ねずみのフレデリック=映像文化の中の絵本の位置

上野瞭
『ネバーランドの発想』(上野瞭 すばる書房 1974.07.01)

           
         
         
         
         
         
         
    
 レオ・レオニが好きなんや‥‥‥といったとき、今江祥智は、ヘエーといった声を出しました。
 絵本に関しては、二家言も二家言(?)も持っているこの作家は、どうも、わたしとこの絵本作家が結びつきかねるという顔つきでした。
 現に彼は、わたしにふさわしい嫁えらびでもするように、トミー・アンゲラーの絵本をドサッとダースで貸してくれ、わたしはわたしで、その一冊一冊を、試験監督をやりながら丹念に読んでいたのです。
 おもしろい人だということは、好きな人だということにはなりません。
 ロナルド・サールのように、ぞっこん参ってしまう場合もありますが、卜ミー・アンゲラーの場合は、比較的冷静に眺めました。どうしてこの絵本作家とわたしが共鳴すると判断したのか、今江祥智の嫁えらびの規準を考え直してみたりしました。
 もちろん、ブラック・ユーモアという共通鍵の問題もあります。しかし、彼が、トミー・アンゲラーを推す一つの理由として、「ひげ」という要素があったのではないでしょうか。アンゲラーは、りっぱなひげをはえしています。今江祥智も、似合いのひげをはえしています。ゲバラも、カストロも、ひげをはえしています。彼の家には、このひげづらの革命家の写真があって、年中、葉巻のようなものをくわえています。まことに、ひげは、この時代にふさわしく……と、ここまで考えて、いゃ、こうした外見による判断こそ、ここで、わたしが考えようとする「映像文化」的発想ではないかとひょいと、首をすくめたしだいです。
 わたしは、レオ・レオニの『フレデリック』のことを書くつもりであって、それの姉妹篇ともいうべき『アレキサンダーとねじまきネズミ』や、また、すこぶる反戦プロパガンダ的な「アルファベットの木』のことは、ひとまず、横に置いていたのです。
 では、なぜ『フレデリック』だけをピック・アップしたのか……。

 ひとことでいえば、野ネズミ『フレデリック「は、今日の」映像文化」と呼ばれるものに、もののみごとに尻を向けているということです。いや、尻を向けているというよりも、今日の「映像文化」的発想に、この絵本は暗黙の反措定となっていることです。
 こういえは、いったい、「映像文化」なるものを、どう考えているのか……と問われそうですから、まず、そのことから触れてみます。
 「映像文化」というとき、わたしは、反射的に、ボールペンのコマーシャルを思い浮べてしまうのです。「みえる、みえる、みえる」という例の「出歯亀」的発想です。
 たとえば、航空機が山に激突します。すると、たちまち、その遭難の模様は「映像化」され、わたしたちの前に「提供」されるのです。散乱する機体の破片。出動する救助隊。つぎには、柩の前に泣き崩れる遺族の姿が写されて、わたしたちは、それを見ることによって、機械文明のもろさ、人間のはかなさを「みえる」と思いこむのです。
 一株々主が、株主総会に「怨」の文字をかかげて腕をふるわせる姿。夜間中学の現状を訴えるドキュメンタリー。ここでも、わたしたちは、水俣病の苦しみを、また、差別された教育の実情を、「みえる」ものとして把えます。つまり、「みえる」ものこそ「確かなもの」であり、その「確かさ」に触れることこそ、そこで提示された問題を「知ったこと」になると思いこむのです。
 もちろん、これは、「映像文化」の視聴者の側の錯覚をいっているにすぎませんが、しかし、こうした錯覚が成立するには、その前提として、「映像文化」の送り手・作り手の方に、すべての出来事は「視覚化しうる」というオプティミズムがあるはずです。
 かりに、それを、無意識なる「可視性の神話」と名づけると、わたしたちは、あらたなる神話の時代に生きていることになります。「目にみえるもの」が、ただひとつの「確かさ」だという「可視的なるもの」への大いなる依存です。この依存度は、個人によっては多少の差があると思いますが、少くとも「みること」は「知ること」であり、「知ること」は「納得したことである」……という発想の点で共通しているのではないでしょうか。
 もし、この「納得」というコトパが、つぎつぎに「提供」される世界の今日の出来事を、真に「自分自身の内なる問題」として受けとめること意味するなら、わたしたちは、昨日とおなじく、今日を過ごせるでしょうか。その重みと痛みと苦しみに、たちどころに、押しひしがれてしまうのではないでしょうか。押しひしがれないまでも、人類はあげて、わたし以上の胃潰瘍になってしまうでしょう。
 ということは、わたしたちは「みること」によって「知った」とはいいながら、ほんとうは、「知っていない」ということであり、「みること」によって、他人や他国や人間の苦悩を理解したことに「している」ということなのです。

 古い奴だとお思いでしょうが……というのは、『傷だらけの人生』の鶴田浩二のセリフです。それをもじっていうわけでもありませんが、わたしは、ふと、古い話を思い出してしまいました。
 サン・マルコの広場で出あった奇妙な男。
 いうまでもなく、1896年、トーマス・マンの描いた『幻滅』の中のあの男です。
 男は、若者をつかまえて語ります。
 詩人はコトバの貧しさを嘆くが、どうしてどうして、コトバは貧しいどころか、「わたし」の中に、実像よりも豊かな世界を作りあげてくれた。火事というコトバから生みだされる恐怖の大きさ。失恋というコトバから連想する激しい苦痛。あるいは、海というコトパのつくりだす無限のひろがり。この壮大な虚像の世界が、実際の火事、実際の失恋、実際の海を知ったとき、どうなったか。実像のそのあまりの有限性ゆえに、幻滅を呼びおこした……と、語るのです。
 死は恐ろしいといわれています。しかし、すでに幻滅を知った「わたし」は、死に臨んで、これが死というものだったのか、そう思うでしょう。男は、そう結んで、若者の前を立ち去っていくのです。 
 まったく、古い話になりますが、わたしは、この短篇を読んだときの感動を、あざやかに覚えているのです。幻滅を語るこの男の中に、無限のイメージのひろがりがあって、それが、激しく息づいていることを感じたのです。
 いかにも「活字文化」の世代的ドラマです。しかし今、ひるがえって、「映像文化」の「可視的理解」の仕方を考えるとき、わたしたちは、この男ほど、内なる実感を持っているだろうか。そう考えてしまうのです。
もちろん、この男が、今日のように、すべての事柄を「目にみえるもの」として与えられる状況にいたなら、このような幻滅は起こりえなかったでしょう。
 「映像文化」は、それほどまでに、個人のイメージのはばたきを規制し、一切のものを先取りして「形」を与えているからです。育児から料理まで、結婚から離婚まで、また、戦争から飢餓や反戦まで、「目にみえるもの」として、「かくなるもの」と具象化して「提供」しているのです。わたしたちは、内なるイメージの世界で、葛藤を組み立てようとしても、「映像文化」は、それを駆け足で追い抜く形で、つぎつぎ葛藤を組み立てていきます。まさに、息つくひまもないほどの性急さで、パターン化したドラマの放映されることが、それです。
 わたしたちは、サン・マルコの広場にあらわれた『幻滅』の男よりも、この点で、幸せなのか、不幸なのか。
 映像として「形」を与えられたものを、なぞればいい点では、いたって気楽だとはいえますが、自分自身のイメージの世界を喪失しつつある点では、あの男とは違った意味で不幸なのではないでしょうか。
 いずれにしても、「目にみえる」よろこびや悲しみが、今日では拡散し、磨滅しつつあるところから、「目にみえる」確かな虚像の世界に寄りかかろうとするのでしょうが、果して「目にみえるもの」が、ほんとうに「確かさ」を含んでいるものかどうか……。

 『フレデリック』の話が、横にそれてしまいましたが、脇道ついでに、もう少し、「可視性の神話」のことに触れたいのです。
 ボールペンのコマーシャルが、いみじくも、今日の「映像文化」の本質を、端的に規定しているといいましたが、映像による「映像文化」への痛烈な否定が、ないわけでもありません。
 ミケランジェロ・アントニオーニの映画『ブロウ・アップ』(邦題『欲望』)は、その一つの試みであったように思うのです。主人公は、この「可視的なる時代」にふさわしく、プロのカメラマン。彼は、カメラを通して、この人生が、また、人間が、鋭く把えられると考えています。
 たまたま、公園の片隅で、ひそかに逢い引きをする一組の男女に遭遇し、主人公は、ハッスルして、それを撮りまくります。やがて、フィルムを現像し、焼き付けたとき、写真の女の視線が、男の肩ごしに、公園の片隅の茂みを凝視していることに気付くのです。女の視線をたどって、茂みの一角を調べる主人公は、そこに、かすかに写っている何かを発見します。彼は、その部分を、ブロウ・アップ(引き伸し)し、ピストルの銃口のようでもあるし、ただの木ぎれでもあるような黒い突起物をみつけます。しかし、それは、何一つ、「目にみえる」あの確かさを伝えません。一切の事象は、「可視的である」という主人公の信念はぐらつきます。
 深夜、自動車を駆って、公園に急ぐカメラマン。この主人公は、そこに、死体を発見するのです。しかし、改めて、確認のため公園に出かけたときには、死体はおろか、人影一つない公園があるだけなのです。スタジオの、証拠のフィルムも、焼き付けた写真も、何一つ、残っていません。
 夜明けの芝生にたたずむカメラマン。その前に、自動車に鈴なりにぶらさがったパーティ帰りらしい一群の男女があらわれるのです。みな、仮装舞踏会よろしく、仮面をかぶっています。この一群の男女は、カメラマンの前で、車から降りると、ラケットも、ポールも、何もなしで、テニスをはじめます。真剣に、見えないポールを目で追う仮面の男女。ラスト・シーンはあるはずのないネットをこえて、ポールが、カメラマンの足もとに飛んでくる……といった視線の集中を、主人公は浴びるわけです。もちろん、ポールの影さえありません。しかし、長いためらいの後、カメラマンは、あるはずのないポールをひろいあげる動作をし、それを、仮面の一団に投げかえすしぐさをするのです。再びはじまる奇妙なテニス。カメラは、ぐんぐん後退して、主人公のカメラマンを、上空から豆粒のように写します。しかし、つぎの瞬間、そのカメラマンの姿も消えて、みどり一色の芝生の俯瞰図となり、エンド・マークが浮びあがってくるのです。
 あれは、死体だったのだろうか。写真に写っていたのは、銃口だったのだろうか。そうした疑問さえ打ち消す形で、はたして、カメラマンは存在したのだろうか……という不安のうちに終るドラマ。この映画のおもしろさは、そうした不条理な節書の展開もさることながら、この確かな「目にみえる」世界が、エンド・マークと共に、一転して、不可視な世界に変貌することです。
 「目にみえるもの」こそ、唯一の「確かさ」だという、今日の「映像文化」のオプティミズムが、もののみごとに否定されることです。
 わたしたちは、期せずして、ボールペンのコマーシャルに向きあってしまいます。そして、ここから飛躍していえば、わたしは、説明的な、可視的な、それだけを唯一の価値として通用させる 「文化」状況に、お尻を向ける『フレデリック』に、つい、うれしくなって、一票も投じたくなってしまうのです。

 野ネズミ「フレデリック」は、一見、物臭太郎ふうに坐りこんでいます。
 仲間の野ネズミたちが、冬ごもりの仕度に、せっせ、せっせと、エサを運んでいるというのに、目をなかば閉じて、背をまるめているこのおおどかさ。せっかちな連帯主義者なら、たちどころに、労動の価値を論じ、共同作業の意義を説教するところでしょう。しかし、仲間のこの野ネズミたちも、ひどく寛容であって、いっしょに、トウモロコシを運べ……などとは、いささかも、口をとがらしません。
 どうして働かないんだい……と、質問することはあっても、同一目標に同一行動をと、目をいからす、どこかのマイナー・ポエットとは大違いです。
 「目にみえる」ことだけを、唯一の「確かさ」と考える人間には、及びもつかないことでしょうが、フレデリックは、ぼくだって働いているんだよ……と答えるのです。つまり、フレデリックは、太陽の光を集め、花々の色を吸収し、目にみえぬコトバの数々を収集しているのです。
 もちろん、収集というよりは、醸成という方がふさわしく、光、色、コトバというよりも、あたたかさと、うつくしさ、それに、たのしさを内にふくらませている……といった方が、いいかもしれません。しかし、ここで、わたしが、『フレデリック』を持ち出しているのは、この野ネズミの収集物を検討するためではなく、こうした「不可視なるもの」の価値が、「可視的なる」トウモロコシや、エサ運びという労働と等質に、いや、それら以上に描き出されることによって、結果、今日の「可視的文化」に向きあっていることをいいたいためなのです。
 「目にみえるもの」だけを、「確かさ」として生きるわたしたちの日常に、『フレデリック』は、「目にみえないもの」の「確かさ」を伝えてくれます。
これは、一歩間違うと、抽象的なるものを重視する形而上学におちこんだり、また、寺山修司が、「見えないものだけを見ようとする」と批判した『星の王子さま』になりかねないのですが、わたしが、ここで、『フレデリック』を通じていいたいことは、つぎのようなことなのです。
 「みえる」はずのものが、「みえない」ままに放置されていてもいいのだろうか。「みなけれはならないもの」を、「目にみえない」からといって、「目にみえるもの」よりも無視していてもいいのだろうか。いや、「みえる」「みえない」と、舌のひっつれそうな理屈をいうより、わたしは、座頭市のセリフを代置した方がいいのかもしれません。目あきというものは、不自由なものでござんすね……と。座頭市ならたぶん、この「フレデリック」の労働と価値が、多少、バター臭くても納得できるような気がするのです。
 さて、ここまで書いて、いっこうに、絵本一般まで話の及ばないことを、わたしは、困惑した顔で眺めているのです。しかし、ながながと「映像文化」のことに触れてきた以上、わたしが、絵本の、説明的世界の拡大再生産に、文句をつけていることは明らかではないかと思います。また、なぜ、レオ・レオニの『スイミー』や『せかいいちおおきなうち』を、あるいは『アルファベットの木』を持ち出さなかったか、そのことも、それとなく推測できるはずです。
 それにしても、レオ・レオニといえば、『あおくんときいろちゃん』があるではないか……と、森の石松のように、いらいらしているあなた。そう、あの『あおくんときいろちゃん』の原書が、「世界の子ども絵本展」で、あっというまに売り切れたことを、わたしも、また考えないではありません。いみじくも今江祥智は、この本を指して、これはな、レオ・レオニの「色の道おしえます」やぞ……といいました。まさか、大人が、レオニによって「色の道」を学び直そうということもありますまいが、いやいや、まてよ、テレビのシロクロに食傷すると、それもまた、ありうるのかもしれないぞ、とまたまた、わたしは首をかしげているところなのです。なにしろ、「目にみえるもの」よりも、「目にみえないもの」を、とつとつと語ってきたわたしですから、これは考えなければなりません……。

テキストファイル化佐藤明子