物語のほうへ

「世界」への手の伸ばし方
千葉幹夫

 私たちは生まれるとすぐ「世界」の中に投げこまれる。その「世界」とどう関わっていくのか、どのように手を伸ばしていくのかを表現するのは、児童文学でもたいせっなテーマの一つにちがいない。
 いしいしんじ『ぶらんこ乗り』は、天才少年がどのように「世界」へ違和感を持ち、「世界」に手を伸ばそうとしたかを、少年が残したノートを姉が読むという形で形象化している。姉弟は三歳ちがい。弟は四歳からノートに物語を書いている。はじめに書いた物語「たいふう」に出てくるひねくれおとこは、四歳の自画像なのだろうか。姉はいう。「あんな幼いころからもうあのこは、自分がこの世にひとりだけ取り残されたみたいに感じていたっていうんだろうか。」
 少年はサーカスを見て、激しい衝撃を受ける。「サーカスは思ったとおりだった。あっちがわとこの世の、ちょうどあいだにある。ぼくはなんどもあっちがわにひっぱられそうになった。でもずっとおねえちゃんがみていてくれた。ぼくにはちゃんとうしろからロープがついていたんだ。」
 姉のロープ、それは少年をこの世につないでいるものだ。なぜそうなのかは語られていないが、天才ゆえの「生き難さ」、自分のほうからうまく「世界」に手を伸ばせないことの自覚と考えればいいのだろう。少年はぶらんこに熱中しはじめる。額縁造り師の父は庭の木にぶらんこをしつらえてやる。そして六歳のとき、電が少年ののどを直撃して、この世の声とも思えない音しか発声できなくなる。少年は一日の半分以上をぶらんこの上ですごし、ノートに物語をつづっていく。少年にとって、それがこの世と自分をつなぐ唯一のものであり、物語を姉が喜んでくれるのが喜びとなってくる。物語ははじめ身近な人間、つまり祖母、父、母などを動物に託したものが、しだいに変質してくる。動物がぶらんこの上までやってきて、語ってくれる物語だと少年はいう。
 その物語は、どれも、うまくこの世に手を伸ばせないか、伸ばしてもはじかれてしまうものが主人公になっている。やがて、旅先の父母の事故死にあい、少年は物語をやめる。生前、母が旅先から出した十通の手紙がとどくが、それにもしかけがある。
 この作品は、いわば「生き難さ」を、ユーモアと機智に富んだ話をつくり、姉とロープをつなぐことでかろうじて耐えている少年の物語として読むことができるだろう。飛び級をして十二歳で大学に入った少年は、異国で姿を消す。ロープでつないでくれていた姉を両親の死から立ちなおらせたとき、もう姉のロープではない、なにかにつながらなければならないことを感じ取ったのだろうか。いしいは、ファンタジツクで切ないこの作品で「世界」への手の伸ばし方を一つ、提示してくれた。
 『象のダンス』(魚住直子)は「だれでもない私」という自意識から「世界」への違和感をもつ中学三年生の少女が、他者との関係を求めた物語として読むことができる。お嬢さんイメージの高さでもっている中学に在学する十月深澄は「一年と二年のときは、深澄はあまり者のグループに属していた。どのグループにも入れないおとなしい生徒や少し変わった生徒ばかりで構成されたグループ」という。三年になり、マキという少女とだけグループを作る。それも、ただ便利だという意味だけで。外ではメールで友達をつくり、男とつきあう。この深澄は十三歳のタイ人少女チェアンチャイにカメラを向けたことから、知り合いになる。チェアンチャイの母は病気が重く、入院しなければならないが、たぶん、その金がない。一方、深澄はDPE屋でアルバイトをする鈴木という男と知り合い、たちまち関係を結ぶ。「異性とつき合うには当然というか、どのみち避けては通れない仕方のないことだと思っていた。でも一つ言えることは、一度終わってしまえば、駆け引きの緊張感がなくなった体と体を自然にひっつけあっていられる。温かい肌に包まれるのは、ほっとすることだ」という。十三歳なら自立せよという母、その母のいいなりの父という家庭の中で、深澄が求めていたのは、肌の温もりと駆け引きのなさ。だが、深澄は鈴木に手ひどい被害をこうむることになる。自意識の殻から出ようとして、深手を負うこの構図は魚住の作品ではおなじみだ。
 深澄はチュアンチャイが売春をしてまで金をかせごうとしていることを知り、自分で金を工面しようとして、父母を相手に狂言をしかける。父母にはすぐにばれるが、ともかくチュアンチャイの母は入院することができた。そして最後のどんでん返しがくる。金が二人を引き裂いたように見える。だが、そうなのだろうか。深澄はチュアンチャイを「親孝行で努力家で明朗な、見たこともないようないい子だと」思いこんでいた。一方、チュアンチャイも深澄を心のきれいな、やさしい人という理想化した姿で見ている。
 二人とも、自分の理想化した姿を相手に見ていたわけだ。それは「私」という「はじかれた存在」が求めた「物語」、よりよい 「私」を求める「物語」である。その「物語」が崩れたとき、あらためて自分と相手との関係も崩れるのか、あらためて「物語」を構築しようとするのか。
「まちがっているとわかっていることを時にやってしまう。いや時にはどころじゃない。そればかりを選んでわざとやってきた」深澄の姿を、チエアンチャイにそのまま見てほしい。最後に空港の出発ロビーで象のダンスを踊りながら、「私はもっとチュアンチャイのことが知りたい。私のこともたくさん、チュアンチャイに聞いてほしい!」と深澄は願う。
 私はこの作品を過剰な自意識をもてあます少女が、他者との関係に目覚めることから、よりよい自分を求めようとする物語として読んだ。文章がいささかぶっきらぼうな感じがあるのは残念だったが。
 もう一作、「世界」とうまく結べない物語が『ダブル・ハート』(令丈ヒロ子)だ。主人公由宇は十四歳。ふと父が口をすべらせたことから、生まれなかった双子の妹由芽の存在を知る。そして「しあわせになれない・ような気がする」日々を送ることになる。由宇は池袋で通り魔におそわれ、このとき助けてくれた森崎未央という高校生と親しくなる。ところが、入院した病院に由宇そっくりの少女が出現するところから、由宇の生活は大幅に乱されることになった。由芽は「わたしは、あんたとおなじ人間なんだ」というが、由宇は「わたしは、あなたみたいな、そういう…下品な、しつけの悪いようなこと、しないもの。ジュースをただで飲もうとして販売機をバカみたいに蹴っとばしたり、そこらにゴミを投げたり、そんなこと、一度だってしたことない」という。おまけに由芽はヘビースモーカーで、由宇の洋服を平然と持っていってしまう存在でもある。由芽はいう。「そりや、あんたは、がんばっていい子ちゃんやってっからね。やらないでしょうけど。やろうと思えば、やれるやつなんだよ。」といってのける。そして、「殺されかけたとき、あんたのハートがぶっちぎれて、たまたまあたしになっただけで、つい最近まであたしはあんただったんだから。」とも。
 あざとくなりそうな題材を、作者は巧みな物語作りで結末へと導いていく。つまり、由宇にとって、これは解放された自分の発見であったのだ。エンターティンメントといえばそうだろうが、作者のカを見せてくれた一作だと思う。
 エンターティンメントというと『物語の体操』(大塚英志)に触れないわけにはいかない。物語を作るための技術を解説しているのだが、その背景を、大塚と対談した加藤典洋に解説してもらおう(「群像」五月号)。
  たとえば歌舞伎の世界では、義経記とか忠臣蔵という大きな物語の原本があった上で、それに乗ってそれぞれの興行の出し物としての物語が作られ、芝居で演じられる。その場合、前者を「世界」と言い、後者を「趣向」と呼ぶらしい。物語の原型があって、それぞれの話がその子どもとして作られるわけだけど、漫画の世界にもある時期からこれと相似の構造が生じるようになって、これを「世界観」と「物語」と呼んでいる。ということである。さらに加藤は、
 ところが、ある時から、そういういわばサブカルチャー化が、文学の世界にも押し寄せている。これを「世界観」と「物語」の分裂と呼ぶことにしよう。といっている。児童文学も例外ではなさそうだ。
 ここから、大塚はとりあえず盗作してみよう、とか、方程式でプロットがみるみる作れると説明していく。そのプロットとは何か。まず主体がおり、彼を援助する者がいる。主体に探索(クエスト)を依頼する者がおり、主体は対象にむけて探索をはじめる。当然妨害者がいる。そして対象を受け手に届けて物語は終わる。受け手と主体が同一である場合もある。瀬田貞二が『幼い子の文学』でのべた「行って帰る物語」もこのプロットに包含されると考えることができる。
 例を『DIVE⊥別宙返り3回転半』(森絵都)にとっ
てみよう。ミズキダイビングクラブはつぎのオリンピックに代表選手を送らないと廃止となる運命にある。コーチの麻木夏陽子が自らこのクラブにやってきて坂井知季という未完成の才能を見つける。クラブには富士谷要一という有力選手がいる。麻木は坂井、富士谷のライバルとして、沖津飛沫という、荒削りだがすばらしいダイブを見せる男を青森から連れてくる。
 つまり、主体は坂井知季、依頼者は麻木夏陽子、妨害者は沖津飛沫、同時に援助者でもある。探索はオリンピック出場。その結果はまだわからない。
 わたしはこの作品はじつによくできていて作者の力量をよく示していると思うが、大塚の分析をあてはめると、なにか恐ろしいような気になってくる。いつでもそうだが、こういうマニュアルは両刃の剣なのだ。よく分析できたからといって、いい解説になるとは限らない。マニュアルに沿って書いたからといって、いい発想が書けるわけではない。だが、知っているかどうかもまた、問われることでもあるのだ。
 『メメント・モーリ』(おのりえん)もまた、この分析にあてはまりそうだが、それはそれとして、いわば癒しのファンタジーと呼ぶことができるかもしれない。完全を求める父母の中で生活して、十二歳のおばあさんと自覚し、「ため息の主が、行きたいと望んでいた、人間の世界の先。別の世界」の国にいって、成熟することを拒否している王子を救う物語である。「この世には助けられる人と、見捨てられる人がいて…愛される人と、疎んじられる人がいて‥自分はどうしても選ばれる側にないという劣等感。」この「世界」とどう折合いをつけていくか、作者はそれを癒していく物語を作った。気になったことといえば、なぜ鬼も、鬼の舞台もすべて西洋的なものなのかということで、あるいは 『指輪物語』あたりの影響かもしれないが、鬼のイメージはけっして西洋だけではないはずだ。
鬼ヶ島通信37号2001.05.30