『ページのなかの子どもたち・作家論』(松田司郎:著 五柳書院 1984)

1 バリのネバーランド

 ジェイムズ・バリは七七歳の生涯の間に多くの小説や劇を書いた。しかし、バリの名を世界中に広め、不朽のものとしたのは一九〇二年に書いた『小さい白い鳥』に登場するいつまでも大きくならない少年ピーター・パンによってであった。この作品をもとにして劇化した「ピーターパン」が上演されたのは一九〇四年十二月二十六日であったが、予想外の大反響を呼び、バリの名を世界的に有名にすると同時にその後五十年間にイギリスだけで一万二千回以上上演されることになった。またクリスマスには「ピーターパン」の劇を上演するのが各地で恒例となり、一九四〇年第二次世界大戦のため休んだだけで、ずっと毎年今も上演されつづけている。(注1)
 バリは一九〇六年に「小さい白い鳥」から第六章を抜き出し、アーサー・ラッカムの不朽のさしえをそえて『ケンジントン公園のピーターパン』として発表した。こうして『ピーター・パンとウエンディ』でピーター少年はまた一歩大きく子供たちの前に姿をあらわした。
「大人になりたくない子ども」の創造は、バリが大人になる道筋で過大の損失をこうむったことと無関係ではないと思える。では、バリが失ったものは何なのか。
 それは、〈ピーター・パン〉を通して、明らかにされている。このことを説明するためには、二つの側面について考察しなければならない。
 一つはピーター(バリ)と母との関係であり、一つはピーター(バリ)と遊びの関係である。バリがどれだけ母に執着していたかは、心血をそそいで母の伝記「マーガレット・オグルヴィ」(注2)を著したことからも明らかであるが、実際バリは幼年時代をあふれるばかりの母の愛情にひたって成長したという。
 半分だけ人間で半妖精のピーターは、ごっこ遊びが終って一人になると、決まってお母さんのことを思い出す。お母さんのあたたかいひざに抱いてほしくて、ピーターはまっすぐ家に飛んで帰る。だが、窓はすでに閉まっていた。

そして、窓には鉄の格子がはまっていました。中をのぞいてみると、お母さんは別の子を抱いて静かに眠っていました。ピーターは、「お母さん、お母さん」と呼びましたが、その声はお母さんには聞こえませんでした。小さい手で鉄格子を叩いても無駄でした(注3)

 こうしてピーターと人間の世界をつなぐ窓は、永遠に閉ざされてしまうのである。半妖精のピーターは、人間の世界の時間とは無縁となる。ピーターはいつまでも子どものままである。
 ピーターが一時的にお母さんのもとを逃れたのにはちゃんとした理由がある。お母さんは小さなピーターが余りにかわいいので、「ああいつまでも、このままのおまえでいられたらねえ」と思わずつぶやくのをピーターが耳にする。ピーターはそのときはじめて、自分も大きくなっていくということを知る。(このあたりはウエンディの体験と同じである)そしてお父さんとお母さんが、ピーターがおおきくなったら何になるか話しているのを聞き、「いつまでも小さい男の子でいて、おもしろいことをしていたい」と思い、ケンジントン公園に逃げていく。ピーターが考えたのは、遊びたいという衝動のほかに、もう一つあった。それは、ピーターがいつまでも大きくならなければ、お母さんの胸の中にはピーターのことしかなく、ピーターが望んだときにはいつでもあたたかいひざの上に抱いてくれるという愛の充足感である。決して失うはずのないものとしか考えられない愛される喜びである。
 このことは、ネバーランドでピーターが海賊のフックやインディアンたちと戦争ごっこをして遊びつかれて帰ってきたとき、ウエンディにお母さんの役をしてもらうところに暗示されている。ウエンディもそのときは無性にピーターがかわいくてしかたなくなり、ピーターをひざの上にのせて「しっかりとだきしめて」やる。
 子どもは二つのことを同時には考えられない。常に、遊んでいるか、お母さんのひざに抱かれているかのどちらかである。つまり、遊びは冒険であり、母(日常性)からの脱出である。母のひざは休息であり、安らかな眠りである。
 ピーターは、大きくなってお母さんから離されていくのが恐くて、逃げだして公園で遊ぶ。遊びに夢中になって疲れてお母さんのことを思い出し、とんで帰る。だがそのときにはもう遅すぎた。ピーターが鉄格子のむこうに見たのは、ピーターの知らない子どもを抱いて幸せそうにほほえんでいるお母さんの姿だった。「ピーター・パンとウエンディ」では、ネバーランドから家へ帰り着いたウエンディとジョンとマイケルをお母さんが迎える光景を次のように描写している。

 (略)ベッドからぬけ出して、おかあさんのほうへかけよった、ウエンディとジョンとマイケルのからだを、おかあさんの手は、だきしめたのです。(中略)こんな美しい光景は、ほかに見ようたって、見ることができますまい。でも、その光景を見ているものは、窓辺で中をじっとのぞきこんでいるふしぎな少年、ただひとりでした。その少年は、ほかの子どもの知らないような、すばらしいよろこびを数えきれないほど知っていますが、たったひとつ、今、窓ごしに眺めているこのよろこびからは、永遠に閉め出されなければならないのでした。(注4)

幼年時代に最高に幸福なものが、母の愛の独占(マイ・ホーム)と遊びの世界(ネバーランド)だとすれば、ピーターは家を失うかわりに永遠に存在しつづけるネバーランドを手に入れたということができるだろう。だが、子供の日常にとって、どちらも不可欠なものであれば、ピーター・パンは人間の子供にはもどれない半端ものにすぎない。「ピーター・パン」を流れる悲劇性は、ピーターが母のひざに抱かれる子供のそのすばらしい喜びを鉄格子を通して見ることを強制させられていることに強く起因していると思える。
 十人兄弟の九番目に生まれたバリは、話好きで子供思いの母の愛情に包まれて育った。バリは幼な心に、母は常に自分のことだけを思っているのだと考えていたが、やがてこの真実がまちがっているのを知るようになる。どんどん成長し、母のひざから離れていく兄や姉の姿を見て、バリはいつかは自分も一人になることを知らされるが、決定的な出来事は自分以外に母の愛を独占するものの誕生だった、ピーターが窓ごしに見た光景と同じように、バリには十番目の赤ん坊が母のひざを奪うのは見るにしのびなかっただろう。そして、次兄が不慮の事故でなくなったとき、六歳のバリは二重の意味で悲しみを味わう。(注5)それは悲嘆に暮れる母から受ける悲しさであり、同時に母の淋しさが深ければ深いほど母の愛が本当は次兄にのみそそがれていたのではないかというショッキングな悲しみに重ね合わされる。バリは母の愛においてけぼりにされ、母の深い悲しみの中に人間が宿命的にもっている愛すること、苦しむことの特権を知り、少しずつバリだけの心の地図にあるネバーランドへ逃げていく。そこで思いっきり遊ぶことによって悲しみは一時的に忘れ去られる。そうして、バリは、アザールが名付けたBetwixt and Between(現実と夢の中間にあるもの)(注6)をさぐりはじめたのではなかろうか。バリは、ピーター・パンと同じく、現実と夢をいききする幼い迷い子であったのではなかろうか。
 バリはネバーランドでは、ネクタイを結ぶことに時間を浪費したり、「株」や「配当」のことに頭を使う大人ではなく、いつまでも小さな子供のままだった。冒険がしたくてうずうずする腕白な男の子だった。だがバリが遊ぶためには、どうしても仲間が必要だった。だから、ピーター・パンはウエンディやジョンやマイケルを半分策略を用いてネバーランドに連れていく。
 バリが早熟によって失ったものは、母のひざのぬくもりと、もう一つは遊び(時間と仲間)である。

 「男の子たちは、もうこのころには、みんな大きくなって、だめになっていました、ですから、この人たちについて、な にも言うほどのことはありません」(厨川圭子訳)

これはネバーランドでともに遊んだジョンやマイケルや他の子供たちがウエンディの誘いに応じて、ふつうの人間の家庭にはいって成長する姿をみて、バリが記した言葉である。バリの早熟が彼の人生に過大の損失を与えたことはすでに述べたが、従来この損失の解釈がさまざまな誤解を生んだような気がしてならない。私はごく単純にそれは幼年時代にしかできないこと、母のひざに抱かれること(愛されること)といつまでも遊んでいられることの二つと考える。これはまさに「幼年時代の幸福な時間にのみ訪れる人生の喜び」にほかならない。ジョンやニビズやトウートルズが大きくなってだめになったというのは、人間的にだめになったというのではなく、いつまでも子どものままのピーターと一緒には、もうごっこ《遊び》ができなくなったから、ピーターにとってつまらなくなったということと思われる。つまり、早熟(あるいは成長)が幼年時代にだけ特有なファンタジー(遊びの世界)を閉め出してしまったというふうにも言える。
 ピーター・カヴニーは『子どものイメージ』という本の中で、「バリの創作生活は、子どもに対するこのような強い渇望と、おとなであることの苦痛とにすっかりつきまとわれていた」(注7)と書いた。渇望と苦痛は「ピーター・パン」からも容易に感受できるが、罰というのは誰から受け、あるいは誰に与えるというのだろうか。バリの作品に西洋キリスト教型宗教観がどのように流れているのか、私には理解できない。
 法華経の熱烈な信者で、あらゆる生物は宇宙意志というものによって、幸福であるように摂理されていると説いた宮沢賢治の中にも、生きている喜びと同時に原罪観を背負わされた人間の悲哀があった。だが、賢治の場合は、大人と子供という対比の意識は稀薄であり、例えば「よだかの星」の中のよだかが生きるために羽虫を食う行為(殺生する)を、おのが身を焼きこがす辛さと感じても、それは人間存在全体に通じる一種の宗教観ではなかっただろうか。
 バリの作品に、もし十八世紀末にワーズワースやブレイクというロマン派詩人たちによって主張された「子供がもっとも神に近い」という思想が下敷きにされているとしたら、なるほど大人になり、《神》から遠のくにつれて、苦痛と罰(罪の意識)が与えられると考えることを否定できるものではない。だが、ロマン派詩人たちが発見したものは〈子供独自の価値〉であり、それが神に近いものであるとしても、それによって大人(人間)に罰を与えるものではなかったはずだ。ピーター・カヴニーが指摘したように、「人間経験全体の重要性に対する真に成熟した反応として統合される」べき価値あるものであったはずだ。(注8)この価値に立つ発想は、十九世紀を経て二十世紀を迎えるようになると徐々に変質していき、、図式的になるが、子供独自の価値は、人間的成熟の栄養源につながるという考え方と、成長する(大人になる)につれてまったく見失われるという考え方の二通りに変わっていくように思われる。
 なるほどバリは「ピーター・パンとウエンディ」の中で、人には誰でも心の地図があり、子供時代にはネバーランドという島のような形をしたおとぎの国があって、

「わたしたちも、子どもの頃は、その岸辺で遊んだことがありました。打ちよせる波の音は、今でも聞こえるようです。でも、もう二度と、あの岸辺にあがることはないでしょう」(厨川圭子訳)

と感傷的に述べてはいるが、それはネバーランドという《遊び》の場所を時間に対する憧憬であり、だからといって決して子どもが本質的に(あるいは宿命的に!)優れているとは受けとれない。
このことをもう少し考えるために、「子どものかわいらしさ、たのしさを一ばんよく代表して」(厨川圭子)(注9)おり、「いったい小学生の女の子でピーターパンを大好きにならなかった者がいるだろうか」(ヒューリマン)(注10)と賛美されたピーターパン像を「ピーターパンとウエンディ」から具体的にひろってみよう。

 「なんてぼくは、rこうなんだろう」/ピーターみたいになまいきな男の子はほかにいない/こすいピーター/ピーターはますますずるくなりました/もちろんピーターはみんなをからかっていたのです/ピーターは人の生命を救うのがたのしいのではなくて、自分のりこうなところを見せびらかすのがたのしい/とても移り気/ピーターはみんながあんまりいろんなことを知っているので気を悪くしました/みんなをおさえつけようと思えばその痛快な時は目の前にせまっています/ピーターはだらだらしていることが嫌い/すこしでもピーターに似たかっこうをすることはピーターからとめられていました/ピーターがこんなにこわい顔をしたのは見たこともない/ピーターはゾーッとするのが大好きなのです/ピーターはありがとうなどいわないで「もう一度やってよ」とさけんだ/戦いのまっさいちゅうに、ピーターは急に敵と味方を入れかえるのです。(厨川圭子訳)

 気まぐれで、忘れっぽく、うぬぼれが強く、知ったかぶりをし、独善的で、わがまま……(同時に、無邪気で明るく行動的…)というのは、ごくありふれた一般的子供像である。ピーターの中には「子供が神に一ばん近い」として、生活に疲れた大人が手ばなしで讃美し、郷愁に酔いしれるような子供存在の特別な価値が見出されるとは思えない。事実バリ自ら次のように述べて、子供を突き放しているふうにさえ見える。

 「子どもたちは世の中でいちばん心のつめたい人みたいに、とんではねてどこかへいってしまいます。子どもってものは、そういったものなのです。」/「子どもというものは新奇なものが訪れる時、いつもさっさと一ばん愛する者さえおいて去るのです。」/ウエンディとジョンとマイケルが帰ってきた時は、ちゃんと窓が開いていたわけです。こんな子どもたちのために、ちゃんと窓が開いているなんて、もちろん、ぜいたくな話です。(厨川圭子訳)

 くり返すようだが、バリは決して「子どもが大人より優れている」という童心主義をふりかざしているのではなく、子供時代にだけ可能であった、《遊び》と《母のひざ》への憧憬をピーター・パンによせて歌っていると思える。
 (1)遊び Betwixt and Between。ネバーランド。ゾッとするような冒険。ファンタジーのひろがり。
 (2)母のひざ。 愛の独占。子供にとってのマイホーム。安らかな眠り。
 だが、子供そのものにせよ、子供時代にせよ、それをよしとしてふり返る視点はすでに現実回避的ノスタルジアだと言うこともできるだろう。「ピーター・パン」に欠けているのは、ネバーランドは人間が生きている限り内面に形を変えて存在するものだという説得力が弱い点である。人間が根源的にもっている生きつづけたいという生命力は、《食う》ためでは決してなく、ネバーランド(内面世界)を広めたいという欲望ではないだろうか。
「ピーター・パン」に関していえば、読み手の大人たちは、あのかわいい半妖精のピーターが作りだしたネバーランドは《現実》にはありえない夢(おとぎ)の世界だとほほえみ納得することにより、大人である小さな優越感と、裏返しの憧憬を呼び、それが「自分たちはもう子供でなくなったから行きたくても行けないのだ」というノスタルジアに包まれたあきらめが感傷的な涙をよび、涙を流すことによって、「いくつになっても自分にとってのネバーランドがつくりだせる」という権利まで忘れてしまうことではなかろうか。
 バリは、遊びと母のひざへの執着により、幸福であるべき幼年時代をあざやかに再現してみせたわけであるが、それにしても全体を通して悲しみの色調でいろどられているのは何故だろう。これは、すでに述べた母の愛から閉め出されたピーター存在意義と深くかかわっているが、根本にはバリの《時間》に対するとらえ方に大きく関連していると思える。
 その鍵をにぎっているのが、「ピーター・パンとウエンディ」で暗示的に語られている〈キス〉と〈箱〉である。

ウエンディの家の人は、十四番地に住んでいました。ウエンディが生まれるまでは、おかあさんが、 家の中心でした。おかあさんは、あいくるしい人で、ロマンティックな心を持っていました。また、それはそれはかわいらしい、愛きょうのある、口もとをしていました。おかあさんの、ロマンティックな心は、ちょうど、なぞめいた東の国から持ってきた、小さな入子の箱とおなじで、いくらあけてもあけても、まだその中に、もうひとつ箱があるのです。そうして、かわいらしい、愛きょうのある口もとには、いつも右のすみっこに、キスが浮かんでいました。それは、とてもはっきりと見えていながら、どうしてもウエンディには、もらうことができませんでした。

 おとうさんは、おかあさんのすべてを自分のものにしましたが、心の一ばん奥にある箱と、あのキスだけは、だめでした。おとうさんは「箱」のことなど、まるっきり知りませんでしたし、キスのほうも、とても、もらえそうもないと思って、そのうちあきらめてしまいました。

 なぜだかわかりませんが、とにかくおかあさんは、ああ、これがピーター・パンなのだと、すぐわかりました。もしその時にみなさんか、わたしか、さもなければ、ウエンディかがそこにいたら、ピーターは、ウエンディのおかあさんの、あのキスにそっくりだということに、気がついたことでしょう。

 「あのあくまめ!」とおとうさんは、いつもどなります。すると、それにこだまするように、ナナがほえます。でも、おかあさんだけは、けっして、ピーターのことを悪く言いません。おかあさん口の右はじにある何かが、ピーターの悪口を言わせたがらないのです。(厨川圭子訳) 

 キスとは一体何なのか? おかあさんの口もとの右のすみっこに浮かんでいて、ウエンディにはもらえないし、おとうさんもあきらめてしまっていて、ピーターにそっくりなもの?
 まるでなぞなぞか判じ物みたいだが、この答えを解くカギは半妖精のピーターがにぎっている。いつまでも大人にならない、子供のままのピーターは不変の時間を象徴している。この《永遠性》はピーターだけではなく、人が何かを愛する気持ちの中にも見出されるものであると思われる。愛というものは、日常性の時間の中で、花束を贈ったり、恋のことばをささやいたり、結婚して子供を生んだりすることではなく、人の心の中を一瞬にかすめる《光》のようなものではなかろうか。ウエンディのおかあさんにとっては、この光みたいなものが口もとの右のすみっこに浮かんでいて、ウエンディが見るとどこかキスに似ていると思えるのだろう。日常性と密着することによって生活している人間は、《光》を忘れてしまっていることが多いが、例えば「ピーター・パン」の作品ではそれをふと思い出させるのが、ピーターによって象徴される子供らしさ(ほがらかでむじゃきでむてっぽうであるもの)ではなかろうか。ウエンディの中にも子供らしさは見出されるが、それは不変なものではありえず、一瞬々々に変化し成長し消滅していくものである。
 このピーターの《不変》に対抗できるものは、個々の人間の中に意識としては存在しない。人間は不変とは宿命的に無関係であり、肉体と同じように心も変化する。だが個々の人間の変化の視点をはずせば、つまり個から全体をとらえれば、子供はいつの時代にもいるし、母親がこの世から消えてなくなることはない。ウエンディが大人になっても、その子のジェインがいるし、ジェインが大人になったら、さらにその子のマーガレット、さらにその子の……と母性は無限に分身(幼児性)を生み、ピーターが毎年春の大そうじに連れていく子供は変わらない。ピーターにとっては、ウエンディもジェインもマーガレットも、常におかあさんごっこの遊び仲間としかうつらない。
 ウエンディが成長につれてとまどいを示したように、昨年とかきのうとかいう日常性の中での時間の約束ごとからは、ピーターはあくまでも無縁である。
 ことばをかえていえば、このピーターの《普遍性、永遠性》は、おかあさんや子供がもっている幸福な心と直結している。なぞなぞを解いていけば、〈キス→ピーター→幼児性(子供の無邪気さ)→母の愛→永遠〉となるだろう。そして、いうまでもなく《愛》をしまってあるのが入子の箱である。
 ピーター・パンを見て、「ああ、いつまでも、このままのおまえでいられたらねえ!」と思わずさけぶおかあさんの心(箱)の中はキス(愛する気持ち)でいっぱいだっただろうし、「ほがらかで、むじゃきで、むてっぽう」な子供のかわいらしさの象徴であるピーターは、おかあさんにとってキス(愛する対象)そのものであっただろう。
 だがキスが不滅のシンボルとしてさん然と輝けば輝くほど、日常性の中で限りある生命を燃焼させる人間には、悲哀感をきわだたせるのかもしれない。子供のかわいらしさ(幼児性)は子供時代の一時期にしか存在しえないし、母親がそのかわいらしさ(キス)を抱きしめていたくても、子供は一瞬のうちに成長してしまう。ネバーランドではたとえ一瞬が永遠と容易に置きかえられる時間だったとしても、日常性の中では常にふりかえる対象でしかない。こういう《時間》のとらえ方に「ピーター・パン」という作品の悲哀が流れているのは否定できないし、さらにいえば、わが子のかわいらしさを実感として受けとめることのできる《母性》からはずされた男の淋しさはゆきつくところがないともいえるだろう。
 ジェイムズ・バリはピーターになることはできても、ピーターを抱きしめる母性とは永遠に無縁なものである。ウエンディが子供のときピーターと同列に遊ぶことができ、かつ大人になってピーターの中にキス(かつての自分の幼児性)をみつけて、口もとにそっと浮かべていることができるのは、それは母親だけに許される(子供のときに)抱きしめられ、(母親になって)抱きしめかえすという、愛の充足関係にほかならない。ウエンディのみならず、それは、ジェインにも、マーガレットにも可能であるが、ひとり大人になったバリ(父性)には不可能なものではなかろうか。
 半妖精半人間ではんぱものの『ピーター・パン』は、決して抱きしめかえす(愛する)ことのできない孤独な男ジェイムズ・バリの無邪気であるが故にいっそう悲しい《分身》であるということができないだろうか。


 注1 Elizabeth Nesbit, A Critical History of Children's Literrature, New York, Macmillan Publishing Co,Inc.1969./Brian Doyle,The WHO'S WHO of Children's Literature, London, Hugh Ebelyn Limited, 1968.
 注2 Margaret Ogilvie(1896)
 注3 本多顕彰訳『ピーター・パン』新潮文庫。「ケンジントン公園のピーター・パン」を訳したもの。
 注4 厨川圭子訳『ピーター・パン』岩波少年文庫。「ピーター・パンとウエンディー」を訳したもの。
 注5 Green R.L.James M.Barrie,1960.
注6 「夢の『ピーター・パン』」矢崎源九郎・横山正矢訳『本・子ども・大人』紀伊國屋書店。
 注7、8 江河徹監訳『子どものイメージ--文学における「無垢」の変遷』紀伊國屋書店。
 注9 『ピーター・パン』岩波少年文庫「あとがき」
 注10 野村滋訳『子どもの本の世界』福音館書店。
 ※ Peter Pan(This original play version was first produced at the Duke of York's Theatre,London,on 27 th December,1904)
The Little white bird (1902). Peter Pan in Kensington Gardens(1906). Peter and Wendy (Peter Pan and Wendy in later editions-1911)
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