『子どもが扉をあけるとき・文学論』(松田司郎:著 五柳書院 1985)

1 児童文学の条件

 私は、不幸なことかもしれないが、大人になって「児童文学」というものに出会った。出会ったというよりも、「児童文学」といわれるいくつかの作品によって、目を開かされ、啓示を受けたといった方がよいだろう。
 それは「鹿踊りのはじまり」(宮沢賢治)や「さる王子の冒険」(デ・ラ・メア)や「たんぽぽのお酒」(ブラッドベリ)といった作品だったが、以来私は「児童文学」というもののとりこになり、傲慢にもその正体を自分の目で見極めたいと思った。
 私は、結果的に三つの方法でアプローチを試みたことになる。しかし、お恥ずかしい話だが、私の対応は非常に浅薄で性急でちゃらんぽらんであった。
 一つは、子どもの本の職業編集者としてであった。(これは私の人生にとって最大の幸運といってもよいかもしれない)そして、作家の創造した原稿の第一の読者である誇りを通して、私は不遜にも自身で作品を書き出した。
 初期の作品は、「児童文学」を明確には意識しなかった。意識しようにも、私には何も分らなかったし、それにまず書く必要があったのだ。
 しかし、二番目の幸運が私を数冊の作家に仕立て上げたときから、私は「児童文学とは何か?」という命題を抱えて悩んでしまった。
 私は長い間その答えをつかむことができなかった。そこで私は、内外の作品をむさぼり読み、研究書や評論書や論文に目を通すようにした。そして、私は迷いのままに、またまた厚顔にも拙文(評論)を書きはじめた。
 私は歩きながら、多くの人々からの助言を求めた。<答え>は二十年経った今でも、なお明確ではない。それは、多分私自身が《作品》を創造することによって、達成されるべきものであろう。
 しかし、一枚のガラス板を通して、水槽の中の魚をのぞくように、外側から眺望することは可能かもしれない。そう思って、私は『現代児童文学の世界』(毎日新聞社)を書いた。
 その論旨をベースにして、今回は具体的な作品にそって<児童文学の条件>を分析してみたいと思う。その分析した条件は、私が長い間(二十年間)の職業編集者として身につけたものである。

    ※

 思えば編集者というものは悲しいものである。自身の楽しみのために本を読んでいても、無心に徹することがまず少ない。ある種の職業的習癖がどこかでにらみをきかせている。過言すれば、プライベートな読書というものが既に犯されている。それが直接的に仕事と関わる場合はもう絶望的である。
 こんな風に書くとなにを大仰なことをと先輩諸氏の嘲笑をかうかもしれないが、多少のちがいはあれ編集者的意識というものが存在するのは事実である。
 職業的習癖とはいかなるものかといえば、商品としての価値を嗅ぎわけ、分析する意識のことである。本を読んでいて(それが子どもの本の場合はとくに)私は無意識のうちに“分析の四か条”に従って値ぶみしている自分を発見する。
 すなわち、@子どもの視点 A新鮮なドラマ B現代への切り込み C文学作品としての完成度――の主として四つである。
 本というものは、私たちがその作品世界に能動的に働きかけ、すべりこみ、もぐりこみ、やがて「没我」としての喜びを感受するものであると思う。私たちは作品に主体的に働きかけるが、同時に作品がもつ目に見えない力によっても左右されているのだ。その力が巧みで強ければ、恐らく私たちは一切の現実的意識をとびこえ、作品世界のもつもう一つの現実でワレヲ忘レテあそび楽しむことができるのだと思う。
 しかし、残念ながら、私のもつ傲慢な職業意識を吹きとばしてくれるような作品には、そうたびたび出会っていない。『家出―12歳の夏』(注1)は、没我の喜びを与えてくれた数少ない作品のうちの一つである。この作品に沿って、児童文学の条件といったものを検証してみよう。
 『家出―12歳の夏』はアメリカのイリノイ州で生まれ、オクラホマ大学で学んだ寡作な女流作家マリオン・デーン・バウアーの初めての作品である。荒野が果てしなく広がるアメリカ南部の高原地帯を舞台に、多感な少女が、生きることに疲れ自暴自棄のまま迷いながら、一人の人間に接することによって自己を発見する物語である。
 少女の名はステイシー。酒におぼれて家族を捨てた母親、新しい妻との生活に満足し、少女のことをかえりみない父親。どこにも入り込む余地はない。何にも意味を見つけることができない……ステイシーはそう思って発作的に家をとびだす。
 しかし、荒野には一滴の水もからだを休める木陰もなく、昼間の猛暑に比べ夜になると反対にものすごく冷えこむ。酷しい自然を受け入れ、戦うすべを知らないステイシーは、のちにニムエという名前の分る大きな犬のあとを追って、谷間にひっそりと暮らす老婆の家にたどりつく。
 だれかがきっと理解してくれるだろうとセンチメンタルに想う少女に反して、エラばあさんはひとかけらの甘さも必要以上の言葉も持ち合わせていない。食料や寝る場所は提供してくれるが、ステイシーの心の中に笑顔でわけ入り、温かく包んでくれはしない。
 エラが住んでいるのは、オクラホマのフライパンの柄とよばれる酷しい自然の荒野である。そこでは、考えたり、泣いたり、甘えたりしている暇はない。わずかばかりの畑地を守り、自然の恵みと冷酷さを受け入れて暮らすほかない。ステイシーは欲求不満となるが、じっとしていては何にもならないことを理解する。やがて、水をくんだり、たきつけたり、寝床を整えたりという、自分が生きるために必要なことを自力でやりはじめる。
 エラが谷底で足をくじいて倒れているあいだ、一人切りになったステイシーは苦境に立たされる。エラの捜索とニムエという犬のお産――甘えることの無意味さを知ったステイシーは、少女をたよりにしてうめきつづける難産の犬のために、赤んぼうをとりだしてやる。エラを見つけ苦労して連れてかえるが、くじいた足がおもわしくなく床に寝ついてしまう。
 ステイシーがとりあげた犬のうちの一匹が口に障害をもっていることが分る。エラに見せると殺せと言われ、ステイシーはまのあたりに見た生命の誕生を思い出して逆らう。しかし苛酷な自然が子犬を受け入れることのないことを知ると、涙しながらも自ら手を下す。
 生きることの意味を少しずつ捉えはじめたステイシーの心は次第にエラに対して開かれ、遠い昔夫に捨てられ、夫とともに切り拓いた谷間の地を守りつづける一人の人間の生命の重みをさぐりはじめる。ステイシーは、なお迷いながらもエラを助けようと町までエラと親しい老人を呼びにいき、エラのもとにもどる途中で自らの場所の大切さを認識する。物語は、ステイシーが家に帰り、新しい生活をやりなおす決心をするところで終わっている。
 重々しく暗く辛いテーマをもった作品である。子どもの本は楽しみのためにあるという。それは当然である。しかし、楽しみというものを甘い綿菓子のように一面的に軽々しく捉えてはならない。
 確かに子どもたちは、腹の底から笑ったり、謎解きのゲームに熱中したり、現実世界で起こりそうにない幸運を経験したりすることを好む。孤児に父母ができたり、テストで百点をとったり、急に強くなって番長をやっつけたり、大金持ちになったり……。それは確かに痛快なことにちがいない。しかし文学というものは決して「代用の幸福」を与えることを意図するものではない。そういうことが作品の中で結果的に起こったとしても、それらの変化が私たちが生きていく人生にとっていかなる意味があるのか、人間存在のありのままの真実とどうわかちがたく結びついているのか、といったことが描かれていて初めて感動にまで高められるものである。『家出―12歳の夏』は風俗小説でもないし、娯楽小説でもない。児童を読者とする文学作品である。文学を真剣に楽しみ、味わうことのできる作品である。
 さて冒頭に述べた商品価値の四か条に照らし合わせて眺めてみよう。
 第一の子どもの視点ということは、12歳のステイシーの目の高さ、思考、感性にそって作品が展開されているかどうかという点である。第二の新鮮なドラマということは、作品の土台となるその虚構性とその展開のさせ方である。文学であるからには、事実をそっくり写しとったり、人づての聞き書きを記録するだけでは成立しない。それは究極人生のそして人間の真実を突くものではあるが、赤色を赤色らしく、青を青らしくみせるためには独特の工夫がなされなければならない。それが文学における虚構の問題である。
 なお、複雑な心理描写や抽象的な概念の展開を理解することに慣れていない児童にとって、そしてお話づくりの筋の発展に人生の基本的な起伏を重ね合わせて楽しむという習癖が色濃く残されている年代の児童にとって、物語(虚構世界)の進め方、その構成が重要な鍵をにぎっているのはいうまでもないだろう。
 第一の視点の問題に関していえば、12歳という多感でひとりよがりで傷つきやすい年頃の目を考慮して巧みに描写されているのがよく分る。
 しかし、第二のドラマの展開に関していえば、筋は余りにもシンプルで、起伏のある発展は望めない。家を出、荒野で迷い、犬にあい、おばあさんの家でからだを休め、犬のお産を助け、また家へもどってくる――たしかに劇的な展開、息をのむ緊張感、盛り上るクライマックスといった熱っぽさには欠ける。しかし、よくよくステイシーの気持ちにそって読みすすんでいくと、非常に緊迫した展開であるのがよく理解できる。
 この問題は第三の現代への切り込みと深くかかわっている。つまり、ステイシーにとって抜きさしならない生きる意味、拠り所が問われている以上、スローテンポなドラマ展開とは無関係に、その心の底には生きて在る存在がぎりぎりのところで火花をちらしているのである。
 第三の切り込みの問題と合わせて考えてみよう。人はいったん過ぎてしまうと子ども時代のことをすっかり忘れてしまうが、思い出したとしても甘美な楽しい時代としてロマンチックに考えるかもしれない。あるいは全く逆に、痛めつけられ傷つけられ、出口のない暗い迷路の奥で悲しみにふけった陰惨な時代と決めつけるかもしれない。
 しかし、子ども時代は他の時代と比べてとくべつ幸福でも不幸でもない時代だと思える。とりわけ十代に入って間もない子どもたちにとっては、自己とは何かという避けることのできない暗くて重い問題を引きずりながらも、やがて不断に変化しながらも不変の統一体としてのおのれを発見するという至福の瞬間を迎える時期でもある。
 バウアーはこういった子どもの問題を現在という状況の中でつかもうとしている。親の失業やアル中や暴力、不理解や無気力や溺愛、両親の不和、離婚、家庭の崩壊といった問題は、今日では決して特殊な状況ではない。とくに1970年代以降のアメリカでは深刻な社会問題である。真剣に生きようとしながらも傷つき挫折していく大人たちに悲哀を感じるが、しかしいつの場合もいちばん損な目を見るのは子どもたちである。親たち以上に、子どもたちが最も危険な苦境に立たされるのである。自分を失い、自棄になって途方にくれても、子どもたちを慰めてくれるものはいない。子どもたちは大人たちのように酒や賭ごとやセックスに身をまかせる自由さも持ち合わせていない。
 バウアーは、12歳の少女を通して現代の人間の状況を突いている。アイデンティティ(自己確認)という尊厳なテーマを人間同志の安易な励まし合いによって解決するのではなく、人間を自然の酷しさと対峙する存在として高めることによって、児童文学はもちろん大人を読者とする文学としても成功したといえる。
 いっそくとびに第四番めの文学性の問題に入ったが、この作品の特徴は、生きとし生ける存在としての人間から一方的に自然を見るのではなく、人間も含めて数限りない生命を育み、滅し、再生させる自然の摂理を虚飾なく出していることにあると思える。
 荒野に唯一人で暮らしているエラばあさん――この老婆は少女と同じように愛しい人たちに捨てられたという悲惨の過去をもつがゆえに、そこから離脱し、超越し、なお払拭できない人間存在の象徴として位置づけられている。自然の容赦なき酷しさと時として予想以上の慈愛に満ちた迷いを内包しているシンボルとなっている。夫が去っていくときに植えたというミモザの樹が、長年の風雪に耐え、陽光や雨水に枝々を伸し、花を咲かせては枯れるという生命の巡回と尊厳によってそれを見事に代弁している。
 荒野のやせほそった地にしがみつくように立っている木は、挫折しようとしながらもなお生への執着をやめないひ弱で傲漫で一途な人間になんと似ていることか。
 一体、いのちというものは何なのだろうか。バウアーは、ステイシーに経験したことのない犬のお産に立ち合わせている。そのことによって、生命のもつ途方もない尊厳さと、そして裏腹の頼りなさを説こうとしているようでさえある。
 物語は、さいごにステイシーが出産間近なママ母のもとへ帰って生き直す決心をするところで終わっているが、だからといってステイシーは自分を取り巻く状況をすっかり受け入れたわけではない。感傷にふけったり、甘えたりすることによっては何も得られないことを理解し、そういう風に理解する自己というものをおぼろに確認したにすぎない。
 要するにステイシーは、現在という精神の荒野にあって、自己をミモザの樹のようにしっかりと根づかせ、いとおしもうと気づいたのである。
 この作品の文学性(思想性)は、もちろんキメの細かい文体、ありのままの具体的な描写、エラばあさんの意固地で一徹な人物像、犬の夫婦の仲むつまじさ、荒野の自然の迫真性……といったものが積み重ねられ、混ぜ合わされて、総体として浮かび上らせるものである。しかし、案外前述したようなシンボリズム(象徴性)の中にもっとも大きな原因があるかもしれない。
 象徴という問題は、文学の質を高める方法の一つであるが、読書訓練の少ない子どもたちには理解するのに厄介な手段でもある。商品価値ということで文学性を見ていくと、いつの場合にも「分りやすく」という落とし穴にずり込んでしまう。文学に対して抵抗を示す人々は、この種の伝達の困難さを目のかたきのように指摘するが、文学というものは部分的な文章や言葉の意味を読解することに意味を見出すものではない。スポーツのスパルタ式訓練のように読みとり練習の成果の上に成り立つものではない。
 忘れてはならないのは、読者の内にある「解釈の自主性」という問題である。つまり、「そこに何が描かれているか」と同時に、「そこから何をつくり出せるか」という読者独自の楽しみ方があるものである。

 私はこの物語を読み終わった時、本当の自分にもどっていたのです。
 私は、12歳のステイシーと13歳の私をすぐに比較してしまいます。私もよく、母と口げんかをするのです。そんな時、私は母の本当の子ではないのではと思います。そしてついには家出といういけない言葉が頭の中をかけめぐるのです。(注2)
 これは、中学一年生の女の子の読書感想文の冒頭の一部である。彼女は、ステイシーの経験を自分のものとして受けとっている。
 また、小六の女の子は、この作品を読んで悲しくてしかたがなかったという。そして、この作品は本当のことが書かれているから好きだといった。本当のことというのは、新聞記事や雑誌の手記などでは決してない。文学はしょせんつくりものであるが、そうすることによって、人間の真実についていっそうホンモノに昇華させることができるものである。
 また中三の女の子は、緊張して一気に読み終えたといった。彼女自身母親の再婚でうっせきした精神状態にあったようだが、今までこんなにしんどい作品はなかった。でも、私の回りの大人たちは誰も本気になって生きていることのしんどいことを話し合ってくれなかった、ともいった。
 文学はもちろん、人生相談ではない。しかし文学はその人独自の具体的で早急な解決方法を与えてはくれないが、読者によっていく通りにも対応できる形で人生と人間の意味について言及するものである。
 さて、職業意識上の四か条に従ってこの作品を見てきたわけであるが、これらのすべての条件を満たしていれば、商品としてと同時に作品としてもすばらしいものであることはまちがいない。しかしながら、商品市場としては、四つのうち最初の三つ、いやときには二つさえ満たされればよしとする風潮がないわけではない。広く深くという文学の本質が、広く浅くという安易な娯楽性や読みやすさにとって変わられる危険性がないわけではない。この問題に深入りすると、子どもの本が抱えている特殊な経済方程式に触れねばならないので、ここでは割愛したい。
 ともあれ、本から感受するおもしろさには、エンターテイメントとしての楽しさと、リアリゼイションとしての存在の根源を感受させる喜びの二つがある。そのいずれも、結果として自己拡大をはかるものであるが、児童文学というものは、いずれの場合も子どもをとりまく現実を、大人である作者の目と内なる子どもの目の両方でしっかりと見つめ、虚飾なしにその生の意味や楽しさを捉え、文学という表現方法にのせて編み出すものではなかろうか。作家の腕が発揮されるのは、その編みぐあい、色彩や柄や質量感や形といったものであろう。バウアーが編み出した世界は、いわば見た目には地味だが肌につけると温くて丈夫な防寒着といえはしないだろうか。

注1 M・D・バウアー、平賀悦子訳、文研出版、(Marion Dane Bauer, SHELTER from the WIND, 1976)

注2 宮崎市立大塚中学校一年、野島夕起子「『家出・12歳の夏』を読んで」第28回(1982年)青少年読書感想文全国コンクール、全国学校図書館協議会会長賞受賞より抜粋。
テキストファイル化塩野裕子