物語のほうへ―物語ることへの信頼―
01

千葉幹夫
鬼ケ島通信35


 「体中を血液がかけめぐっているような」冒険物語をさとうまきこが書いた。『こちら地球防衛軍』(講談社)である。題名から想像されるようなSFではない。都心からすこし離れた駅を舞台にしたサスペンスだ。主人公明彦と親友ユーリ、シマは休日に遊園地に行こうと駅で待ち合わせる。明彦とユーリは駅の伝言版に「2000年10月2日 世界は終わる」という文を見つけた。遊園地の帰り、伝言を見たシマは消してしまい、明彦はなぜか切れてシマに頭突きをかませる。伝言はつぎの日「6日後、世界は終わる」と変わっていた。カウントダウンが始まったのだ。伝言は明彦のクラスでも話題になり、明彦とユーリは二人だけの「地球防衛軍」を結成して、犯人探しを始めることにした。地球防衛軍とは遊園地にあるシューティングゲームで、別の銀河系からの侵略を迎え撃つ軍隊のことだ。伝言が書かれるのは午前0時すぎ。とすれば犯人をつかまえるには、この時間にこっそり家を抜け出さなくてはならない。明彦は二階の自室からロープでぬけだす。こんなスリルのある冒険は今時あるだろうか。
 ここまで読むと「児戯に等しい」物語と思われそうだが、そんなことはない。明彦には大学合格のあと自室に閉じこもってしまった兄がいる。ちょうど伝言が書かれたときから、兄のハンガーストライキが始まり、母の神経はしだいにボロボロになっていくし、クラスはほぼ崩壊状態にある。そのクラスでは、二人とは別にシマが音頭をとって「対策」を練るグループが生まれ、伝言のカウントダウンに合わせてパニックが広がっていく。夜中の監視にもかかわらず、なかなか犯人をつかまえられない明彦とユーリは、伝言版に、「そうはさせるか、地球防衛軍」と書きつけ、カウントダウンにしたがって自分たちの文章も変えていく。犯人は最後の日、世界が終わる時間まで指定する。
 ただのいたずら書きかもしれないものに、しだいに不安をつのらせていく様子が、兄のため心理的に追い詰められていく母の姿と重なりながら、読者をひきこんでいく。真夜中の駅ふきんの風俗描写もおもしろく、たしかな取材を感じさせるし、学校や駅の対応、幼い恋もそつなく書けている。
 物語の最後はどうなるかは礼儀上書けないが、みごとなカタルシスへと導いてくれるとだけいっておこう。部屋に閉じこもっている兄や、終末を予言する「犯人」のことをみょうに書きすぎていないことも、私には好ましく思えた。
 これにたいして、いまどき、といいたくなるほど、ゆったりと少女の成長をえがいた作品が、高楼方子の『十一月の扉』(リブリオ出版)である。北の町に住む爽子の一家は、父の転勤で東京に行くことになる。中学二年生の爽子は、自宅のマンションから双眼鏡で見た「十一月荘」に、二学期の残り二ヶ月を過ごす許可をもらう。十一月荘には、家主で六十歳くらいの閑さん、三十五歳の苑子と馥子、馥子の子どもで小学一年生のるみと、女性ばかりが住んでいる。爽子はドードー鳥の絵がついた大判のノートに、「ドードー森の物語」をつづっていく。また耿介という、閑に英語を習いにきている中学三年にひそかに興味を抱くようになっていく。
 最初のドードー森の物語を書いたあと、爽子は、「今までどこにも存在していなかったドードー森。今までありもしなかった、ある日のできごと、ささやかではあっても、それらが、既成の場所、既成の事実となって存在する。ノートの中に。そして爽子の心の中に……。」と実感し、自由を感じる。創作の喜びをこんな文章にできる作家はうらやましいが、ともかく創作を続けていくことは、爽子にとっては、自分のまわりの人の確認作業でもあり、慰めでもあり、特権的時間を生きているロマン的世界の描写でもあるのだ。だから、
「たぶんに<楽屋うけ>的であるのも気になったし、そのくせ<楽屋>の人々が読めば、たとえ好人物に描いてあったとしても、何かしら、さしさわりがありそうだと考えると、十一月荘の内にも外にも、読者を見出すことはできない」わけで、その分自由であるとともに「やや無力にもした」ということになる。
 爽子は、他者の時間についても発見する。苑子の身の上話を聞いた時、「ぱっと大人になったわけではないことはわかっているのに、三十歳の人には三十歳に、四十歳の人には四十歳の、その時の時間しかないような気が、どうしてもしていたのだ」「そして、いつの時も、その時その時が、一番新しい現実で、明日以降は、不安な未来だったのだ。今日と同じように―。」
という発見をするのだ。なんでもないように書かれているが、この発見の意味は大きいだろう。他人とは、今自分の目に映っているそれだけの存在ではない。
 人は自分自身が思っているようには人の目には映っていないことへの自覚もある。
 爽子が耿介とノートを買った文房具屋「ラピス」で偶然に出会い、連れていったるみが物語を書いていることをばらしてしまう。
 耿介は、真っ直ぐに背を伸ばしたまま、「けっこうなことですねえ!」と、ふざけた調子で言いながら、爽子に向かって、高慢そうに微笑んでみせたのだった。
 爽子は苦い自覚を強いられる。
「高価なノートを、見たとたんに買い、ぬいぐるみのお話を書いている、少女趣味のバカな女の子にすぎないのだ。」
 もう一つ、母親との関係がどうだったのかをはっきりと自覚することになる。十一月荘にきてから、爽子はしばしば母親のことを思う。嫌なところがいっぱいあるとどうじに、世の中に不満を抱き続ける母を可哀相にさえ思いはじめていた。そこに、映画関係者とつきあい始め、母親の舞い上がった手紙をもらったとき、あまりの腹立たしさに涙をこぼすのだ。不機嫌や不愉快さは自分に素があると自覚しながら、どう処理することもできない。
十一月荘で、「のんびりとのどかで、どこかおかしく、そして密度が濃いような」日々を送りながら、ノートを喫茶店に忘れたことから、耿介と話をするようになり、母親のほうも、爽子に刺激され、仕事をしようかと思っているという手紙で、その生き方を納得する。
 その、ノートをなくしたときの、爽子のこだわりが興味を引く。
「ひょっとすると自分は、「自己愛の化け物」みたいな人間なのではないか、という思いが、こんな時にさえふとよぎる。自分の作ったものに、こんなにも執着しているなんて。」
「自分の妄想を手塩にかけて慈しむなんて、愚かなことじゃないか! 無知でからっぽの自分の内面をじろじろと見つめてどうするのだ!」
 作家が陥る自負心と自己嫌悪は、こんなものかもしれない。また爽子は親友のリツ子との間にいつしかできていた規範を、十一月荘に移ったことで飛び越えたこともわかる。リツ子にとっても、それは解放になったはずだ。
 この物語は、最後に十一月荘でのピアノ・コンサートでしめくくられるが、設定の恣意性、登場人物がすべて優しい人でありすぎることなどをふくめて、作りすぎではないかという批判があり得るだろう。だが、これは一編のロマン的物語なのだと考えれば、そこに自分自身の価値を見出す物語と読めるはずだ。なによりも作者は物語ることへの絶対的な信頼をもっていることをうかがわせる。
 物語への絶対的信頼といえば、「ものを書くことを仕事として選びとった人間は生きるために書くのではなく、書くために生きなくてはいけない」といい「宗教に身を捧げる人のように、自分の時間,エネルギー、努力のすべてを文学に捧げなければなりません。そういう人だけが本当の意味で作家になり、自分を超えるような作品を書くことのできる条件を手にするのです」ととなえる、バルガス=リョサのエッセイ「若い小説家に宛てた手紙(新潮2月号)に触れなければなるまい。このエッセイは、作家とはどういう存在か、から始めてテーマ・物語が発生する場とは、小説の形式、文体、構造、空間と時間の扱い方、現実世界と幻想世界、視点の変化、小説の説得性とは、エピソードの結び付け方まで、つまりは物語を書く(あるいは読む)勘所を、肩肘はらずに書いている。子どもの本の作家にも、参考になる意見も多いはずだ。バルガス=リョサの立場は明確だ。
「ある小説が自己充足し、<現実>の世界に隷従することをやめ、自立したものになるために必要なものすべてを内にはらんでいれば、その作品は最大限の説得力を獲得したということにほかなりません。その時はじめて、読者を魅了し、小説で語られていることを読者に信じさせることができるのです。」
 言っていることは、物語は現実世界とは違う、もう一つの世界を作ることだということだ。あるいはこんな言い方もしている。
「フィクションと現実を分かっている距離を縮め、その境界を消し去って行くことで、読者に嘘が実は永遠に変わることのない真実であり、幻影が現実的なもののこの上もない確かで揺ぎない描写なのだと思わせなければならないのです。」
 ほかの個所では、「フィクションとして一人歩きする」という言い方もしている。これらの言葉は物語ることへの信頼がなくては、とても言えない言葉ではないだろうか。別な個所で周到に、「小説が何かに寄りかかっている、つまりそのへその緒が現実世界につながっている」と指摘することも忘れていない。
 引用してコメントしたい個所はたくさんあるが、二百七十枚という長編エッセイだからここではできない。現実と幻想についてふれている個所を引こう。
「幻想文学の作家の独創性は、主としてフィクションの中で現実レヴェルの視点がどのような形で現れてくるかという点に関わっていると言っても過言ではないでしょう」
 ここでいう現実レヴェルの視点とは、「語り手が小説を物語るために立っている現実レヴェル、あるいは現実的平面と、語られている内容が生起する現実レヴェル、あるいは現実的平面との関係のこと」である。
「小説が<真性>であり、<真実味>を備えていて、<偽りのないものである>と私たちに感じさせる力は、私たち読者が生きている現実世界との相似性、あるいは同一性から生まれてくるのではありません。その力は言葉と物語を作り上げている空間、時間、現実レヴェルの視点をうまく組み合わせることによって生まれてきた作品それ自体から生じてくるのです。」
 この言葉は、つぎの文を想起させる。
「人間の想像力は、適切な刺激と情報を与えられると、目に見える現実だけでなく、見えないもう一つの現実(じつは非現実)をも、やすやすと創りあげる能力を備えているのである。ファンタジーは、基本的にこの能力によって成りたっている。」(佐藤さとる『ファンタジーの世界』)。
 吉岡忍の『月のナイフ』(理論社)は、たしかに「子どもたちの現在とタイマン張って立ち向かう大人の本気が強烈なインパクトを持って迫ってくる」(野上暁「日本児童文学3−4月号)九つの物語から成る短編集だ。冒頭に雲と酸性雨、雪煙が地球を回りながら、「森は少しずつ鉱物に還り、川も湖も透明さをま」すという象徴的な物語を配し、つぎに浮浪者狩りをする中学生たちを描いた「考えるな」を置く。浮浪者が最後に主人公の背中を突き刺す言葉「ぼうず、今度くるときは一人でこいよ。一人ずつだ」は、まさに大人が体を張って正面から向き合おうとする言葉だ。
 つぎの「きれいな手」は、塾行きのバスにどうしても乗れなかった少年が学校のウサギを皆殺しにする話。「ぼくが入っている檻には出口がない。終わりがないんだよ」というせりふは、「将来のために現在がある」という大人の論理にたいし「いまの自分も自分だ」という叫びにほかならない。ウサギを殺した手がきれいとは自己容認であり、そうしなければ、少年は生き続けることはできない。「子どもは敵だ」はそう公言し、たとえ落ちこぼれても「大人が作った世の中にだれよりも早く適応しようとするじゃないか。どれも大人の真似だよ。おれが一番、おれだけが正しいなんていう自慢は大人のもっともみにくい面の真似じゃないか」という画家が、無免許の中学生の車にひかれて死ぬ。 
 ほかに5編が収められているわけだが、どれも濃密な物語世界を形作っている。バルガス=リョサの用語を借りると、現実レヴェルの視点と、へその緒でつながりながら、世界と拮抗した物語が屹立していることを感じる。どの作品も自分の「本来あるべき」場からずれた、あるいは自らずらした人間が登場する。人はだれもが他人とは違う特別な自分を夢見ているはずだ。現実はそんなロマン性を剥奪していく。学校という装置はその剥奪に拍車をかける。校内暴力は、わずかに残った「自分らしさ」の証明あるいはロマン性を奪ったものへの復讐でもあるのかもしれないのだ。
 ほかに印象深い作品は、岡田淳『ミュージカルスパイス』(理論社)で、あいかわらずたのしい物語を作り上げている。
 岡田貴久子『K&P』(理論社)もおもしろく読んだが、物語の肝心の部分があやしげな男の語りだけで説明されたり、K&Pの姿が希薄だったりと、すこし残念な印象を持った。(以下次号)

2000/05
テキストファイル化富田真珠子