『現代にとって児童文化とはなにか』(三一書房 1965)

先生の児童観―時評・子どもと社会

 ここでいう先生とは小学校の教師のことである。その先生たちの児童観、つまり子どもたちを見る眼、または考え方の公式的なことに腹立ちを覚えることがしばしばある。あるテレビ放送会社が、東京のある小学校の体育の時間を中継放送した。それはソフトボールの練習試合だった。バッターボックスに女の子が立った。当然のこと、カメラは打者の表情を大写しする。ところがこれが放送後に問題になった。打者になった女の子はちぢれっ毛だった、だから大写しはすべきでなかった、と先生が文句をつけたのである。ところがテレビの演出者やカメラマンたちは、そういわれてみれば、あの女の子はちぢれっ毛だったかもしれないという程度で女の子を見ていた。つまり、それほど特異な、ほかの子からきわだった存在には思えなかったのである。ここにもぼくは、先生たちの公式的な児童観を見る。あまりにも意識しすぎた、子どもをいたわりすぎるあまり子どもをいじけさせてしまうような先生の態度もまた、ぼくは公式的な、ということは甘っちょろいヒューマニズムの児童観であると思うのである。どうしてもっと、子どもをつき離して見ることができないのだろうか。
 また、こんな話もある。戦後の一時期、児童文学者と先生たちとの結びつきが強くなり、その話し合いの機会も多くなったが、あるとき童話作家のひとりが、自己の創作体験にからませて、私は子どもを愛していないといった。すると、すぐさまこの発言に食ってかかった作文教師がいた。そんな童話作家がいるから日本の児童文学はだめなのだ―と。しかしこの場合、だめなのは作文教師のほうだった。その童話作家は、わが国では数少ないすぐれた作家のひとりで、しかもつねづね、アイロニカルな発言をすることで知られていた。ということは、その童話作家の発言が、従来の童話作家たちの子どもへの盲目的な、猫可愛がりな愛情、つまり甘っちょろいヒューマニズムの児童観にたいする痛烈な挑戦であったというわけなのだ。その意味の深さ、つまり言葉の思想を理解せずに、すぐむきになる教師の甘さは、笑われるべきものだ。もちろん、アイロニカルな言語に親切さはない。その不親切さが責められる日も、やがてはくるだろう。しかし、現段階においては、あらゆる思考方法、それにともなう発想によって、古きもの、悪しきものにたいする抵抗を試みていく必要があるのだ。それを理解せずに、すぐさま、むきになり食ってかかるような教師が、作文教育の指導者的位置にいるということ、このことがぼくには不思議に思え、さらには腹立ちを覚えさせられる。その教師の考え方、これもまた、公式的児童勘の一種である。
 子どもとは、真実、まことに、愛すべき存在であるか。ぼくの答えは、否(ノン)だ。
 ぼくが所用で都心に出る。その郊外電車には、遠足の子どもたちが乗り込んでくることが多い。これに乗り合わせたら、ぼくは災難だと思わざるを得ない。そのやかましいこと。いくら読みたい本があっても読めない。うっかりしてたら、靴を踏まれて汚される。こんな時、ぼくは所在なげに子どもたちを見ているだけだ。心のなかでは、なぐりつけてやりたい思いが、にえたぎる。それを意識してくると、ぼくはいくぶん楽しくなる。もしぼくが、うるさいとかどなって、子どもをなぐりつけると、子どもはかならずけがをする。ぼくにだってそれくらいの腕力はあるのだ。すると、その日の夕刊か、あくる朝の新聞に「童話作家、子どもをなぐる」というような記事が出る。ぼくは暴力童話作家てな存在になるだろう。もちろんぼくは警察の取調べにたいして、童話作家たることを誇らかに自称する。やがて裁判となる。検事が論告するだろう。被告は、童話作家という子どもを愛すべき立場にありながら云々。だからその罪は重いと。これにたいして、ぼくの弁護人はなんと反論するだろうか。ぼくは弁護人のひとりとして、あの、私は子どもを愛していないといった童話作家に法廷に立って欲しいと思う。ということになれば、その法廷は、たんに暴力犯の裁きが行なわれるのではなくて児童文学そのものの、また童話作家のあり方、その本質に解明ということが種々論議される場にさえなる可能性があると思う。だがそれは、あくまで可能性であって、現状ではかならずしもそうならない。それは児童文学者が法律に弱いということもあるが、元来、本質の解明というようなことが嫌いだからだ。本質の解明ということになれば、それにかかわりあうことになれば当然のこと、作家主体は解体をせまられ、その実体はあばかれる。それが児童文学者には恐しいのだ。解体と同時に統合が行なわれ得るということを彼らは知らない。
 さて、ぼくが車中で考えたようなことを、先生たちは考えないものであろうか。
 たとえば、教師と暴力という問題がある。新聞ダネにもしばしばなる。戦中、ぼくらが小学生のころには、なぐられるなんてことはあたり前のことだった。だからぼくには、なぐらない教師を想像するのが困難なくらいだが、現在では、なぐる教師が新聞ダネになる。もちろんぼくは、暴力の礼賛者ではない。しかし先生が、子どもをなぐる気持がわからぬでもない。問題は、なぐる場合の教師主体のかかわり方にあるのではないだろうか。教師は教師であることによって、児童の上に立つ権力者である。その権力を笠に着て生徒をなぐったのだったら、ぼくはその教師を許せない。だが逆に、教師が教師であることによって、ある種の制約を受けていることも事実だ。これが新聞などでは「教師ともあろうものが暴力を」というような言葉であらわされる。この「ともあろうもの」が問題だ。ともあろうものが、という限りにおいては、そのあるべき姿が当然のこと想定されていなければならないだろう。だが、そのあるべき姿、本質が解明されることは、まずないといっていい。いつも問題になるのは、そうあるべきではないということである。もしも今後、教師の暴力が問題になったとしたら、日教組あたりが本気になってこの問題に取り組んでみるべきではないだろうか。つねづね子どもと対決しているぼくたち児童文学者にとっても、それは問題の外ではない。教師のあるべき姿は、児童文学者のあるべき姿に関連が深く、しかも共通する問題としての子どもが、そこにあるのである。
(1959年7月 「小三教育技術」)

子どもたちと「われらの時代」―時評・子どもと社会

 子どもにたいして関心を持つほどのものならば、大江健三郎の近作『われらの時代』はかならず読むべき本である。つぎに引用する一部分だけでも、じゅうぶん考えてみなければならぬ要素をふくんでいるといえるだろう。
   「日本の若い青年にとって、積極的に希望とよぶべきものはありえない、と南靖男は汗のためにすべりやすい腹を安定させるために肱に力をこめたり膝をつっぱたりしながら、そしてそのあげくかれの体のしたの熱く柔らかい体からますます無遠慮なうめき声をひきだしながら眼をつむり眉をひそめて考えていた。希望、それはわれわれ日本の若い青年にとって、抽象的な一つの言葉でしかありえない。俺がほんの子どもだったころ、戦争がおこなわれていた。あの英雄的な戦いの時代に、若者は希望をもち、希望を眼や唇にみなぎらせていた。それは確かなことだ。ある若者は、戦いに勝ちぬくという希望を、ある若者は戦いがおわり静かな研究室へ陽やけして逞しい肩をうなだれておずおずと帰ってゆくことへの希望を。希望とは、死ぬか生きるかの荒あらしい戦いの場にいるものの言葉だ。そしておなじ時代の人間相互のあいだにうまれる友情、それもまた戦いの時代のものだ。今やおれたちのまわりには不信と疑惑、傲慢と侮蔑しかない。平和な時代、それは不信の時代、孤独な人間がたがいに侮蔑しあう時代だ。《宏大な共生感》という言葉をかれはフランスの中年の作家の書物からさがしだして覚えていたが、それも戦争のイメージ、暗い夜の向こうにとどろく荒あらしい海の襲来のようなイメージとつながるものなのだ。ああ、希望、友情、《宏大な共生感》そういうものがおれのまわりには決して存在したこがない。おれは遅れて生まれてきた。そして次の友情の時代、希望の時代のためには、あまりにも早く生まれすぎたのだ」

 ぼくは『われらの時代』を八月十五日前後に読むことによって、より大きなショックを受けた。ぼくらの子ども時代はすべてが戦争につながっていた。もちろん正しいことではないのだが、ぼくもまたファシスト少年として、いきがいを感じ、充実感につつまれていた。ぼくだけではない。多くの友人たちも、ぼくと同じように、いきいきと生きながら、死ぬことへの憧れと誇りを感じていた。
 ぼくらは集団疎開地で、集団強盗に等しい行動に充実感を持っていた。村の柿の木は、ぼくらの襲撃をうけると、たちまちにあわれな裸木になってしまった。ぼくらを野盗よばわりし、柿を奪いかえそうとする農民たちに向かって、ぼくらはきっとした表情で堂々といい放った。
  「われらは天皇陛下の赤子である。われらのものは、われらのものであってわれらのものでない。すべて陛下のものである。この柿の実もまた陛下のものだ。われらは身心ともにすこやかに育って、陛下のために死ななければならない。ために、われらはこの柿の実を食わなければならない。陛下のために、この柿の実を食うのだ」
 ぼくらの論旨にあいまいな点はなかったように記憶する。ぼくは国民学校初等科をおえたら、すぐさま陸軍幼年学校へはいるために準備をしなければならぬと決意していた。米軍の空襲によって両親を失い、孤児となったときにも、ぼくの決意はますます強固になった。ぼくは戦争によって孤児になった自己に誇りさえ感じていたのである。だが、そうしたぼくの誇りも、充実感も、敗戦によって、すべて空しく壊滅し去ったのだ。誇り高き戦災孤児は、浮浪児の同義語でしかなくなってしまった。それから今日まで、ぼくは誇りも充実感も持ったことがない。
 現在、子どもたちが自分たちの文化として求めているものが、平和を愛するおとなの眼からみて、俗悪でショッキングなものに片寄っているということで、非難の声が高いようだが、そうした現象も、子どもたちにとって「われらの時代」が大江健三郎のいうような時代であることを、すこしも考えないとしたら絶対にその解決はえられないと思う。
 子どもたちが俗悪とよばれるマンガを見ている瞬間にはじゅうぶんの注意をはらってほしい。見終わったあとで、子どもたちはかならずといってもいいほど、タメ息をはく。そして子どもは現実に帰ってくる。子どもたちがマンガの世界から現実に帰ってくるということは、充実感の喪失と同義である。
 現実に帰ってくることが、充実感の喪失と同義であるような時代の子どもたちに向かって、何らの代償もなしに、俗悪マンガや読物を禁止するようにいうのは、もちろんまちがいであるし、それら俗悪ものから良心的文化への橋渡しというようなことを考えることも、子どもたちの「われらの時代」を無視したおとなの独断であることを意識すべきだろう。ここでまた、ぼくは自己の戦中体験にさかのぼり考えてみるのだが、ぼくらが子どものころには、読物やマンガに刺激を求め、充実感を満足させるというようなことはなかったと思う。ぼくらが読物やマンガに求めたのは、現在の子どもたちが求めるのとはむしろ逆で、一種の休息をもとめたようである。だから、ぼくのように徹底したファシスト少年は、読物・マンガの類にふれることに、がまんのならぬ嫌悪感をいだいたことも事実だし、それらにうつつをぬかす者に対しては、多くの場合、制裁を加えたのであった。そういう子ども時代を送ったぼくが、現在、良心的といわれる母親や教師を向こうにまわして、俗悪児童文化の弁護とその生産にたずさわっているという皮肉な現象は、ぼくが一貫してファシストの立場にあるというのではなく、むしろその逆の立場にあればこそだという立証にほかならない。このようなぼくの立場からみると、世に良心的といわれる児童文化を生産したり、それを子どもたちに押しつけようとしている人たちにとって、戦中体験は、何らの影をも落さなかったのではないかと思えてならないのだ。あるいはまた、戦中における充実感を意識しなかったのではないかとさえ疑いたくなる。戦時において、たとえ反戦の立場にあったにせよ充実感を意識しなかったものに、現在のような、相対的安定期の空しさがわかるはずはないのだから、つねに充実感をもとめてやまぬ、エネルギーにあふるる子どもを理解することは不可能だ。
 こうした意味からも、ぼくは自己の戦中体験はすぎし日の物語ではなく、現実の子どもたちにとってのアクチュアルな課題として横たわるものだと思うのである。これを意識しのりこえることなくして、ぼくらは明日を語ることはできないのだ。
(1959年10月 「小三教育技術」
テキスト化根岸あゆみ