「黄金狂時代」の楽しさ

『子どもの国の太鼓たたき』(上野瞭/すばる書房/1976.08)

           
         
         
         
         
         
         
    
 シド・フライシュマンの『ぼくのすてきな冒険旅行』(久保田輝男訳/学習研究社)を読むと、今さらながら考えてしまうことが二つある。一つは「冒険物語の不在」ということであり、いま一つは「成長小説の在り方」ということである。
 「冒険物語の不在」ということは、いうまでもなく、現代日本の児童文学の大勢を指している。子どもの頃、ぼくは、胸をときめかせて、南洋一郎の『海洋冒険物語』を読んだ記憶がある。そうした冒険小説が、日本の子どもの本の世界には、今なお定着していないことを感じるのである。もちろん、大仏次郎に『ゆうれい船』があるし、最近では、斎藤惇夫の『グリックの冒険』や『冒険者たち』(アリス館牧新社)がある。探しだせば、谷川俊太郎の『ワッハワッハハイのぼうけん』(講談社)や、中川李枝子の『たんたのたんけん』(学習研究社)といった「冒険物語」と類縁の(?)作品も見つかるかもしれない。しかし、斎藤惇夫が「冒険物語」を目ざすまで、そのほとんどが翻訳作品だったということは、とても気になる事柄である。『トム・ソーヤーの冒険』は古典だからひとまず横に置くとしても、ガネットの『エルマーのぼうけん』、ポール・ギュットの『ムスティクのぼうけん』、トールキンの『ホビットの冒険』と、「冒険物語」として思い浮かぶのは、ほとんどアチラ製である。ここには、マチーセンの『あおいめのこねこ』や、ピアスの『ミノー号の冒険』も含めていい。こうした状況を考えると、日本の児童文学が、いかに重い錨をぶらさげているか、改めて気づくのである。その錨は「社会的問題」と呼んでもいいし、また、「子どもの日常性尊重」といってもよい。いずれにしても、その錨を巻き上げて、(切りすてることではない)もっとひろびろとした空想力の海へ、その発想を船出させてはどうかといいたくなるのである。


 また、「成長小説の在り方」というのは、たとえば、山本周五郎の『赤ひげ診療たん』のような作品を念頭に置いている。原作よりも、テレビで放映された『赤ひげ』を考えればいい。小林桂樹の扮する新出去定と、あおい輝彦の扮する保本登……。一方は常にニガ虫を噛み潰したような深刻な顔をしていたし、片方は常にまなじりをつりあげ怒りをたたえていた。この物語は、長崎帰りの若者保本登が、新出去定に反抗しながらその生き方を教えられ、一人前の人間、真の医師として目ざめていく筋書きだが、どうしてこうも深刻なツラで人間は向きあうのだろう。人間の成長(精神的な面での話だが)には、こんなふうな「まじめさ」が常に必要だというのだろうか。この対立し影響しあう二人の医師は、人間の目ざめは「まじめさ」以外に手はないというばかりに、「笑い」や「楽しさ」から遠くはなれた顔をさらしあっているのだ。深刻であればあるほど、人間の内面的なものは成長するといった考え方……いや、在り方。ぼくは、シド・フライシュマンの『ぼくのすてきな冒険旅行』を読んで、そうではない一つの「成長小説」をここに見た……といいたいのである。
 あらすじを紹介しよう。時は一八四九年一月二七日。「海の猛牛」と仇名された船長によって、レディ・ウイルマ号はボストン港を出帆する。その船に積み込まれたジャガ芋の樽の中に二人の密航者がかくれている。この物語の主人公ジャック(十二才)と、執筆(事?)のプレイズワージである。二人は、没落寸前のアラベラおばさんの生活を救うために、アメリカ東海岸から南アメリカ南端をまわり、西海岸のサンフランシスコへ行こうというのである。チャップリンの映画『黄金狂時代』にも描かれていたが、時はゴールド・ラッシュの時代である。一攫千金の夢を見る金鉱掘りの連中が、おなじ船でサンフランシスコを目ざしている。
 サンフランシスコを含むカリフォルニアで金が発見されたのは、この物語のはじまるちょうど一年前である。話を横滑りさせて、その間の事情を、猿谷要の『現代の幌馬車』(アメリカ考現旅行=朝日新聞社/一九七三)から要約すると、つぎのようになる。
 はじめに砂金を発見したのは、大工のジェームズ・マーシャルという男である。場所は、サンフランシスコからずっと奥地のシェラ・ネバタ山脈のふところコロマという土地。そこにアメリカン川という流れがある。そこから水を引くための溝を掘っていて、この大工は金を発見した。一八四八年一月二四日のことである。彼は、やとい主のサッター(スイス系移民)のもとへそれを持ち帰る。サッターは、金発見を秘密にしておこうとする。その頃、サッターは、金の発見されたあたり一帯に大農園を経営していたからである。しかし、秘密を知った使用人が、まず仕事をほうりだし、金探しに夢中になる。噂はひろがって、続々と人が入りこんでくる。サッターの農園はたちまち踏み荒らされてしまう。サッターは、スイスから長男を呼び寄せ、ワシントンで法律を学ばせる。やがて、カリフォルニアに法律の力が及ぶに至って、「合衆国政府」と七二二一人を告訴する。サッター農園一帯の権利を、法によって守ろうというわけである。一八五五年、サンフランシスコの法廷は、サッターの権利を認める判決を下す。しかし、判決に不満を抱く群衆は、裁判所を焼き払い、サッター農園を略奪し、長男を自殺に追いやる。次男は殺害され、三男は逃亡中に溺死……。サッター自身も乞食同然となり、一八八〇年、ワシントンの議事堂の階段で息を引き取る……。
 ジャックとプレイズワージがサンフランシスコに着くのは、右のサッターの農園が踏み荒らされている時期である。二人が、密航者となった理由は、乗船間際に有り金をぬすまれたからである。密航者への罰として、二人は船底で「かまたき」を命ぜられる。しかし、二人は一計を案じて、泥棒の「むこう傷のヒギンズ」をつかまえる。ヒギンズは、船客の宝の地図をぬすみ、リオで逃亡する。一万五千マイル、五ヶ月にわたる航海を、この物語の「第一部」とするなら、「第二部」は宝探しということになる。ジャックは、冒険にあこがれるふつう少年である。また黒い山高帽に黒い上着、白い手袋にこうもり傘を持ったプレイズワージは、いかにも礼儀正しい紳士である。しかし、二人の生き方は、サンフランシスコ到着と共に、まったく変わっていく。
 石英ジャックスンとの出会い。むこう傷のヒギンズとの再会。強盗団の襲撃。松の木ビリーとの交わり。事件はつぎからつぎへと起こって、二人は上品な人間でいることなど、とうていできなくなる。ジャックは「ジャモカ・ジャック」と呼ばれるようになるし、プレイズワージは「牛むちの大将」と呼ばれるようになる。「ふたりの相棒は、シェラ・ネバタの色にあわせてカメレオンのように自分たちの色をかえた。ふたりは金鉱掘りふうの赤シャツをき、長ぐつをはき、夏の日ざしをよけて、ヘリのひろがった帽子を」かぶるまでになる。なにしろ、そこには、ナンキンムシ村、ウイスキー平、まにあわせ部落、ほらふき村、なま皮村……などといった物騒な男の世界しかない。今までの生活習慣は否応なしにこわされていく。二人は、首吊り町からシャツの尾部落にはいり、ひょんなことで、馬泥棒をやってのけたヒギンズの墓を掘ることになる。そして、すごい金鉱脈を発見する。
 体じゅうに金の袋をさげた二人は、意気揚々と船でサンフランシスコにもどっていく。しかし、接岸寸前に蒸気をたきすぎた船は爆発する。二人は海に投げだされ、腰の金を全部すて、やっとの思いで浮かびあがる。ふりだしにもどって無一文になったジャックに、プレイズワージはいう。「ただの色のついた金属じゃありませんか。なるほど、今はぬれちゃいますが、わたしたちには健康な体があります。まあ、船長がひどく高価な風呂をつかわしたと思やいいです。」
 物語の最後は、波止場で、アラベラおばさんや姉妹にであう場面である。アラベラおばさんは若くて美人である。古い屋敷を売り払い、過去に別れを告げてきたのだと語る。プレイズワージは、それを聞いて、自分もまた、執事であった誇りをすて、過去と別れ、今はただの金鉱掘りであるという。彼のアラベラおばさんに対する結婚申込みである……。
 『ぼくのすてきな冒険旅行』は、はじめからおしまいで、きわめて楽しい物語である。筋書だけではわからないかもしれないが、全体にしゃれた発想に充ちている。たとえば、ヒギンズに有り金をぬすまれた個所では、「ひろい世界へ旅立った」のに、いきなり「世間のせまさを思い知らされ」た……と語られる。そうした「言いまわし」の楽しさに加えて、人間の生き方が状況に応じて変化していく様が生き生きと描かれる。ジャックは、「ジャック坊ちゃま」であることから、ドングリの粉入りコーヒーをすする「ジャモカ・ジャック」になり、やがてただの「ジャック」になる。そこには一人の少年のいわゆる「成長」が刻まれている。また、金に対する貪欲なまでの執着と、それをすべて失ったあとの、なおかつそこにある「人間」への信頼があざやかに描かれる。プレイズワージは、人生の水先案内人である。同時に、自己変革者でもある。しかも、『赤ひげ』の新出去定に見られるあの深刻なしかめっつらは、まったくない。彼は楽しげに難関を切り抜け、楽しげに自分の成功や失敗を眺める。ぼくは、はじめに、改めて二つのことを考えてしまう……と書いたが、この楽天的ともいうべき人間像が、一つのドラマをつくっていることや、人間の「成長小説」になっていることをいっているのである。そうした「楽しさ」を通じて児童文学が、なぜ生まれたのだろうか……ということである。これは、ぼくらが、あまりにも「まじめ」すぎるせいではないだろうか……。(テキストファイル化古川リカ)