『子どもにとって美は存在するか』(誠信書房 1965)

夢・想像力
お化けの夢
ある日、おとうさんとしんせきのうちへ行った。しんせきのうちの前に、ふるいコンクリートの家がたっていた。家の色はふかみどりいろ。へいは二メートルくらい。へいに、かれくさがかかっていた。その家におとうさんとたんけんにいった。その家のにわはとっても広く、まいごになりそうだった。
だんだん夕方にちかづいてくらくなった。いつのまにか、おとうさんがいなくなっていた。しばらくたって、その家の中に入っていった。中はまっくらだ。入ったところには、はしらがあった。こんやはここでねることにし、ねむりはじめた。ちょうどまよなかごろ、なにか、もの音がきこえた。そっとかた目をあけて見ると、ぼくしがナイフをといでいた音だった。わたしはにげだそうと思って、そっと起きあがった。そっとドアの方に向かっていった。とってに手をかけたとたんに、ぼくしがじろっとこっちをむいた。そのときは外に出ていて、むがむちゅうではしったが、いくらはしっても家の前だった。それでもむちゅうではしったら、いつのまにか家の田んぼにきてはっていた。田んぼでむちゅうではったが、とうとうぼくしにつかまってしまった。そのとき、はっと目がさめた。
川崎市に住む小学四年生の女の子が書いた夢の記録である。句読点の一部だけは読み易いように修正したが原文どおりになっている。果してこの夢は、子どもにとってどのような意味を持つのであろうか。フロイトの流れを汲むような心理学者ならば、たちどころに、この夢の解釈を始めることだろう。たしかにそうした分析によって、子どもの心の奥底にひそむ願望とか無意識とかいったものをさぐり出すことは興味のある事柄には違いないのだが、心理学者ではないぼくにとって、とうていそうした作業は不可能である。
それではなにゆえに、ぼくは友人の小学教師をわずらわしてまで、わざわざ夢の記録を入手したのだろうか。その理由はぼく自身にとっても明らかにされなければならない。
実のところぼくも実際に子どもの夢の記録を手にするまでは、多少なりとも子どもの夢を手がかりにした内部世界の解明といったようなことを考えていたのである。ところが、一学級四十数人の夢の記録のほとんどが、いわゆるお化けの夢であり、しかもそのお化けが全く類型的で、なかには赤青の鬼とか怪人という名称で表現されているのを見ては、予定はいさぎよく変更されなければならなかったのだ。それらがテレビの映像に影響されていることは明白であった。
それでは予定を変更してどんな意味をさぐればよいのか。もはやここにおいて残された作業は、それらの夢の持つ意味を子どもたちひとりひとりの心理的世界に求めるのではなしに子どもたちをして共通する夢を見させてしまう原因をさぐり出すことでしかないのではなかろうか。子どもたちに共通の夢を見させている状況とは決してよろこばしいことではない。ここではやはり疎外というような言葉使いをぬきにしては、それを言いあらわすことはでき得ないのではないか。
フロイトが心理探求の素材を夢に求めた時代には、夢はまだ個人に属するものであったのだろうが、いまや夢までが社会に属してしまっているとさえいえそうである。もちろん統計というようなものを重要視する心理学者や社会学者は、たかだか四十数人の子どもの夢の記録を資料にしての断定などくだすはずがない。だが冒頭に引用した記録がむしろ異質におもえるような類型的な夢のかずかずを見せられては、ほかに何ともいいようがないというのがぼくの偽わらざる実感なのだ。
眼玉と唇の幻覚
子どもの夢までが社会に属しつつある以上、それはもはや知識とよばれるものの範疇にはいってしまうものでしかないようにおもえる。ある子どもは語っている。「ぼくの夢は大長編なんだ。まるでテレビの連続ドラマのように、毎晩つづけて見ている」
見ようと心がけて見られるようなものを夢とよぶことが適当かどうかという疑問はたしかにある。それならばむしろ、半睡時の幻覚といったようなものではないかとも考えるが、その子ども自身がそれを夢だとおもいこんでいる限り、それは夢として扱われるべきだとおもうである。
半睡時の幻覚と夢との区別といったものは本来なかなかにつけにくいものではあるが、幼児の場合には、ものみな全ての概念規定が確立していないために、かえって判然とすることが多い。
四歳児の斗美がさかんに「こわい夢」を訴えたことがある。彼の言葉によると、大きな眼玉や大きな唇が屋根から天井へやってきて動いたり踊ったりするというのである。父親がいろいろたしかめた末に、それを半睡時の幻覚だろうと判断したのは、子どもの口から「その眼玉や唇は、あの壁の絵にそっくりなの」という言葉を聴いたからである。
斗美が寝ている真向かいの壁には、エッフェル塔を背景にした女二人の顔を描いたビッフェのデッサンの印刷画が鋲でとめられていたのだ。これに比較して夢のほうはかなり劇化されて語られるにせよ、ショットのつみ重ねがあり、ある程度のストーリー性も存在するようである。
ワニみたいなカバみたいなものが沼にいた。子どもが食べられそうになったから、ぼくがハサミで尻っぽを切ってやったら、ぶくぶく沈んでいっちゃった。もしかしたら、あの食べられそうになったのも、ぼくだったのかな。
一つの例ではあるが、夢の場合にはほとんどが右のような型式をもったものとして報告される。これに対して小学四年生になると、半睡時の幻覚とおぼしきものまでが、ストーリー性をもって現われているのである。そして本人はそれを夢だとおもいこんでいる。これではもはや夢における発見といったようなことは絶無だとさえいえるだろう。ぼく自身の体験によれば、夢においての発見といったようなことはまずないのだが、いまなお半睡時の幻覚においてはかなりの発見がみられるのである。もちろんこれは何もぼくという人間の特殊性による特殊な現象ではない。夢においては、必ずといってよいほど自己が関係するが、半睡時の幻覚においては自己はその映像を傍観するといった立場をとるのが普通だからである。
二ヵ月ほど前のことだが、ぼくは必要があって「東海道四谷怪談」を読み、疑問におもったことが一つあった。それはタライから手が伸びて男の足首をつかむといった場面についてなのだが芝居の世界に暗いぼくには、どうにもそのカラクリがのみこめないのだった。するとその夜、布団にはいって間もなくぼくは舞台の断面を幻覚に見たのである。それによるとタライを置いてある舞台の床板の下にひとりの人間がはいりこんでいて、床板とタライの底とを貫通した穴からしきりに手をつき出している構図だった。芝居においてもその通りのことがおこなわれるかどうかは知らない。だがそうした方法によっても、あの場面を演じられることができるとすれば、これもまた巾広い意味での発見ではないだろうか。
斗美の幻覚からもまた一つの発見が得られたことは事実である。線がいい構図がどうのというより前に、ビュッフェの絵においては人物の目や口がかなり誇張されて描かれているがゆえに、それは生々として迫るらしいのである。幼児をして幻覚を見させるほどの迫力こそがビュッフェの魅力だとはいえないだろうか。いうまでもなくこれらは些細な発見であって、とうていユリイカと叫ばずにはいられないような偉大なことではない。だが現実のなかでは子どもたちが、こうした小さな発見さえも喪失していきつつあるのだ。そしてこの過程で子どもたちが獲得しているものは、社会性という名でよばれる類型化でしかないようである。
祭の夢と革命の夢
夢の疎外状況を前にして、夢の教育の可能性を検討してみたい。しかしここでいう教育とは、子どもたちをして一定のレベルにまで到達させるという大義名分のもとにおこなわれる一般化のことでは絶対にない。それならばすでに効果は充分にあがっており、ぼくの知る範囲でも一学級四十数人の子どもがほぼ同じような夢を見、それをほぼ同じような表現で記録したという資料があるというわけだ。
ここでいう夢の教育とは、疎外状況からの脱却をはかるための前提条件を子どもたちに教えようということなのである。つまり社会化されつつある夢を、ふたたび個人のものに還元しようとする試みでなければならない。
問題の第一は何か。夢を知識によって見ないように努めることだ。ぼくは先に発見という言葉を使ったが、半睡時における幻覚であってもその発見は知識に属するものではなく、ああ判ったとおもわずつぶやきたくなるような感覚の刺戟ということになるといえるだろう。そして刺戟から知識へと働きが移り変ってゆくことがのぞましいのではあるまいか。
人間生活のなかで睡眠の占める役割の大きさはその時間が全生活時間の四分の一を超えるといった物理的な問題だけではなしにかなり大きいと考えなければならないが、さらにまたそこにおける夢の働きということを考慮するならば、単にそれは体力の回復、エネルギーの再生産といったようなことでは処理することのできない役割をふくんでいるとおもうのである。とくにそれが子どもの場合には、自ら欲して睡眠を摂るといったことはほとんどなく、親たちから命令されることによってやむなく眼を閉じるといった事態がくりかえされていくことが多いだけに、それこそ、「夢でも見ないと寝てなんかいられない」ということがあり、その役割は心理的側面をこえた子どもの全感情生活に影響をおよぼしているとさえいえるのではあるまいか。
祭の笛にねかされて
ねむれば魔法の夢ばかり。
祭の笛を吹く方は
いつでも小さな御宮さま。
芸術童謡の始祖北原白秋もまた子どもの夢の役割を大きく評価したひとりであるが、この「祭の笛」という童謡においても、「夢買い」「お昼寝」といったような童謡においても、その夢にいたる想像力の働きをストレートなものとして構想していたといわざるを得ないのが残念である。
やがて白秋はこの夢をも喪失して全く時代迎合的な理想主義的な童謡あるいは少年詩を書くようになるわけだが、これは決して白秋の詩的変質ではなく、夢にいたる想像力の働きをストレートなものとして構想していた点に帰結する問題だと考えられる。
心理学者が例証する夢の記録のなかには、目覚し時計のベルの音を革命の警鐘として聴いたという男の話が出てくる。この例と白秋童謡における夢、そしてその外的状況とは似ているようでありながら、全く異質の想像力が介在しているといえるだろう。すなわち白秋童謡における夢とその外的状況の関係には何ら主体的脈絡が存在しないのである。この主体的脈絡のなさが白秋童謡においては、絢爛たるレトリックの意匠をもって表現されてくるためにその通俗性は姿を変えて露骨にはおもわれない。しかしつまるところは現今の学校教育と同じように、子どもの夢の一般化を招来する役割を果たすものでしかなかったのだ。たやすく時代に迎合していったゆえんである。
とにかく夢もまた想像力の働きによって見るものだといえるのであるが、その直接的な映像化は想像力の衰弱を意味する。この衰弱から想像力を救う道は、夢自体の価値観を強化させること以外にはないのだが、子どもたちはそれをしようとはしていない。まして受験勉強におわれる子どもはその間に生まれる疑問の解決を夢に求めようとはしないだろう。
なぜならば、子どもたちは、解決を参考書のなかに見て、それを暗記することこそが勉強だと心得ているからである。もはやここにおいて夢の価値は無に等しいとさえ考えられているに違いない。
緑いろのわに
四歳児の斗美の好きなものがわにであることはすでに序章で記したとおりだが、その斗美がある朝起きるとすぐに、木製のわにを緑色のクレヨンで塗りはじめたのである。理由を訊いた父親に彼は答えた。
「夢でみたら、緑いろのわにがいて、とてもきれいだったんだ」
果して現実のわにのなかに緑いろの種類が存在するものかどうかは父親も知るところではない。だが斗美は夢のなかで緑いろのわにを見、その美しさを発見したというわけだ。そして彼はその美を現実のなかに再現しようと努力した。その結果が満足すべきものであったかどうかをうかがい知ることはできないのだが、もしそれが不満足であっても緑いろのわにを美しいと感じたその美意識は残っているのではなかろうか。そしてここにもまたささやかながら発見はあったといえるだろう。さらにまたそれが再現という作業までも刺戟するのだとしたら、ごく狭義に限ってもそれを創造活動とよぶことは可能だし、それがつぎつぎにつみ重ねられていくとしたら一種の創造教育ともいえるのではないだろうか。いやしかし、それがつみ重ねられていくうちには、最初の発見は忘れ去られて、類型化された夢を見るようになるというかもしれない。そして現に学校教育は、そうしたことをおし進めてもいるわけだがそれを拒否する方法が全くないというものでもあるまい。ごく単純なことでいえば、夢の非日常性を子どもに認めさせることである。これは決して夢を未開人のように神秘化してしまうことと同義ではない。もしもテレビが日常化した映像として子どもたちのあいだに存在するのだとしたら、夢は第三の映像として非日常的に存在するものだという認識を与えるのである。もちろんこれには、再現という作業がふくまれてくるから出発は単純であってもかなり複雑な様相をおびてくることは当然であるだろう。
しかし本来、創造とは何なのか。一つの絵なら絵が現実の模写である時代はすぎた。そこには一つの新しい世界が創造されていなければならないのである。たとえば「たいなあ方式」と名付けられる児童詩教育の影響下から生まれてきつつある子どもの詩には非日常的な詩的世界が構築されつつあって、ぼくのいう夢の教育の可能性を証明しているのだがむしろ夢の教育は、幼児を主な対象とする家庭教育のなかにくみこまれるのが適当であるといえよう。
しかし夢の教育はそれ自体が独立して存在していくものではなく、すでに創造教育との関連において考察したことでも明らかなように、子どもの全生活とかかわりを持つがゆえに重要視されなければならないのである。
北原白秋と並んで芸術童謡の始祖のひとりと目される西条八十が、「さて児童等の願望が容易に達せられない時に(中略)その結果として屡々かれらは所謂『何々ごっこ』を始める。そして満たされない自己の願望を擬演によって満たそうとするのである」という言葉でいいあらわそうとした遊びとの関連はどうだろうか。西条八十はさらに言葉を続けて、「まことにこの『……ごっこ』こそは児童等の空想的精神生活を最も明白に示すもので」あるといっているのだが、こうした認識はある意味で、夢の教育の非日常性と関連を持ち得るはずである。
ある意味でというのは、このあと西条八十が「そうして又かかるはかなき擬演によりてその満たされぬ願望を慰むる者は、決してかれら児童のみではないのである。私は嘗って」と童心の一般化を力説してしまうからなのだが、それでさえも、遊びを社会生活の訓練として認識しているような教育的人間よりは、ずっと親近の情を抱くことができる。これが北原白秋となると、「簡素な玩具」というような文章を書いて東洋美だの日本の伝統だのといい出し、「児童は自然に生きよ。成人は児童を自然の中に還せ」ということになってしまう。ここから先きにまちかまえているのは日常性のみである。
夢のなかの言動
西条八十が「児童等の空想的精神生活」という言葉で表現しようとしたことの内容はかなり重要である。これを推測し言葉を変えてみるならば、子どもたちには生活から生まれる感情つまり生活感情ではなしに、感情によっていとなまれる生活すなわち感情生活があり得るのだということではないだろうか。
学校にはながい不安と時間が流れている。
だらだら陰鬱な「物」ばかりにみちて。
おお孤独、重苦しい閑暇つぶし……
やがて外へ出る。街はしぶきをあげて鳴りひびいている。
広場には噴水がおどり、
公園へゆくと世界がほっと広くなる──
と「幼年時代」をうたったリルケにとっても子ども時代の生活はまさしく感情の生活であったとはいえないだろうか。しかし多くの詩人や小説家が自己の少年時代についてその感情の生活をものがたっているなかにあって、ひときわ異色なのはゴーリキーである。周知のようにゴーリキーは自己の子ども時代の経験を「わたしの大学」という呼びかたで評価しているわけだが、これほどぼくを退屈させるものも珍しい。おそらくゴーリキーにあっては、夢は睡眠を妨げるもの程度の認識しかなかったのではあるまいか。
ゴーリキーが子どもたちに書き送ったという手紙類を読んでもはっきりとそれは判かる。彼が「極北の町イガールカの二千のピオネルたち」に宛てた手紙のなかには、子どもたちの出版計画への助言として具体的な目次までが書きこまれているのだが、当然のこと夢などという言葉は出てこない。しかも第三章では、「遊び、気ばらし、性向、つまり誰がどういうものに心を牽かれるか、技術、つまり発明、音楽、詩など」という言葉の羅列が見られるのであって、これはいうまでもなく遊びを社会生活の訓練と考えている証左であろう。とはいっても、いまさらゴーリキーを批判する必要性はなにもないわけであるから、ここでそれを例に引いたのは、ゴーリキーをふくめたところの浅薄なリアリズムについての批判であり、それも子どもについての認識の決定的な誤まりを指摘しているのだということになる。
だがしかし、すべての遊びが子どもにとって非社会的なもの、遊び自体が独立した一つの世界を構成するものであれというのは誤まりであるだろう。社会生活への訓練を遊びという形で享受していくことも決して悪いことではない。だが遊びのすべてが訓練であるとしたら、もはやそこには子どもたちの想像力および創造力のはいりこむ余地はない。いかに子どもの可能性を認めるといえども、ぼくは訓練という形式のなかで生み出されるものまでも、子どもが創造できるとは考えられないのである。それらはいかに意匠をこらそうとも結局は、おとなつまり社会が子どもたちに伝達したい論理のアナロジーでしかないと断定することがいとも容易なのだ。
もしも子どもたちが、自らの創造力を駆使して自分たちの遊びを創造するとしたら、そこには非日常な不条理の一つの新しい世界が展開されるはずであり、それはさながら夢のなかの言動といった態を呈するのだが、現実の子どもたちはその夢をさえ日常性のなかに組みこまれている有様なのだ。
ここからは、緑のわに一頭さえ生まれる可能性は薄い。もちろん、四歳にして緑のわにを創造した斗美という名の子どもにしても幼稚園そして学校といった体制のなかに、のめりこんでゆくに従って、その「夢」を喪失していくことは明らかであろう。もしも彼がその夢を持続していくとしたら、彼のうえには異常児あるいは問題児のレッテルがおしつけられてくるに違いない。まさしく社会的尺度をもってするならば、非日常性とは異常あるいは問題をふくむ事柄に属するのであり、それゆえに変革の可能性をはらんだ子ども主体といえるものなのである。
ここまできても問題は残っている。川崎市に住む四十数人の子どもたちが書き記した夢の記録における「化けもの」の行方のつきとめかたが、曖昧なままに放置されてきたという問題である。おそらく多くのひとびとは、四十数人の子どもたちが揃いもそろってお化けの夢を見、それを記録したのはかなり異常であると考えることだろう。お化け。それはおとなたちにとっては、見えないもの信じられない非在なものであるだけに。
しらないあいだに
しらないあいだに、わたしはお化けの国にいっているのだった。お化けがわたしのまわりを、かこんでいたのでした。お化けはすごくおもしろいかおだった。
ぼくがよる外にでて、ふろ屋の前のおはかのほうにいったら、きみょうな声がした。
「パクパク、ムシャムシャ」
そこにいってみると、おばけがしがいをたべていた。そのおばけは、こっちのほうをみて、
「みたな」
「たすけてくれ」
「キャア」ここでゆめがさめた。
ごく短いもの二つを引用したが、これからも推察できるように、これらは決して非在の化けものではないのである。夏の夕暮れに遊園地を訪れたりすれば、たちまち出会うことの可能なお化けの類型でしかない。しかも子どもはそれに「すごくおもしろいかおだった」という感想まで付しているのだ。これらに比較すると冒頭に引用した記録には、不気味さが漂よっているかにおもえる。だがそれさえも、所詮は筆力の差程度の違いではなかろうか。
それでもなお、子ども自身がそれを夢として記録しているということは、何をものがたるのだろうか。もしも見た夢が日常茶飯に属するものであるならば、子どもたちはそれを記録するなどという作業さえも避けてしまうことだろう。ぼくが入手した四十数人の夢の記録にしても、とうてい夢とは考えられない作文が多くあったということは、そうした事実のあることを伺い知らせるものである。虚構を弄してまで子どもたちがお化けの夢を記録したがったというのは、とりもなおさず、そうした夢を見たいという欲望をあらわしていると考えるのが妥当であって、それはまた、子どもたちがまだまだ夢の可能性を求め続けているということではないだろうか。
小学四年生といえば、いまだ幼児体験をいくぶんなりとも残存させている年齢である。この子どもたちにも、不合理な夢や、物体が解体されて迫ってくるといった幻覚を半睡時に見た記憶があり、それをなつかしむ感情もまた残存しているのだとおもいたい。だがこれらを記録しようとするとき、合理化がおこなわれ不条理がはかなく消滅していくのである。おそらく子どもたちは学校において、合理性つまりリアリズムを表現することに、あまりにも、馴れしたしんでいるからであろう。いうまでもなく、マスコミもまたその学校教育に力をかしている。そうなると、ぼくが前述した夢の教育とは、不条理の世界の出来事を表現できる能力をふくめた反リアリズム教育ということにまで幅が拡がるようであるが、そこまで言及するつもりはない。ぼくとしては、ここでふたたび子どもには夢の可能性をふくめた感情生活が存在し得ることを強調したいだけなのだ。

テキスト化 柴田雅荏