『子どもにとって美は存在するか』(誠信書房 1965)

補足・子どものための城



 ひとびとが心のなかに、それぞれの城をおもい描いていたような時代ははるかの遠くに過ぎ去ったようである。
 もしもひとびとが何かの必要に迫られて「城」と口につぶやいたとしたら、それはあのドンキ・ホーテの活躍する古きヨーロッパ、あるいはわが戦国時代のことを伴わせて想起してのことであろう。たとえこの城を子どものためのと限定したとしても、さほどその事情は異なるはずはないというのがぼくの予想であるが、この予想は当分の間、子どもたち自身によっても裏切られそうにないのである。
 それならば一体、現代において、城とはなにを意味するものなのか。遊園地の小高い丘の上に建てられたオリエント風の城を訪ねたことがあるが、そこではひどく味の悪いカレーライスを食わされた上に、コップに一杯の水さえも渇水を理由に飲むことができなかったという記憶がある。フランツ・カフカの長編小説「城」の主人公測量技師Kは、城主の伯爵にやとわれてその城下にまで達しながら、ついに城内にはいることができぬまま死んでゆくのであるが、Kがもしも城内に到達したとしても、そこで味わうのは、やはり腹立たしいまでの失望だったのではないか思えてくる。とすれば、現代人にとって、城とは所詮、おぼろにかすむ風景のなかの点在程度のものでしかないのではないか。ある朝、目覚めてみると雨が降っており、子どもたちが外で遊ぶこともかなわぬままに、とぼしい玩具で面白くもなさそうに時間をすごしているのを眺めていたりしたとき、突然、子どものために城を作ってやることができたとしたらと考え始めたことがあったが、それはたちまち当面する経済問題の前に消え失せる夢想でしかないのであった。
 またあるときは、藤沢衛彦の紫城建設計画に刺戟を受けて、風雲紫城なる少年講談を構想したことがあるが、そこで展開されるのは現実状況の卑小なパロデイ程度と気がついて放棄したものである。
 さてそうなると、解釈をかなり拡大して、城とはつまりその城下の街区までを含めた自治領のことと考え、これを子どものためとした場合には、子どものための、子どもによる共産制社会がおもい浮かぶわけである。しかし革命の火はまだまだ遠く、そのヴィジョンだにさだかでない当今において、たとえ子どもであるにせよ、コンミューンあるいはソヴェトを構想するのは、最も忌むべき逃避の姿勢に通じてしまうのではないかとおもい至る。

  子どもの村は子どもでつくろ。
   合唱「みんなでつくろ。」
  赤屋根、小屋根、ちらちらさせて、
   合唱「みんなで住まうよ。」

に始まる北原白秋の童謡「子供の村」は童心主義共産制とでもいうべき子どもの「村」を夢想したもので、これはのちに大関松三郎の詩などにも連なり、日本の児童文化の民主主義的思考論理をかなり如実に示すものとしてそれなりの興味を抱かせる作品だが、ぼくにいわせれば前述したような諸事情によって、所詮は童心主義者の夢想にしかすぎないものなのである。
 おなじ白秋の童謡にしても、ぼくには、

  ねんねのお唄はよいお唄、
  ねんねのお唄をきいてれば、
  とんとろお月さまかすみます、
  ねんねのお国へまいります。

に始まり、「ねんねのお国は水祭」と祭のさまを夢のなかに見て、

  ねんねのお母さまよいお方、
  いつでもかわいとお抱きになる。
  お手々を曳かれて、祭見て、
  はぐれて泣いてりゃ目がさめた。

で終わる「ねんねのお国」のほうが、今日的だとおもわれる。
 最後の一行「はぐれて泣いてりゃ目がさめた」にこめられた白秋のおもいはいざ知らず、ごく単純に考えても、子どもの体験のなかにそれが組み込まれたとしたならば、それは決して楽しい夢、二度でも三度でも見たい夢ではないだろうと想像される。夢の記憶というものは、現実との接点つまり目覚めの瞬間に間近いほど鮮明である。とすれば子どもが「ねんねのお国」で見たものは、台傘、立傘、花の山車、神輿のお舟といった楽しいものではなく、実は、母にはぐれて泣いたという悲しくつらいおもいをした自分自身だったのではあるまいか。そしてこの夢の体験は、現実の種々様々の体験群に連なる性格をもっているのだ。これは何も、楽しみのあとには苦しみが来るといったような、格言を意味づけるために言及していることではない。
 現代において多少なりとも子どもの城的様相を呈している場所といえば、東京地区では後楽園、船橋ヘルスセンター、玉川遊園地、西武園、豊島園などといった遊園地施設なのだろうが、そこで楽しく遊んだとしても帰りは満員電車にもまれたり、意外に金が消費されたといって嘆く親の声をきかされたり、あげくの果ては、それ以後の二、三日、間食の質が極度に低下したりという現実が起きる。それでもなお、子どもが遊園地に行きたがり、あるいは夢を見たがったりするのは、そこに苦痛をのりこえた楽しさを期待するからなのであって、実はその後に苦痛があればこそ、ふたたび子どもは楽しさを求め続けるのである。
 はたして子どもが寝るときに夢を見ることを求めるものだろうかという疑問に対しては、確かにそれを求めるという証拠さえ提出可能なのだ。子どもにとって、特に学齢前の幼児たちにとって、睡眠の意味は全く不明である。とてもではないが、夢でも見ることなしには、あの退屈な時間をすごせるものではない。だが多くの場合、子どもたちは、夢と現実との接点すなわち覚醒の瞬間において、苦痛を体験するようだ。あるいは苦痛を感じるから目覚めてしまうのか、そこのところは曖昧であるが、苦痛の体験がそこにあることは確かであって、その苦痛を否定的媒介として子どもはふたたび夢見ることを求める。こうした関係は何も子どもだけが保有する特殊の精神状況ではなく、おとなにおいても存在する状況だといえるだろう。

 Kが着いたのは晩ももうおそかった。村は深い雪に埋まっていた。城山は全く見えない。霧と闇に包まれていて、大きな城の所在を示す淡い灯一つ見えなかった。Kは、街道から村の方へ岐れる木橋の上に立って、しばらくのあいだ、まるで何もないようにみえる上空を見上げていた。

カフカの「城」の冒頭の部分だが、この以後さまざまな迫害に会いながらもKが城へ到達することを求め続けた精神状況は、まさに子どもと夢の関係に酷似しているようにおもえてならない。ということは類推すると、当今の遊園地をふくめての子どもの精神風土が伯爵の支配するあのカフカの「城」と同様に、全く正体の知れない謎につつまれた場所であるということにはならないだろうか。
ながながと記したが、これらを書き記すことによって、ぼくはようやく自らの要請を含めての子どもの城を構想できる段階に達することができたのである。柴田錬三郎の小説「図々しい奴」の主人公戸田切人は「薄墨でぼかしたように,潤んだ春の水蒸気に溶け込んで、花曇りの空の下にそびえていた」岡山城を学校からの帰り道に眺め続けているうちに、烏城とよばれているまっ黒な岡山城に対抗して赤い城を建てようとするわけであるが、おそらく現代の子どもたちには、たとえ対抗するかたちにせよ、その原型となる城のイメージさえ持ち合わせないのではないかとおもわれる。あるものは徹底的に否定しなければならないものばかりではあるまいか。
あるいは逆説的にきこえるかも知れないのだが子どもたちが城を構想するにしても、そのモデルが存在しないという不毛の現実をぼくは素晴らしいことだと考える。もしもなまはんかなモデルとそれを基調とするイメージが子どもたちの間に所有されているとしたら、それはやはり貧困の名でよばれる不幸だと断言さえできる。マスコミがさながら理想郷のようにいいふらすディズニーランドにしても実際は吐き気をもよおすほどの低俗さだという。しかしそれにさえも及ばない諸施設をさながら城であるかのように提示されるこの国の子どもたちの心のなかには、とうてい城のイメージは形成されようはずはない判断するわけである。
子どもたちの心のなかに、ひとかけらの城のイメージもないという精神状況を考えるとき直ちに想起されるのは、一九四六年つまり敗戦の翌年に坪田譲治が発表した短篇童話「サバクの虹」である。

 ひろい野原がありました。木も草も一本もはえておりません。そのむこうに山がありました。山はいくつもかさなりあって、遠い空のはてまでつづいていました。野原だって、とおくまでつづいていて、どこがおしまいなのかわかりません。

この「おそろしいようにさびしいところ」に、ある年の夏の日のこと、銀色にかがやく雲の峯がたち、三日間空の祭りかともおもわれる状態が続くと四日目から激しい雨が降り続く。七日たって雨がやむと、大きな虹がたった。虹は三日間、昼夜をわかたず美しく見え、四日目の朝になると消えたが、その虹のねもとには一本の大木が生えていた。それから何十年かがたち、その木の根もとからは泉が湧き出す。やがて鳥も集まりあたりは自然のなかの理想郷といった情況を呈するのだが、泉のそのほとりに巨大なガマが棲みつき、そこに集まってくる動物をぱくぱく食ってしまう。そしてガマはますます巨大になり、ついにその谷間には生物の姿は見当たらず、水もかれ、ガマも骨と皮になる。また銀色の雲の峰がたち、雨が降り、再び虹がたち消えていったのだが、そこにあるのは、「いちめんの灰色の土ばかり」だったというのである。
 この童話から一種の象徴主義的傾向を感じとって、原水爆戦争への恐怖と警告を察知することは容易である。だが決してそれだけではないし、ぼくはその、それだけではない部分を大きく評価したいとおもうのだが、ここに描かれているのは、明らかに、坪田譲治の戦争体験の凝縮であって、同時に現代のメカニズムを集約的に表現したものともいえるだろう。いうまでもなく、城のイメージを所有しない現代の子どもの内部世界は荒涼そのものであって、おそろしいようにさびしいサバクと同質の状況である。はたしてこの状況を変革させ得るのは、虹であろうか。銀色の雲の峯においておこなわれる空の祭であろうか。いやそれよりも、ぼくはここで再び不毛を招来した元兇の如くおもえる巨大なガマについて考究する必要を感じる。
 ガマは一定の時期に至るまでは、決して不毛を招来する元兇として存在したのではなく、あの谷間の繁栄を象徴するもの、つまりヴァイタリティそのものではなかったか。実は谷間の繁栄そのものにこそ、不毛の要因はひそんでいたとはいえないだろうか。何もこれは資本主義はその発展過程において、すでに社会主義に移行する矛盾をはらんでいるというような公式からの類推ではなく、作品に即して考えて、そう判断できるということである。
 事柄は至って簡明である。現代の子どもたちが、その心に城をイメージし得ないということは、ある意味での繁栄の偏向をものがたる証左であって、繁栄を卒直には意識し得ない精神状況の単純なあらわれなのだ。もしもその心に何らかのかたちであるにせよ城のイメージが形成されつつあるとすれば、それゆえに子どもの心は満され、あるいは満されていると錯覚されて、巨大なガマの蹂躪を許すことになる。つまり外的な繁栄が内的な繁栄にまでついに及んだことをものがたる。
 巨大なガマ、すなわち体制は、その繁栄を呑みこんで発達するわけだが、そのガマの行末が骨と皮になるはずとは決まっていないところが、童話と現実の相違点であるだろう。とすれば、当面の課題は何なのかと考えたとき、ぼくは子どもの内部世界が不毛であることを喜ばずにはいられないのである。いかに体制がその繁栄をうたいあげても、子どもの心が不毛であることは、確実に矛盾なのだ。この矛盾こそが実はあらゆる可能性をはらんだ空白であるわけで、その空白をいかなる色彩に染めあげるかが、彼我共通の課題である。もちろん、体制もこのことは充分承知であればこそ、教育に、児童文化にその力を傾注しているではないか。
 子どものための城というとき、それを外的なものと考えた場合には、ぼくもまた充実した繁栄を願うのであるが、それが内的なものである限りは、徹底的な不毛をのぞまざるを得ない。しかし、外的な繁栄はともすると、内的な繁栄を錯覚させる。阿部進がおこなった「現代っ子」定義における内的不充実は、教育の欠如というかたちで多くの批判を受けたが、ぼくは結局のところ、子どもの空白の尊重ということではなかったのかとおもうのだ。もちろんその空白を鮮やかに染めあげることが可能な状況であれば、阿部進は何のためらいもなくそれに着手したのだろうが、現況では空白尊重でさえ意義ある行為として評価されるべきだったのである。
 子どものための城という場合、ひとびとはとかくその姿勢を一方的にしてしまう。子どもにそれをつくり与え、子どもがそれを喜ぶというかたちの一方的姿勢である。だからその城がいかなる形態をとるにせよ、子どもの内部世界にまで影響をおよぼそうとするならば、その姿勢は線または矢印をもって示し得るようなものでは決してなく、ぐるぐると旋回する如き絶えざる思考再生産の余地あるものでなければならない。
 たとえば前出の白秋童謡「子供の村」からは確かに民主主義的出発は可能であるが、ひとたび社会主義的思想に遭遇し、その限界に気付いたあとではおそらく回帰することはできないであろう。ぼくはここでにわかに、あの砂川闘争のときに警官隊と対峙したひとびとが、童謡「七つの子」をうたったことを想起する。あるひとは、うたわれるべき闘争歌のないことが「七つの子」合唱の原因であるかのように指摘したが、ぼくはこれを原体験への回帰ということで考えてみたのである。青いヘルメットに白手袋の警官隊と向き合ったとき、ひとびとは意識するしないにかかわらず、自らの闘争意識の根元にたちかえる。なにゆえに、自分は流血覚悟の闘争をおこなわなければならないのかと考える。その必然の帰趨が「烏なぜなくの、烏は山に、かわいい七つの子があるからよ」の歌詞に集約される人間関係つまりヒューマニズムの類推思考であったのだ。いうまでもなくこれはひ弱な思想であり、この回帰からはとうてい闘争意欲の再生産はあり得ないであろう。ここでは何も歌は「七つの子」でなくても、ひとびとに記憶されているならば、「子供の村」でもいっこうに支障はなかったはずである。これらの事実と思考は一つの教訓を生み出す。すなわち、童心主義は、再生産不能の民主主義思想であると。
 子どもたちの内的世界、これを思想とよびたいのだがそれでは既存のイデオロギーと混同されやすいので内的世界とのみいうのだが、それは旋回しながら補強されていかなければならない。この場合の出発地点はとりもなおさず以後の旋回を決定する原体験ということになるのだから、それは基地であり城ともいえるものであるだろう。そしてそれに価するのは「子供の村」の如き童心主義を基調とする民主主義でもなければ、それにも及ばない現状の児童諸施設でないことは自明である。その無力さを子どもたちは知っており、それを子どもたちに知らしめたのは、その童心主義的民主主義さえ容認しない体制そのものであるわけだが、この空白の現状を埋めるために体制は体制なりのイメージを持って、それを具体化しつつあるといえよう。それにひき比べて、反体制を自称するひとびとは、子どもの内的世界の空白を歎き悲しむばかりである。
 空白にこそ無限の可能性がひそむことを意識するならば、もはや悲歎のときではない。その空白に、ぼくは大きく原体験の城を建設したいとおもう。いかなる挫折、いかなる疎外に遭遇しようとも、そこに回帰するならば再びの出発を可能にする城である。児童文化とはすなわち、この城のことではなかったのかとぼくは規定する。ゆきて還らぬ特攻の基地と、童心主義的民主主義のいかにも酷似するのをおもうとき、ぼくはますます思想旋回のための城の必要を痛感するのである。そしてその建設作業つまりイメージの具体的展開はぼくが作家である限り、一つ一つの作品ということになるのだろう。
テキスト化菅野さち