バンナーマンおばさんの本

『子どもの国の太鼓たたき』(上野瞭/すばる書房/1976.08)

           
         
         
         
         
         
         
    
 きわめてずぼらな話だが、ぼくは『ちびくろ・さんぼ』というと、きまって「イギリス文化センター」のお世話になっている。なにもバスや電車をのりついで、一冊の本を借りにいく必要はないやろ。洋書取次店に注文しておけば、二、三ヵ月で手にはいるやろ。そういわれるのだが、どうもその気にならないのである。わざわざ、その一冊の絵本を取り寄せて、まあ見たっとくれやす。ヘレン・バンナーマンというスコットランド生まれのオバハンは、こんなふうに黒人を描きよりました……と「手柄顔」にいってどうなるのか。そう考えてしまうからである。そんなひまがあるなら、ジョージ・オーウェルの『象を撃つ』話をするか、たとえば『クローディアの秘密』のカニグズバーグかて"Black is beautiful"という視点で児童文学、書いてるやないか。今はそこまできてるんでっせ。なんで七十五年前のバンナーマンおばさんにこだわるのや。それはもう、そんな本がありよりましたで……という「文学史」の「資料」として本棚に収めたらどうやね、といいたくなるのだ。
どうしてここで、ジョージ・オーウェルが顔をだすのかというと、バンナーマンおばさんもイギリス植民地主義に関わりがあるし、ジョージ・オーウェルもまた、それを生活の土台にすえざるを得なかった、しかし、二人はおなじような土台の中から、まったく違った生き方を選んだ……と考えられるからである。
 バンナーマンは、「大英帝国」が、各植民地に派遣した「軍隊付き牧師」の娘である。長じて軍医と結婚して、三十年間インドで暮らし……ということは、だれしもが知っていることである。そして三十六歳の時、ぼくが「醜悪な」と考える『ちびくろ・さんぼ』をつくっている。日本では、この原書のかわりに、フランク・ドビアスの挿絵の『ちびくろ・さんぼ』がでまわっているのだが、たとえば渡辺茂男が、「実に七〇年の長きにわたってイギリス、アメリカの幼い子どもたちのみならず、翻訳を通じてほかの国ぐにの子どもたちにも愛読されてきました」(『子どもの館』一九七三−九――「ちびくろ・さんぼ」の評価・その一)というその元にあたる一冊は、このバンナーマン自筆のものである。ちなみに、「イギリス文化センター」から借用した『ちびくろ・さんぼ』(CHATTO & WINDUS,Lonbon、 一九五六年度版)を見てみると、一八九九年出版以来、一九〇〇年、一九〇ニ年、一九〇三年、一九〇五年、一九〇八年、一九〇一年、一九一四年、一九一七年、一九一九年、一九ニニ年、一九ニ四年、一九ニ八年、一九三ニ年、一九三五年、一九三八年、一九四一年、一九四七年、一九四九年、一九五〇年、一九五三年、一九五四年と、第二次世界大戦中のほんのわずかを例外として、だいたい二年から四年前後の間隔で、この原書がコンスタントにでていることがわかる。また、ぼくたち日本の読者はさて置いて、イギリスの子どもは(ドビアスの挿絵の方も見るのかもしれないが)このバンナーマンおばさんの原書の方を「愛読」していることが、おなじこの一冊の、裏にはりつけてある貸出し年月日を見ればよくわかるのだ。つまり、きわめて「醜悪な」姿・形の『ちびくろ・さんぼ』像が、七十余年の長きにわたって、イギリスでは「愛読」されてきたことになる。
 それにしても、「醜悪な」ということは、このバンナーマンおばさんの絵を見なければわからないだろう。「まんぼ」というかあさんが、「さんぼ」に赤い服をつくってやる場面(P・13)。あるいは、表紙の絵になっている「さんぼ」がこうもり傘をさしている絵(P・18)。これは、バンナーマンおばさんがいくら素人だからといっても、ひどすぎるのではなかろうか。故意にとまではいわないとしても、無意識のうちに「醜悪」化した表現である。ぼくは先に、カニグズバーグでさえ「黒は美しい」という発想の作品を書いているのに……といったが、これは、彼女の短篇集"Altogether, One at a Time"(Atheneum,1971)の中の"Momma at the Pearly Gates"を指している。この作品は、島式子さんに教えてもらったのだが、主人公である母親が、教室の黒板を見て、はじめて"black is beautiful"と考えるところがでてくる。物語はもちろんそこから先に進むのだが、カニグズバーグの場合、一貫して黒人の視点で描かれていくのだ。ここには、おなじ「ホワイト」の創作にしても、バンナーマンおばさんのように「醜悪さ」はない。むしろ正反対なのである。
 こういうと、バンナーマンおばさんの絵はさて置いて、物語そのものの「おもしろさ」を評価すべきだ……という異論がないでもない。ストーリイの方が「おもしろい」からこそ、フランク・ドビアスをはじめ、他の画家も別の挿絵をつけたのではないか。おまえさんのように、黒人の描き方だけをもって、そのストーリイまで拒否するのは、すこし「目くじら」を立てすぎではないかね……という考え方である。なるほど、虎が木のまわりをぐるぐるまわって、バターになる……この着想が「おもしろい」というのなら、そういう発想の別の作品を書けばいいのではないか。なにもこの場合、主人公は黒人一家でなければならぬという必然性はないのだ。白人のジムかジョンが、パンケーキを百六十九個食べてもいいわけだ。しかし、バンナーマンおばさんは、白人の子どもではなく、黒人の子ども「さんぼ」がそうするところが「おもしろい」と考えたのであり、百六十九個のパンケーキは「ひどく腹をすかせている」黒人だからこそ食べられたとしているのである。はだしで、腰の布切れだけの黒人が存在する故に、上着、靴、傘を与えられ、また、それを虎にうばわれていく……という物語の展開を考えついたのだろう。ということは、物語の主人公を黒人として思いついた時、バンナーマンおばさんの意識の底には、じぶんたちとは生活状態の違う「人種」意識が、また、生活の「低さ」ということが、じぶんでも気づかずに働いていたのではないか……ということである。つまり、ぼくらが戦前、島田啓三のマンガ『冒険ダン吉』で、「無知蒙昧な黒んぼ」という偏見を抱いたように、また、それ故にこそ「おもしろさ」を感じたように、バンナーマンおばさんの人間認識も、所詮、黒人を「おもしろいお話」の「ふさわしい素材、あるいは対象」くらいにしか考えなかったのではなかろうか。それが先に触れた「醜悪な」絵に集約されているといえないか。ぼくは、ストーリイも絵も、『ちびくろ・さんぼ』の場合、不可分なものとしてある……と考えているのだ。
 こういえばまた、それはそういう時代であった。バンナーマンおばさんは人間解放の闘士ではない。当然、植民地支配時代の大多数のイギリス人の発想と変わらない発想を持っているはずである。その点を、「現代」の人種差別反対の視点で裁断するのは、どだい無理な話やないか……という意見がでるのかもしれない。しかし、それなら、そうした「時代的制約」を受けている作品を、なにも今日、これが子どもの本の「古典」ですぞ……といって、必読図書なみに扱う義理もないはずや……といいたくなるのだ。今日では、アーノルド・ローベルの『ふたりはともだち』(三木卓訳/文化出版局)をはじめてとして、もっと別の形の「たのしさ」を描きだしたものがいくらでもあるからだ。バンナーマンおばさんの本は、十九世紀の人間観の狭さを示す一例として、ぼちぼち児童文学の歴史研究の書棚に収めたらどうなのだろう。七十余年間読みつがれてきた……ということは、七十余年間愛されてきた……ということよりも、七十余年にわたって、ぼくら人間の暗愚さを示すバロメーターだったとはいえないか。
 それにしても、なおかつ「子どもがよろこぶから」という発想は後を引くだろう。そういっても世界中の子どもが「おもしろがってるがな」……という意見はでるだろう。それが「ちびくろ・さんぼをどう見るか」という場合の唯一の規準と考える人はいるだろう。そんならいいますけどね、あんたは「佐藤栄作さんのノーベル平和賞をどないに見るんですか。」と、ぼくはいいたくなる。世界中の人間がそれでええがな。まあ、あの人にやりたいな……というたら、他所の国の人もいうてることやから、ぼくらも佐藤さんは平和に貢献した人やと思うことにしますか。おそらく、少なからずの日本人が、アホラシ、外人は日本のこと、なんにもわかっとらへんな。なんであんなオッサンに平和賞やらんならんね……と思うだろう。すくなくとも、ぼくはそう思う。それといっしょで、どれほど多くの世界の子どもたちが「おもしろい」といっても、醜悪な「さんぼ」の顔形を見て、それに傷つき、憤慨し、「黒は美しい、醜悪ではない」と叫ぶ人間がいる限り、「外側の大多数」は、唯一の規準にならないということである。また、フランク・ドビアスなり他の画家なりが、いかに挿絵だけを描きかえても、それは車のモデル・チェンジとおなじで、排気ガスをだす自動車の本体は少しも変わらないということである。
 ぼくは、はじめにジョージ・オーウェルの名前を持ちだして、そのまま名前を持ちだしっぱなしにしている。ジョージ・オーウェルもまた、バンナーマンおばさんほど古くはないとしても、植民地時代のイギリス人だった。ビルマで警察官となり、やがて作家となった。『象を撃つ』(一九三六)の中では、じぶんの所属する国家への憎しみと、それを背にして植民地の人間に向きあうじぶんのジレンマがよく描かれている。そこには、じぶんとおなじでない人間への罪悪感が漂っている。これは、バンナーマンおばさんには、ついに生れなかった感情だろう。バンナーマンおばさんは植民地で、『象を撃つ』かわりに『ちびくろ・さんぼ』を書いた。じぶんの国家を疑うことも、憎しみをこめて見かえすこともなかった。じぶんの立場は、まずは不動であった。しかし、ジョージ・オーウェルは、支配地の人間を、とてもじゃないが「おもしろいお話の素材」としてなど眺めることはできなかった。じぶんが憎しみをこめて眺められている立場にあることを痛切に感じていた。

 二百年前に生まれていたなら
 私は仕合わせな牧師になっていたかもしれない。
 永遠の宿命について説教したり
 庭のくるみの木の育つのをみたりして。           (鶴見俊輔訳)

 そんなふうにじぶんを語った。牧師になれなかったオーウェルは、警官をやめると、ルンペンの道を選んだ。こうした生き方は、バンナーマンおばさんの時代には考えられなかったことだろう。しかし、今なら、バンナーマンおばさんが生きていたなら、ほんのすこしだけは、わかるのではなかろうか。バンナーマンおばさんは、それでも『ちびくろ・さんぼ』を書くだろうか。それはバンナーマンおばさん自信の決めることである。それはそうだとしても、同時に、ぼくらもまた『ちびくろ・さんぼ』を必要とするかどうか、じぶんで決めなければならないところにきている……。

 (これを書いた前後に、『ちびくろ・さんぼ』についての別の意見を聞いた。それは、絵本の中の虎が植民地支配をめざす大国だという考え方である。大国がなる故に、「ちびくろさんぼ」の持ちものを全部奪いとった。そして、おしまいには、自滅した……という、なかなかおもしろい意見である。このことについては、改めて考えようと思っている。)
(テキストファイル化山下ふみ)