『子どもにとって美は存在するか』(誠信書房 1965)

伝統・何を子どもに伝えるべきか
  
                       乳歯から永久歯へ
 
 海から帰ってきたあくる日の朝、斗美の前歯が一本ぬけ落ちた。乳歯から永久歯への生えかわりがはじまったのである。もちろん、五歳児の斗美にとっては最初の体験だ。そのぬけ落ちた小さな歯をおそるおそる指先でつまんでみたり、大事そうに掌にのせて転がしてみたりしたあげく、
「ああ、歯がぬけちゃった。歯がぬけちゃった。」とうたうようにいいながら部屋じゅうを歩きまわる。
 妹のあゆみがその歯を見せて欲しいというと、兄は手を触れることなく見ろという。まるでちょっとした宝石が手に入ったような騒ぎである。その結果がまた大変なのだ。ぬけ落ちた歯をどう処分したらよいものか、父親と母親を含めての討論がはじまる。
 あゆみはいう。歯もまた骨の一種だから、庭の一隅に穴を掘ってそこに埋め、小さな墓を作るべきだ。そうしないと、歯がお化けになってしまう。
 あゆみの意見に対して歯の所有権者である斗美は直ちに反論した。まず第一に、自分の歯がお化けになんかなるわけがない。庭に墓を作るのも反対だ。それじゃなくても飼犬のキムは土掘りの好きな犬じゃないか。歯を埋めたりしたら、たちまちキムに掘りかえされてしまう。ここで斗美は以前に読んでもらった一冊の絵本のことを思いだす。自分たちの整理タンスのなかからその絵本を持ちだしてきて、ぬけた歯をどうしたらいいかは、この本に書いてあったと主張する。


   さて、おうさまの おくちから とれたはを、 いったい どうしたら いいでしょう。
ごてんのなかでは、また ああしたら こうしたらと、大さわぎに なりました。 けれども、 まえにも いったように、おうさまの おかあさまは、たいへんかしこい かたでしたね。
   そこで、おかあさまは おっしゃいました。
「ていねいな てがみを おかきなさい。 そして、そのてがみを ぬけたはと いっしょに ふうとうにいれて、まくらの下に おいて おやすみなさい。そうすれば、 きっと ぺれすねずみが そのはを とりにきて、 おくりものを もってきて くれますよ。 むかしから ぺれすは、いつも 子どもの はを もらいにくることに なっているのです。」  


 
 コロマ神父作のスペインの物語「ねずみと王様」の一節である。王様の名はぶび、年齢はわずかに六歳だというから、ここでもまた、乳歯から永久歯への生えかわりをめぐる一騒動があったというわけだ。
 斗美は早くも紙を持ってきて小さな歯をつつみはじめた。そして、どんな内容の手紙を書けばよいのかを母親に相談する。
「ぬけた歯のあとには、丈夫な強い歯を生やさなきゃいけないんだから、ねずみには、それを持ってきてくれるように頼んだらいいんじゃないかしら」というのが母親の答えである。
「そうか、ねずみは、なんでも噛じっちゃう丈夫な歯を持ってるもんね。」
 斗美は母親に同調して手紙を書きはじめようとする。
 ここで父親が発言した。
「それは、スペインの話じゃないか。日本には日本のやりかたがあるはずだ。」というわけである。
「日本のやりかたって、どんなの」
「おとうさんが子どものときにも、歯がぬけた。だれだって歯は生えかわる。おとうさんの歯がぬけたときには、それが上の歯なら縁の下へ、下の歯なら屋根の上へ捨てるもんだと教えられた。そうすると、屋根の上の歯はからすが持って行くし、下の歯はねずみが運んで行く。そしてそのかわりに、丈夫な歯を生やしてくれる」というような意味のことを父親は語った。
「ああ、それなら、あたしも同じようなことをいわれたわ」と母親がいう。
 斗美は早速、歯を持って外へ飛びだして行った。ぬけ落ちた歯は下歯だから、屋根の上へ投げあげようというのである。投げあげられた歯は瓦をすべり落ちて、雨樋のなかにおさまってしまった。そこもまた屋根の上といえばいえる。斗美は大役をすましたような顔つきで大きく溜息をついた。あゆみもまた、やれやれといった表情である。かくて、ぬけ落ちた一本の歯をめぐる小さな祝祭は終了した。




                                         
                                          十八代の系図

 おとなの眼からみれば、子どもの口のなかからぬけ落ちた一本の歯についてまで親と子が語りあうなどということは誠にたあいもないことに違いない。しかし、こどもにとっては実に重大な事柄に属するがゆえに、そこにさまざまな伝承が生まれたのではあるまいか。そしてその伝承の影には、丈夫で強い永久歯を子どもに与えてやりたいとねがう素朴な親の感情があった。たとえそれがぬけ落ちた一本の歯であっても、それを無下にあつかわないという伝承が、あるとき突然に、重々しいひびきをともなってくることがある。身体髪膚これ父母に承くというような考えかたが子どもたちに強要された場合、そこにはもうなごやかな雰囲気はあり得ない。
 斗美の歯がぬけ落ちてから数日後、父親はタクシーに乗って赤坂から新宿へと向かっていた。一緒に乗っていたのは同年輩の友人二人である。車が四谷まで来たとき、六十近いとおもわれるタクシーの運転手が父親達に向かって訊いた。
「旦那がたは、見合い結婚ですか、それとも恋愛ですか」
 三人は顔を見合わせた。三人とも恋愛結婚だということになった。すると運転手は舌打ちでもするような調子で、
「やっぱり結婚は見合いに限るんですがね」という。それから新宿の目的地に着くまでのあいだ。その年寄りの運転手は、間断なくしゃべり続けた。


 わたしは三度結婚しましたが、三度とも見合いでした。しかし一度目は女のほうに悪い病気があったんですぐに別れましたよ。中年をすぎると眼がつぶれるという血統なんですなあ。あれはきっと梅毒でしょう。二度目はどうも気持ちがしっくりいかないんで、これも別れました。ちゃんと仲人を立ててあるから、別れるときももめたりはしゃしません。三度目は調べに調べて、安政の大獄にからんで処刑されたという武士の孫娘をもらいました。(ここで運転手は武士の名をいったが、父親はすぐに忘れた)これはさすが武士の血統ですからしっかりした女です。いまの家内ですがね。惚れたはれたの恋愛だと、血統というような大切なことが二の次になって、うっかりすると新平民をもらったりすることがありますからねえ。靴屋、カバン屋、肉屋、葬儀屋これなんかはみんな新平民です。何しろあたしのところは十八代も続いた士族の血統ですからね。(ここでまた運転手は武士の名をあげたが父親はすぐに忘れた)わたしが十六になったときには、元服式をやったもんです。大きな神社へいきましてねえ。そのおごそかなことといったら、私はふるえてしまいましたよ。十八代も続いたことがどうしてわかるのかっていうんですか。それはもうちゃんと、系図というものがあるんです。旦那さんたちは、系図をお持ちじゃないんですか。それはいけないな。私のところには、十八代も続いた系図があるんでさあ。伝統というものは大事なもんですよ。


 タクシーを降りるなり、父親と友人は顔を見合わせて大笑いしたのである。いまどき、何という時代錯誤なことをいう人間がいるものだろうかとも話しあった。そして父親は次第に腹立ちを覚えてきた。 十八代の系図だとか、伝統だとかいっても、それは結局、自分と他者とを差別するための方便ではないか。やはり伝統などというものは、否定すべきもの以外ではあり得ない。
 ぼくはここで奈良の法隆寺を見たときの奇妙な感動を想起せずにはいられないのである。
 テレビの教育番組に関係していたときのことだが、ぼくが生駒山のふもとにあるN中学を取材することになった。N中学は大阪でただ一つ、特殊学級のある中学校なのだ。小学校の特殊学級は珍しくないが、中学校における特殊教育というのは全国でもあまり例をみないようである。
 戦時中は朝鮮で国民学校の校長をしていたという男の先生が担任のその特殊学級には、三十人近い男女生徒がいて、勉強というよりは作業といったほうが適当な授業時間を過ごしてた。薄手のボール紙にあけられた直径一センチほどの穴に、細い針金をとおすのさえままならない女の子の横顔をみつめているうちに、ぼくは耐えきれなくなって窓の外を眺めた。生駒のふもとはもう黄昏である。ふとぼくの口から、
「ここらは河内か」というつぶやきがもれた。そして、N中学にだけ、なぜ特殊学級があるのかということが判断できたのである。ぼくは担任の教師にたしかめてみた。
「特殊学級の生徒には、いわゆる部落の子どもが多いんじゃないですか」
 するとそれまで、自分の教育業績を誇らしげに大きな声で語ってきたその教師が極端に声を落としていうのである。
「実はそうなんです。だから想像以上に、この学校の教育は難しいんですわ」
 その夜のうちにぼくらは阪奈国道を通って奈良に入り、あくる朝、斑鳩の里を訪れた。そこには伝統があった。ぼくは予想していた以上に感動した。法隆寺にはそれほど心を動かされなかったが、白い土塀や、周辺の寺の屋根を見ては立ち止まった。土塀については奈良生まれの詩人、池田克己が次のようにうたっている。
  土塀の外の蓑笠の田植
  土塀の内の仏や伽藍
  土塀の外の敗亡の今日の時
  土塀の内の飛鳥や白鳳や天平の時         (法隆寺土塀)
 

                                            差別教育

法隆寺については、北原白秋の童謡もあるが、その第三節は次の四行からなっている。
 
  ことりことりと
  誰やらが、誰やらが、
  陰を歩いておりました。
  おりました。

 法隆寺を伝統だとするならば、その陰を歩くのは誰か。ぼくはそこにN中学の特殊学級の生徒たちの姿を見るような気がする。脳の働きと手先の動きが一致しないために、直径一センチほどの穴に針金をとおすとさえままならぬ子どもたちこそ、伝統と差別のはざまに生み落とされた悲しみなのだ。たかが十八代の血のつながりを、伝統だといって誇らしげに語った運転手の愚かしさを嘲笑することは容易だが、法隆寺をふくめた斑鳩の里の伝統を否定してしまうことは決してたやすいことではない。
しかし、奈良の都がその伝統という名の権威を確立するために多くの差別を強要してきたことはまぎれもない事実である。
斑鳩の里の古色蒼然たる美しさには、ぼくも感動せずにはいられなかったのだけれども、その陰に差別があり、いまもなお、差別のために多くの悲しみが生まれつつあるのを知ったからには、ぼくはそれを、つまり伝統というようなものを、徹底的に否定しなければならないとおもうのだ。ぼくは伝統というものを、差別をぬきにしては考えることが不可能なのである。すくなくとも子どもたちには、そのようなものを、美として伝える必要はない。ぬけ落ちた一本の歯は、それが父母から受け継がれたものだから、むげには取り扱うなというのではない。それは自分のものだったのだから、それがぬけ落ちたことは、自分の肉体的な成長を証明することなのだから、それを鮮明に記録しておくべきだというのである。そしてその記録の方法として、斗美は親から一つの祝祭を伝承させられたものだ。これはあくまでも伝統とは別の次元に属する事柄だといわなければならない。
 伝統とは自分を他者と区別することに他ならないということがわかったとき、ぼくはさらに差別にまつわる体験を想起した。同じ日本人のなかに、士族、平民、新平民というような、いわゆる戸籍上の違いがあることをはじめて教えられた日のことである。それは学童集団疎開のときだった。ぼくらがいた温泉地には東京から三つの学校が疎開していたのだが、そのなかの一つに浅草のF国民学校があった。級友のひとりがF校の四、五人になぐられたというので、ぼくらが仕返しに行くと向こうからは中年の教師がでてきた。そしてぼくらはF校の職員室になっている大きな和室に連れ込まれたのである。
「お前らは、F校が花川戸に近いから、エタの子どもがいるとおもって馬鹿にしているんだろう」と教師につめ寄られてぼくは驚いてしまった。その内容が何のことやら、まるでわからなかったからである。
「それは間違っている」と教師はいった。そしてぼくらは強烈な平手打ちをくわされた。
「同じ日本人でありながら、おまえた地はどうして、そんなことを考えるんだ。日本人には二千六百年の伝統がある。おまえたちだって、うちの学校の子どもたちだって、同じ日本人、同じ少国民じゃないか。」
 教師は涙ぐんで力説するのだが、ぼくらにはそれがどういう理由によるものか、まるで見当がつかない。
 自分たちの部屋に帰ってきてから、ぼくらはエタとは何かについて話しあったけれど、それについて知っているものはいなかった。ぼくは東京の姉に手紙を書き、エタとは何かをたずねるつもりだったのだが、そのハガキは寮母の検閲でおさえられてしまった。寮母はぼくの耳もとでささやくようにいった。
「エタって新平民のことよ。むかし、悪いことをしたから、普通のひとと別にされちゃったんですって、だけど、そんなこと、絶対にいっちゃいけないのよ」
 このとき以来、ぼくの頭のなかでは、紀元二千六百年の伝統と、エタという言葉が複雑にからみあったままだ。あの教師は、伝統を強要することによって、差別への関心を育ててくれた。いうなれば、ぼくの受けた差別教育であった。教師に悪意はなかったのだろうが、伝統にとらわれての早合点があった。やはり伝統は重く暗いものだという気がしてならない。


鋏の受け渡し

 ぬけ落ちた一本の歯をめぐる祝祭が伝統とは次元を異にした事柄であったと同じように、ぼくらはさまざまのことを、体験的に受け継がされているものだ。ここでいう体験的とは、それを継承させられた時の状景がなにがしかの感動をともなって想起されるということであって、いわば自己の成長の記録として、それらは忘れ去ることができないのである。
 父親の生家は洋服屋。職人上がりの父親(斗美やあゆみの祖父である)は職人特有の慣習を身につけていた。ある時、父親に物指を持ってきてくれといわれた子どもが、それを手渡そうとすると、父は畳の上に置けという。子どもとしては、直接手渡すほうがめんどうがないとおもうから、父が受け取ってくれるまで、物指を持って立っていた。すると父はいらだちの舌打ちをしながら物指を取り、子どもの腕をぴしりと叩いてから、
「物指というものは、手から手へやり取りするものじゃない。それは、サシワタスといって、縁起の悪い物なんだ」と教えてくれた。
 サシワタスという言葉から、子どもが連想したのは、白虎隊のことであった。
 
  さらば最後と若人が
  覚悟の刃刺し交し
  散りし会津の夜嵐や
  その名も悲し白虎隊
 西条八十の「少年詩集」の冒頭に掲載されている「白虎隊」の最後の部分である。「覚悟の刃刺し交し」とサシワタシという言葉は似かよっている。いまでも父親は物指を見るだけでぴしりと叩かれた時の痛みと、白虎隊とを同時におもい起こすのである。しかもそれは苦痛の思い出ではなく、一種、さわやかな幼児体験ですらある。
 物指に比較したとき、鋏にまつわる記憶ははなはだ不愉快だ。鋏をひとに手渡すときは、自分が刃先のほうを持ち、相手には柄のほうがいくようにしなければいけないと教えてくれたのは、祖母である。たしかにこれは安全のために必要なことであるだろう。しかしそれ以上の事柄ではあり得ない。なぜ、そうしなければいけないのか。誤って、ひとを傷つけたりすることがあるからだと答えてしまえば、もうそれ以上につけ足す余地はない。これをぬけ落ちた一本の歯の場合で考えてみると、ぬけた歯をやたらなところに捨てたりしてはきたならしいから、ちゃんとゴミ捨てに捨てるか、土のなかに埋めてしまうべきだというようなことになってしまい、想像のからすやねずみまでが参加する小さな祝祭にはなり得ない。そしてそれは自己成長の鮮明な記録とはとうていなり得ないであろう。
 子どもはいつの場合にも、合理的な生活が営めるように教育されていかなければならない。しかしその合理性が、鋏の受け渡しに象徴させるような、それを教えるものと教えられるものとのあいだに何ら対話の生まれでる余地のないものばかりであったならば、子どもは自己の成長を自ら確認することもないままに、いつの間にか社会の一員となっているということになるのではあるまいか。
 なぜ、自分は、それを教えられなければならないかという疑問はなぜそれを継承しなければならないのかという疑問に通じる。合理的な生活とは、社会の体系を知りつくした上での生きかたである。その体系にすっぽりと身をゆだねることではない。ある場合には、その体系が自分にとって不都合な点があることを知ることであり、また如何にしたら、その不都合を改めることが可能であるかを知ることである。そしてその出発は、自分がなぜそれについて教えられなければならないのかという疑問にある。その意味においても、鋏の受け渡しに象徴されるような安全のための教育は、それほど重要なことではなく、むしろ合理性の陰にかくれてしまうような伝承こそが、子どもにとって重要な教育方法だといえるのではなかろうか。少なくともそこには、親と子のコミュニケーションが発生する余地がある。しかもそのコミュニケーションは、日常性のなかでの風化を防ぐ要素、すなわち想像の世界までを含めたものである。


親から子への伝承

 親が子に伝えるべきことは何か。それを考えあぐねているうちに、その伝えるべき内容について考えるよりさきに、伝えるという行為そのものについて考える必要があるという至って平凡なことに気がついて書き記したのが前節までの部分である。そしてその結論は、日常性のなかで風化することのない要素を持ち得ることを強調するハメになった。日常性とは何かをここでいまさら繰り返す必要はないだろう。ただここで何度でもぼくがいいたいことは、日常性のなかでの風化作用は子どももこれを避けることができないということである。
 子どもにとっては、日々があたらしく、新鮮な感情にみたされているとおもいこむことはおとなとしての傲慢さをものがたることにほかならない。ぼくは朝が来るたびに、何か変わったことがないか、何か面白いことがないかと探しもとめる二人の幼児を知っている。その子どものために、昨日とはまるで異質の今日を、今日とはまるで変化した明日を用意してやりたいと、ぼくは心の底からおもい込んでいるのだが、それは容易なことではない。だとしたら、せめて伝統の重みなどというものからは、子どもを解き放しておいてやる必要があるだろう。もしもわが家に、系図の如きものがあるならば、それは直ちに焼き捨てられるべきだし、血の純粋をうんぬんするものがいたら、それを混乱させるための行動が開始されなければならない。
 なお補足的に書き記しておくならば、乳歯がぬけ落ちた斗美の歯ぐきからは、永久歯の白いあたまがみえはじめている。斗美の想像世界の夕ぐれの空を、小さな白い乳歯をくわえた一羽のからすが飛び去って行ったかどうか、父親はまだそれを訊いてはいない。またそれは、改めて訊く必要のないことだとおもう。
テキスト化佐藤美惠子