今、ぼくの読んでいる本

『生きることの意味』から『ぼんぼん』まで

『子どもの国の太鼓たたき』(上野瞭/すばる書房/1976.08)

           
         
         
         
         
         
         
    
「そうすると、慢性腎炎だといわれたら、死刑の宣告を受けたようなものでしょうか。」
「それは病気の進み方でちがいますが、そんなふうに考えてはいけません。慢性腎炎はなおらないとしても、そのためには死なない。しかし人間はいずれは死ぬわけですから、ほかの病気で死ぬかもしれない。そういうふうに考えればいいのです。つまり慢性腎炎の経過を延ばせばいいのです。」
 これは『からだの読本・1』(暮しの手帖社)の「腎炎」に関する章の一節である。
「最近お読みになった本について、自由にお書きください」というプリントをもらった時、考えこむまでもなく自然にこの本が浮かびあがってきた。最近といえば、この本以外、ぼくは読んでいないのである。たとえば、金井美恵子の『夜になっても遊びつづけろ』(講談社)だの、吉田知子の『猫の目、女の目』(大和書房)といったエッセイ集、あるいは”The Poster Art of Tomi Ungerer" 時には井上ひさしの『いとしのブリジッド・ボルドー』(文藝春秋)などいう本を、思いだしたように拾い読みするのだが、ほんとうは少しも読んでいない自分に気づくのだ。アンゲラーの本は絵だから別にして、この「腎臓」に関する本以外は、みな、ただ活字の集合体に見えてくるのである。まるで意識がもどるように、活字の集合体が、ふと呼吸をする唇の動きに見える時もある。しかし、おおむねぼくは、文字の表面を漂っている。
 こういえば、ここにあげた任意の数冊が、きわめてつまらない本に聞こえるかもしれない。しかし、もちろんぼくは、そんな意味でいっているわけではない。ぼくの方が、実はうんとつまらない人間であって、その上、きわめて狭量で、他人の言葉に耳を傾けようと思いながら、いつのまにか、自分の内側ばかりのぞきこんでいる……ということである。尿にまじって蛋白がおりて、血圧200まであがったぼくとすれば……ちなみに血圧は上限が150、下限が90位だそうだ。それをこえている人間は、多少とも脳出血の可能性がある。それなのに、ぼくの高血圧で上気した顔を見て、お元気そうですなと、しきりに酒をのませようという親切な人もいる。「慢性腎炎でいちばん恐ろしいのは前ぶれもなく急変する」という事実を、無病息災人種は知らないらしい。だから、仕方なく、つきあいでビールなどをすすっているが、どうしても、ぼくは酒族になれない。おなじ死ぬならと、ぼくは「禁じられた」楽しみの煙草とコーヒーに淫しつづけている。できればここに「女性」も付け加えたいところだが、これは日本脳炎以来すこぶる自信がない。とにかく内臓の半分が故障しているぼくとすれば、まっすぐ自分の「命」に関わってくる本を優先的に読むわけだ。それに、自分の内側にだって「本」のかわりをするものがあって、ぼくはその「風景」を眺めるのが好きだ。呼吸する唇であることをやめて、一冊の本がただの活字の集合体になってきた時、ぼくは、きまって自分の中の風景の前に立っている。坂道をバスがくだっていったり、丘の上の白い建物が見えたり、ふいに風を切って特急電車があらわれたりする。そんな風景がぼくの中にある。ぼくは大勢集まった人間ではなく、一人一人向かいあえるくらいの人間関係が好きだから、白い建物のガラス窓のむこうに、また平野を目ざしてがたぴしと丘をくだるバスの座席に、そうした呼吸する人間のやつれた顔や、同じく、自分の内側の風景を眺めている人間の姿を見て、本を読んだ以上の感動を受ける。それは、ぼくの「命」に関わりのある人間が、この世界に存在することを感じるというか、腎臓だって何だっていい、もう少し生きていたいなと思わせるものである。本の話が横にそれたかもしれないが、これもまた、活字こそないが、最近ぼくの読んだ本なのである。
 ところで、「腎臓」に話をもどしていえば、『からだの読本』にはこんなふうにも書いてある。
「その治る治らないの話ですが、慢性腎炎の場合、クスリなり処置なり、どういうふうになさるのでしょうか。」
「積極的になおす方法は、現在はまだないわけです。(中略)まあ、心臓でもおなじことがいえますね。したがって、現在の病気の程度をよく調べて、少しでも悪化しない方向にもっていく、つまり悪化する要素をみんなとって、進行するのを防いで、病気の腎臓に対する負担もへらしてやる、というのが、現在の慢性腎炎の治療です。」
 心細い話である。ぼくの慢性腎炎を発見した(?)医者は、ひたすら無理をするなと繰り返した。「急性増悪」という病気の現象があって、潜在性の場合にもふいに悪化するそうである。これが一番危険だといわれると、ある日、突然そうなりそうな気になってくる。星の数ほどの病歴を誇るぼくなのだが、はじめて病気にかかった時とおなじ恐怖感が湧いてくる。過去の無数の羅病体験は、この「意気地なさ」をはねかえす力にはならない。いや、なっていない。一事が万事という言葉どおり、事は病気だけではなく、ぼくの生き方すべてに、この「もろさ」は及んでいる。
 カッコよく何かを口走り、煙草をくわえて微笑しているぼくは、たぶんに虚像である。実像の方は、どうやら少し先の、煙草屋の角を曲ったあたりに待ち構えている「死」の間近さにうろたえて、ただただ横丁を曲るまでのこの短い時間を、忘れようとつとめているだけなのだ。
 それにしても、ぼくの読んだ一冊の本が、こんな「腎臓」の本や、わが内なる風景読本ではなく、最近の児童文学作品なら「原稿依頼発注主」にも満足してもらえるのだろうが、申し訳ないことながら、ぼくは今、右の二冊を繰りかえし眺めているだけだ。もっともその一冊の本は、Ungerer の Poster Art ほども一般性がない。いわば、私家版の心象風景である。これが、言葉によって形を成し、ぼく以外の読書家にも納得できる日がくるのかどうか、それは解らない。しかし、そうしてみたい気持もあるし、近頃ノートの端に書きつけた「詩らしきもの」のまま終ることも考えられる。どうやら実際の本の方は、それまで、ごろ寝をする時の枕のままに放置されそうである。
 ついでながらいうと、ここ1年以上にわたって、ぼくはごろ寝の枕に4冊の本を使っている。伊藤整『年々の花』、司馬遼太郎『風神の門』、ペーター・ヴァイス『両親との別れ』、1番上のフケや髪のよごれなどの付着する本が、ジョージ・オーウェルの『右であれ左であれ、わが祖国』である。この4冊を枕に目を閉じると、比較的仮眠できるからふしぎだ。もし、この話から不安にかられる人がいると悪いからいっておくが、いまだかって、ぼくは児童文学書をこんなふうに使ったことはない。なぜなら、それでは安心して眠りこめないからである。(テキストファイル化山口雅子)