パーマンの発想

上野瞭
『ネバーランドの発想』(上野瞭 すばる書房 1974.07.01)

           
         
         
         
         
         
         
    


「ありふれた町の、ありふれたある日、ありふれた少年が、まったく、ぐうぜんに」変なスーパーマンに出会う。これが、藤子不二雄の漫画『パーマン』の発端である。『パーマン』は、1967年(昭42)、『週刊少年サンデー』に連載された。(1970年、「虫プロ」から出版される)藤子不二雄は、いうまでもなく『オバケのQ太郎』(1964年、『少年サンデー』連載)の生みの親である。
 変なスーパーマンというのは、遠い星から地球へやってきたのに、じぶんの地球訪問の使命など忘れはてて、草むらで昼寝をしているから、そういうのである。スーパーマンの目的は、「正義の味方」を地球につくることである。スーパーマンほど超能力は発揮できないにしても、それに、ほぼ近い超人の資格を与えること。そこで、スーパーマンの「スー」を抜いて、「パーマン」とそれを名づける。地球の子どもの中から「きびしい資格検査」でパーマンを選ぶことになっている。ところが、これは「タテマエ」であって、スーパーマンはそのタテマエどおりパーマンを選出しない。寝すごしたから、つい手近にいた子どもで間にあわそうというのが「ホンネ」である。きわめてずぼらな「正義の味方」だが、ここに一つのおもしろさがある。
 かつての『月光仮面』(1958年)から今日の『仮面ライダー』まで、ずいぶん「正義の味方」はつくられてきた。しかし、そのほとんどが「反ずぼら」である。「まじめ主義」といってもいい。絶対、昼寝をしたり行き当たりばったりに「正義の味方」を決めたりはしない。一貫して「正義の味方らしく」行動している。「らしく」というのは、一つのタテマエがあって、それに人間のあり方をはめこんでいく発想である。裏がえしにすれば、「ねばならない」の思想ともいえる。子どもは「子どもらしく」あら「ねばならない」という考え方である。この「らしく」の規準が、何によっているかは一つの問題である。「正義の味方」にもどっていえば、その多くは、常に不変不動のヒーローであった。かりそめにも「らしくない」態度や行動はとらなかった。これは「正義」というものを、一つの固定観念としてとらえていることである。
 「正義」は、もともとそうした固定観念ではない。人間の行為に即して判定される相対的価値である。歴史は、過去において「正義」だったものが、いかにその時代や状況の規制を受けたものだったかを、よく教えている。「世のため人のため」にしたことが、じつは国家的利益のためだったということもある。ナチズムの反ユダヤ思想はその一例である。一つのタテマエとして「正義」を想定しておき、それをホンネ(例えば、国家的規模の人種差別)にむすびつける。ホンネの正当化のために利用する。こうしたことは無数にあった。もちろん、これは、「正義」だけの問題ではない。個々の人間を超えて想定されるタテマエとしての固定観念は、常に利用される、ということである。「正義」にもどっていえば、それは、人間のホンネの中で確かめるべき価値の一つである。人間に先行すべき何ものかではない。多くの子どものヒーローは、この点を無視して、常につぎのように主張してきた。人間よりも何よりも「正義」である。人間のあり方を考える前に、人間は「正義」を承認すべし、と。人間のあり方において探るべき価値を人間を超えてある価値として、無条件に承認させる発想である。
 この点、『パーマン』のスーパーマンは、人間的である。昼寝をしようが、でたらめに仲間を選択しようが、それによって「正義の味方」の資格を失うこともない。いったん、事件が起こればその時じぶんの行為が、そのまま「正義」の発動になるだろう、という発想がある。行為を通してしか「正義」は確認できないということにもむすびついている。
 しかし、この変なスーパーマンの場合、地球上で、「正義」を実証してみせることはなかったのである。昼寝が終ると、そそくさと空とぶ円盤にのって、おのれの星へ帰っていく。「正義の味方」は、パーマンの手にゆだねられたのである。パーマン1号は、須羽ミツ夫。2号は、動物園の小ザル。3号は、パー子。4号は、大阪弁を使うパーやん。じつに奇妙な「正義の味方」である。
 だれだって一度は、パーマンとは、クルクルパー・マンと思いたくなる。この連想にふさわしく、パーマン1号のミツ夫は、勉強はきらいで、おまけに、教室でオシッコを洩らすこともやってのけるのである。しかし、ここで考えたいのは、漫画『パーマン』におけるこの「ふざけたおもしろさ」のことではない。まったくナンセンスにはじまるこの漫画の中に、子どもだけではなく、大人を含む人間の願望の原型が、なかなかみごとにとらえられていることをいいたいのである。それは、つぎのような点である。




 スーパーマンは、パーマンたちに、仮面とマントを与えていく。それにもう一つ、コピー・ロボットを各自に一つずつ与えていく。その効用は、つぎのとおりである。仮面をつければ、正体がわからないだけではなく、普段の六六〇〇倍の力が出ること。マントを羽おれば、空をとべること。コピー・ロボットは、本人の代理である。はなの先を指で押すと、押した本人そっくりに変わる。本人がパーマンとして活躍中、家族やまわりのものからその不在を疑われないですむことだ。留守中の出来事を知りたければ、このコピー・ロボットのおでこに、じぶんのそれをくっつけるだけでいい。すべては、きちんとパーマンの頭にはいるしかけになっている。
 主人公のミツ夫は、しばしば、このコピー・ロボットを利用する。「正義のためのパトロール」といって、コピー・ロボットに宿題を押しつけ、自由に空をとびまわるのだ。コピー・ロボットの方も時には抵抗して、宿題のかわりに「おばQ」の漫画を描いておいたりする。こうした「おもしろさ」を横すべりさせていえば、この漫画には、現代の子どもの状況が裏がえしにした形で、よくあらわされているということである。子どもの状況とは、ほんとうに遊ぶためには、じぶんが二人いなければ間にあわないくらい時間の余裕がない、ということである。
 『日本人の生活時間・1970』(1971・NHK放送世論調査所)という本に「行動別平均時間量」という付表がついている。それでみると、小学校上級から中学生にかけての「休養時間」や「余暇の時間」は、平日で、計一時間十七分。日曜で、やっと三時間五分になる。その「余暇の時間」に、子どもの遊びをするのは、平日で、一日のうち三十分、日曜で、やっと一時間一分ということになる。「学習時間」の方は、学校の授業や行事をのぞいても、「休養」「余暇」のほぼ二倍。平日で二時間十六分、日曜で一時間五十九分、勉強をしていることになる。平日にせよ、休日にせよ、現代の子どもは、学習塾や自宅学習などで、「遊び」をはるかに上まわる時間を費やしているわけである。この「生活時間」調査は、子どものそうした「遊びの時間」の余裕のなさを示している。それと同時に、こうした調査を必要とするほど、現代人が「時間」に分割されて生きていることを示している。人間が、自由に、じぶんの時間を使用するのではなく、時間が、人間生活を分割支配しているということである。「忙しい」ということばが、あいさつことばとして使用されるのは、この自律できる時間量の減少に関係している。人は、仕事で忙しいという時、仕事における熱中度より、その労働時間が、のっぴきならない形で、じぶんの自由をしばりあげていることを語っている。時間の支配から抜けだせないじぶん。これは子どもでもおなじである。宿題や勉強にしばられることは、必要な作業に対する苦痛感よりも、じぶんが、その時間をどうすることもできないこと、一定の枠づけされた人間である・・・・というその苦痛感の方が強いのである。
 なぜ、こんな生活しか送れないのか。こんなじぶんでしかありえないのか。別の人生、別の生き方をするじぶんがあってもいいはずである。この疑問、この束縛からの脱出願望は、何も子どもだけのものではない。大人を含めて人間全体に関わる疑問であり、願望である。
 『パーマン』におけるコピー・ロボットの発想は、その願望に形を与えている。分身をつくりだすことによって、同時に、二つの生活を持つことである。二つの人生を送ろうというのである。パーマンは子どもだから、二つの人生とは、勉強と「遊び」にわかれる。これはそのまま、人間の義務と自由、労働と解放、といった二つのあり方に関わってくる。二つのあり方は、ないまぜに人間の生活に融合されているという。しかし、いつも、人間は、その自由や解放が、義務と労働に包みこまれていることを感じているのだ。そうした苦痛を受け入れなければならない現実のあることを知っているのだ。この苦痛は、現在だけのものではない。過去においても、人間をとらえていた苦痛である。たぶん、人間が、差し替えのきかない一回限りの有限的存在である限り、未来においても、人間を苦しめるだろう。人間は決して同時に二つの生き方をできないのである。
 『パーマン』には、コピー・ロボットに示された分身願望のほかに、仮面によるじぶんの立場の超越、怪力の獲得、空をとぶ資格の入手といった形で、つぎの願望が含まれている。変身願望。超能力保持への願望。空間移動への願望である。この三つの願いは、もともと、一つの根から生まれた人間の欲求のあらわれで、分身願望ともかたく結びついている。
 変身願望の、児童文学での例をあげれば、ハウフの『隊商』(1826)がある。砂漠を横切る隊商の列に、セリム・バルークという一人の男がはいりこむ。そして、「コウノトリになったカリフの話」をする。そのコウノトリになろうというカリフの中に、人間の、じぶん以外のものになりたいという願望がよく示されている。またコウノトリになれば、鳥のことばを理解できるというしくみになっているが、これも、超能力願望の一つの形だろう。ハウフの作品は、『千夜一夜物語』の発想を受けついでいる。アンデルセンもまた、『千夜一夜物語』にヒントを得て、一つの作品を書いた。
 『パーマン』のマントが実現させる人間の空をとぶ願望。アンデルセンはそれを、『空とぶカバン』(1839)の形で描いてみせた。こうした人間の願望を集大成した物語としては、イーディス・ネズビットの『砂の妖精』(1902)がある。ネズビットは、五人の子どもたちの、さまざまな願い事を、この中でかなえてみせた。空をとぶことも、すごい力を持つことも、変身することも、すべて含んでいた。このことは、現代の子ども漫画にある発想が、漫画だけのものではなかったこと、いいかえれば、『千夜一夜物語』のむかしから、空とぶじゅうたんや、魔法のランプという形で、洋の東西、時代を問わず、存在した願望であることを告げてくれる。ちなみにいえば『千夜一夜物語』は、本来、大人の物語であるし、子どもに先立って、大人の方に、空をとぶ願望や、変身、超能力への願望があったことになりはしないか。そう受けとれないでもないが、この点は、大人、子どもを問わず人間全体の願いであった。そう受けとった方が納得できる。たとえば、アラジンの魔法のランプは、ランプをこすることによって巨人を出現させる。そうすることによって、分身に超能力を発揮させる。じぶん(主人公)は、そうした分身を支配できることで、従来のじぶんではない、という変身の願望をもみたしているのである。
 分身願望といい、変身といい、それは、空とぶ願望や超能力願望と同根の発想である。わたしは先にそういったわけだが、それは、どういうことなのか。つぎに、その点にふれる必要がある。




 『パーマン』のコピー・ロボットについてつぎのようにいった。一人の人間が、同時に二つの人生を持つ願望である・・・・・。しかし、じつは、人間の欲求はそれほど有限なものではない。人間は、じぶんが有限な存在であることを知っているから、逆にその欲求は無限のひろがりを持つ。そういうものである。同時に二つの人生を体験したい、ということは、ほんとうは、二つ以上の人生を生き抜いてみたい、ということである。無限に多様な人生を送りたいというその夢につながっている。空とぶ発想は、そこに一つの形を与える。人間のその願望を「空間旅行」の形で満足させよう、というのである。一瞬のうちに、A点からB点へ移動できる。その「不思議な道具」(じゅうたん、カバン、その他、いろいろある)によって、人間の固定された生活状況をうちこわし、別の状況に、人間を移行させるのである。これは別の形の人生を生きたいという願いを、居住地変更の形でとらえたものである。いうまでもなく、ここに「時間旅行」の発想も加わっていく。時代の制約をこえて、人は生きてみたいのである。
 変身は、じぶんが、じぶん以外のものに変わることだった。超能力願望も、じぶんが、じぶん以上の何かになることである。コピー・ロボットの分身願望も、空とぶ願いも、じつはすべて、じぶんが、今のじぶんであることを抜けだす発想とむすびついている。今のじぶんを抜けだす発想は、多様な人生を体験したいという、有限な人間の、その生存条件の自覚に発しているのである。人はだれしも、この願いに無関係ではない。
 藤子不二雄の『パーマン』は、無意識のうちにもせよ、人間のこの潜在する願望に形を与えた。しかし、これは子ども漫画である。そこには、大人の中にいきづく願望の形象化があるとしても、同時に、子ども独自の立場に関わるものがあるはずである。それは何か。ここに数えあげた願望の反対の立場に、今、子どもが置かれている、ということである。とべない。力がない。変わることができない。忙しくてあそべない。願望をうらがえしにすると、弱々しい子どもの実像が浮ぶ。勉強。宿題。家事手伝い。大人の一方的子ども理解。いくつかの圧力が、すぐに数えられる。とりわけ、子どもを弱者の位置に追いこみ、六六〇〇倍の怪力にあこがれさせるものは大人の立場だろう。
 大人がいかに子どもをとらえているか。これはこれだけで一つの主題になる。ここでは、『パーマン』にみられるように、子どもが現状況の中から別の人生を生きたがっていること、そのことだけを指摘すればいい。こうした願望の形象化が、子どもの漫画の世界にあるということは、とりもなおさず、「閉じこめられている子ども」の状況があるということであり、そうした状況形成の主役は、なんといっても大人である、ということだ。大人は、子どもを「いい子」にしようとして、いろいろ子どもに制約をつける。そのことによって、抑圧されているのは、子どもだけではない。じつは、人間の中にひそんでいる、さまざまな生き方への可能性、あるいは、願望の形で示される、人間の自由への欲求なのである。子どもを制約することの中には、大人が、じぶんの内なる可能性と自由への欲求をしばることも含まれていることに気づく必要がある。
 これが、現代の児童学の出発点でもある。

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