〔連載評論〕 家族という神話 U

“コロボックル"という思想
野上 暁
鬼ヶ島通信34 1999/11

           
         
         
         
         
         
         
         
    


 佐藤さとるの『だれも知らない小さな国』は、一九五九年(昭和三四年)三月、タイプ印刷による私家版として世に出た。(奥付けには三月十一日印刷発行と記されている。)それが講談社の編集者の目に留まり、同年七月、同社から単行本として刊行されている。作品が完成していたとはいえ、わずか数ヶ月で新人の作品が単行本になるというのは、想像を絶するスピードである。それだけこの作品の登場は衝撃的だったのだろう。そして、この作品は日本における初めての本格的なフアンタジーとして高く評価された。といっても、当時はまだ児童文学でファンタジーという言葉は成熟しておらず、同書の出版記念会での鳥越信の「日本にも、やっとファンタジーが生まれた」という言葉が印象的だったと長崎源之助が後に述べている。(『佐藤さとるファンタジー全集1』解説)
 今日でも、『だれも知らない小さな国』は、我が国に誕生した最初の本格的なファンタジー作品であり、現代児童文学の誕生を画する記念碑的な作品の一つだという“児童文学史的"な評価は変わらない。しかしそれは、あくまでも“児童文学"という狭い世界での評価でしかない。一九五九年に『だれも知らない小さな国』が刊行されたことの意味は、戦後文学の大きな流れの中で改めて捉え直すべきなのではないか。この作品は、実際に児童文学的な評価を超えて屹立している。それが長い間『だれも知らない小さな国』の位置付けに対し感じていた違和感であった。『だれも知らない小さな国』を、現代日本文学の文脈の中でどのように位置づけるのか。まずその前に、この作品が発表された時代を振り返ってみよう。
 一九五九年というのは、戦後の日本にとって極めて象徴的な年であった。四月の皇太子結婚パレードのテレビ中継に向けて、この年、テレビ受像機が急速に普及した。前年五月に受信契約がやっと百万台に達したテレビは、パレードが中継される一週間前には二百万台を超える。そして、二月に日本教育テレビ(現在のテレビ朝日)、三月にフジテレビと毎日テレビ、四月にNHK東京教育テレビが開局。テレビは翌年には五百万台を突破して完全にテレビ時代に突入する。また三月には初めての子ども向け週刊誌『少年マガジン』と『少年サンデー』が創刊。同月『朝日ジャーナル』、四月『週刊現代』『週刊文春』、五月『週刊平凡』、七月『週刊漫画サンデー』、十一月『週刊コウロン』が相次いで創刊され、週刊誌時代も到来する。つまりその後の大衆的メディアの中心となるテレビと週刊誌がこの年に急速に普及拡大し、今日につながる情報化社会が扉を開いた。
 『だれも知らない小さな国』は、このようなときに世に出たのだ。私家版は、時代の大きなエポックとなった皇太子結婚パレードの前に刊行され、講談社版はその後に出版されている。そのことに象徴的な意味はないが、メディアが爆発的に拡大したこの年に出版された『だれも知らない小さな国』が、当時刊行された一般文学作品よりも圧倒的に多くの読者によって読み継がれてきたことは恐らく疑いなかろう。
 そしてその翌年、三井三池炭坑闘争激化。また日米安全保障条約改定反対闘争が空前の大衆行動となって国会を取り巻き、六月十五日、国会に突入したデモ隊が警官隊と激突し東大生樺美智子が圧死。十月には社会党の浅沼稲次郎委員長が、日比谷公会堂で右翼少年に刺殺され、その実況中継がテレビで流され、刺殺現場の決定的瞬間が翌朝の「毎日新聞」に掲載されて国民にショックを与えた。にわかに右翼テロが活発化するのもこの頃だ。
 川村湊の『戦後文学を問う』(一九九五年、岩波新書)は、この急速に拡大したメディアを通して国民の圧倒的多数を巻き込んだ皇太子結婚祝賀パレードへの違和、拒否感の文学的表現として深沢七郎の『風流夢譚』、大江健三郎の『セブンティーン』、三島由紀夫の『憂国』を位置づける。川村湊は、深沢、大江という「二人の作家は当時の日本国民の“三種の神器"の一つであるテレビという媒介を通じて大々的に喧伝された国民的行事の“ご成婚"を揶揄し、嘲笑した(と思われた)。それはこの“ご成婚"を寿ぐ者(たとえば右翼)にも、反対する者(たとえば左翼)にも、不謹慎で不真面目なものと映ったのである。」として、ここに目に見えないタブーの成立を読み取る。三島の『憂国』も、後に『英霊の声』での「などてすめらぎは人となりたまいし」という慟哭に象徴されるように、民間人と皇室の結婚に舞い上がる時代の風潮に対する違和の文学的な表現だと川村は見ている。つまりマス化したメディアの増幅機能により、国民の大多数を巻き込んだイベントから幻視する二人の作家の、皇室と右翼少年を主題にした物語化が、一方は嶋中事件という右翼テロを引き起こし、一 方は掲載誌の編集部が「謹告」により関係諸団体に詫びるということで、皇室と右翼タブーを顕在化したのだ。そして二つの作品はともに闇の中に葬り去られた。
 テレビに象徴される情報の伝達ボリュウムは、それまでの情報伝達の質量を圧倒的に凌駕した。週刊誌の相次ぐ創刊は連載小説を多数世の中に送り出すことになり、文学という一部知識階級の特権的な表現伝達の場がにわかに大衆化する。もっとも文学の大衆化の予兆は、既に一九五五年(昭和三十年)、文学界新人賞となった石原慎太郎の「太陽の季節」が翌年に芥川賞を受賞したあたりから始まったといっていいだろう。当時、一橋大学生だった石原の、湘南を舞台にしたエネルギッシュで無軌道な若者たちの生態は、既成のモラルを破壊する戦後世代の闘争宣言でもあった。それが映画化されることにより、太陽族という言葉が流行し、慎太郎ブームが巻き起こる。これは文学が風俗となった最初の現象ともいえるだろうが、そこにはマスコミ時代を予兆させるものがあった。それはまた、芥川賞という文壇の行事が、大衆的にイベント化する最初の事件だといってもよい。その後、五七年下期の開高健「裸の王様」、五八年上期の大江健三郎「飼育」と、いずれも当時二十代の若者たちの作品が芥川賞を受賞して話題になり、文壇は新旧交代をイメージ付けた。
 評論の分野でも、吉本隆明と武井昭夫の『文学者の戦争責任』(一九五六年)、吉本の『芸術的抵抗と挫折』(一九五九年)、江藤淳『作家は行動する』(一九五九年)などが注目を集め、戦後世代の発言が文壇を席巻する。そして五八年、江藤淳、石原慎太郎、大江健三郎らが、「若い日本の会」を結成し、警職法改正反対の声明を発表する。文壇では、戦後的な枠組みを超えた若い世代による新たな活動が始まっていた。それはまた、日米安保条約改定阻止に向けての政治的プログラムとも重なるものだった。
 児童文学もまた、五三年、早大童話会の“少年文学宣言"以来の前世代児童文学者との新旧対立が確実に進行していたが、政治思想的にいえば、極左冒険主義を自己批判した五五年の日本共産党第六回全国協議会に対する総括やスターリズム批判への曖昧さがそのまま後を引いて、相変わらず政治と文学の癒着を明快にとらえる視点を持ち得ていなかったといえる。というよりも、浅薄なイデオロギーが横溢してきた戦後児童文学のメインカレントが、政治と文学を自己の内面において誠実に検討することを怠ってきたからだともいえようか。それは“子どものため"の“文学"の必然的な帰結だったのかもしれない。以後ある時期までの日本児童文学者協会の年間方針を見れば、それは明白である。“子どものため"という名目が、自己主体の曖昧さを覆い隠し、隠蔽してきたとしかいいようがない。そこに『だれも知らない小さな国』を書いた佐藤さとるの独自な位置があることを児童文学は今日まで見逃してきた。
 佐藤さとるには、自身も度々述べているように“子どものため"に書くという意識が希薄である。むしろそれを忌避してきた。“子どものため"ではなく、自分の興味や関心の在り処を掘り下げながら、そこに作品世界を構築していく、その仕掛けを楽しんでいる。そんな風情が感じられる。そしてそれが、“子どもにも"読まれるというところに、作品を構想しているのだ。“子どものため"に何かを書くなどというのは、教育手段か何かのサービスでしかない。そこには文学が成立しにくい。文学とは人間を描くのだから、まず自分を描くのであり、“子どものため"になるかどうかなどを考えたら大した作品は生まれない。“子どもにわかるようにする"技術と混同してはいけない、と彼はいう。(「児童文学と子供」より)ここには、当時の多くの子どもの本の作家との微妙な違いがある。

 『だれも知らない小さな国』の第一章は“いずみ"と題されていて、二十年近くも昔、主人公の“ぼく"が小学三年生の夏休みだったときの思い出から始まる。“ぼく"は、モチノキをさがしに一人で峠の向こうの山に入り、杉林を抜けた小山のかたわらの三角平地に小さな“いずみ"を発見し、夏休みのあいだじゅう何度もその小山に一人で足を運ぶ。秋も過ぎ、冬が来て春が訪れる。移ろい行く季節がまた、小山の魅力を引き立たせた。春のある日、そこで家に野菜売りに来ている老婆が蕗を採りに来ているのと出会い、そのあたりが鬼門山といい昔から“こぼしさま"という小さな人がたくさん住んでいたことを知らされる。
町から峠を抜けて小山の発見に至る情景描写は大雑把だが実感的で、おそらく現実にある場所を想定して描かれたに違いない(少年時代の一時期をすごした安針塚の思い出が反映されているのだろうか)。しかし小山のある場所の描写はそれぞれが緻密で俯瞰的で、まるで作者の願望を映し出した箱庭のようにも感じられる。幻想的とも言える魅力に溢れたこんな場所を発見したら、大方の子どもは誇らしげに仲間を呼び集めて、色々な遊びを思い存分に展開しただろうと想像するのだが、作者はそういう方向には向かわない。「この山はぼくの山だぞ!」と主人公の“ぼく"に叫ばせて、自分だけの秘密の場所にするのだ。ここで見出された空間は、作者にとって一種の隠れ家であり、内面の世界の象徴でもあり、作者によって巧みに構築された“ミニアチュールの空間"とでもいえようか。
ソロボンヌ大学の詩人哲学者、ガストン・バシュラールはいう。

「巧みに世界を縮小できればできるほど、わたくしはいっそう確実に世界を所有する。しかしこれとともに、ミニアチュールにおいては、価値は凝縮し、豊かになることを理解しなければならない。ミニアチュールの力動的な効力を認識するには、大きなものと小さなものとのプラトン的弁証法では十分ではない。小さなもののなかに大きなものがあることを体験するには論理を超越しなければならない。」(ガストン・バシュラール『空間の詩学』思潮社)

 これは『だれも知らない小さな国』とそれに続くシリーズ全体の作品構造を見事に言い当てた言葉だともいえよう。「小さなもののなかに大きなものがある」ということこそ、この作品の大きなモチーフなのだから。そしてこれこそが「確実に世界を所有する」作者の企みであり、そこにこの作品の価値がある。先に延べたように、世の中が政治的な色合いを強め、大状況的なテーマが文学の世界を席巻し、作家もまた政治的立場を鮮明にし、大江健三郎らのアンガージュマンの文学が一方で叫ばれていた時代である。そういう時代だからこそなおさら、この作品の個的幻想と個の内面に固執する姿は反時代的に印象づけられるのだが、このようにして「確実に世界を所有する」ことなしに、世界に向かえないことを作者は熟知していたのだろう。それはまた、戦時から戦後を通して、多様に変転し、しかもその時々の変容に無自覚に追従した時代の思想やイデオロギーに対する徹底した不信感の表明でもあったと思われる。
 再び巡ってきた夏休みの終わりごろ、写生道具を持って小山に行くと、そこで小さな女の子に出会う。彼女が見失った赤い靴を川の中で探していると、流れの中を漂う赤い運動靴の中に“こぼしさま"を発見し、慌てて靴を掴み取るが、“こぼしさま"も少女もともに姿を消していた。それから次の年の春まで“ぼく"は思い出したように一人で小山に遊びに行く。しかしやがて“ぼく"はこの小山と別れることになる。電車で四十分離れた町に引っ越すことになったからだ。やがて小山と反対方向の旧制中学に通うことになり、小山のことも記憶から薄れていく。

「いつか日本は、戦争のうずにまきこまれていた。身のまわりも、だんだんきびしくなって、夢のような思い出などは、消しとんでしまった。戦争はますますはげしくなって、ぼくの父も出ていった。そして、空襲がはじまるころ、船といっしょに南の海に沈んだ。」

 父の死も、作中ではじつに淡々と私的な感情を交えずに描写しているところには、いささかびっくりさせられる。このあたりには、作者の私小説的な伝統に対するある種の違和感を垣間見ることができようか。そしてまた彼の作品には、総じて父や母の姿が希薄であることは注目してよい。家族という子どもの養育装置であり、子どもを支えるあまやかな家庭環境が前面に出てこない。ということは、子どもの本の成立要件でもある家庭そのものとの距離感、ひいては子どもの文学とのある種の距離感を表明しているともいえよう。そしてそこには、前述したように、“子どものために"書くなどということからは、まともな文学が生まれてこないと言いきる佐藤さとるならではの独特の児童文学観がある。また、長崎源之助らと同人誌『豆の木』を創刊した当時の二十二歳の佐藤さとるは、次のような言葉を残している。

「子供の文学だって、決してその対象を子供だけと限っているわけではない。子供の文学の対象は、誰が分類したにせよ、子供と大人の両方に置く」(「対象についての一考察」初出『豆の木』一九五〇年、再録『日本児童文学』一九七八年三月号)

 佐藤さとるの作品世界は、現代児童文学に通底する「家族という神話」を外在化している。家族の中に子どもを見ると言うよりも、家族を客観視する視点が感じられる。子どもの背後にあるであろう家族の存在が希薄なのだ。そこには、この作者固有の個人史がかかわっているともいえよう。海軍の職業軍人であった父親は、航海に出たり単身赴任で長期に出張したりと、家にいることが少なかった。職業軍人の家庭にあって、幼いときからの父の不在は、長男であった彼の精神的な自立年齢を早めたであろうことは想像に難くない。そして、彼が十四歳のとき、航空母艦「蒼竜」の機関少佐の父はミッドウェー海戦で戦死する。父がミッドウェーへ向かって出港する朝、戸塚駅のホームでお互いに反対方向に向かうとき、父が海軍の正式の敬礼をしたのが最後の別れだった。海軍の父が中学三年生の自分に正式な敬礼をしてくれたことを誇らしく思ったのだろう。
「靴のかかとをひきつけ、目にしみるような白い手袋をひらめかせて、年季のはいった海軍式の敬礼を返してくれた。後にも先にも、父と敬礼を交わしたのは、それ一回だけだった。ぼくは思わずしゃんとして、手をしっかりと帽子のひさしにおしつけた。(中略)これが、ぼくの見た父の最期の姿である」(『子どものころ戦争があった』所収)
と、佐藤さとるは後に述懐している。
 彼は中学卒業の年、勤労動員の無理がたたって肺浸潤の診断を受ける。しかし四人兄弟の長男だったので、戦時中から戦後の混乱期を精神的にも経済的にも一家を支えていかなければならなかったのだろう。家族に擁護される子どもではなく、両親の姿が希薄で、その分だけ子どもの姿が自立的に見えるのは、こういった事情と無縁ではあるまい。そしてそれは、佐藤さとるの子どもの文学への眼差しにもかかわってくる。

「町は焼かれ、人は目ばかり光らせていた。ぼくは、のっぽな中学校の上級生となり、工場につれていかれた。油だらけになって働いているうちに、学校も焼けてしまった。
毎日が苦しいことばかりだったが、また底ぬけに楽しかったような気もする。家が焼けたことを、まるで得意になって話しあったり、小型の飛行機に追いまわされて、バリバリうたれたりするのが、おもしろくてたまらなかったりした。これは命がけの鬼ごっこだったが、なかには鬼につかまってしまう、運のわるい友だちも何人かあった。いまになってみれば、ぞっとする話しだ。
そして、終戦がやってきた。
むし暑い真夏のことだった。ぼくは、焼け野原になった町に立って、厚い雲がはれるように、ぽっかりと小山のことを思いうかべた。なつかしい小山。あれからとうとう、一度もいってみなかった小山。いまでもむかしのままにのこっているだろうか。あの山には、おもしろい話しが伝わっていたっけ。ぼくは、きゅうに、ふきのにおいを思いだした。なつかしい小山。」

 毎日が苦しいことばかりだったが、「また底抜けに楽しかったような気もする」とは、なんとまた大胆な感想であろうか。反戦平和が時代のイデオロギーであったこの頃、公然とそう言ってのけるには相当な決意がいる。まして、「家が焼けたことを、まるで得意になって話しあったり、小型の飛行機に追いまわされて、バリバリうたれたりするのが、おもしろくてたまらなかった」などとよく言えたものである。しかし、子どもの感覚から言えば、そういった非日常的な体験が興奮を誘い、わくわくするであろう事はよくわかる。いつの時代も、直接的な生活感覚の乏しい子どもたちには、非常時は面白いに違いないのだが、大人の良識的な感覚はそれをとらえることができない。その頃までの児童文学は、いや今日でもなお、そういった描写は好戦的とも戦時下を美化するとも誤解されるのを恐れてか、敢えて表出しようとしないできた。佐藤さとるは、そういう欺瞞に我慢ができなかったのだろう。自らの実感を正直に表現するばかりか、「これは命がけの鬼ごっこだったが、なかには鬼につかまってしまう、運のわるい友だちも何人かあった」と、さらりと言ってのける。よほど自分の表現に自信を持 たなかったら、こうは言えない。自分に向かったときのゆるぎない自信と自己への深い洞察が、世間に通用しやすい一般論を廃して、戦時下の実感を率直に露出させているのだ。

 この作品が、最初の私家版では「新日本伝説」と題されていたように、“小説"よりもむしろ“物語"への強い志向性を読み取ることができる。小山は必然的に“いずみ"の象徴である。そしてまた、“いずみ"というのは、“誕生"や“再生"のシンボルでもある。ユング心理学ではLandof infancy(幼児の国)といわれ、無意識の指令を受け入れるところとされ、この指令は「生命が“枯れてしまった"とき必要とされる。この象徴は、閉ざされた庭の中央にある泉のイメージで表され、庭の中央部分(=泉)は個性を意味する」(アト・ド・フリース『イメージ・シンボル事典』大修館)と解説されている。あえて説明するまでもないのだが、作者が敗戦の蒸し暑い夏、“ぼく"に小山を思い出させるのは、“生命が枯れてしまった"ときの必要性からだというのは、あまりに神話的といえようか。
 ともあれ、戦争という特殊で過酷な日常を強いられた数年間の後に、蕗の匂いとともに“いずみ"を思い起こさせ、それをきっかけに幼い頃の記憶の世界に主人公を誘うという成り行きは、ユング心理学的な深層解釈を重ねるに十分であるといえよう。しかし仔細に見ると、この作品にはそういったサインが随所に散りばめられている。林、森、木、峠、小人、老婆、鬼、地図、虫、家、池、バッタ、小川、赤、靴、小屋、三角形、蛾、雨蛙、夢、岩と、数え上げたらきりがないくらいだ。自然を描けば必然的にこういった言葉が頻出するといえばいえる。しかし、ここではこれらの語が、物語の主題に深く関わってきていることに留意する必要がある。ちなみに、「小人」は、同書でどう説明されているかを見てみよう。

「 小妖精とか妖精などの姿でさまざまに描かれている小人国が存在していると信じられているのは、背の高い侵略者によって征服された背の低い牧畜民族がいたことに由来するかもしれない(そして誇張を好む人間の性癖がそこから伝説を作りあげる)。これは侵略者の圧倒的な力の発揮(農耕、鉄の使用、教会の鐘の音)に対して、小人族が憎悪をもったことの説明になる。また一方、それは、すばしこくてほんの一瞬しか姿を見せず、森の中や、地下界の山のほら穴に住み、ひそかにその(妖精)家畜を隠しているとみられる人々に対し、侵略者達が恐れを抱いていたためかもしれない。すなわち異常なこと、予期せぬこと、予測を許さぬこ(つまり超自然的な力を所有していること)への恐怖の現われである。小人のあるものは征服者と雑婚し、魔女や妖精を生んだとみなされている。彼らは(金銀を所有しながら、鉄をもたなかったアメリカ・インデアンのように)無限の富を所有していると信じられてきた。またすぐれた知識をもち(アステカ人の暦は侵略者のものよりもすぐれていた)、姿を消すこともできると思われてきた。」(『イメージ・シンボル事典』大修館書店)

 佐藤さとるが見出したコロボックルも、ここで解説されている小人と重なる部分が少なくない。“ぼく"が小山で再び出会った“こぼしさま"のことを、手当たり次第に本を引っ張り出して調べていくうちに、アイヌが伝えるコロボックルの物語に出会う。そしてそれが、日本の神話に登場する少彦名命と重なっていく。作者が日本の小人譚を探索していくプロセスは、そのまま作品の中に描き出されていく。
『コロボックル―アイヌ語(ふきの葉の下の人の意味) @アイヌの伝説に出てくる小人のこと。Aまたはその伝説をもとにして、アイヌが住みつく前から、北海道に住んでいたと考えられる小人種の名』
 作中では、辞書からの引用として、コロボックルはまずこう紹介されている。我が国の人類学や考古学の創始者の一人であり、弥生式土器の発見者でもある坪井正五郎は、アイヌの伝説に残るコロボックルが、日本の先住民族であるという仮説を発表して話題になったが、それらの考え方がこの辞書からの引用にもうかがえる。小人についての『だれも知らない小さな国』の著者の探索は、なかなか興味深いものがある。『古事記』に登場する少彦名命とコロボックルの共通点の発見に至るプロセスなど、民俗学的な裏付けはないとはいうものの、それを発見したときの著者の興奮がよくわかる。そのあたりのことについては、講談社現代新書の『ファンタジーの世界』(一九七八年)を参照されたい。
 こうして佐藤さとるは、少彦名命がアイヌの神様であり、コロボックルはその子孫ではないかと想定して、コロボックルの物語を展開していく。『だれも知らない小さな国』は、コロボックル発見の序章であり、そこでは時代を超えても変わらぬものの象徴として“いずみ"の存在を屹立させ、そこにコロボックルとの出会いの場を設定する。ここで再び、先に紹介した“いずみ"のシンボル的な意味を思い浮かべたい。それは誕生や再生のシンボルであり、生命が枯れてしまったときに必要とされるのだ。作者は、十代の大部分を過ごした激動の戦時下を経過してもなお変わらずに、深く心の底に秘めていた“いずみ"の存在に思い当たり、“いずみ"を通してコロボックルに出会う。
 この感覚は作者に固有のものであるらしく、既に『だれも知らない小さな国』が成立する以前に、それを予感させる作品を二つ思い起こすことができる。いずれも同人誌『豆の木』に発表した、「井戸のある谷間」(一九五二年)と「名なしの童子」(一九五三年)である。
「井戸のある谷間」は、道に迷った若者が谷間の一軒家で水を飲ませてもらおうとする。そこに現れた若い娘は、わざわざ谷の奥にある椿の林の中の古井戸に若者を案内して、汲みたての水を飲ませてくれる。測量技師の若者は、井戸が娘の家の屋根の高さにあることから、パイプさえあればサイホンの原理で自家水道を引いて水汲みの労働から解放されることを教える。そして若者は鉛管を手に入れて再び谷間の家を訪れようと決意する。作者は、戦後しばらくして子ども時代に遊んだ安針塚を訪れ、「価値観のひっくり返る大動乱」を挟んでもなお、昔と変わらぬ佇まいをみせていたことに無上の喜びを感じ、「時代は移っても、また人は変わっても、変わらないものを見つけた喜びは大きく、人の心もそうあってほしい部分があるのではないか、という思いがしきりに去来し」この短編を書いたと後に述べている。そして、この主人公たちを子ども時代にまで遡らせたら主題をより深く追求できるのではないかということが、『だれも知らない小さな国』へのモチーフであったことを明かしている。(『ファンタジーの世界』)
「名なしの童子」も、人の変わらぬ心を宿命的とも言える出会いの中で幻想的に描いてみせる。小さいときから太郎の頭の中には、つねにもやもやとした霞みのようなものがあって、それは恐らく潜在意識の中にある強い憧れのようなものだと作者は言う。
「―いったい、このかすみはなんだろう。太郎は、はじめてはっきりとそう自覚した。そのくせ、自分の頭の中のかすみは、だれももっていないきみょうなたからであるような気がした。なぜそう思うのか、自分でもわからなかったが。」
 そしてそれが、大人になっても現れるからやっかいだ。霞がはっきりした形をとると、白馬に乗った美しい女の人が童子に引かれた像として、太郎には幻視される。ところが、ある日それが現実となって太郎の前に現れるのだ。
「太郎は思わず心の中でよびかけた。
―名なしの童子、わすれずに、この人をよくつれてきてくれたなあ。」
 物語は、そこで終わる。
 この奇妙で不思議な感覚を、作者は、「誰も持っていない奇妙な宝であるような気がした」と、主人公に言わせている。そしてまた、この奇妙な感覚に対する拘りが、『だれも知らない小さな国』とも通底するものなのだ。小学生のときに小山で出会った靴を流した少女、つまり“おちびさん"との宿命的な再会。そこにもまた、「時代は移っても、人が変わっても」変わらぬものの象徴的な意味合いが付加される。男女の出会いが宿命的な色合いで染め抜かれ、そこに家族の生成に至る“対幻想"のドラマが生起されるあたりは、この作家に特有のロマンチシズムと勘違いされそうだが、それは出会いに対する固有な拘りだと見た方がよさそうだ。
 これらは、近代的な合理主義とは隔絶した、一種呪術的な感覚だともいえようか。細部の検証なしに結論を先にいえば、作者に固有な“縄文感覚"ともいえるものなのかもしれない。コロボックルを見出すプロセスは、まさに近代的な合理主義を突き抜けて、一挙に古代をも見通すマジカルな感受力を露出させている。個的幻想を追求していきながら共同幻想の深部に分け入り、そこに物語りを成立させる特異な世界観を『だれも知らない小さな国』は垣間見せてくれた。そしてそこから対幻想に向かう眼差しが生起する。『だれも知らない小さな国』から、『豆つぶほどの小さないぬ』『星からおちた小さな人』『ふしぎな目をした男の子』『小さな国のつづきの話』『小さな人のむかしの話』と、ほぼ三十年にわったって書き継がれ読み継がれた、一種の国民文学ともいえる作品の生成とその後の推移は、現代文学に特異な世界を屹立させている。そしてそれらは、今日でもなお、読み手の心をその深層において揺さ振るものがある。コロボックルは作者によって提示された一つの思想としての存在感を誇示しているようでもある。

 一九二八年(昭和三年)生まれの佐藤さとるを、戦後文学の中で世代的見ると、“第三の新人"と“内向の世代"のちょうど中間に位置づけられる。安岡章太郎、吉行淳之介、遠藤周作、庄野潤三ら“第三の新人"たちは大正期の後半に生まれ、敗戦時にはみな二十歳を超えていたが、“内向の世代"の後藤明生、黒井千次、阿部昭、柏原兵三らは、佐藤さとるより四、五年後輩にあたるから敗戦時は十三、四歳だった。古井由吉は、一九三七年(昭和十二年)生まれだから、それよりもさらに若い。
 “第三の新人"とか“内向の世代"といっても、それが意味する作家群は一様ではない。世代的な共通性と、登場し活躍した年代の共通性から括られているものの、世代にはややばらつきがある。もちろんその表現世界の共通性を一言で括るわけにもいかない。しかし、『だれも知れない小さな国』について考えるとき、この両者の間に位置する作品であること、またその特徴を色濃く感じられる作品だと思うのは単なる思い過ごしであろうか。

「戦争が終わったとき、私は自分が欺されていた、とはすこしも考えなかった。また、戦争で心に傷を受けたともおもわず、逆に戦争のおかげで人間性の奥底まで見てしまった、という思い上がった気持ちになっていた。いわゆる戦中派にたいする世間の定義とはかなり違うところに、私は立っていた。そして、そのことが同世代においての少数派であったように、戦争が終わってからも、私は少数派に追い込まれたようだ。
 戦後間もなく、コミュニズムの大流行が訪れた。私の周囲にも、サロン・マルキストあるいはもう少し地面に足をおろしたマルキストが輩出した。しかし、その思想にたいする私の生身の反応は、戦時中の軍国思想にたいするものと同じだった。」(吉行淳之介一九六五年『私の文学放浪』講談社)

「私や庄野や吉行は、それぞれの理由によって、たとい極微少のものでも、この別世界は絶対に必要だったし、自分の周囲―つまり外側―に求められない別世界を、自分の内側につくり、そのなかにこもるということを精神形成の中途でやらざるを得なかったということは、多分本当のことである。」(安岡章太郎一九六七年 「ちいさい片隅の別世界」―『われらの文学』講談社所収)

 戦中派や戦後派の文学者に対する吉行の文章や、「たとい極微少のものでも、この別世界は絶対に必要だった」という安岡の言葉には、佐藤さとるの思いや作品世界と通底するものが感じられる。そこから派生してくるのは“第三の新人"に共通すると言われている“大義名分とは断絶した私的主題へ固執“といえるものなのかもしれない。戦後派作家たちに共通する、時代や大状況との確執や政治への傾斜は極めて希薄である。
 『だれも知らない小さな国』での小山に対する拘りも、主人公が小山を今日いうところのサンクチュアリとして護るために、それを所有者の峰のおやじから購入しようと言う発想も、大義名分を寄せ付けず、あくまでも“私的主題"に固執する姿に他ならない。この時代、土地を私的に所有することによって、自己の夢を実現するなどという発想自体が、資本主義の走狗と批判されかねない危うさを内包していた。また、小山を開発から守るためには、それを大衆運動に結び付けて政治的解決を計ろうとするのが、当時のイデオロギーだったはずだが、作者は敢えてそういう方向に持っていかない。衆を頼む以前に、自己を投棄しなければ物事は解決しないと言う、強い信念がそこには働いていたのだろう。確固とした自立の思想がそこに感じられる。しかし、第三の新人群が“私的主題"として家庭や家族に拘泥したのとは違って、前にも述べたように、佐藤さとるには不思議なくらい家族の影が希薄である。彼は家庭や家族のかわりに、私的幻想性に軸足を置いたのだ。

 “内向の世代"とは、小田切秀雄よって銘々されたもので、それは小田切の文章によれば、次のように位置づけられる。
「さいきん注目されるようになった新人の作家・批評家たちは、若干の例外を除いて、自我と個人的な状況のなかにだけ自己の作品の真実の手ごたえを求めようとしており、脱イデオロギーの内向的な文学的世代として一つの現代的な時流を形成している(昨年末の「群像」の年度概括の座談会で松原新一が、“アンガージュマンの文学は消えつつある"、と指摘しているのもこのことに関連している。第三の新人群、その次の石原・大江・開高の世代、さらにその次の小田・高橋・真継・柴田の世代に次ぐところの、いわば戦後の第六番目の新人群に当たるこの新しい文学世代が、ほかならぬ“内向の世代"として現れてきている、ということはそれじたいが現代文学の大きな問題であり、こんにちの文学的争点の主要な一つたるべきものである)」(一九七一年三月二三日〜二四日、『東京新聞』)

 小田切が“内向の世代"というとき、そこには“脱イデオロギー"が否定的に強調され過ぎているきらいがある。しかし“イデオロギー"というのは、自己の“生"を賭すに値するほどの思想性に裏打ちされているものとは言いにくい。せいぜい政治・社会的な立場か党派性を表す程度のシンボリックな意味合いしか喚起しない。ここで見るべきは、“自我と個人的な状況のなかにだけ自己の作品の真実の手ごたえを求めようとしている"という点である。それをしも小田切は否定的にとらえているようであるが、なぜ“なかにだけ"なのかということが見逃されている。それは先行する文学世代に対するアンチテーゼでもあるのだから。“アンガージュマンの文学"と、“脱イデオロギー"が対立項となるものではないのだが、小田切には文学の自立性に対する観点が希薄だから、どうしてもそういった表現になってしまうのだろう。
 佐藤さとるを、第三の新人と内向の世代の中間に位置づけるときの“内向の世代"というのは、肯定的な意味合いでの“脱イデオロギー"と“自我と個人的な状況のなかにだけ"という部分での個有性である。それは、コロボックルを見出すプロセスに明白に表出されている対抗軸としての土着性でもある。自立とか土着と言う言葉が、吉本隆明らによって政治思想的な意味合いでせり上がってくるのは、六〇年代になってからであることを考えると、ここでの身の置き方は、作者自身にとって既得のものであったことが理解できよう。そしてそこに、この作家の一九五九年における先駆性を読み取るのだ。戦後革命の幻影から平和と民主主義へと、明らかに一党のイデオロギーを運動方針に掲げ、文学を運動ととらえていた当時の日本児童文学者協会に、大多数の児童文学者が参加していたにもかかわらず、あえて加わらなかったところにも、かれの独自な立場が鮮明である。コロボックルというのは、現代文学にとって、一つの思想的な表現でありシンボルだったのではないか。(以下次号