じどうぶんがくひょうろん

No,16 1999/04/25


           
         
    
牛の春』(五味太郎 偕成社 1999,01)
 復刊もの(1980/04/30 リブロポート刊)ですが、だからこそかな、五味太郎の基本形が素直に表れている作品です。「春がきます」のキャプションが付いた最初の絵では、羊かとも思うような真っ白な仔牛。?と思っていると、次の絵では、私たちがよく知っている、背中に黒い模様の入ったホルスタインの仔牛。つまり雪解けで、白の中から黒い土が顔をだした。で、その黒い背中が今度はアップになって、その土に草の芽が伸びてきて・・・。とどんどんイメージが広がって行く。
 この素直な展開と広がりをひねって幾つものバリエーションにして量産する技が、五味太郎世界なんですね。
 やっぱ、すごいわ。


の愛 与謝野晶子の童話 』(与謝野晶子著 松平盟子編著 婦人画報社 1998)

 タイトルがのっけから「母の愛」で、ヤバイなと思ったら、やっぱり、「与謝野晶子は豊饒な母性の人だ。母性の大きなエネルギーに突き動かされ、母としての充実を求め、生きた人だった」といった言葉に遭遇してしまいます。
 晶子がらいてふと母性保護論争をしたのは良く知られている。国家による母性保護を主張したらいてふに対する晶子の反論は、女は母性のみに生きているのではないこと、「与謝野晶子は(略)、子どもが母親たる自分の自我の中に抱かれることを知っている、と自らの実感も語る。だが晶子が実感を語るのは、その体験にもかかわらず、『私は母性ばかりで生きて居ない』と言うためであった」(「母性を問う・歴史的変遷(下)」西川祐子 人文書院 1985)。とすれば、晶子の童話もまた、母性だはなく、その文脈で読みとられることを望んでいるはず。
 にもかかわらず、こうした読みがでてしまうのは、まあ、読みたいように読むってことだけなんやろうけど、ヤレヤレです。

の名はヤン』(イリーナ・コルシュノフ作 上田真而子訳 徳間書店 1979/1999)

 コルシュノフの名は、この国でも傑作『ゼバスチアンからの電話』(ベネッセ・コーポレーション 1980)や『誰が君を殺したか』(上田真而子訳 岩波書店 1978 現在品切れ中・頼むよ岩波。)でよく知られていますが、『彼の名はヤン』は『誰が君を殺したか』と『ゼバスチアンからの電話』の間に出された作品。
 これら3つは全く違う時代の、違う素材を描いていますが、それでも共通しているのは10代の子ども・青年への作者の信頼ですね。
 この3つの中でも『彼の名はヤン』は、一番深刻な素材を扱っています。
 ナチス・ドイツ時代、ヒットラー女子ユーゲントにいたにもかかわらず、ポーランド人のヤンを愛してしまった17才のレギーネ。そのことが発覚し、ヤンは連れ去られ(おそらくリンチの後、絞首刑にされ)、レギーネも監獄に入れられるけれど、空襲が街を襲い、そのどさくさで、逃げて知り合いの農家にかくまわれるレギーネ。
 物語は、その匿われている時のレギーネがそれまでの自分を思い返すという構成になってます。
 日本の戦争児童文学は、子どもは被害者、大人も軍閥の被害者といったノリで戦争責任を回避してきたのですが(ま、この国そのものがそうですが)、『彼の名はヤン』は違います(これだけじゃなく、ドイツにはたくさんありますが、『彼の名はヤン』はその最初の作品)。
 レギーネ自身もナチスを支持していたこと、それでも愛した男がポーランド人であるなら、その愛の方を選んでしまうこと。
 にもかかわらず、愛してもいないけれど、もうすぐ戦地に行き、まず確実に戦死する若者に愛されてしまい、その愛に答えてやって欲しいと彼の母親に請われたとき、快感はなくても、彼の最初で最後の性交の相手となるレギーネの気持ち。
 こんなに克明に、戦時下の10代をちゃんと描いた物語はちょっとないでしょう。
 ゾクゾクっとします。

おかみのこがはしってきて』(寮美千子・文 小林敏也・画 パロル舎  1999.03)
 現代とその未来をいい切り口で描く、寮美千子が初めて挑戦した、「アイヌ」民話物。大地への畏怖をめぐるそのストーリーは、とてもシンプルに描かれていて、ために小林敏也の画のシンプルさとリンクして、低温化してしまいそうなのが一見難点だが、その熱くないスタイルが、かえって、妙な「先住民評価」という「差別」から物語を救っている。

りへいったすとーぶ 』絵本(片山健え 神沢利子ぶん ビリケン出版 1999) 神沢利子のこの物語がいつ書かれたかは、無知で知りませんが、正しく乱暴な片山健の絵を得て、ハネるような絵本に仕上がっています。冬はあんなに可愛がられていたのに、夏になるとシカトされてしまうストーブが、スネて森に行くと・・・。
 神沢利子ってエンターティナーだなーと改めて確認。
 
あかりの国』(マリット・テルンクヴィスト絵 アストリッド・リンドグレーン文 石井登志子訳  徳間書店 1949(テキスト)1994(絵)/1999)
 リンドグレーンの短編をテキストに、テルンクヴィストが絵を付けたもの。もう一生歩けないことがわかった日、ヨーラン少年は、4偕なのに、窓を叩いて入ってきたリリョンクバストというおじさんと飛び出し、『夕あかりの国』に向かう。そこではキャンディの実る樹や、ヨーランでも運転できる市電があり、その幻想的世界でヨーランは心の痛みを解放していく、といったストーリー。こうした既にできあがっている物語には、絵の入り込む余地は殆どなく、せいぜいが挿し絵止まりとなるのが普通でしょうけれど、この場合、テルンクヴィストは、見事に絵本にしてしまっています。幻想的世界を、現実的な場として描くことで。とりあえず、どうぞ、書店でご覧ください。

ぐらのディガー』(ケン・リリー絵 テサ・ポター作 今泉吉晴訳 文渓堂  1996/1998)
 「シリーズ・森の動物たち」の3作目。もぐらの生態、いや、生活がいいな、生活を描きつつ、ディガーの周辺に様々な動物をさりげなく描き、物語を読み終えた後に、どんな動物がいたかを、もう一度探す、という仕掛け。シンプルですが、楽しいですよ。動物達の表情が実にいいんやね。


まで』(味戸ケイコ画 舟崎克彦文 パロル舎 1999)
 「超世代絵本」と名付けた、パロル舎のシリーズの一冊。これまで4冊でていて、内1冊は前回ご紹介した『旅うさぎ』なんですが、それを除いて3冊は舟崎克彦の文に、様々は絵描きが絵を提供していて、もう舟崎克彦ワールドそのもの。どういう作り方をしているかは知りませんが、それぞれの絵描きの作風と、舟崎克彦の物語がとても一致している。それぞれの絵描きをイメージして、文を書いているのかしら?
 てなことで、ストーリーの紹介は、あえて、出版社のをそのまま引用しておきましょう。
「あなたの声がする…。失われた恋人を探し求め、ふいに降り立った先で「私」を待ち受けていたものとは?」


界でいちばんやかましい音』 (ベンジャミン・エルキン作 松岡享子訳 太田大八/絵 こぐま社 1954/1999)
 ガヤガヤという都の人々は、口を開けるとどなるかわめくしかしない。笛も大きく鳴らすし、バケツをガチャガチャ倒したり、とにかくもう、王様以下みんな、やかましいのだ大好き。王子様ももちろんそうで、誕生日のプレゼントになにがいいかと王様に訊かれ、世界一大きな音を所望。そこで国中どころか世界中の人々に、王子様のお誕生日の決まった時間に大声を上げてもらうように、伝える。せっかくのお祝いだからと世界中の人々が同意しますが、ある一人のおばさんが、自分もその世界一大きな音を聞きたいけれど、大声だすと聞こえないから、自分だけは口をあけて、声は出さず、出しているフリをしようと・・・。
 こういう、基本中の基本みたいなストーリーっていいよね。でも、もう今は書けないでしょうね。
 なごみ系です。


絵本(新美南吉・作 長野ヒデ子・絵 偕成社 )
 こちらも『夕あかりの国』と同じように、短編に絵をつけたもの。「・日本の童話名作選」シリーズで、サブに「大人の絵本」と付いています(こうした括りは、微妙ですけれど、現在は、絵本という形態をとることも必要でしょう)が、それに()を付けて、「小学中級以上のお子様にも」とキャプションしているのが、おかしい。
 出来はいいですよ。『ごんぎつね』とはタイプの違う南吉の物語。それを知るにも、チェック。長野ヒデ子の絵が、ピタリはまっていて、これはもう、編集者の勝ち。


ディーのダンス』絵本(クレア・ジャレット掛川恭子・訳 小峰書店 1999/1999)
 原本が1999年で、翻訳も1999年でしかも2月! というのはよくわからないのですが、表紙の絵、虹色のドレスを着て左足を大きく挙げ、両腕も精一杯に広げているマディーを見ていると、これは絶対楽しい絵本に違いないと思わせます。
 おゆうぎかいで、お姫様のダンスをしたいと言ったマディー、でも踊れないでしょんぼり。
 となったら、そんな子どもをどう救うかが、書き手の腕の見せ所。
 木陰で悩んでいると、ポメロイという名の犬が、虹色のパラシュートで降りてくる。
 「なんでや?」なんて理屈言ってはいけません。子どもが悩んでいるとき、「犬が、虹色のパラシュートで降りてくる」なんて、思いつきます?


かい りんご』絵本(赤松まさえ・文 いわさき さよみ・絵 けやき書房 1999)
 京都にある共同作業所(障害者が働く場)を舞台にした絵本。
 帯には「知ってほしい! 共同作業所で働く人を!」のコピー。
 もうそれだけで、意は充分に伝わってしまう。どうして、そんなことをしてしまうんだろう? がまんが足らないというのか、ノンキというのか、悪気がないだけに、困ってしまう。だから「伝わる」けど、残らないということに、そろそろこの手の本作りする人は考えて欲しい。

イジ』(重松清 朝日新聞 1999)
 今のっている書き手の一人、重松の朝日新聞連載を大幅加筆の作品。
 タイトルは中学2年の語り手の名前、そして、ラスト近くにそれを、エイジ自身が「eiji」ではなく「age」と綴るところに、この物語の設定と意図がよく表れている。「14歳」物。
 物語は、通り魔事件の多発している街の中学とそこの生徒達の姿を、かなり平板に描いている。といったからといって、それは否定形でもない。タイトルの露骨さからも明らかなように、それは意図的であるだろうからだ。従ってわたしは今、『「14歳」物』などと、一括り的に書いたのだ。
 やがて通り魔はクラスの「マイナー系」(ゲーム系)の生徒であったことがわかり、彼と自分(エイジ)に差異はあるのか、クラスのみんなの反応は、といったことが、描かれていくのだが、その語りから浮上してくるのは、彼らの関係性の取り方。幾つかを引用しておきます。
 
「エイジも、やっぱりオレだと思ってた?」
 少し迷ったけど、立ったぼくとしゃがんだツカちゃんとでは視線が合わない、そこを逃げ道にするつもりで、「ちょっとだけ」と言った。
 ツカちゃんは怒らなかった。「まあ、オレでも思うわな」とオヤジっぽい言い方をして、頭の後ろを壁に軽くぶつけた。103

 片桐くんはまだ粘ろうとしていたけど、ぼくは「じゃあね」と言って電話を切った。今度からあいつが話しかけてきてもシカトだな、と決めた。でも、もし通り魔が北中学の生徒だったら、ぼくだっていまと同じ電話を片桐くんにかけたかもしれない。
 そんなこと、ぜったいにしないよオレ-なんて言わない。149

 がんばれよ-とは言わない。最初から決めていた。岡野だって、ぼくの顔を見た瞬間に決めたはずだ。助けてくれよ-なんて、言わない。
 オトナはみんな怒って言うだろう。「どうして悩んでいるのを相談しないんだ」とか「いじめに気づいているのに、なぜまわりが救ってやらなかったんだ」とか、「それでも友だちなのか」
とか、いろいろ。
 ぼくたちは間違っているのかもしれない。相沢が言っていたように、カッコつけてるだけなのかもしれない。でも、ぼくたちは、カッコ悪いことがとにかく大嫌いで、カッコ悪いことをやってしまう自分が死ぬほど恥ずかしくて、たとえば小松だったら「岡野くんを助けてあげて」と言われたら待ってましたとバスケ部の部室に駆けつけるのかもしれないけど、ぼくはそういうのがサイテーにカッコ悪いと思っていて、じつは「ゆーじょう」なんていうのもぼくにとってはカッコ悪い言葉で、それは岡野も同じだと思うから、だからぼくたちは……。230

 父親の誇りのために闘う息子なんて、いっとうカッコ悪くて、奴らはそれを待ちかまえていて、たとえぼくに十発殴られても、あとで百倍ぐらい笑うだろう。
 ぼくは黙って歩きだした。誰も追ってこなかった。背中に笑い声がしばらく聞こえていたけど、途中からは別のことで笑ってるみたいだった。
 キレなかった。えらいぞ-なんて、ぜったい言われたくない。260

 この辺りの、時代の捉え方は、やはり今ノッテいる書き手の力でしょう。
 故干刈あがたの『黄色い髪』と読み比べてみてのいいかも。

はるかな湖』絵本(アレン・セイ 椎名誠訳 徳間書店 1989/1999)
 父息子の物語。
 夏休みなのに、仕事ばっかでちっともかまってくれない父。が、ある日「ひみつの湖」に連れて行ってくれることに。リュックをしょって、山奥へ。けど、父さんが子どもの頃「ひみつの湖」だった所はすでに観光化されていて、だから二人はもっともっと奥へと・・・。
 ブルーをベースにした水彩画が、いい味をだしています。でも、ストーリーは目新しくありません。

このホレイショ』( エリナー・クライマー文 ロバート・クァッケンブッシュ絵 阿部公子訳 こぐま社 1968/1999)
 飼い主のケイシーさんにとてもだいじにされていたホレイショなんですが、このケイシーさんが、色んな動物を救ってくるので、自分をかまってくれないとスネたホレイショ、家でをします。さて、外で彼はどんな出会いをするのでしょう。
 30年前の素朴な絵とストーリー。もちろんですから、幸せなラストは保証付き。

ょうちょう』絵本(マーヴリナ絵 コヴァリ文 田中泰子訳 ブック・グローブ 1987/1999)
 ロシア唯一のアンデルセン賞画家マーヴリナによる絵。表紙タイトルと、コヴァリによる文の出だしの一字は全部ひらがなになっています。なんでも訳者の求めに応じてマーヴリナが描いたもの。彼女最後の仕事だそうです。
 ちょうちょうをキーワードに、作家コヴァリ自身らしい「ぼく」が触れた様々な自然が描かれていく。ペレストロイカ期に学齢前児童用図書として出版されたそうですが、レベル高いワ。

ちゅうひこうしに なりたいな』絵本(バイロン・バートン ふじたちえ訳 インターコミュニケーションズ 1988/1999)
 これはまた、子どもにとてもわかりやすい、シンプルな絵とシンプルな素材の絵本。ごちゃごちゃ説明するのも憚られる。
 これって、なかなか難しいことなんですよね。

ボンちゃんのリボン』絵本(市川里美 徳間書店 1995/1999)
 パリ在住でこれまでの功績でパリ市民賞ももらっている、市川。
 ですから私たちは、ヨーロッパ発のアジアン作家の作品を観ることとなります。しかもこれは南の島の物語。
 ということで、ナショナリズムは見事に葬られ、あるのはただただ、物語だけ。
 『リボンちゃんのリボン』という不思議なタイトルからその物語を想像してください。リボンがとても巧く使われています。