『子どもにとって美は存在するか』(誠信書房 1965)

映像・恐怖の美学

富士山論争

 前日が終日激しい降雨だったために、朝早くから買物に出ていた母親が帰ってくるなり子どもたちに告げた。
「富士山がとてもよく見える」
 斗美(四歳)とあゆみ(三歳)の兄妹は富士が見えるキャベツ畑の向う側まで走って行った。そしてしばらく眺めていたがひき返してくると、「すごくきれいだった」と口を揃えていう。その口調には全く感動を受けたというような響きさえあるのだった。
「どうして富士山がきれいだとおもったのか」と訊く父親に対してまず兄の答えは「見れば判る」ということであったが、この単純そうな言葉のうちにこめられた意味はかなり大きなはずである。ここにはまず第一に、兄妹ふたりが揃って美しいと感じたものに対しては父親も美しいと感じないはずはないという絶対の信頼があるのであって、それは父親そのものに対する子どもとしての信頼と自分たちの美意識に対する信頼とが混同されて成り立っているに違いない。そしてその信頼を支えるものは更に母親への信頼とその美意識である。母親もまた富士を美しいとおもったからこそ自分たちに富士が見えることを伝えてくれたのだと子どもたちはおもい込んでいるわけだ。事実子どもたちは、「お母さんだってきれいだっていったよ」とその意識を抱いていることを表明したのであるが、同じ場に居合わせながら父親はその言葉を聞いてはいない。子どもたちが勝手にそうおもい込んだだけのことである。しかしこれを嘘ということは出来ないのではないか。富士が見えるという伝達のうちには当然のこと、そうした意味は含まれていたはずなのだ。
 父親は黙って子どもたちが佇んだと同じ場所にしばし佇んで帰ると
「なんで富士山をきれいだとおもったのか」とふたたび発問した。
「白いから」「まっ白だもの」「光ってる」「ぴかぴかだ」
 妹が答えるとそれを兄が補強するという答え方である。白いもの、光るものなら何でも美しいかと疑問を投げかけると、今度は
「すぐ近くにある」「団地の市場のすぐ向うにあるように見えた」という答えが出てきたが、こうなると若干苦しまぎれという感じである。だがこれを文字通り、親近感というようなことで考えてみることは不可能だろうか。しかしこの場合には、子どもたちが、遠くに感じられる富士を何らかの形で見ていなければなるまい。遠近の美を意識するということは類推をぬきにしてはあり得ないのが常識である。ところがこの類推の一方の対象は意外なところに存在した。テレビである。
 映像的思考というような言葉があって、現代の子どもの思考発達におけるテレビの役割がそのよしあしをぬきにして大きく考えられているわけだが、ここにもその一つの実証例が存在したのだ。ぼくら大人にとってテレビは途中からわり込んできたものであるが、子どもたちにとっては、生まれ落ちるなりすぐにテレビはその場にあったのである。従ってテレビ出現前の子どもとテレビ出現後の子どもとでは、思考の発達が異なるはずだというのが映像的思考論者の論旨であるが、それを詳細にかつ科学的に分析した書物はいまだに書かれていないのが現状だという。もしも子どもについて何かを考えるならば、このことは誰かがやらねばならないはずである。
 遠くにある富士を子どもたちはテレビで見ていた。落語家がコロンブスの扮装をして現れ望遠鏡を取り出すと「おおフジヤマ、スキ焼きふりかけ」と呼ぶコマーシャルが出るたびに、子どもたちは「馬鹿みたい」と必ずつぶやき、好感を抱いていないことが明らかであったからあまり気にもとめていなかったのは不覚であった。いや不覚というよりはぼく自身がテレビ出現前つまりテレ前の感覚で事象を推し計ろうとする習性をいまだに保持していることを痛感させられたというべきなのだろう。

映像的思考と類推

「あの富士山は・・・」と子どもたちは批評する。テレビの富士つまり遠い富士についてである。
「白いところが少ない」と兄がいえば、「それにぴかぴか光ってもいないしね」と妹がいう。結局は「望遠鏡でみないと見えない富士山なんて駄目」ということになったのだが、もちろんそれだけではないだろう。あの落語家が出てくるコマーシャルは常に嫌味でくどいものだという先入観もあるだろうし、ふりかけという食品そのものを好まないということも含めて遠い富士は美しくないという意識が醸されてきたのである。だがそれを遠近の類推にまで用いるということは、活字文化で育てられた人間のよくなし得るところではないのではないか。もちろん活字文化とはいっても三歳児や四歳児では明確に文字を読解することはできないわけであるが、たとえば児童マンガに例をとれば明らかなように、テレビ出現前とテレビ出現後では、子ども向け絵画の方法も大きく変化してきたのである。
 マス・コミュニケーションという名の体制そのものに対する不信も大きく作用して、テレビ映像を実像とは考えずに虚像としてとらえているひとは、ぼくを含めてかなり多数だとおもわれる。あるいは虚像とまでは考えないがやはり直接認識とはせずに、間接認識だとするひとは更に多数となるだろう。それでは、実際の富士の美しさを証明するために、テレビの富士を抽出してきた子どもにとってはテレビ映像もまた実像であったのだろうか、ぼくはやはり子どもたちにとっても、テレビ映像は虚像あるいは間接認識にとどまるのだろうと判定する。
 父親と子どもたちとの富士山論争はこのあとも続くのだが、それは終局的に臨場意識に到達してしまう。「団地の市場のすぐ向こう」に見えた近い富士は、行こうと思えばすぐにも行くことの可能な場所におもえたのだ。それに対してテレビ映像の富士は、とうてい臨場の意識とはつながらないもの、所詮は映像にすぎないのである。しかしこれらは論争の果て、つまり思考を発展させることによってそうなるのであって、キャベツ畑の向う側へ行って、いきなりそこに出現した富士を見たときの感動とはもはや異質であるかも知れない。
 感動が言語におきかえられるとき、美意識がみるみるうちに落ちこぼれてしまうのをぼくは繰返して経験してきたのであるが、ここにまた改めて経験し、とくにそれが子どもの場合には言語知識の未熟もあって尚更のことその落ちこぼれが激しいということを知った。
 告白的になるが、ぼくは幼稚園というような集団の場で、美意識についての調査をやってみようという考えを持ち、その設計にまでとりかかっていたのだが、富士山論争を続けているうちに、そうした調査が至難のことのようにおもえ、ついに実行に移し得なかったのである。
 問いの1あなたは富士山を見たことがありますか、というような設問をして、それに子どもたちが答えるためには、現状では幼稚園教師なり親なりの媒介を経なければならず、とうてい子どもたちのストレートな答えは得られそうにないだろうということがまず前提にあり、たとえそれが子どもたちのストレートな答えだとしても、それはもはや美意識の落ちこぼれを招来する論争のはじまりでしかないのだ。おそらくは、そこに富士を見たとき、あっという間もない一瞬のうちに、その美は心を支配するのではないのか。そのあと、見れば見るほど美しいというようなことになるのであれば、そこには類推が始まっているといえるのだろう。
 あっという間もない一瞬のうちの美意識とは一体なにか。これを神秘化してしまうことは許されない。とくに子どもという伝達未熟な存在にとっては、黙っていても許される<意識の神秘化>は、そののちに行われる類推作業までを神秘化つまり曖昧にしてしまう。この場合類推作業という代りに批評作業という言葉を用いてみることも必要かも知れない。

一瞬の美意識

 父親は兄の斗美に訊く。「恐いものは何か」
 斗美は答える。「カミナリだな、やっぱり」
 何故に雷が恐いのかという父親の問いに対して答えた斗美の言葉は、前述の一瞬の美意識を解明する手がかりとなるはずである。すなわち斗美という名の四歳児は次のように答えているのだ。
「まだ夏だったとき、ぼくが窓から外を見てたら、カミナリが光った。青く光った。そうすると、いつもの夜は見えないものまで、みんな見えた。透明ンなるほどよく見えた。だから、とても恐かったよ」
 四歳児程度で透明というような言葉が使えるのも明らかにテレビの影響だがこの点についてはまた改めて考察することにして、いまは一瞬の美意識についての考察が先決である。
 富士についての美意識を語るときには、明らかな類推があったにもかかわらず、稲光りの恐怖について語るとき、子どもは「いつもの夜は見えないものまで」という対比を行なったにすぎない。おそらくこれは類推というようなことではなくて、見えるはずのないものが見えたという驚きを表現するために、便宜上用いた単なる対比に違いない。子どもにとっての恐怖の意識は、やはり一瞬のうちに透明におもえるほど視野いっぱいに見えたという点に集約されるのだろう。ぼくは故意に、「それならば、透明なものはみんな恐いか」と訊ねてみたが、これに対してはかなり考えた末に、「骸骨も透明だからこわい」といい「骸骨は透明なんじゃない。骨だけなんだ」と教えられると、「それじゃ、鉄腕アトムに出てきた電光人間だ」というように流れて行ってしまうのであった。そうなると、見えたではなく、見えないということに結びついてしまう。駅前の文房具店から購入してきた「鉄腕アトムかるた」に「すがたの見えない電光人間」と記されているのを子ども自身も承知しているからである。
 見えたという一瞬のうちの感動が恐怖と美とに区別されるのは一体どこなのか。それも一瞬のうちになされることなのか。こうした疑問はすべて徒労に帰する。稲妻のなかに見たその一瞬も、キャベツ畑の向こうへ馳けて行ったことによって出現した富士における一瞬も、その一瞬ということでは、本来同一の意識に属することなのだと判断することこそが、ここでは問題の解明に役立つ。便宜的にそう判断するというのではなくて、本質的にそう判断すべきだという意味をこめていうのであるが、それでは何故に、その二つの意識が恐怖と美というような別れをするのかという疑問が出てくるのは至極当然である、それならばいっそのこと、恐怖もまた美意識であると規定したらどうなるのか。
 美が人間関係における約束事すなわち美もまた社会的存在だと考えられるようになったとき、美学が誕生したわけでそれはおそらくプラトンの弁証法あたりを出発点とするのだろうが、子どもの美意識を美学という範疇でおさえることはあまり意味のあることではないと考える。子どもが約束事を知る以前、社会的存在を離れての原存在においても、美は存在するのではないかという疑問から出発してその実証を心がけている限り、ぼくは恐怖もまた美意識だと規定せざるを得ないのである。
 美が美学によって規制されてくると、そこには社会的な要請が混入される。美と並んで真善といった倫理観とないまぜになった美学が形成され、ある場合には、真あるいは善なるがゆえに美といった判定までがくだされる。これを富士に適用させてみた場合には、富士は日本を象徴する山である。富士は日本の山である。日本人ならば富士を美しいとおもわぬはずはないという論理を生み出しかねない。しかし人間は、特に子どもたちはそうした論理とは断絶したところでも、富士を美しいと意識することが可能なのである。しかしこの地点にまで遡上すると結果的には、美も恐怖もないまぜになった、あの一瞬の感動、見えたという点に集約して考えざるを得ないのではないか。
 あるいは、ここでは発想を全く変えて、美もまた恐怖の意識であると規定すべきかも知れない。いっさいの社会的制約つまり美学を離れて美が存在するためには、人間の原存在にたち帰る必要が絶対に不可欠だとするならば、見たという一瞬とはとりもなおさず人間が社会的存在であることをやめ得る瞬間なのだと考え、それは孤独という言葉で表現されてきた状況というふうに規定することも出来る。
 稲妻が青く光ったとき、視野いっぱいにすべてが見えたということの内容には、自分自身もまた入っていたと考えることは出来ないものだろうか。
 父親との連帯、母親との連帯、妹との連帯のなかから、外をのぞき見ていた彼に、突然光りがそそがれる。そして彼は青光りに映し出された視野いっぱいを見る。それは全く一瞬のことだけに、彼はその見たということさえ、ひとに伝えることが出来ない。もちろん一緒に見たものもいない。そこに意識されなければならないのは、すべての連帯を絶たれた彼自身である。

美意識の発火点

 思へば遠く来たもんだ
十二の冬のあの夕べ
 港の空に鳴り響いた
 汽笛の湯気は今いずこ
 中原中也の詩「頑是ない歌」の一節だがこうした中原中也の詩的内容を従来の批評家たちはメルヘンとよんでいた。メルヘンとは一体なんなのかということになると、問題は決して単純には片付かないが、幼児体験への固執がメルヘンでないことだけは明らかである。ただ幼児体験に固執する者にとって、メルヘンが受け入れられ易い芸術形式であると信じられてきたにすぎないのであって、幼児体験そのものと、メルヘンとを混同するような曖昧さではとうてい中原中也の詩についても、また幼児体験とは何かということについても理解の及ぶはずはないといえるだろう。
 紙数の関係で全篇を引用できないのが残念だが、この「頑是ない歌」という詩作品は、

 考へてみれば簡単だ
 畢竟意思の問題だ
 なんとかやるより仕方もない
 やりさへすればよいのだと

 決意するとき想起されてくるのがあの十二の冬の夕べに見た汽笛の湯気だということをうたったものなのであるが、それはただ単に人生の途上でふと想起した幼児体験というようなことではあり得ず、十二の冬の港の空に鳴り響いた汽笛の湯気をひとり見なければならなかった体験、それは強く孤独を意識した一瞬として中原中也が何かにつけて決意を迫られるときによみがえってくる体験なのである。何かを決意すること、それは中原中也にとっては孤独を意識することと同義でなければならなかったのだ。「頑是ない歌」だけではない。「骨」「この小児」「幼獣の歌」等あげれば際限なくそれを証明する作品が存在する。もちろん、決意と孤独との同義性という意識と体験はぼく自身にもある。
 奇しくもぼくもまた十二の早春にそれを体験しなければならなかったのだが、上野寛永寺、言問橋下、錦糸町公園など多くの共同墓地を探しても、父母とふたりの姉の死を確認することが出来ず、かえってそれゆえに肉親の死の重みを意識しなければならなかったときが、まさしくそれに相当する。物理的にも孤独であることと同時に、そこが廃墟であるということもからんで、ぼくは悲痛な決意をしたのであるが、それ以後もことあるたびに、たとえば七対八というたった一票の差のために組織をおわれた夜の道においても、十二の早春の体験はよみがえってきた。もしも決意という言葉から誇り高き雰囲気を感じるとしたら、それははなはだしい誤解だといわなければならない。ぼくにとって、決意は栄光への出発ではなく悲惨への突入を意味していたのである。それはむしろ恐怖とさえよび得る体験なのであった。そこで意識しなければならなかったのは、すべての連帯を絶たれたぼく自身ではなかったのか。そしてそれは、稲妻の青い光のなかで意識しなければならなかった四歳児の体験と通い合うはずではないのか。ところでこれを、たとえ悲惨への突入であるにせよ、そこに存在した一種の清爽感はいったい何であったのかというふうに考えてみると、それがつまり美意識の発火点だという気がしてならないのである。
 児童心理学者は、大人たちの影響なしには子どもたちは恐怖心を持ち得ないといい、子どもが何かをこわがるのは、大人がそれを恐いものだと教えるからだという。はたしてこれは真実だろうか。たとえば、お化けというように具体的な事柄に対しての恐怖ならば教化あるいは威嚇によるものと考えることも可能だが、暗い夜、樹々に鳴る風といったような抽象的な事柄に対しても子どもは恐怖を示すのである。暗い夜はお化けが出てくるから恐いというのは明らかに知識によって得た恐怖であるが、子どもはただ漠然と暗い夜を恐怖する。鳴る風におののく。これらを解明する場合、一番便利なのは人間の原始性というが如き概念を提出することだろう。しかしそれははなはだしく便宜的な概念提出であって、とても本質の解明にまでは及びそうもない。ぼくとしても、いま明確にこれを解明する方法は持たないのだが、はっきりいえることは、暗い夜、鳴る風という事象は、稲妻の場合に集約されている見えるということに対置するようでいながら実際は、全く同じ意味を持つ事柄に属するのだということであろう。四歳児が稲妻の青い光によって見たものは、視野いっぱいの透明ではなくて実は暗闇だったのである。見えたと直感したとき、彼はすべての連帯を断ち切られた自己を見、続いて暗闇が襲ってきた。暗闇のなかで、彼は連帯の回復をねがう。しかし二度とふたたび連帯はよみがえらないかも知れぬ。恐怖。しかし大人であるぼくは、連帯の断絶が信じられない。自己が社会的存在であることを忘れない感情は、恐怖感とはならずに新たなる連帯への出発を決意する。とすれば、恐怖の意識は知識ではなく、むしろ無知なるがゆえに存在するものと規定すべきではないだろうか。

蒐集の移行

 多少の混乱を整えるために、富士と稲妻とを区別する必要があるかも知れない。ぼくとしてはかえって区別することが混乱を招来するとおもうのだが一応ここでは、富士は知識による美意識、稲妻は無知による、つまり心情の範疇に属する恐怖、すなわち美意識ということにしてもよい。しかし富士に対する臨場感と稲妻における連帯回復への希求とは、その原点を同じくするとはいえないだろうか。そこで感じられた光と影というような表現は絵画的だが、それなくしては事物を見ることは不可能なのだからその点を追求して行くと、どうしても富士への意識と稲妻への意識とが同一の原点をもつことが理解されるのである。だがそれでは結果的に、美意識もまた社会的存在だとする既存の美学と混同されてしまうという危惧が生れてくるかも知れない。ところがそれは似て非なることであって、その異質性は、ひとたびの断絶を意識するかしないかにかかっているのだ。
 いわゆる成長するに従って、子どもは知識による美意識をつめこまれ、心情による美意識を喪失していく。知識による美意識とは断絶不要の美意識であり、それは現在のところ合理性とよばれるリアリズムによって規制されている。知識による美意識のつめこみと、心情による美意識の喪失現象を立証するためには、たとえば、子どもの蒐集物の移行を調査することなどが最も卑近ではないだろうか。三歳児あゆみと四歳児斗美の場合、二つの抽出しを所有しているが十一月現在、そこに蒐集されていたものは次の通りである。

 ヨーヨー(赤)
 ハサミ(工作用赤青各1)
 ぬいぐるみの猫(尾がとれている)
 ハーモニカ2
 人形の首(ビニール製2)
 人形の胴(ビニール製2)
 ハンドバッグ(布製)
 手提げ袋(ビニール製)
 糸巻き(ミシン用)
 メンソレータムの空びん
 繩飛び繩の切れはし(ビニール)
 ネックレス(金属製、切断されている)
 ネックレスのガラス玉(紫8)
 ビニール人形のスカート
 笛(金属製、鳴らない)
 鉛筆(しんが折れている3)
 新聞の折込み広告(18)
 眼鏡のツル(父親からの払いさげ)
 カスタネット(青赤各1 しかし赤は犬に噛まれて損傷)

 このほかにも、右に列記したものに数倍する物品があるが、なかには父親や母親には全く見当がつかないものがあり、子どもに訊いてはじめて水鉄砲の一部分だということが判明するといった具合で、およそ保存の価値あるものなど見当らないといったほうが妥当なほどである。もちろんこれらはいまだ完全な玩具類とは区別されており、ときたま取り出されて用いられるために存在するのであって、なかにはすでに忘れ去られた品物も多い。
 大体において、母親は整理を好む存在であるから、月に一度位は子どもの蒐集物も整理される運命にあるわけだがその母親の記憶によっても、正体不明の物品は眼にみえて減少してきたという。もしも幼時における体験もまたこれらの蒐集物と同じように、手当たり次第に蒐集されそして整理されて行くのだとしたら、ここにもまた正体不明のものは減少せざるを得ないのではなかろうか。先述した二つの例、すなわち富士の美しさと稲妻の恐怖でさえ、それを放置したり知識の整理にまかせておくならいつかは雲散霧消してしまうことだろう。そして子どもたちは富士の美しさについて、稲妻の恐怖について合理的に語ることさえ可能になるに違いない。現代の子どもたちにとって蒐集とはその殆んどが切手集めだという事実があり、一方で合理主義を教え込むことこそが教育だという思想が広く流布されているとしたら、正体不明の美意識あるいは恐怖、おどろおどろした幼児体験をいち早く消滅せしめることこそが、教育であり育児であるというような風潮がみなぎることも当然となるだろう。
 ひるがえって考察するならば、その急激な消失現象のなかにあってもなお生き残るような体験でなければ、とうてい決意の意識のときに想起され、その決意を支えるような体験にはなり得ないということも確かにいえるのではあるが、その原点はやはり正体不明の意識にまでさかのぼるのでなければ把握されるものではないのだ。ある日いきなり、港の空に鳴り響いた汽笛によって中原中也は孤独を意識したのではなく、十二の冬の体験に集約される孤独感の積み重ねがあったからだと考えるのでなければ、とても理解は不可能なのではないか。
 多少の飛躍は覚悟の上でぼくはボクシングに例をとる。ボクシングにおいて最もノック・アウトの可能性を持つブローは、相手の出てくる瞬間を狙って撃つカウンター・ブローであることは小学生でも自明の事柄であるが、それは天性のカンとそれを磨きあげる訓練とによって完成される。子どもはその殆んどが正体不明の美意識あるいは恐怖を感受する能力を保持するが、その後の訓練によってその能力を遂に生かすこと能わぬということもあり得る。もしもその子どもが将来、何らかの意味で既成の連帯を断ち切り、新たなる連帯へ出発する決意を迫られたとき、その支えを見出すことが不可能なままに、主体を状況のなかに埋没させるという事態に立ち至るとしたら、その悔悟は永遠に取り戻すことは出来ないであろう。
 子どもにとっては心情の美意識の錬磨もまた創造活動とよばれるべきなのであるが、それと既存の教育とはどんなかかわりを持つのか。
テキスト化渡辺みどり