いろいろないろ 

キーピングの一冊の絵本

『子どもの国の太鼓たたき』(上野瞭/すばる書房/1976.08)

           
         
         
         
         
         
         
    
 バイキングみたいにヒゲをはやした魔法使いが、世界中に色のないことを嘆いて、青、黄、赤と交通信号のように色をつくりだし、世界をぬりかえていく話といえば、最近訳出されたアーノルド・ローベルの絵本である。"The Great Blueness and Other Predicaments"と題して『いろいろへんないろのはじまり』(まきたまつこ訳/富山房)となっている。物語の方は、おしまいに、このがんばり屋の魔法使いが、色の配合を発見し、世界は今日見られるごとき多色融合の美しい姿をもつにいたった・・・・・というのだから、「へんないろのはじまり」の方がよくはないのかな・・・・・など、ついお節介なことを考えてしまうのだが、それはどちらだっていい。それよりも、ぼくはこの絵本を眺めていて、ふと思い当たったことが一つあるのだ。それはローベル氏のこの絵本のことではなく、飛躍するようだけど、チャールズ・キーピングの絵本に関することなのである。
 最近、やっとこさ買った絵本だが、"Railway Passage"(1974)というキーピングの作品がある。ぼくの参加している「子どもの本を考える会」で、昨年の暮だったかに、三宅興子さんに見せられたものだが、僕はこれを見た時、そして今、手元に置いて眺めるようになって、ひどくキーピングに親しみを感じだしたのだ。
 食わずぎらいというのではない。それまでも、この画家の卓抜独自な表現力に感心して、"Black Dolly"(1966)以来、"The Spider's Web"(1972)や"Richard"(1973)にいたるまで、およその絵本は買いこんで、人並みに眺めていた時期もあった。しかし、どうしてか、僕はキーピングの絵本というと、この一冊の新しい絵本に出会うまで、感覚的にソリの合わないところがあったといえる。
 ロールシャッハ・テストのような色彩の氾濫。ムンクの『叫び』や『マドンナ』のような崩れそうな人間の表現法。仮りにオーバーな言い方をすれば、キーピングのそうしたものが、僕に拒否反応を引きおこしていたといえばよいか。ぼくは『リチャード』という警察馬の絵本にくるまで、これまた誤解を招きそうな言い方をすると、キーピングの世界は、神経の張りつめた息苦しい世界という先入観が常にあった。
 もちろん、「理屈」をいえば、そこがまったく違ってくる。たとえば、そうした色彩の交錯と氾濫、それに溶解寸前のような線の使用法は、主人公の心理的葛藤ないしは心象風景のユニークな表現・・・・・ということになる。
 "A lie and the Ferryboat"(1968)では、少年がパンティさんを見つけだそうとして、都会の繁華街に到着する場面がそうである。大きな商店は、まるで魔法の城のように見えたとキーピングは記し、それに対応する絵は、具体的な建物を一切描かない。黄と赤と青との抽象的な融合。つまり、少年アルフィが、はじめて大都会を見て、これこそワンダーランドだと息をのんだ驚きと魅せられた思い、その内面の反応を表現するために、色彩の華麗な提示があるというわけである。
 これは『ジョセフの庭』"Joseph's Yard"(1969)における少年の不安と期待の表現、(たとえば、芽をだしたばかりの植物の側にかがみこむ少年の姿)あるいは"Through the Window"(1970)の中の生体組織のようなカーテンの表現、それに"The Garden Shed"(1971)における「ふし穴」とそのむこうの世界のそれにも通じるものだといえる。もちろん、"The Spider's Web(1971)における板壁のすき間にはりめぐらされたクモの巣もれいがいではない。交叉するクモのいとが、それを通して外界を見る主人公の、複雑微妙な気持のほどを巧みに表現している。
 それにしても、ぼくは、キーピングのそうした独自の表現を前にして、なぜ「息苦しいもう一つの世界」などという先入観を持ってきたのだろう。
 アーノルド・ローベルの「色の時代」の絵本によれば、あのヒゲづらの魔法使いは、最初に「青い色」をつくりだした。世界を青一色に人びとが塗りたくった時、そこに生まれてきたのは人間のユーウツである。
「だれもわらわなくなってしまった。そういえば、わしも、なんにちもわらっとらんわい。」
 魔法使いは、気分の沈みきった青の時代を眺めて、別の色の製造に専念する。その結果、かれは「黄色」をつくりだし、人びとはまた別の世界を塗りかえる。しかし、黄色の時代は、人びとの目をちかちかさせ、はては世界中を頭痛持ちでいっぱいにする。魔法使いは、苦心に苦心を重ねて、今度は「赤」をつくりだす。そして、世界は赤一色の時代を迎える。この時代の人びとはおこりっぽくなって、けんかを繰りかえし、おしまいには、魔法使いに石をなげつける。
 ぼくは、この原色の時代を眺めていて、頭痛といらだち、つまり気持が安らぐかわりに不安定にたかぶってくることを知り、それがひるがえって、キーピングにおけるぼくの拒否反応に関わりがあるのではなかと考えたのである。
 たとえば、"Charley, Charlotte and the Golden Canary"(1967)における高層ビルやカナリヤかごの強烈な黄色。あるいは、少女のシルエットを描いた赤の強調。この配色の場面は"Richard"以前の絵本の中に繰りかえし姿をみせるものであり、少年アルフィの物語では、フェリー・ボートの乗客の表(赤の主調)、あるいはバンティさんを発見する場面(黄の主調)、"The Garden Shed"では「のぞき穴」のむこうに見える火と彫像の色、また、"The Spider's Web"におけるクモの糸をすかしてみる日輪というように、キーピングの世界は、ぼくの気持を不安定に追いやる原色の基調を多く含んでいる。
 ダニエル少年が火事を発見する場面では、緑と青の色彩によって、ぼくは不安におびえ(The Garden Shed)、大男が出現した場面では、黄の主張にいらだち(Through the Window)。もちろんこれは、はじめに言ったように、外界を主人公の内面に写った形で把えるやり方だ。キーピングはこの点で、ローベルの描く魔法使いよりも、もっと個性の強い魔法使いだといえるだろう。ぼくは、その呪縛的(?)色彩に反発して、拒否反応をひきおこしていたに違いない。
 さて、"Richard"もそうであったが、ここでは「茶」が基調になってくる。それとともに画面全体に塗りこめられていた色彩による空間支配が割愛され、白い地肌をそのまま構図の一助とする方法が姿をみせる。警察馬リチャードにおいて、ドウナー巡査が馬で歩む場面がそうだったが、この一冊ではさらに空間利用の場面がふえる。
 タイトルバックに使われる街角の空と車道。フットボールの掛け金をおくる六軒長屋(?)の住人たちのシーン。みごと大金をせしめて、住人たちが踊る街頭の場面。ここでは、あの「ふし穴」やカーテンのすき間、それにいた壁の間から外界を「のぞき見る少年たち」の絵本に共通した重苦しい色彩がない。 キーピングは、少年の意識を通して外界を描くことから、外界そのものを描くところまで踏みだしたといえばいいか。とにかく深く暗い水底から水面に顔をだしたようなそんな明るい色調の世界が、"Railway Passage"にはある。
 話は前後したが、物語はこうである。かつて鉄道の走っていた通りに六軒の住宅がある。一軒目にはいえを小奇麗にしているおばあさんが住んでいる。このおばあさんの心配は、ごみすて場で遊ぶ子どもたちのことである。二軒目には一人のじいさんがすんでいる。じいさんはいつも、チャンスさえあれば人生すべて上手くいったのに.....というような文句をこぼしている。このじいさんの家の壁に、キューバ革命に参加して、のちゲリラ活動の中で死んだチェ・ゲバラの肖像画がはってある。これはキーピングの「遊び」なのか、それとも別の意味があるのか、それは問わないとしても、絵本の中に、キーピングが、「社会」あるいは「外的世界」そのものを、こうした形で持ち込んでいるのは印象的である。三軒目の家にすんでいるのは二人のおばさんである。おばさんと言うよりも、ばあさまと言った方がいいのかもしれない。階下に住んでいるばあさまの方は料理を愛していて、雑誌の切抜きなどを壁にはっている。養老年金で暮らしているためだろう、実際にそうした料理を作ったことがない。二階にいるばあさまの方は、サムという名の金魚一匹にかかり切りである。四軒目に住んでいるのは元船員のじいさんである。老犬といっしょに、日がな一日、いすに座りこんで表通りを眺めている。五軒目は夫婦者。だんなの方は、これまた二階で、いつもなけなしの小銭を数えることに専念している。奥さんの方は、美しいドレス類を好んでいるのに、いまだかってそうしたものにお目にかかったことがないほど貧乏である。六軒目は「自転車の王様」など仇名されるおじさん。かれは、むかし「フランス旅行」をしたことがあり、それが唯一の自慢の種である。古い自転車の部分を子どもたちに集めさせ、新品同様に仕上げることを商売にしている。
 この六軒の住人たちが共同してやっていることは、先にも触れたとおりフットボールの掛け金の公平分担である。ある日、この借家人たちに巨大な額の賞金がころがりこむ。そして、六軒の西洋風長屋に変化がおこる。小瀬に数えのあのだんなをのぞいて、借家人たちはそれぞれ、じぶんの借家を買い取る。一軒目のばあさまは、その上、子どものための遊び場をつくってやる。チャンスを夢見ていたじいさんは文句を言わなくなり、ビンゴに金をそそぎはじめる。料理好きのばあさまは、念願の料理づくりに専念してぶくぶく肥えるし、金魚好きのばあさまはばあさまで、金魚をめったやたらと買いこみ、あげくのはては、サムがどれか見分けがつかなくなってしまう。他の住人にもいろいろ変化はあったが、その中で変わることのなかったのは自転車屋だけである。おしまいに近いページで、このおじさんが子どもたちと自転車で走っている姿が描かれる。緑を基調にしたさわやかな場面である。これが賭金をてにいれたあとの"Railway Passage"の人びとの姿である・・・・・・といったしめくくりのページ。ここでもまた、茶と緑を基調にした子どもたちと自転車の絵があり、背景は白い地色のまま残される。
 キーピングのかってのあの重苦しい色彩の氾濫はどこにいったのだろうか。ぼくは繰りかえすようだが、キーピングは、内面的な意識の表現から、人間たちそのものの表現につき抜けた・・・・・・と言いたくなる。キーピングは、この一冊の絵本によって、新しい領域に踏みこんだのではないだろうか。Peeping Tomをもじって「のぞきのチャールズ」と言いたくなるような時代があった。カーテンのすき間から、板壁のすきまから、また「ふし穴」のこちらから、主人公の少年たちに世界をのぞかせていたキーピング。そのキーピングが今、自転車に打ちまたがって、板壁や「ふし穴」の向こうの世界に走りだしていく。キーピングは、もうもどることはないのだろうか。ローベルの魔法使いが、原色の時代とおさらばしたように、キーピングもまた、あの青や黄や赤の時代とおさらばしたのだろうか。ぼくは、この緑や茶を基調にした一冊の絵本を前にしていると、そうした取りとめもないことを考えてしまう。もちろん、こうしたぼくの感想が、あるいはまた、はやりのことば遊び「ジョナサン・シリーズ」の一つと同じでないとは決して言えない。
 一羽のカモメがいました。そのカモメはぐるりと飛びまわると、同じところへもどってきました。さて、このカモメの名前は何と言うのでしょうか。
 言うまでもなく、この答は「カモメノゴクロウサン」である。(テキストファイル化高橋美江)