『子どもにとって美は存在するか』(誠信書房 1965)

感触的認識・ふたたび映像について

女王蜂と働き蜂

 母親が使う三面鏡には、ふだんはレースが掛けてある。そのレースは母親が三面鏡を購う以前から編みあげていたものであって、レースも編みあがったのだから三面鏡を買う必要があるという奇妙な論理を父親はきかされた覚えがある。それはともかく、その三面鏡用のレースを頭からかぶることが、あゆみは特に好きなのだ。
「ほーら、あたしは女王さまよ、きれいでしょう」
 ここから兄の斗美とのあいだに、一つのあそびが成立して行ったこともたびたびであった。ところが最近、このたあいもないあそびに一つの変化が起きた。あゆみが、あたしは女王さまよとやっても、斗美がそれに応じなくなったのだ。それどころか、
「あゆみ、くだらないこと、やめろよ」
などとまでいうのである。
 父親がたずねた。
「どうしたんだ、なんで、くだらないなんていうんだい」
 もちろん父親としては、いかに幼い子どもたちとはいえ、女王さまごっこだなどというあそびが、自分の子どものあそびのレパートリーのなかにあることは愉快なことではないとおもっていた。だからその急激な変化にはすこぶる興味が持たれたのである。
「どうしてってさ、女王って、よくないんだよ」
「どうして、そんなことがわかったんだ」
「こないだテレビでやってたけどさ、女王蜂ってちっとも働かないんだってさ、働き蜂にばかり働かせて、自分は蜜なめてばかりいるんだ」
「そのテレビなら、あたしも見たわよ」
と、あゆみもいう。あゆみもまた、働かない女王蜂にはすくなからず反感を抱いたようであった。そこでここから、あゆみは急に一つのことを思いついた。
「そんじゃさ、女王さまがさ、やっつけられちゃうの、どうお、そんならいいでしょ」
「じゃあ、おれ、働き蜂じゃなくて、働き人間かよ」
「そうよ、そんならいいでしょ」
 かくてまた、あゆみと斗美のあいだにあそびが成立したのだ。考えようによっては、すこぶる公式的なあそびに変化してしまったようだが、これもまた子どもとしては発見の一つなのである。
 右にあげたささやかな事実からさえ、われわれはテレビと子どものなみなみならぬ関係を推察することが可能である。しかし右のような現象を招来するのは、何もテレビだけが果たす機能でないことも明らかだ。いわゆる活字文化によっても、子どもの認識はじゅうぶんに変化し得るだろうし、また、われわれ自身、変化し得てきた。だがここで考慮に入れなければならないことは、その認識の変化をやらかしたのが、幼児だということではなかろうか。
 五歳の斗美は、このごろではかなりひらがなのスペルも読めるようになったが、それでも本を読むという段階にはほど遠い。あゆみにいたっては、自分の名前と親きょうだいの名前がひらがなで書いてあれば読める程度だ。そのような年齢的なハンデキャップを考慮に入れてもう一度、テレビと子どものかかわりをとらえ直してみると、そこにある大きな意味を無視することはできなくなるに違いない。
 すでにこの文章も原稿用紙にして二百枚近いものとなったが、そのなかでもぼくはしばしばテレビと子どもの関係について述べてきた。たとえば子どもの戦争観について考えた第一章では「コンバット」とか「ギャラントメン」というテレビ映画が子どもにどんな影響をおよぼしているかについて述べ、第二章では、特に映像という観点から子どもの現実認識とテレビ的認識とのギャップあるいは類推について考えた。第三章は子どもの夢について書いたわけだが、その子どもの夢を類型的にしているのはテレビの影響ではないかという指摘をしてみた。そして第六章は子どもの色彩感覚についてであったが、そこでは子どもの好む黒色とテレビ映像にかかわりはないかという疑問を投げかけてみたのである。
 さらに第七章では、子どもの言語知識とテレビのかかわりについて若干だが触れている。ふりかえってみて、ぼく自身も驚いたようなわけだが、それほど子どもとテレビの関係はすでに根深いものとなりつつあるのだ。われわれおとなにとっては、テレビは途中からわりこんできた文化媒体だが、子ども、とくに幼児にとっては、テレビは茶の間の先住者でもある。子どもが何かを語りかける前に、テレビは子どもに語りかけた。親が教えてくれないことも、テレビは教えてくれている。女王さまごっこのくだらなさを、子どもに納得させたのは父親でも母親でもなくて、テレビのアニメーションと音であった。

活字文化と映像文化

 ここに一つの資料統計がある。子どもとテレビの関係を数的に示すものであるから、ぼくのような立場のものが最も知りたい部分は脱落してしまっているが、それでもそれなりの参考にはなる。たとえばこの資料を見ると、子どもの平均視聴時間が日曜日で四時間、平日で三時間というのが最も多いというようなことが判然とするのである。
 一日二十四時間のうち睡眠が子どもだから九時間程度、残り十五時間のなかの三時間はかなり大きな部分であると考えられる。
 子どもが親と向きあう時間よりははるかにテレビと向きあう時間のほうが多いのではないだろうか。もちろん子どもが受ける影響は、時間の多い少ないだけに関係するものではないが、一日平均三時間のテレビ視聴が子どもに与える影響力の大きさは誰にも理解されるのではないか。
 理解されていればこそ、俗悪番組追放などという圧力的な運動も展開されるわけだが、真実のところぼくはそれらについてほとんど関心がない。テレビへのぼくの関心は、もっぱら子どもの美意識をテレビのような映像がどうかたちづくって行くかということである。われわれおとなは、現実と活字文化によってそれぞれの美意識をはぐくまれてきた。それに若干の音響が加わっていたかも知れないが、とにかくいまもなお、われわれの活字文化的習性は根深く内在している。テレビを見ても、それをもう一度活字文化的に翻案し直さないとよりよい理解をなし得ないほどに、われわれの習性は根深い。ところが、われわれの身近かには、映像そのものによって、思考し、認識し、感動もする人間が育ちつつあるのだ。グーテンベルグの印刷技術がただ単に文化伝達の手段だけではなく、人間そのものを変質させたと同じように、いやそれ以上に、日常化されたテレビ映像は、人間を変質させているのかも知れない。
 ここでもう一度、斗美とあゆみの女王さまごっこに戻ってみると、女王をよくない存在だという認識を与えたものが何であったかということが、かなり明確になってくるとおもうのである。
 斗美はたしかに、女王蜂は働き蜂にばかり働かせて、自分は蜜をなめていると憎々しげに説明したけれども、そして父親はその説明から、一種の階級認識の如きものさえも感じてしまったけれども、これはあくまでも活字文化的思考のもたらした錯覚であって、斗美としては、その働かない女王蜂に映像としての醜さを感じとっていたに違いないのだ。
 子どもたちが見たのはアニメーションである。女王蜂はいじわるそうな眼つきをして、ぶよぶよと肥った蜂であっただろう。それに比較して働き蜂はせっせと動きまわるダイナミックな存在として描かれていたことだろう。この対比から子どもがどちらを選ぶかはおのずから明らかである。いうまでもなく、ここには美意識の働きがある。女王蜂よりも働き蜂を美しいものとして選択したことは、この場合あくまでも妥当だとおもわれる。しかし、その美的選択から、女王さまごっこはくだらないという認識にいたるまでには、かなりの曲折があり得なければならない、とぼくは考える。あるいはこれもまた活字文化的思考のなせるわざかも知れないが、この場合、そこに曲折があり得るはずだと考えることは子どもの心情を考察するものとしては決して誤まったことではない。
 なぜならば、アニメーションによって触発された美意識と、現実によるところの認識とは絶対に同一ではないだろうという想定がこの場合には成立するからである。はたして実物の女王蜂と働き蜂を見たときにも、子どもはそこにアニメーションを見たときと同一の美的選択をなし得るだろうか。おそらく、それはなし得ないだろうと予想される。実物の女王蜂はそれほど醜い存在ではない。それを醜いとおもえるとしたら、働かざるものを悪とみなす一種の倫理観あるいは観念が存在するからにほかならない。しかし幼児はそうした観念を持ちあわせていないのが普通である。従ってそこでは美的選択にかなりの差が生じてくるに違いないのである。全く逆に、女王蜂は美しいと判断するかも知れない。問題はかなり明らかとなってきた。子どもがテレビ映像によって認識し得た事柄は、必ずしも、現実の認識ではないということ、しかしそれにもかかわらず、それが現実生活のなかに適用されると、それほど奇異の感じを与えずにすんでしまうということ、ここにこそ、ぼくはテレビという日常的な映像のもつ問題が集約的にあらわれているのだとおもう。こうしたことを専門家は直接認知と間接認知の分化不全という言葉でいいあらわすそうだが、ぼくはこれを錯覚の美意識と観念の直結ということで、問題にしてみたい。映像からストレートに観念へと直行する認識は、子どもにとって正しいことなのかどうか。

尾瀬沼の花とトンボ

 問題はアニメーションにしても実写にしてもそれほど異なることではない。ある子どもは尾瀬沼に咲く湿原植物の花ひらく瞬間をテレビで見て感動した。その子どもの映像的体験をきき知ったおとなは、その子がテレビによって理科的興味を持ち得たものと判断してこれまた感動するわけだが、ここにもまた映像から観念への直行、すなわち曲折の脱落がありはしないか。
 曲折という言葉が適当でないならば、抽象化といってもいいだろう。
 おとなは言葉によっても、たとえば尾瀬の水の面に影をうつして、尾瀬特有のトンボが飛ぶというようなことを伝えられたにしても、それを美しいと判断することが可能である。それはとりもなおさず、言葉をイメージに変化させ得る抽象能力を保持していることを証明するわけだが、それがさらに理科的興味へとつながるかどうかは、その抽象化の過程で決定してしまっている。トンボが飛んでいるときいたとき、それからそれを美しいと判断するにいたるときわれわれはそこにさまざまな要素をつけ加えなければならない、水面にトンボが影をうつすならば、白い雲の流れも青い空も、さらにはオゼカワホネやオゼザサもかすかに揺れてその影をおとしているかも知れぬ。そしてそれはたしかに美しいだろうと判断する。こうなれば抽象化というよりは綜合化というべきだが、これをもっと単純明確に、はたしてそのトンボはどんな種類かと考え、尾瀬にいるほどだから珍種に違いないとおもい、珍しいトンボが飛んでいるから、それは美しい光景だと判断するといったこともある。これならば抽象化という表現も不似合いではないだろう。しかし抽象化とはすなわち綜合化でもあるわけだから、ここではそうした表現にこだわっているよりも、言葉と判断のあいだにくいこんでくるさまざまな要素の質を問題にしたほうがいいだろう。そこにいりくんでくる要素の質の相違によって、それが理科的興味につながるものか、ただ単に観光的興味におわるものかどうか、それが決定してしまうといっているのだ。
 ところが、テレビの映像によって、尾瀬の花のひらく瞬間を見た子どもは、その感動を言葉にかえたとき、おとなが言葉から判断へと進んだ場合とは逆に、さまざまな要素を脱落させている。恐らくその言葉は「尾瀬沼の花がね、ゆっくりひらいていくんだ。とてもきれいだった」程度のことであるだろう。おとなはこれをきいて、子どもが花のひらく瞬間に関心を持った、しかも生物学上貴重だといわれている尾瀬沼の花に関心を示したということで、これを理科的興味への目覚めだとさえ錯覚してしまう。ここでは活字文化あるいは言語文化で身につけたはずの抽象化作業および綜合化作業が完全に放棄されている。これは判断の中止に等しい。
 だからテレビはだめなのだ、映像文化などは低劣なのだといってしまうのは性急である。むしろここで問題にされなければならないのは、映像文化の側ではなくて、むしろ逆に活字文化の側の習性化した早呑みこみなのだ。子どもは映像において、花だけを見たのでは決してなかった。映像技術の現状から考えても、花のクローズ・アップが出てくるまえには、現場でいうというところのひいたショットつまり遠景が存在したはずだから、子どもはそこに流れる雲や水にうつる影を見たに違いないのである。しかしそれがひとたび言葉におきかえられたときには、花ひらく瞬間というような抽象化された事柄だけが語られる。この不充分さと活字文化の習性がむすびつくと、そこに錯覚が生まれてくるとぼくは考えるわけだが、ひとはそれぞれに身勝手だから、おのれの側だけの利点を強調する。映像の技術として存在したクローズ・アップの直前の遠景という手つづきは、論理として強調されるようになる。花なら花を見せるために遠景が必要なのだと考えられ、やがてそれは捨象されてしまう。そうなれば実写とアニメーションの間に、何らの差もなくなることは明らかである。日常的な映像としてのテレビは、すでにそうした論理を持ちつつあるとみるべきだろう。
 女王蜂に対して抱いた美的認識、尾瀬沼の花に対して示した興味と関心は、映像文化が持ちつつある論理に見合ってしまう危険性を内包しているといわなければならない。それらはものごとを、直截に判断するにはなはだ便利ではあるだろうが、活字文化における言葉と判断のあいだに生まれる抽象化=綜合化作業にそれぞれの個性が介在したようなかたちでの独自性は発生する余地はなく、それは多くの場合、判断の同一化をもたらすことだろう。これは否定しようもなく明らかな映像文化の特性である。

多数派と少数派

 新聞を見ていたら「大学教育方法の改善にかんする会議」の中間報告というのが眼についた。それはおもに理工科系学部の多人数教育についてその改善方法を述べたものだが、そのなかに「具体策の方向」として、授業はその規模を設定するとともに、黒板に代えてテレビ、ノート筆記に代えて教科書や教材(映画スライドなど)を利用し、効果的に実施するという一項目がある。これなどは明らかに、判断の同一化をもたらすという映像文化の特性を活用する好事例であるだろう。
 子どもたちを対象にした実験によっても、そうした映像文化の特性を活用することが、多人数教育の成果を向上させ得るということはかなり明らかとなっているようだ。ある大学の実験室では、子どもたちを二組にわけて、一組のほうには言葉によって知恵の輪の解きかたを教え、あとの一組にはスライドだけでその解きかたを示したのち、型は違うが原理が同じ知恵の輪を子どもたちに与えて、それを解かせるという実験をおこなった。するとスライドによって解きかたを示めされた子どもたちのほとんどは、原理の応用をなしとげたが、言葉によってその原理を教えられた子どもたちは、スライド組とは全く逆の反応を示したという。この場合、スライドをテレビにおきかえても、それほど事態は変化しないであろうことは、容易に考えられる。
 しかし、とひとびとは考えることだろう。たしかにテレビや映画は、同一の判断を与えもするが、またそこに独自の判断を生みもする。われわれがテレビや映画を興味深く見るのはそこに同一の判断が生まれてくるからではなくて、それぞれの反応の相違が確認でき、話しあいの機会が得られるからである、という意見も存在しないわけではない。ところがここにまた、一つの資料があって、その数字は、テレビをめぐって家族間で話しあいがおこなわれるか、という問いに対して、その回答者の九〇パーセント以上が「話しあいをしない」と答えているという厳然たる事実を示すものなのである。したがって、いかにわれわれが好意をもって耳を傾けようとしても、反応の相違を確認しあって、そこに話しあいの機会を持つというのはごく少数の特異な発想だとみなされなければならないのだ。もちろん、ぼく自身の好みは、九〇パーセントの多数派よりも一〇パーセントたらずの少数派に限られるわけだが事実は事実として確認しなければならない。そしてこの事実から、子どもとテレビのかかわりにおける可能性をひきだしたいと考える。
 すでに各家庭の所有テレビ受信機総数は一五〇〇万台をはるかにこえているわけだから、一つの事実あるいは虚偽を、いちどに数百万、ある場合には数千万のひとびとが見てしまうということがあり得て、それが同一の反応を示すということになると、そこではもはや、ごく少数の個性的反応などは完全に無視されてしまう。しかし幼児の段階では、あくまでもものごとを自己中心的に考える余地が残されているから、
「おかあさん、マコちゃんちのテレビでも鉄腕アトムやるんだってさ」
というような発見が可能である。
 自分が見るものと同じものを、自分以外の人間が見ることの発見、その驚きが直ちに、自己と他人との同化におもむくのを、その幼児段階でくいとめておくということは絶対的に不可能であろうか。
 マコちゃんの家のテレビでも鉄腕アトムをやるというのは映像文化の同時的体験のあらわれであるわけだが、その同化の驚きをよろこびにかえてしまうのではなくて、体験を自己中心的なところへ、つまり自分だけが鉄腕アトムを見ていたとおもいこんでいた段階にまでひきもどしてしまうことはできないものだろうか。もちろん、それは映像文化にむきあったままの姿勢ではでき得ないことははっきりしている。むしろここでは問題を二つに峻別してしまったほうが明解かも知れない。すなわち同時的体験は映像文化で果たし、個別的体験は
映像文化以外の、つまり自己中心的な姿勢によっても対し得る文化媒体によって果たして行くことの二つである。だが、それをわかり切ったことというのは
、これまた性急であるだろう。なぜならば子どもをとりまく文化環境において、その両者はかなりわかちがたく相互に作用しあって存在しているものだからである。たとえば子どもたちに最も人気のあるマンガという媒体はどうか。それは映像であると同時に活字文化の一形態のようでもある。だから、それを、大衆社会状況のなかで考察しようとすれば、子どもの読書意欲を妨げる媒体として、はなはだ否定的なものとなる。
 しかし立場をはっきりさせてマンガを映像文化としてみると、その同時的体験の機能において、テレビ・映画よりも不充分な点があるだけに、かえってそこに可能性があるとも考えられるわけである。だがその可能性も幼児の段階ではまだまだ適用させるわけにはいかない。

デンデン虫と感触的認識

 直接認知つまり実際によって知るよりも、間接認知つまりテレビ映像によって何かを知ることの多い子どもたちが、抽象化=綜合化の作業を放棄しつつあることは、すでにくりかえし述べた。たとえば馬や牛という動物を、映像よりもさきに実物でみるという子どもは、よほどの辺地にでも行かない限りは存在しないのである。ライオンや虎なら動物園にいるが牛や馬はよほど特殊な場所でなければその姿を見ることはできないのだ。それと同じようなことは、たとえば父親の労働といったような事象においても起りつつある。子どもからみると、ただ単なる月給運搬の下宿人にしかみえないといった父親の姿は、権威のないことおびただしい限りだが、そうした子どもの認識と父親の実像との落差を映像文化は埋めるとみせて、実際にはかえって深めつつある。ここでまたまた、尾瀬の沼辺の花ひらく瞬間の例を想起することも一つの方法だが、もっと単純にサラリーマンを映像的に認識した子どもが、そのサラリーマンの一員であるところの父親を認識し得るのは、はたしてどのような瞬間なのだろうかと考えるほうが、現実性があるといえるだろう。
 斗美とあゆみの父親は、著述を職業とする人間だから、ふたりはその仕事ぶりをかなり身近かに眺めているわけだが、映像的に父親一般を認識している子どもたちは、父親にも社長や部長というやかましい存在が関係しているものとおもいこんでいる。父親はなんとかして、自己の独立独行ぶりを子どもたちにわからせたいのだが、これは至難のようである。それでもようやく最近にいたって、父親から一つの童話を読みきかせられるにおよんで、自分達の父親がテレビでおなじみのサラリーマンではないことに気付きはじめたようだ。

  おかあさんに叱られて、(つまらないなあ)と思ったトミちゃんは、どん どんあるいて行きました。
  どんどん、どんどんあるいて行くと、一本の高い木があって、そのてっぺ んは空にまでとどいていました。
 「のぼってみようかな」って、トミちゃんが小さな声だしたら、
 「のぼってごらんよ」という声がきこえました。
 (だれだろう、へんだな、このへんにいるのは、ぼくひとりなのにな)
 トミちゃんは、あたりをぐるぐるみまわした。やっぱりだれもいません。
  「のぼってみなよ、さあ早くさ」

  また、声がきこえ、子どもはやがて見えない声にそそのかされて木のぼ  をはじめるのだが、手もすべるし足もすべる。

  (そうだ、こうやらなきゃ、だめなんだ)
   トミちゃんは、にいちゃんが木のぼりするまえに、手のひらにつばきを  つけるのを思いだしました。
  「そうだ、そうだ、ペッ、ペッ、ペッ」
  手のひらは、つばきでぬれました。ぬるぬるして、あんまり気持よくあり  ません。
  (やだな、気持わるいな)
   トミちゃんは、ぬれた手のひらを、ズボンのよこで、ごしごしふきまし た。そしたら今度は、ズボンがぬるぬるになりました。

 そして子どもは、見えない声の主であった「まっかなリボンをあたまにつけた」魔法使いの予言どおり、ぬるぬる這いまわるデンデン虫になってしまう。結果的にはその魔法使いによって、またもとの人間に戻してもらえるわけだが、斗美とあゆみが興味を示したのは、そうした魔法の力などはなくて、掌がつばきで濡れるというような感触的な表現であった。
そしてそこから、
「テレビとちがうから、おもしろいね」
という一つの心情的な認識をひきだし得たようである。そしてそこからさらに、
「へえ、おとうさんって、そういう仕事するひとなのかぁ」
という認識にも到達した。映像もまたそうした感触的な認識を与え得ることはたしかであるが、それが父親なら父親の肉声で語られるときには、それは一面的な認識ではなしに、多面的な認識にまで翼をひろげ得ることもまた体験的に明らかなことである。もしかしたら、感触的認識は、マスコミや学校教育に代表される多数派教育に対応する少数派教育としての家庭教育の一つの可能性かも知れない。
テキスト化佐々木暁子