「とぶ」発想

『子どもの国の太鼓たたき』(上野瞭/すばる書房/1976.08)

           
         
         
         
         
         
         
    
 おくればせながら、ぼくも『かもめのジョナサン』を読みました。
 ジョナサン……。この鴎を作者のリチャード・バックはつぎのように規定しています。
「ほとんどのカモメは、飛ぶという行為をしごく簡単に考えていて、それ以上のことをあえて学ぼうなどとは思わないものである。つまり、どうやって岸から食物のあるところまでたどりつき、さらにまた岸ヘもどってくるか、それさえ判れば充分なのだ。すベてのカモメにとって、重要なのは飛ぶことではなく、食べることだった。だが、この風変りなカモメ、ジョナサン・リヴィングストンにとって重要なのは、食べることよりも飛ぶことそれ自体だったのだ。その他のどんなことよりも、彼は飛ぶことが好きだった。」(五木寛之訳/新潮社/一九七四)
 おかげでジョナサンは、ひたむきに「とぶこと」に自分を賭け、やがて時間・空間を超越する「反カモメ的カモメ」になるという話です。どこか、吉川英治描くところの「宮本武蔵」、あるいは、一九七四年度流行の「オカルト」的な鴎……といえないでもありません。しかし、「求道的」な「とび方」、あるいは瞬間にして次元をこえる「とび方」、それだけで、ぼくはジョナサンをとやかくいう気にはなりません。確かに、訳者の五木寛之も、ジョナサンが「群れ」を離脱する生き方をとらえて、その選良意識に疑問がある……というような指摘をしていましたが、世の中は人それぞれ、いや、カモメそれぞれであって、中には「群れ」を見下すことによろこびを感じる鴎の一羽や二羽は、いつの時代にも存在すると思うのです。
 現に、さまざまなる「とび方」ということにしぼって考えれば、宮沢賢治の『よだかの星』、アンデルセンの『パンをふんだ娘』、そういった作品の中にもジョナサンとは別の「とび方」があったように思うのです。たとえば賢治の場合、醜い「よだか」は、鷹におどされ、その恐怖から、自分もまた他の小さい生きものをおびえさせることに気付きます。これ以上生きてはおられない。自分が生きているということは、他の生命を奪うことによって成り立つことだ。小さな甲虫たちを恐怖におとし入れるくらいなら、いっそ餓死した方がましだ。「よだか」は太陽に向かって飛びます。太陽から拒否されるとオリオンへ、オリオンから馬鹿にされると大犬座へ……。かくして「よだか」は、最後にカシオペアの隣で燃える星となります。『パンをふんだ娘』インゲルの話もまた有名で、沼底から地獄まで落ちたこの娘が、最後に口のきけぬ雀となり、罪を悔いてパン屑をひろい集めた時、一羽の鴎となって、まっしぐらに太陽めがけて舞いあがっていくのです……。「よだか」も「インゲル」も、一つの「とび方」です。生きることに伴う原罪意識の表現といえばよいか……。いや、自分の生存が他の生命の犠牲の上に成立していることや、生きていること自体がいかに傲慢なものであるかを示すのが、「よだか」と「インゲル」です。つまり、ここにある「とび方」は、そうした罪意識にさいなまれた結果、一種の「救済」を目ざしての飛翔ということになります。それに比べ、鴎のジョナサンが「とぶ」ことは、完全なる自由の境地を求めての飛翔です。いってみれば、一方には徹底した生存への自責自問があり、他方には徹底した生存への自己信頼がある……。別のいい方をすれば、「よだか」や「インゲル」にとっては、生きていることは苦痛であり恥ずべきことなのに、ジョナサンにとっては、無限の可能性をはらんだすばらしいことなのです。
 しかし、こうした「とび方」の違いをつかまえて、ぼくはジョナサンを批判する気持ちはまったくありません。それどころか、考えてみれば、「よだか」や「インゲル」の「自己否定」、対する鴎のジョナサンの徹底した「自己肯定」、これら二つの「とび方」は、一見相反するもののように見えながら、じつは銅貨の裏表とまではいわないものの、その「とび方」の中に共通の姿勢を持っているのではないでしょうか。すなわち、自分を否定するにせよ肯定するにせよ、これら両者の「とび方」は、ひどくストイックであるということです。何かを求めてのひたむきな飛翔法……。それはまさに、ぼくのような「群れ」の一員を、息づまるような思いにかりたてる「とび方」です。「鴎それぞれ」といいましたが、「とぶ」こととは、そうした「求道性」を常にひらめかせることなのか……。ぼくが、ジョナサンを読み終って首をかしげたとすれば、それは、作者のリチャード・バックが、鴎の世界を明確に二分化することによって、一方はジョナサンのような「とび方」、他方は「群れ」のような「とび方」と、つまり、命あるものの世界を、目に見えないものへのひたむきな志向性と、ひたすら食うためにのみあくせくする志向性というふうに、どちらも横道にそれることのない「とび方」として固定している点なのです。どうして、ジョナサンも「群れ」も、そんなふうにひたむきの「とび方」しか許されないのか。そこには、「自由」を求める「とび方」と「食う」ための「とび方」とだけがあって、それ以外の「とび方」はないのか。たとえば「道草をくう」そんな「とび方」が、どうしてないのでしょうか。
 繰りかえすようですが、ぼくのリチャード・バックに対する不満は、この作者が、自分の分身でもあり願望の結晶でもあるジョナサンを、はじめからおしまいまで一度も相対視しないことからきています。ただひたすらに「とぶ」ジョナサン……。それを至高の在り方として描いていくリチャード・バック。純粋であることは確かに美しいが、そうした美しさを絶対視することから生まれる人間の「かたくなさ」をどう考えているのでしょう。それがどれほど、無限の可能性をはらんだ人間の「自由」というものを限定してきたことか、ジョナサンの生みの親は考えたことはないのでしょうか。それにしても、なぜジョナサンなのか……。
 ぼくは、ここで、じつは、ギレルモ(ギィレルモかもしれません)・モルディロの『クレージイ・カウボーイ』(“CRAZY COWBOY” Guillermo Mordillo,1972,EMME EDIZIONI)のことに触れるつもりだったのです。ところが、思わぬ道草を食ってしまったわけです。しかし、あながち『かもめのジョナサン』と、このハードカバーの漫画本の間に関係がないわけでもありません。ジョナサンが、ひたすら「とぶ」ことに集中する物語であったとすれば、この『クレージイ・カウボーイ』もまた、ひたすらに走る物語であり、(いや、吹き出しなしの漫画絵本ですから、物語というのはおかしいのかもしれませんが)おしまいには軽気球にのって「とぶ」ことになっているからです。つまり、これも一つの「とび方」、「とぶ」ことだなと考えていたために、はじめに脚本家のようなジョナサンに敬意を払ってみたのですが、『クレージイ・カウボーイ』の方は、同じ「とぶ」にしても事ほど左様に「求道的」ではありません。
 頁を繰りながら「あらすじ」らしきものを組み立てると、こんなふうになります、一人のカウボーイが突然岩山のむこうから走りだしてくる。堅く両眼を閉じたまま(そうです、この「絵本」<?>の中で、カウボーイが、どんぐりまなこを開くのは、ほんの二度ばかりです。あとは何事が起ろうとも、無関心無表情、その超然とした有様は、とても「木枯し紋次郎」の及ぶべきではありません)岩山を跳びこえる。そしてそこに停めてあった自転車にのる。自転車がこわれると馬にのりついで走るカウボーイ。馬が危険標識のドクロの模様におびえてカウボーイを放りだすと、駅馬車にのって走るカウボーイ。駅馬車が断崖に引っかかると、汽車にのりついで走るカウボーイ。汽車がだめになると、自動車にのりついで走るカウボーイ。自動車がオシャカになるとプロペラ機。プロペラ機がへばると軽気球……。要するに、この一冊の本は、ひたすらに前進するカウボーイの姿を描いているのです。どこから、何のために、どこへ……という説明は一切入っていません。憑かれたようにひた走るといえばいいか、それはまことに不気味でもあり滑稽でさえあります。皮肉な見方をすれば、これは、今日のアメリカ、あるいはアメリカ人の在り方を諷刺しているようでもあり、また現代人そのものの漫画化と取れないこともありません。
 ぼくはこの一冊を、「世界の子ども絵本展」で買ってきたわけですが、それ以来、何度か眺めては楽しみました。色彩はケンランゴウカ、というよりも、まさしくカーニバルか何かのデコレーション調です。人によっては、趣味の悪い極彩色のコミック・ストリップ調ときめつけるでしょうが、どうしてどうして、繰りかえし眺めているうちに、ぼくはここにある「道草をくう」楽しさにひどく興味を持ちました。たとえば、汽車がこわれたあと、このカウボーイが自動車にのりついで西部の町を通り抜ける場面。ここにある作者の「遊び」は、ぼくをニヤリとさせました。無人の町です。まるでゴースト・タウン寸前のように、ホテルと眼医者の建物の間にはクモの巣がかかっています。細密に描かれたこの町の有様は、御存知西部劇映画のそれです。しかし、この一軒一軒の建物に打ちつけられた文字板・看板のたぐいに注意を払うと、(淀川長治ではありませんが)まあ何となつかしいではありませんか……といいたくなるほど、かつての喜劇役者の名前、スラプスティック・コメディ時代のスターのそれが書きこまれているのです。マルクス兄弟(これは葬儀屋ということになっています。しかも、軒先には、ごていねいにMonkey business など注意札がぶらさがっているのです)、バスター・キートン(散髪屋です)、ハロルド・ロイド(銀行)、ローレル&ハーディ(酒屋)……といった具合です。われらの主人公カウボーイは、そうした看板には目もくれず、ひたすら目を閉じたまま通過します。この場面、たとえば、この漫画絵本作者の「古き良き時代」への郷愁のあらわれと取れないことはありません。もちろん、そうしたサイレント映画時代への思い入れもあるのでしょうが、それよりもここにあるのは、ドタバタ喜劇に集約される躍動的な人間の存在した時代、また、そうしたコメディによって代置される「遊び」「楽しみ」の存在したことに(また、存在することに)一べつもくれず、ただひたすらなる前進をつづけるカウボーイに焦点があわされているのです。つまりどういうか、ここには物語の流れを伝えるに必要な道具立と、それがそのまま、物語の流れとは関わりを持たぬ別の楽しさを作っていること、つまり「道草」の発想があるということです。読者であるぼくたちは、カウボーイと共につぎの頁にまっすぐ進むかわりに、カウボーイを無視して、この西部の町の一軒一軒を眺めまわることができるのです。
 絵本におけるこうした「道草の楽しさ」は、トミー・アンゲラーにもありました。たとえば“The Beast of Monsieur Racine”(1971)では、物語の進行に関わりなく、特定の場面でいろいろな空想を楽しむことができるのです。たとえば、奇妙な生きものを、ラシーヌさんがアカデミーに運んでいく見開き頁……。ここでは、運ばれる檻の左手向うに汽車が停っています。その汽車の窓に描かれた二人の人間。これは物語の進行上、まったく必要のないものです。しかし、一方が金槌のようなものをにぎり、もう一方が目を閉じている姿。これは、筋書に関わりのない別の物語を読者に空想させてくれます。そうかと思うと、奇妙な生きものを運ぶトラックの前を歩いている親父さん。この親父さんは、口にパイプなどをくわえて至極のんきそうに歩いていますが、その肩にかけたステッキの先の白い包みからは、血がしたたり落ちているのです。いや、それだけではなく、白い布切れの一端から足首がのぞいている。ぼくらはこれを見て、この親父さん、今、誰かをバラしてきたところだな。いったい、相手は誰だったのか。何のために……などと空想するのです。また、つぎの見開き頁。いよいよ檻が汽車に移される駅頭の場面……。ここでも、描かれた群集一人一人について、読者が自由に遊べる仕掛けになっています。左はしの男の読んでいる新聞、そこに書かれた見出しは、「センダク、パリにくる」ですし(この絵本は、モーリス・センダクに捧げる……と冒頭に記してあります)、その少し手前を、重いひつぎをかついで歩いていく男、その男のかついだひつぎからも、これまた血が流れだしている有様です。こうした「道草をくう」楽しさは、アカデミーでの混乱場面、それにつづく街頭シーンにも受けつがれています。
 この「遊び」は何を意味するのでしょう。さきほどの『クレージィ・カウボーイ』のそれを含めて考えてみると、じつはこうした「遊び」あるいは「道草のくい方」こそ、作者の、人間の相対視のあらわれではないかと、ぼくは思うのです。人間の特定の在り方を絶対視する時、その描く主人公は、ジョナサンのようにひたむきな存在になります。それだけが唯一の生き方、あるいは正義や純粋の在り方、ということになります。しかし、人間は「食う」だけの存在ではないように、「目に見えぬ至高性」のためだけにも生きません。「あれか、これか」という人生の提示の仕方は、確かにカッコヨク見えるでしょう。しかし、そんなふうにきめつけることが、どれほど人間自身の可能性をせばめてきたことか……。
 ギレルモ・モルディロは、その点、なかなかおもしろい主人公を描きだしました。目を閉じたまま、地上の一切の姿を無視してひた走るカウボーイを示すことにより、そして、おしまいには暗黒の空へ(月はかかっていますが)「とぶ」ことによって消滅する頁を用意することにより、ややもすればジョナサンに憧れるぼくらの弱みを皮肉りました。少なくとも、ぼくは、人間が自己肯定して突っ走る姿の無気味さと滑稽さとを、この『クレージイ・カウボーイ』の中に見たということです。ぼくらは「とぶ」ものの中に、ややもすれば、自分の「とぶ」ことへの願望を重ねて考えがちになります。しかし、ぼくらは構想力の翼をそなえることはできても、あの羽根は持てないのです。せめて飛翔する鳥を
見て、こんなふうに歌うしかないのではないか……。



うまれて このかた
ほかの方へは
一ども行ったことがありません

くちばしで
あなが あくほどに
ゆびさしている方へしか……

そして その方を
くちばしで
あなが あくほどに
ゆびさしながらにしか……

このおかたに とっては
たしかめに行くことなのでしょうか
ほんとに あなが あいたかどうかを

どこかへ行くということは……
なにかをする ということは……
生きている ということは……

 まど・みちお詩集『動物のうた』(銀河社/一九七五)の一編です。ここにも「とぶ」ことへの人間の熱い視線があります。「とぶ」ものを見てそのようにとぶことのない人間への内省があります。この詩集は、命あるもの、命あることへの深い配慮につらぬかれているのですが、ジョナサンのように、人間への無限の自己信頼がありません。もちろん、人それぞれ、鴎それぞれ、なのですから、おのれの愚かさを問うことなく、また、生と死という生存の条件を無視して飛びつづけることもいいでしょう。ぼくたちの周辺にだって「輝く日本の星になれ」などという歌もあるわけですから、ジョナサンよ、輝くアメリカの星となれ……と歌うのも自由です。それでも、時には、この詩集に歌われた「鳥」の「とび方」や、また、『クレージィ・カウボーイ』の「とび方」を思いだしてみることも、あながち無駄ではないと思うのですが……。(テキストファイル化杉本 恵三子)