じどうぶんがくひょうろん

No.21 1999/09/25号


           
         
    
【絵本】

『ハローウィンナー』(デーブ・ヒルキー かねはらみずひと訳 アスラン書房 1995/1998)
 ダックスフンドのオスカーはその体型からウィンナーとからかわれています。ハローウィンの日、おかあさんが作ってくれた衣装はお化けや怪獣じゃなく、なんと、ホットドッグ!もちろん、オスカーがウィンナーとして入る形ですね。
 やれやれ。どうなることやら。
 マイナスからスタートする物語は、主人公をどううまく回収するかがツボなんですが、というか、彼をからかう回りも回収できるか、なんですが、これは割と巧く行ってます。

『地下室のティーパーティー』(曽我舞 小峰書店 1999)
 先月紹介した『ワニニンのとくべつな一日』(理論社 1999)の作者。
 地下の国に住む動物、ヘビやカエルやモグラのパーティーに招待されたローズちゃん。かれらはどうして招待してくれたんでしょう? それはローズちゃんが怖がらないから。人間はいつも彼らを怖がるのに。
 てなことで、彼ら考えた。嫌われないようにきれいな服を着ればいいのでは。で、ローズちゃんの意見を聞こうと、ファッションショー。
 ありのままがいい、という、素朴なメッセージ絵本。
 素朴すぎて、それがどうしたの? です。

『おばあさんの飛行機』(佐藤さとる/村上勉・絵/偕成社/1999)
 以前、小峰書店から出ていたものの、絵本化版。タイトルが『おばあさんのひこうき』から代わったように漢字表記も増やして、大人も読める絵本にしたとのコメントが奥付にあります。
 佐藤さとる+村上勉は不動の最強ユニットには違いなく、ここでも、文句なし!
 物語が面白い面白くない、以前に、この国でこうしたファンタジーが成立した時代を考え直したくなる一品。

『トンちゃんってそうゆうネコ』(MAYA MAXX/角川書店/1999)
 CDジャケットから本の装丁まで描くグラフィックデザイナーMAYA MAXXの絵本。3本足の黒トラ猫トンちゃんを、どーゆーやつかを描いたもの。モノクロの絵はとても力強く、言葉は全て、日本語の下に英語も表記。このままで英語圏でも出版できます。
 なによりいいのは、3本足の描き方。いかにそれが猫に不利かも淡々と描きつつ、「傷害を持っているからこそ」何たらかんたら、などという逆差別的目線はなく、ただただそうであることの生命の力がストレートに伝わります。
 だからこそ、作者のあとがきは余分。いらない、いらない。作品でもう充分描けているんだから。
 あとがきは見なかったことにして、
 「傑作」と言っておきましょう。

『でんでんむしのかなしみ』(新美南吉/かみやしん・絵/大日本図書/1999)
 なんで、新美南吉のこれを絵本化かとゆーと、IBBY世界大会の皇后講演で触れられたから。
 もう、ただそれだけ。
 かみやしんの水彩は悪くない。でもそれと作品の文字をどう組み合わせて絵本にしていくかを、どれほど考えたか?は疑問。以前、同じく新美南吉作品の絵本化『狐』(長野ヒデ子・絵 偕成社 1998)があったけど、あれにおける出す方の姿勢とは大違い。


【創作】

『キンモクセイをさがしに・ハリネズミのプルプル3』(二宮由紀子・作 あべ弘士・絵 文渓堂 1999)
 二宮の傑作シリーズ、3。
 今回は授業風景。ハリネズミの学校は秋からクリスマスまで。そのあと、ながーい冬休みと、ながーい春休みと、ながーい夏休みが続きます。宿題はなし。
 なぜなら、宿題を出しても、みんな忘れるに決まっているし、先生だって、忘れてしまうから。
 今日の授業はキンモクセイについて。忘れないように先生は持ってきたキンモクセイの鉢に「キンモクセイ」とプレートを挿しています。
 で、みんなの意見を聞き始めると、いつの間にか話題はこの前習ったような、タンポポへとかわる。
 で、改めて先生はキンモクセイの授業を始める。もちろん、さっきすでに始めていたことは忘れています。生徒もね。
 だから、初めての授業のつもり。
 なのに、みんな、この木をいつかどこかで見たような気が・・・。
 当たり前。さっき習ったのやから。でもそれをみんな忘れているもんだから、なんで知らないはずの木を知っているのか?を、探ろうとします・・・。
 やれやれ。
 このズラし方の妙。

『K&P』(岡田貴久子/理論社/1999)
 ビキニ環礁での水爆実験は、大国のエゴを見せつけた事件でした。それから50年、この物語は、島に魅せられた日本人を父に、「死の島」出身の女性を母に持つ「ぼく」が、冒険心から、「死の島」へと、おじいちゃんにもらったカヌーのチェチェメニ号で船出する所から始まります。その航路、6本足のウミガメと遭遇。無人島をなった島で出会った富士気名女の子は「ぼく」に、「お前なら、何かできるかもそれない」と言い残す。それから7年、日本の高校で学ぶため、横浜の叔母に家に下宿する「ぼく」は、港の倉庫でポルックスと名乗る少年と知り合う。彼は彼の双子の相棒カストルを探しているという。
 やがて舞台は再び、島に戻り、ポルックスとカストルの謎が明らかになってくる・・・。
 ビキニ環礁での水爆実験への思いを作者はあとがきで書いているけれど、これはいらないんじゃないかな。先にあとがき読む人に先入観与えてしまうから。
 重い現実を、どのレベルで描くか、例えばエンデのような「図式メタファ」にしてしまうのか、真っ向からぶつかるのか、それとも、
 出だしの冒険物語のノリは、いい発想だと思う。不思議の少年と出会うことも、ドキドキさせられる。が、後半、謎が明らかになり始める頃から物語が小さくなってしまうのが惜しい。「ビキニ環礁での水爆実験」からズレてしまう。KとPをもう少し動かし、なんなら、力点ももっとそこに置いてもよかったかもしれない。
 とはいえ、岡田のアプローチは讃辞にあたいする。

『ぼくも変身できるかもしれない』(ティム・ウィン=ジョーンズ/山田順子訳/岩波書店/1994/1999)
 子どもたちのさりげない日々を鋭く切り取った短編集。
 と、どこにでもあるコピーでも言っておけば、いいのでしょうが、この本の面白さは、子どもたちの日常が、彼ら自身にとって、決してさりげなくない、つまりはどんな子どもも、どんなことであれ、彼らなりの問題を抱えているという、当たり前の事態を、ユーモアのある視線によって、描いていることです。
 巧い。という言葉がもっとも相応しいでしょか。

『日本がでてくる韓国童話集』(リ・ドンソプ他/仲村修とオリニ翻訳会編訳/素人社/1999)
 こちらも短編集。タイトル通りの短編が並んでいます。物語たちの時代設定が戦中から敗戦辺りまでなのは、そこにしか日本は出てこない、ということでもあるでしょうか。
 作品の初出年は29年から92年まで幅広くありますから、その思いを一層強くします。
 もちろん、そうした時代を描いているわけですから、扱われる「日本」はマイナスイメージとしてあります。それを読むことは不快でもなんでもなく、むしろ、他者の目で自国を眺める機会として、おもしろいものでしょう。それをして「自虐史観」と捉える人々のほうが、よほど自虐的である、と思います。
 といった辺りをちゃんとおさえた上で、子どもがどう描かれているのか、又は児童文学がどのようなメディアとして韓国ではあるのかを観てみるのも面白い。もちろん、扱っている素材が似ているtいうこともあるでしょうが、およそ60年の時間差がありながら、それぞれの作品の手触りや温度はさして変わらないのが、私にはとてもおもしろかった。
 この出版社はこれまでも積極的に韓国の児童文学を翻訳しています。ご興味のおありの方は、ぜひ。
『ちっちゃなオギ』『木綿のチョゴリとオンマ』『花に埋もれた家』『力持ちのマクサニ』『子どもたちの朝鮮戦争』。

『ふうせんのはか』(さだまさし文・東菜奈絵/くもん出版/1999)
 さだまさしが初めて書いた児童文学。というのが売り。妹想いの弟を兄の視点で描いているこの物語は、さだの子ども時代に重なるわけだが、一途な弟のキャラはよく立っている。盆祭り、貧乏な家の子である3人は100円の小遣いを貰う。それで買えるものなどしれていて、兄弟は妹のほしがる綿飴を買い、弟は安物の髪飾りを買ってやる。残りはあと20円。とお金持ちの親戚の子が風船を買っている。どうしてもほしがる妹。でもそれは30円で、弟はなけなしの10円を足して買ってやるのだが、帰り道弟の背で眠った妹は風船を手から話してしまいなくす。といった貧乏物語なんですが、その、「いい話」が現代に、なにを投げかけるのか疑問。「一杯のかけそば」思い出したりして。

『真夜中のピアノ教室』(三田村信行/フレーベル/1999)
 確かに家にぼっこが住み着くなら、学校にいたっていいですよね。
 +はこのぼっこになぜか好かれていて、もちろん彼にだけぼっこは見えるという設定。今はブームが去った感のある「学校の怪談」を、「ぼっこ」の存在に置き換えて考えてみるのは面白いかもしれません。
 3年生にもなってまだおねしょをしていることをからかわれている友人を主人公とぼっこはどう救うか、といったストーリーそのものは、凡庸です。

『子犬のローヴァーの冒険』(J・R・R・トールキン/山本史郎訳/原書房/1999)
 トールキンの『ホビット』以前の「幻傑作」、というのが売り。解説によれば、自分の子どもたちに聞かせていたものを作品化したもので、『ホビット』以前のものだあることは間違いないようです。トールキンの生前に刊行されたものではなく実は本国でも書物となったのは1982年。というのは書かれたのは20年代後半のようなのですが、出版社に渡されたのは、『ホビット』の刊行が決まっていた1937年。出版社が『ホビット』以外の作品も求めたから。ところが『ホビット』が大ヒットし、出版社は『ホビット』の続編を求める。で、もちろん、例のやつが書かれ、『子犬のローヴァーの冒険』はお蔵入り、という流れのようです。
 で、今回は著作権保持者の了解も得て、トールキンの研究者の編集によって出版された。
 これはとても 微妙な話です。というのは、もし出版が、『ホビット』の次と決定していれば、当然のことながら、トールキンはいやというほど手を入れたことは間違いないからです。今回の底本となったテクストはあくまで初稿にしかすぎませんから(サミアドそっくりな魔法使いは、手稿では、まさしくサミアドという名前であったように)。そうして、完成されたとき、それは『ホビット』の次の作品となったでしょう。
 つまり、これは『ホビット』の次の作品でも、以前の「幻の傑作」でもありません。『ホビット』以前に書かれた、未定稿、というのが妥当なところでしょう。
 従って、あくまで資料的意味に絞った方がいいのですが、「幻の傑作」として、出された以上、『ホビット』と同じ場所で評価してみるのもいいのかな。
 その場合は、あまり出来のいい物語ではありません。子犬のローヴァーは海岸で間違って魔法使いのズボンに噛みついたために、ぬいぐるみにされ、はてさて、戻ることができますか?の冒険物語だけど、弛緩しています。

 だからやはり、資料として、といっても研究資料とか大げさにじゃなくて、『ホビット』や『指輪物語』ファンが、いかにトールキンが決定稿を絞り上げているかに驚き直すとか、逆に、あ、トールキンもこんな風に緩く書いていたんだ、または、書き始めはこんなラフな書き方なんだ、なんて面白がるには、いい物語です。