒体で巧く引き出しています。 『すうじかるた100かいだてのいえ』(いわいとしお 偕成社) 『100かいだてのいえ』をベースに、かるたができました。各階の数字と生き物を描いた手札と絵札で構成されています。 何種類かの遊び方が記してあるのですが、それ以外を工夫してもいいでしょう。いずれにせよ、数字に強くなる。 『父さんたちが生きた日々』(岑 龍:作 中 由美子:訳 童心社) 1912年、貧しい山村に生まれた父さんは、頑張って勉強をし人類学を学び、日本に留学した。そこで親友になった山本とは家族とも親しく付き合い、二人は共に学んだ。が、戦争が始まり父さんは山本さんと再開を誓い中国へ戻る。しかし戦争は二人を二度と会わせることはなかった。 骨太の岑龍の画が、二人の濃密な時間と、残酷な戦時下を描きます。 『ゆき まだかなあ』(マーシャ・ダイアン・アーノルド:文 レナータ・リウスカ:絵 江國香織:訳 光村教育図書) あなぐまが望遠鏡を覗いています。なかなか降らない雪を探しているのです。やってきたハリネズミが雪の降る理屈を説明しますが、待ちくたびれたあなぐまは鍋をならして、雨乞いならぬ雪乞いを始めます。オポッサムやうさぎも加わって大騒ぎ。石を空に投げても降ってくるのは石だけ。踊って歌って、それでもだめ。がっかりするあなぐま。 雪は降るのでしょうか。 待ちわびる気持ちが絵本になりました。 レナータ・リウスカの表情豊かな絵が素敵。 『だれのおしり? まきばにいこう!』(カレン・ウォール:さく いしづちひろ:やく 小学館) 幼児向け絵本。折られたページに、ある動物のおしりの部分が描かれています。そして、「のどを ごろごろ ならすの だあれ?」といった言葉。ページを拡げると、「ながい おひげの ネコ!」とあり、ネコの全身が現れます。 このパターンの繰り返しが、なんだかおもしろいです。おしり部分はリアルではなく、パターン模様に彩られていて、それも楽しい。 『雪のふる夜の 奇妙な話 妖会録』(大野隆介 ロクリン社) 大雪におおわれた山中。ミチオは雪女に襲われる。 眠っているハナコの枕元に小さな男が立った。「お願いがあります。わたしといっしょに来てください」。 夜道を小さな人と歩くハナコ。道々たくさんの妖怪が現れていますがハナコは気づきません。 ハナコはミチオを助けることができるのか? 『夜の神社の森のなか』で描き出した精密なモノクロームの世界を再び。いやあ〜、いい絵だ。 『ことわざ生活あっちこっち2冊セット』(あかいわ しゅうご:著 ヨシタケ シンスケ:イラスト 草思社) 自分向けの「こっち」編と、相手との関わりを考える「あっち」編のセットです。ことわざを、ヨシタケシンスケがどう解釈して絵にするか。お楽しみください。巧いなあ。 *絵本カフェ(公明新聞) 2016/07~2016/12/ 『ちっちゃいさん』 新しく迎える命を描いた絵本は、私はいかにあなたを愛しているかを語り、赤ちゃんの可愛さや純粋さをたたえるものが多いです。けれど、それを読んでもらう子どもは息苦しいのではないかな? この作品はちょっと違います。赤ちゃんはそもそも何者なのか。この突然やってくる不思議な生き物についてユーモアを交えて語ります。 赤ちゃんの泣き声は親をイライラさせることもあります。が、「すごい おとを だすので、どこに おいたか、いつでも わかるのです」と考えれば気分も少しは晴れます。 泣き声で何を要求しているか、親にはなかなか分かりません。でも、「どの こたえが ただしいか、なるたびに あてるのは たのしいです」と思えばいいのです。 食べたものは「おさまるか、もどってくるか、どちらになるかは ざんねんながら だれにも わかりません」。 この絵本を読む子どもは、自分がちっちゃいさんだったころ、こんなとんでもない生き物だったんだと笑い転げるでしょう。そうだったんだよと、親も一緒に笑えば素敵な時間が生まれます。 そして、「ちっちゃいさんが くるまえ、どんなふうに くらしていたか、おとなたちは おもいだせなくなります」という言葉。大人と子どもの愛情は、この絵本に描かれているようなドタバタやジタバタの中で自然に育まれていくものだということが、心にしみこんでいくと思います。 こんなに愛情深い赤ちゃん絵本を私は見たことがありません。(2016/07) 『せかいでいちばんつよい国』(デビッド・マッキー:作 なかがわちひろ:訳 光村教育図書) 大きな国の人々は幸せに暮らしています。そこで大統領は考えた。この幸せを他の国にも拡げよう。大統領は戦争を始めます。もちろんほかの国の人々は命がけで闘いますが、力で勝る大きな国に征服されてしまいます。 とうとう残ったのはたった一国。あんまり小さな国なので後回しにされていたのです。 ついに大統領は小さな国に向けて進軍します。 ところがついてみてびっくり。小さな国には兵隊がいません。軍がないのです。これでは戦争が出来ない。しかも小さな国の人々は彼らを歓迎してくれます。兵隊たちはその穏やかで楽しい時間を満喫。本当に幸せな気持ちになり、小さな国の人々の手伝いをするようになります。 平和な日々を過ごして「たるんでしまった」兵隊たちに怒った大統領は、国にいり「しゃきっとした」兵隊たちと交代させます。ところがやってきた新しい兵隊たちもやっぱり楽しい日々を満喫。しかも大きな国に戻った兵隊たちは、小さな国で学んだ平和な日々を忘れられず小さな国の料理を作り、小さな国の服を着て、子どもたちと遊び、楽しい時間を満喫しています。気づけば大統領自身も我が子に聞かせる歌は勇壮なものではなく小さな国の楽しい歌になっていたのでした。 兵隊も大統領も人形のように可愛く描く、この寓意に満ちた絵本から私たちは、自分が一番正しいと思い込む権力者の愚かさや、それに対するしなやかで豊かな心の強さを受け取ることができます。そのメッセージは、今の時代にこそ響いてくるものでしょう。(2016/08) 『あおのじかん』(イザベル・シムレール:文・絵 石津ちひろ:訳 岩波書店) ふしぎで魅力的なタイトルですね。「あおのじかん」って何? それは「おひさまが しずみ よるが やってくるまでの ひととき」。茜色の陽が沈んだ後、まるで漆黒の夜を準備するかのように、濃い青色に染まる時間です。。 フランス語でHeure bleue。英語ではBlue hour。 この絵本は、その不思議な時間を生物、静物、風景、そして何より色彩で見事に表現しています。 まずは最初のページの淡い青の空、山の稜線、黒く沈む針葉樹といった風景をゆっくり眺めてください。ページを繰ると、枝で啼いているアオカケス。次のページには、氷の光を受けてほんのり青にそまったホッキョクギツネ。次は、池の中、睡蓮の葉の上ではコバルトヤドクガエルたちが集まって鳴き声を上げています。 青い光の中で命が息づく様。生き物の声も、木立の音もするけれど、画面が静けさに包まれています。それはきっと青のせいなのでしょう。青は私たちをおびえさせると同時に、優しく鎮めもします。 しだいに黒を増していく画面。 夜が訪れます。 絵本には外の光景が描かれているはずなのに、いつの間にか自分の心の中を見ているような気分になってきます。不思議で魅力的な感覚。 これだけ微妙な色の変化を描いた絵本も珍しい。見返し部分に様々な青が並べてあり、それらには素敵な名前が付けられています。ぜひ、たくさんの青と出会ってください。 ところで私の家の近くに、この絵本と同じ名前のビストロがあるのですが、行きたくなりましたよ。(2016/09) 『みどりのトカゲとあかいながしかく』(スティーブ・アントニー:作・絵 吉上恭太:訳 徳間書店) この奇妙なタイトルには、誰もが、「え、何?」と思うでしょう。表紙には確かにたくさんのみどりのトカゲと、たくさんのあかいながしかくが描かれているのですが、なぜこの組み合わせか意味がわかりませんし、想像も付きません。 ページを繰ります。 みどりのトカゲとあかいながしかくが見開きの中で闘っています。一見、ただの陣取り合戦のように見えますが遊びではありません。戦争です。 「ねえ、なんのために たたかっているの?」と訊いた一匹のみどりのトカゲは、あっという間に踏み潰されてしまいます。戦いは続きます。 一方が優位にたつときはあるけれど、すぐに反撃されて今度は劣勢に立たされます。戦いに終わりはないのです。色の違いが、それをはっきりと見せてくれます。 しかし、やっぱりなぜ、トカゲとながしかくなのかがわかりません。色違いのトカゲ、またはながしかく同士の戦いとして描かれれば私たちは、「子ども向けにデフォルメしたのだな」と納得しますが、この組み合わせには大人読者も困惑し、考えざるをえなくなります。 消耗戦の果て、あかいながしかくの一つが叫びます。 「たたかいは もう、うんざりだ!」 話し合いが始まり、一緒に生きる決定がなされます。 そのとき私たちはようやく、戦うのがみどりのトカゲとあかいながしかくだったのは、多様性の許容と、共存を見えやすい形で示すためだったとわかります。 言葉ではなかなか伝えにくいことが、絵本では表現できるよい例です。(2016/10) 『おはなを あげる』 基本的に絵本は言葉と絵で出来ています。言葉が作る世界を絵が支えつつ、画家の解釈を施していくわけです。 言葉と絵が常に抜き差しならぬ関係を保っているのが絵本と言えるでしょう。 ところがこの絵本。いっさい言葉がありません。 帰宅途中の父親と娘。父親はスーパーの袋を持っていて、そこからバゲットが覗いています。きっと夕食の材料が入っているのでしょう。彼は前を向きひたすら歩いています。早く帰って食事を作りたいのかも知れません。携帯電話で話すのにも忙しい。一方の娘は街のあちこち、地面や壁から顔を覗かせている草花に目をとめ摘んでいきます。 そして今度はその花束から花を抜いて、死んだ小鳥、ベンチで眠っている人の足下、犬の首輪。次々と花で飾っていきます。 私たちは言葉による説明ではなく、少女の行動、行為そのものから、たくさんのメッセージと、少女の心の、なんとも知れぬ暖かさをもらうことが出来るでしょう。 言葉が書かれてないからといって、絵描きだけで作った絵本ではなく、ちゃんと作者はいます。もちろんだから作者の心の中言葉はあったはずです。それが次第に削られてついにはなくなってしまったのか、それとも、最初から言葉は付けないと決めていたのか。どうであれ、沈黙こそが最良の言葉でもあることを知っているのでしょう。 どうぞ絵本を開いて、ご自身の言葉で読んでみてください。(2016/11) 『くらべた・しらべた ひみつのゴキブリ図鑑』(森口満:作・絵 岩崎書店) ひょっとしたら、一番見たくない絵本かもしれませんね。タイトル通り、ゴキブリについて学習できます。 ゴキブリの先祖は石炭紀(三億年前)のローチロイドで、同じ先祖から進化したのがカマキリで、とげのある前脚がよく似ています。シロアリはアリの仲間ではないことはよく知られていますが、実はこのローチロイドから進化したゴキブリの仲間です。 ゴキブリは野に暮らすものも多くいます。というか、その中から家で暮らすことを選択したものたちが、私たちになじみのゴキブリです。人間的発想では野にいる方が大変そうですが、ゴキブリにしてみれば、乾燥していて食料にも乏しい屋内は過酷な環境なのです。 ゴキブリは古いタイプの昆虫なので、飛んでいるとき目の前に人間がいても簡単に迂回できずぶつかってしまう。だからあれは決して攻撃してきているのではないのです。 この絵本ではそんなゴキブリの詳しい解説と、世界中のゴキブリのリアルな絵が満載です。 こんなにたっぷりとゴキブリの知識を身につけてどう使えばいいのだろう? 使うことはあるのだろうか? と疑問に思ったあなたにこそ、この絵本は読んで欲しい。 ゴキブリは知っているし、見たこともある。けれど嫌いなので、それがどんな生き物かはよく知らない。というのが大多数でしょう。でもこの絵本を読めば、どんな生き物かよく知ったにもかかわらず、何故自分はゴキブリを嫌いなのだろうと思考することが出来ます。その方が、遙かに生産的だし、間違いなく好奇心を活性化します。ぜひ、どうぞ。(2016/12) |
|