映像の中の『夫婦』

『子どもの国の太鼓たたき』(上野瞭/すばる書房/1976.08)

           
         
         
         
         
         
         
    


 こういう夫婦が登場した。夫、四十二才。妻、四十才。ぼやくように語るのは、主にダンナの方である。
 ・・・・・・テレビを見ていて、きれいな人が出てくるでしょう。それで、あの人きれいな人やな、いうたら、それであきませんね。パチンとテレビを消してしまいますね。いや、それだけやありませんわ。女の人を見ていて、あの人ボインや、いうたら、そんなの見んでもええ、ボインならこれ見い、そういうてじぶんのやつ見せよりますね。前にストリップを見にいきましたら、なんでそんなもん見るのや、そんなとこいかんでも、うちで見られる、いうて、子どもがいるのに、じぶんのを見せますね。ほんまにもう、トイレまでいっしょについてきますし、勤め先に、若い女の事務員がいるとわかったら、それだけで何もないのに、うまいことわたしをだまして、その会社を辞めさしますね。
 これは、視聴者参加番組の一つ『仁鶴・たか子の夫婦往来』(毎日放送テレビ/土曜夜10時30分〜11時)の一駒である(一九七四・一〇・十九放映)。一つ・・・・・・というのは、「視聴者参加番組」は、何もこの種の「インタビュー形式」のものとは限らないからである。『アップ・ダウン・クイズ』のような「クイズ形式」。あるいは『素人のど自慢』のような「芸能披露形式」もそこに含まれる。そうした他形式の「視聴者参加番組」に比べ、「インタビュー形式」のそれが抜群に「おもしろい」のは、そこに一見、人間の「生きざま」があるように思えるからであろう。
 たとえば、「クイズ形式」のそれにしろ、「芸能披露形式」のそれにしろ、そこで発揮されるものは、いってみれば、人間の「さかしさ」である。「さかしさ」ということばが悪ければ、人間の部分的能力の優越性といいかえてもいい。卓抜の記憶力、あるいは直感力、それに予測をこえた歌唱力や技能性、それらが関係番組の中心になっている。それに反し、「インタビュー形式」のそれは、傑出した能力(?)を競うというよりも、そうした能力を持っているかもしれない人間の予想外の「愚かさ」、あるいは「悲しさ」「滑稽さ」といったものが中心になっている。
 はじめに例示した四十二才のダンナは、いわゆる「大工」である。たぶん、建築技術や建築関係知識の面では、人後におちないほどのベテランに違いない。ところが、右の発言でもわかるように、その「専門職」としての能力が、そこではまったく顔をだしていないのだ。いうならば「やきもち焼き」のオクサンに閉口しきった姿だけが出ているのだ。もちろん、この「閉口の仕方」の中には、ただの困惑というより、多少の「のろけ」の気配がないでもない。いってみれば「大工」という「専門職」を持った男が、それによっても解決しない人間関係を持っていること、あるいは、そうした特別の技術や知識が何ものでもないことを示す「生きざま」をしていることが、そこにはある。
 こうした「インタビュー形式」の番組に対して、わたしは、抜群に「おもしろい・・・・・・」ということばを使ったが、視聴者であるわたしたちにとって、その「おもしろい」ということは、たぶん、つぎのようなことだろう。特定の職業や社会的位置を占める人間が、その職業、年令、性別、趣味趣好、あるいは社会的地位や評価、時には国籍に関わりなく、一見「裸にされている」おかしさ、あるいは、人間そのものの「愚かさ」を示すことが「おもしろい」のだろう。すくなくとも、わたしにとって、「インタビュー形式」の番組は、そうした点で、他形式の「視聴者参加番組」よりも、ずっと深い関心をかきたてる。
 それにしても、なぜ『夫婦往来』といった「インタビュー番組」の一例からはじめたのだろう。仮りに「民俗としてのテレビ」という問題を考えるなら、つぎのような例でもよかったと思うのだ。
 それは、テレビが、今日の人間生活のサイクルを変えつつあるということである。それをひとまず「区切る」発想と呼んでおこう。「区切る」発想とは、たとえばこういうことである。
 わたしは、京都に住んでいる。いってみれば、京都生まれの京都育ちである。こうしたいわゆる「京都人」の行事に、「六道(ろくどう)参り」というのがある。「六道参り」は「お盆」の季節に行なわれる。
「六道」とは、六道珍皇寺のことである。「京都人」は、この寺を「六道さん」と呼んでいる。清水寺へむかう坂道を(清水坂を)、清水寺ではなく反対方向へ下った一角に、禅宗のこの寺はある。むかし、小野篁(たかむら)が、死んだ母親にあうため、六道の辻の井戸からあの世へいった・・・・・・という伝説。この寺は、その伝説と関わりがあるとされている。
 寺内には、この篁像や閻魔大王像を安置した堂、地獄極楽図絵を展示する小さな建物もある。その中で、「六道さんにお参りする」といえば、この珍皇寺の「鐘つき」をすることを指している。「鐘つき」といっても、吊鐘を、吊された太い撞木で打つのではない。鐘は、四方を壁で囲まれたお堂の中に安置されている。その壁の正面に、ほんの小窓程度あいた穴から、太い網のはしがのぞいている。「京都人」は、いよいよ「お盆」がくるという一日、この「ひも」を引きにいくのである。「ひも」を引くと、堂内で鐘が鳴る。家人の引くこの鐘の音を聞きつけて、その家の御先祖や死者が、あの世から現世にもどってくるのである。
 いうまでもなく、この精霊たちは、「お盆」が終ると、あの世へ再度旅立っていく。この旅立ちの「目じるし」が「送り火」である。つまり「大文字」である。近年、「送り火」は、夏の京都の観光行事となり、新聞その他に「大文字焼き」などということばで紹介されることが多くなったが、これはあくまで「山焼き」ではなく、「大文字をとぼす」というべきだろう。
 しかし、ここで問題なのは、「大文字」でも「お精霊(しょらい)迎え」のあり方でもない。「六道参り」を持ちだしたのは、それが、かつて、「京都人」なら「京都人」の一つの生活の「区切り方」であった(あるいは、あっただろう)・・・・・・ということである。民俗学の規定に従って、「ハレ」と「ケ」という生活の区別の立て方を持ちだすまでもなく、京都の習俗でいうなら、「六道さん」が、人間生活のサイクルの「区切り目」をつくっていた。ところが、今日では、テレビが、その「六道さん」に取ってかわっている。別の「区切り目」となっているということである。
 たとえば、「七五三詣(もうで)」「十三まいり」「祇園さん」(祇園祭)という「民俗」が、かつて一年というサイクルの「区切り目」であったのに対し、テレビはきわめて細分化した形で、人間生活の今日の「区切り目」をつくっている。それは、一年というような悠長な時間的発想ではない。微視的というか、一週間、あるいは二十四時間単位で、人間の生活サイクルを「区切って」いく。
「月曜日は、NHKの『花ぐるま』があるから夜の外出はしない」「火曜日。きょうは『どてらい男(やつ)』がある」「木曜日、『ローラー・ゲーム』のある日」「日曜日、『勝海舟』のあと『日曜洋画劇場』を見よう」・・・・・・こうした発想が、わたしたちの日常を支配するようになっている。ということは、一週間のテレビ番組が、わたしたちの生活サイクルをつくりだしているということである。時には、二十四時間単位の生活サイクルをさえ生みだしているということは、「朝、『鳩子の海』と『モーニング・ジャンボ』を見て、さあ、それから洗濯。」と考え、「昼は『ワイド・ショー』と『ごちそう』のあと、学校の役員会に出席」と決め、「夜は『イレブンPM』の時、つくろいものをしよう」と予定を組むことである。
 テレビは、そんなふうに、わたしたちの一週間、あるいは一日を「区切る」発想を育てている。
 こうした在り方こそ「民俗としてのテレビ」という時、考えられることである。それを、たとえば「インタビュー形式」の一番組にしぼることは、どのような意味があるのか。
 私は、『仁鶴・たか子の夫婦往来』からはじめたが、これはかならずしも、この一番組に限定して「テレビ」を考えようとしているのではない。
 これ以外にも「インタビュー形式」のこの種の番組は、多数ある。未婚者の「出会い」をお膳立てする『パンチDEデート』(桂三枝・西川きよし司会)。『プロポーズ大作戦』(西川きよし・横山やすし司会・桂きん枝担当)。恋愛関係成立後の男女に、その恋のプロセスを語らせる『ただいま恋愛中』(笑福亭仁鶴・西川やすし司会)。新婚生活にはいったばかりの男女を「提供」する『新婚さん、いらっしゃーい』(桂三枝・梓みちよ司会)。それに、結婚生活の比較的持続度の高いペアーを中心にした『夫婦善哉』(ミヤコ蝶々司会)。また『おもろい夫婦』(鳳啓助・京唄子司会)。これに、『おやじ万才』(西条凡児司会)や『日本一のおかあさん』(萩本欽一司会)を加えてもいいだろう。
 わたしは、これら「インタビュー形式」の番組すべてを、『夫婦往来』の背景に置いて考えているのである。つまり、人間の「出会い」から「結婚」の様態、あるいは「再婚」の斡旋(『おもろい夫婦』の場合)から「親としての苦労」までを「提供」するその「見える人生」という発想、「見ることのできる人間関係」の一例として右の番組に触れているのである。そこに人間の「生きざま」があるように思えるから、「おもしろい」・・・・・・と先にいったが、この「おもしろさ」とは何だろう。視聴者としてのわたしは、何をおもしろがっているのだろう。
 はっきりいって、これは「のぞき見」の楽しさということにはならないだろうか。かつて「出歯亀」ということばが「のぞき魔」ということばと等質で使われた時代があった。それはハレンチな変質的行為として、批難された。しかし、今日の「インタビュー番組」を見ていると、どこかでそれは、その「のぞき見」的行為に思えてならないのである。相当に勇気を要するハレンチな行為が、「公認」された形で「茶の間」に登場する。週刊誌の発生・展開に即応して一つの市民権を得たといえばいいか、きわめて猥雑な話、また恥部的な他人の「私生活」を、わたしたちは今日楽しむことに何のためらいもなくなっているのである。たとえば、つぎのような話もそうだろう。
 はじめに「大工」を専門職にしている夫婦の例をあげたから、同業者のもう一組を紹介するとつぎのようになる。
 夫、三十九才。妻、三十五才。この夫婦がこもごもに語るところを整理するとこんなふうになる。ダンナは酒好きの上に、無類の女好きでもある。近所では「夜の校長」という尊称(?)さえ受けている。旅行にでかけるとかならず「女遊び」をする。そこで、オクサンの方が「病気予防」のため衛生具を用意してやる。(司会者の仁鶴が、オクサンのこの配慮に対して、そんなこと許せますのか・・・・・・と口をはさむ。するとオクサンは笑っていう。「ええ、それ使うてますさけ、別にきたないこともあらしません。」)オクサンは、ダンナが、どんなふうに「女遊び」をしてきたのか、それを聞くのが楽しみになっている。それをネタにして、以後三日くらい、ダンナをいびるわけである。ところが、ダンナの方が、「素人さん」に手を出した。御近所の未亡人宅から朝帰りをした。オクサンは激怒してハサミを握りしめ、ダンナを刺そうとした。「結婚して十三年目に殺されかけましたわ」ダンナもオクサンも、そういいながら笑っているのである。
 これなどは、相当きわどい話である。「戦前」ならば、他人にいうをはばかる体の内容である。それを「公開」の席上で堂々と披れきする夫婦。それを「笑い」ながら見るわたしたち。この「見せる側」(正確には「語る側」だろう)と「見る側」(聞く側)には、暗黙のうちに猥雑を楽しむ関係ができあがっている。もし、そういういい方が許されるなら、「恥部をのぞかせる楽しみ」と、「恥部をのぞく楽しみ」といいなおしてもいい。これは、遺制的タブーに対して、わたしたち現代人が、多少なりとも「開放」されたことのあかしだろうか。それとも反対に、わたしたちの人間感覚が下降したことのしるしだろうか。わたしは、こうした「関係」が、そのどちらをも少しずつ含みながら、実は、お互いの人間そのものは、少しも「見せていない」こと、また、「見せよう」とも「見たい」とも思っていない・・・・・・ということを考えてしまうのだ。
「恥部をさらける(ように見せる)側」は、いったい、そうした「私生活」を語ることによって、何を求めているのだろう。一口でいえば、それはたぶん「合槌」だろう。司会者、臨場者、視聴者、つまりは「公衆」によって、「現在のじぶん」の在り方を確認され、それが愚痴であれ自慢話であれ、そのまま受け入れられることだろう。
 じぶんが、「幸あるいは不幸」の状態でそんなふうに生きていること、それが「人生」であるし、それでいいのだという暗黙の了承を取りつけることである。先の二つの「夫婦例」にもどっていえば、他人から見れば多少奇妙な人間関係の組み方だが、わたしたちはこんなふうに暮らしています。こんな夫婦もあっていいでしょう・・・・・・という「合槌」を求める発想になる。
 これは、批判あるいは生活の変更を求めることを拒否する姿勢といってもいい。ともかく「現状」の理解と承認のみを求める姿勢である。およそ、人間ないし人間関係の組み方は、常に検討され向上しうる可能性を持っている・・・・・・などいってみても、そうした「生活の在り方」の追求心そのものが迷惑だという発想である。今ある「じぶん」そのものが、また、「じぶん」と相手の関係が、そのまま認められなければならない。
「合槌」の発想とは、そんなふうに人間の在り方の可能性に戸を立てるものである。「やきもち焼き」のオクサンを持ったダンナの話。ダンナの「女遊び」を楽しむオクサンの話。これらに対して、司会者は「目くじら」を立てない。臨場者も視聴者も、そんな夫婦関係は異常だと、批難の声をあげない。反対に、多少ひんしゅくする顔をしても、それを笑いながら受け入れる。「笑い」を誘うということ、「笑われる」ということ、これこそ出場者夫婦にとって、じぶんたちの人間(ないし人間関係の組み方)を承認されたことになる。こうした「インタビュー形式」の番組では、「笑い」こそ視聴者の了承のサインである。出場者夫婦は、じぶんたちの「生きざま」が笑われたことによって安心する。社会内で承認されたと思う。極端ないい方をすれば、「見られる側」(「見せる側」)は、じぶんの「恥部」をさらけることによって、じぶんたちの「生存理由」を確保しているわけである。
 一方、そうした「滑稽」な夫婦を「見る側」はどうなのだろう。それら異質の(?)生活を「のぞき見」することによって、何を入手しているのだろうか。いうまでもなく、「見る側」にもまた、「見せる側」とは別の意味で「合槌」の発想があるのだ。その「合槌」は、じぶんとは異質の「生きざま」をする夫婦の承認ということだけではなく、じぶん自身への承認の意味がこめられている。なんという愚かなダンナとオクサンであろう。なんとばかばかしい出来事に一喜一憂する夫婦だろう。そう思うことによって(それを笑いながら見ることによって)、改めて、じぶんとじぶんの配偶者の関係に安心するわけである。
 それは、時には理解者や同情者の立場をとった反応である場合もあろう。しかし、おおむね、じぶんたちの優越感のあらわれとしての「合槌」である。じぶんたちは、あんなにまでばかばかしくはない。確かに恥ずべきこともやるが、あれほどまでではない。またたとえ、出場者夫婦とさほど違わない愚行を繰りかえしているとしても、それを「公衆」の面前で「さらけだす」ほど愚かではない。出場者夫婦に比べたなら、じぶんたちはまだましだ「まし」な方だ・・・・・・という納得の仕方である。つまり、視聴者側の「合槌」は、他人の愚かさを承認することによって、同時に、じぶんの愚かさの承認(あるいは保障)につながっているということだ。
 もちろん、「のぞき見」の楽しさ・・・・・・ということには、右のような「合槌」の発想があるだけではない。「結婚」「離婚」「情事」といった他人のゴシップへの関心で「週刊誌時代」が成立している以上、テレビでの「のぞき見」にもゴシップ的憧れはある。それはたぶん「代理人生」あるいは「代理人的人生」とも呼ぶべきものだろう。
 わたしたちは、今ここにあるじぶんの人生しか生きられない。そして、たぶんこの唯一の生き方のむこうで「死」と出会うだろう。しかし、なぜ、人生とは、かくのごとく変更や差し替えのきかないものなのだろうか。もし別様の「生」を生き抜くことができるなら、どれほどすばらしいことか。こうした願望は、人類発生以来、常に人間の関心になってきた。別に『ファウスト』を持ちだすまでもなく、わたしの関わっている児童文学の世界にも多数の例が見られる。たとえば、ネスビットの『砂の妖精』がそうだし、フィリパ・ピアスの『トムは真夜中の庭で』がそうである。一度しか生きえない人生だからこそ、二度も三度も生き直すことに対する願望。今ある暮らししかできないから、これではない別の人生を持ちたい願い。こうした願望が、常にその実現を求めて疼きつづけている。
 しかし、実際に不可能な話を、どうして充足すればいいのか。ここに、テレビなり週刊誌なりを媒介にした「代理人生」体験がクローズ・アップされる。人は、自分の生きえない別様の人生を、「読む」こと「見る」こと、あるいは「聞く」ことによって慰めようとする。しかも、この「代理的人生」の体験は、じぶんが傷つくことなく楽しめる点で、もっとも安全な「人生体験」ともいえる。たとえ、それがわずか三〇分の短い「他人の人生」にせよ、人生はこういうものだけではなく、そういうものでもあるのだ・・・・・・という理解。それは視聴者の日常の狭い「枠」をひろげる。時には、じぶんの「生きざま」の狭苦しさに小さな穴をあける。いってみれば、これは一種の疑似脱出だろう。
 それにしても、「インタビュー形式」のさまざまな「生きざま」の紹介は、別様の人生の楽しさを知ることだけに終るわけではない。それが、「滑稽」であればあるほど、そうした別様の人生が、じぶんたちの人生とは五十歩百歩のものであることを知って、視聴者の内にくすぶる「現状脱出」の願望の火を弱める役割も果すのだ。
 つまり、「見る」楽しみの中には、日常性からの「擬似脱出」のそれと、じぶんの日常性を安堵するという「擬似平穏」の働きがある。現状否定願望と現状肯定願望、この矛盾しあった要素が同居している。
 それではこうした対立願望が、どうして併存できるだろう。わたしは先に、「インタビュー形式」の中の人間(ないし人間関係)が、人間そのものを「見せていない」「見せない」(視聴者の側でいえば、「見たいと思わない」)・・・・・・と記したが、そのことと、この矛盾の併存は関係がある。
 建築に関わる二組の夫婦例を、相当にきわどい内容のものだとして持ちだしたが、果してその「きわどさ」とはどのようなものであっただろう。それを口にすることによって、その夫婦関係は解体しただろうか。また、視聴者の側からいえば、それを聞くことによって、じぶんの従来の生活様式あるいは人生観が一変しただろうか。「見せる側」「見る側」両者にわたって、そこに何一つ変化のなかったことは、これまで述べてきたとおりである。つまり、テレビを真中にはさんで対した両者の「現在」は、何一つゆすぶられることはなかった。
 ということは、テレビの中の夫婦の「人生告白」が、「恥部をさらける」ように見えながら、実は、じぶんたちの「現在」そのものを打ちのめすほどの深く激しい何かに触れていないということだろう。別のことばでいえば、出場者夫婦は、「見せられるもの」「見せていいもの」を見せているのであって(いや、語っているのであって)、それがとりも直さず、視聴者の側からいえば、「見たいもの」「見てもいいもの」「見ようとするもの」(つまり、聞きたいこと)と合致しているということだろう。
 合致するもの・・・・・・それはいうまでもなく、両者の「現在」の「生きざま」をそのまま保障する内容の話・・・・・・ということである。話はどれほど突飛でも猥雑でもいい。要は話し手と聞き手の両者を、不安に突き落し、根底からゆすぶるものでなければいい。
 どのように奇態に見えても、また、どのような悲劇的内容であっても、それによって今のじぶんたちの「生き甲斐」の足をすくうものでなければ許される。つまり、話し手も聞き手も、じぶんたちの在り方を問い直さずに済むものなら、どれほど異常に見える体験の告白でも「語りうる」し、また「受け入れる」姿勢があるということである。
 繰りかえすようだが、「インタビュー形式」の中の人間の「生きざま」は、右のような限界を持っている。それを、「おもしろい」と受け取ることの中には、じぶんを傷つけずにすむ「代理体験」の楽しさがある。それは「見たいもの」だけを「見よう」とする発想、いいかえるなら、じぶんの「生きざま」を根底から問いつめない姿勢である。わたしたちは、そういう「揚げ底」の「人生の哀歓」を「人生」として受け取ることを好み、視覚化できる範囲の「恥部」で、「人生」の諸層を「見た」と思いこみがちになっている。テレビの「インタビュー形式」の番組は、その典型的な一例である。
 しかし、「見たいもの」「見ることのできるもの」(あるいは「見せたいもの」「見せてもいいもの」)がそこにある以上、当然、「見えないもの」「見たくないもの」がブラウン管の裏側にひそんでいるはずである。それは、じぶんたちが暗黙の了解のうちに「人生」そのものと思いこんでいるものを、そうではないと告げるものだろう。たとえば、そうした現状肯定の発想では把握できない「おのれ自身」の不合理性、あるいは「死」を見つめて生きねばならないその「生」の一回性の事実だろう。
 わたしたちは、その冷厳な事実に打ちのめされることを恐れ、あたかもそれを忘れ去ろうとするかのように、きょうも「おもしろい」他人の「生きざま」を眺める。
 夫、三十一才、航空会社勤務。妻、二十七才。結婚前、別の航空会社に勤務。恋愛期間中、妻の家にこっそり訪ねていき、階下の親に知られないために、二階で小便をする。大便は、ビニールの袋を用意していき、それに用を足して田圃に投げる・・・・・・。(一九七四・一〇・十九放映)
 夫、二十九才。タクシー運転手。妻、二十四才。夫、飲む打つ買うの三拍子揃った男。この二年間、月に二、三万しか金を入れない。それはまさに家賃だけの金額である。それ以外のサラリーは、競馬に消費。おまけに他所に女性をつくり、若干の小遣いをもらって帰る。時には特級酒をもらってくることもある。「ほんまに腹が立って、割ってしまおかと思ったことあるんですけど、割ったらまた買うてこんならんし、そんなお金ないし・・・・・・・・・」と語る妻。(一九七四・八・三放映)
 わたしは、そうした「告白」を聞くたびに、そんならどうして別れへんのやろ、そんなの別れてしまえ・・・・・・といいそうになったものだ。しかし、もし、本気でそういえるものなら、日本の離婚率は想像を絶する数になっていたことだろう。第一、『夫婦往来』のような「インタビュー番組」は、決して生まれることもなかっただろう。それは確かに「揚げ底」の人生紹介に違いないとしても、それ故にこそ、たぶん、数え切れないほどの日本の夫婦関係を、その破局の一歩手前で「救済」する役割を果してきたことも、また確かなのである。(テキストファイル化長谷野沙織