『日本のプー横丁』(上野瞭 光村図書出版株式会社 1985/12/24)

第五章 「教訓」

 イーヨーの手元に、毎年忘れた頃にねずみ色の封筒が送られてくる。今年も九月の末にそれが舞い込んだ。
「著作権使用料計算書」と印刷された一枚の明細書である。送り主は「アート音楽出版」、業務代行は「新興楽譜出版社」となっている。
 ひどくものものしいけれど、要するに、今年の上半期は、これだけの回数あなたのものを使いましたという報告である。ついてはこれだけの使用料を送りますからと金額も明示されている。使用回数十八回、税引き四千二百六十六円が、今年、イーヨーの手元に送られてきた。
 半年で四千円だから、イーヨーが作詞家専業ならとっくに一家心中をしているところである。幸いに、イーヨーは作詞家ではない。片手間に作詞家を開業した覚えもない。それにもかかわらず、レコード使用四回、テープ使用三回、出版九回、レコード放送・演奏各一回の「著作権者」であるということは、どういうことなのか。ある日、偶然そうなってしまったとしかいいようがない。
 フォークの岩井です……と名乗る人から電話のかかってきたのは、一九七二年(昭四七)の十一月である。
 …どこからどう説明したらいいのかわかりませんが、あなたは加川良というフォーク・シンガーを御存知でしょうか。
 イーヨーはもちろん「御存知」ない。
 …実は、彼が、あなたの書かれたものを、結果として無断で使っておりまして。それもまったく悪意がなく、反対に、書かれたものに共鳴して、それでうたっていたのですが、もちろん悪意がなくっても、結果としては良くないことで。
 イーヨーは、じぶんの何を使われたのか、その時まったくわからなかった。第一に、他人(ひと)さまに使われるようなものを書いた覚えさえなかった。
 …ところが、それを今度、畠山みどりがうたうことになりまして、そうなると、じぶんだけが好きでうたっていることとは事情が違いまして、とにかく一度お会いして、おわびすると同時に、どうすればいいか、御相談もいたしたいので。
 イーヨーは、畠山みどりの名前は知っていた。「恋をしましょう、恋をしよう、恋は神代の昔から……」とうたうその歌手をテレビで見たことがあった。ヒット曲が続かなかったせいか、ふとめのその歌手は、それ以後ブラウン管にあらわれなくなっていた。
 電話によれば、だから再起を計って、彼女がフォーク・ソングをうたう決心をしたのだという。いや、実は、もうレコーディングも終って、ドーナツ盤でイーヨーの歌(?)をうたっているのだという。
 「狐につままれた」とは、こういう場合の言葉ではないかとイーヨーは思った。
 フォークといえば、イーヨーの理解は限定されている。
 『腰まで泥まみれ』をうたう高石ともや。『バッドマン』をうたう岡林信康。『主婦のブルース』の中川五郎。三人を見つめた円山音楽堂や同志社の学生会館が浮かぶ。この三人を知ったのは、これらの歌手の熱狂的な支持者、今江祥智のせいである。イーヨーは、「早射ちのトラー」こと「日本のプーさん」である今江祥智ほど熱狂しなかったが、それは冷静だったということではない。手放しで肩入れするには、その頃イーヨーは、あまりにも暗い泥沼に腰をとられていたということにすぎない。笑おうとしても顔がひきつる状態というものがある。イーヨーがまさにそれだったといっても、誇張にはならないだろう。しかし、「顔をひきつらせた」イーヨーの話も、「トラーにしてプー」である今江祥智の話も、まだまだずっとあとの章で語ることである。ここではそれなりに、イーヨーが三人のフォーク・シンガーをみつめていた事実だけを記しておけばいい。その頃「社会新報」の編集部にいた池上徳三に、この三人の歌手の「フォークとの関わり」を書いてもらってはどうか……とイーヨーは話した。池上徳三は、三人の歌を聞き、今江祥智に会い、三人と話し、やがて『フォークは未来を開く』(社会新報・一九六九)が生まれた。イーヨーがそれに関わった痕跡はまったくない。原稿のできた段階で、どのような本にするかと、池上徳三と、茶房「わびすけ」で話し合った記憶だけが残っている。ちなみに、池上徳三はこのあと「社会新報」をおんでている。長い沈黙のあと、一九七七年(昭五二)第三回「問題小説新人賞」、第十六回「オール読物推理小説新人賞」の二賞を受け、作家・島野一(はじめ)として新たな道を歩みだしている。イーヨーの机の横に、「徳さん」こと島野一の長編推理小説『風紋の歳月』(太陽企画出版・一九八一)が載っている。風紋の歳月は、何も小説のなかにだけ刻まれるものではない。
 しかし、話をもとへもどそう。
 一九七二年十二月一日は、ひどい雪になった。音もなく、屋根に、ヒマラヤ杉に、ぼたん雪が舞い降りた。そのなかを夜になって、岩井、加川の両氏がきた。
 話によれば、梅田の地下で、身障者のためにボランティア活動を続けている人がいて、パンフを売っていた。それを一部買ったところ、イーヨーの書いたものが載っていたというのである。加川良は、これは歌になると思った。うたってみたいと思った。かくして、フォーク・ソング『教訓1』が生まれ、それは、シンガー・ソング・ライターとしての加川良を人びとに知らしめることになった……。
 窓の外に雪は降り続けていた。イーヨーはそれを見ながら、何をどういえばいいのかわからなかった。本来ならば、まず原作者の承諾をもらい、それなりにきちんと手続きを踏んで、それからうたうべきなのでしょうが、それが今日まで、こちらの怠慢で、まったく何一つ連絡もせず……という「おわび」の言葉を、窓の外の雪の音のように聞いていた。
 イーヨーは、その歌を聞いたことがなかった。くわしい事情を聞いても仕方がないという気持ちになっていた。現に一人の若い歌手がうたっている。うたうことで自分の生き方を確かめようとしている。それがたまたま、イーヨーの書いたものであった。それだけのことなら、事後承諾で十分である。
 「しかし、それだけじゃないんです。実は、その原詞者の名前も、どこから採ったということも明記せず、彼のオリジナルとして、作詞のほうも登録されていて……」
 イーヨーは、自分が誰かから「盗作」されるような「もの書き」とは夢にも思わなかった。
 それは考えられないことだった。
 「たとえそうだとしても、曲をつけたのはあなたでしょ。書き言葉と歌は違いますよ。ぼくが、いくらいい言葉を書きつらねたとしても、それは活字となって特定の読者にとどくだけや。歌は異質の文化ですよ。ま、これからは、ぼくのどこそこより採った……という一行を、入れておけばいいだけやないのかな」
 雪は降りやまなかった。
 岩井、加川の両氏が帰った後、二人の置いていった1枚のLPをイーヨーは眺めた。URCレコード発売の一九七一年製作のそのジャケットには、明るい陽ざしのもと、まばらな木立を背景に、走る若ものの姿があった。右肩に、「教訓・加川良」と印刷されていた。

  命はひとつ 人生は一回
  だから 命を すてないようにネ
  あわてると つい フラフラと
  御国のためなのと 言われるとネ

 その頃、ステレオもプレーヤーも持っていなかったイーヨーも、今は人並みに小さな機械を持っている。バンジョーの音を背景に、低く高く、嘆くようにうたうフォーク・シンガーの声を聞くことができる。それが、イーヨーの書いた『ちょっとかわった人生論』(三一書房・一九六七)の中の、「戦争について」の「教訓ソノ一」をアレンジしたものだとよくわかる。それが、どれほど受けいられた歌なのか、どんなふうに人びとのあいだを駆け抜けていったのか、イーヨーにはわからない。わかっているのは、そのつぎの年から、冒頭に記したねずみ色の封筒が年二回、舞い込むようになったということだけである。
 イーヨーは、歌とじぶんとの関わりを書こうとして「ねずみ色の封筒」の話を持ちだしているのではない。それを見るたびに、「教訓」付きの「人生論」を書いた一時期の、自分を眺めてしまうということをいいたいのである。それは、「人生論」に先だって、おなじ新書版で書いた長編小説(?)『空は深くて暗かった』(三一書房・一九六五)に結びついていく。先の章で、「パンドラの箱を開いたように」と書いたが(第三章参照)、これら二冊の作品は、まさにその時期のものなのである。プー横丁から遠く離れて、その頃、イーヨーがどれほど手足をばたつかせていたことか。
 人は、水のない平地でも溺死しうるものなのである。充満した大気のなかでも呼吸困難に陥るものなのである。プー横丁の岸辺は見えず、そこにたどりつくことさえ忘れたイーヨーが、ただ深海に沈まないためにだけ手足で目に見えない水を叩いている。だれが救助信号を聞きつけたか。イーヨーの一挙手一投足は、まぎれもなく「SOS」も発信であったのに、だれもそれに気づかなかった。いや、気づいていたとしても、イーヨーを救出することはできなかっただろう。人生での遭難は、遭難者みずからがクレバスから這いあがらない限り蘇生することは不可能だからである。書くことも、歩きまわることも、話すことも、そのための「あがき」である場合がある。遭難者は、それを認めようとしないかもしれない。しかし、結果としてそういうことがある。イーヨーは、意識していたか、いなかったか。突然の人間の死に直面したイーヨーは(第三章参照)、じぶんの死を拒否するならば、ともかく歩きださないわけにはいかなかった。

 暗い道だった。一九六二年(昭三七)十二月のある夜、イーヨーと西光義敞は、その道を探し探し加藤秀俊氏の家に向かった。
 西光義敞は、僧侶であると共に、イーヨーの同僚である。その頃、イーヨーの勤めていた学校で宗教を担当していると共に、ロジャースの考えるカウンセリングに共鳴していた。
 「親鸞上人の教えに基づいた宗教教育」、「伝統ある野球の名門」というのがイーヨーたちの学園である。イーヨーは偶然この「名門校」に勤めるようになったのだが、勤めて少し経つまで、学園の標榜する二大特色をまったく知らなかった。野球に至ってはルールさえ知らず、おかげでこの学園を去るまで一度も甲子園へ高校野球の応援にいかなかった。イーヨーが、阪神タイガースに興味を持ちだしたのは五十歳を越えてからである。
 学園には、校長、教頭とは別に、相当なる発言権を持つ二人の古参教員がいた。体育と数学の担当教員である二人は、紅潮、教頭とともにこの学園の古い卒業生だった。母校に舞いもどった古参は、二十年、三十年にわたって教鞭をとり、その「教え子」たちは、長じて教員となり、つぎつぎおなじく学園に舞いもどってきていた。中堅、新任の半数は、教壇に立つ教員であると共に、古参の前では昔ながらの「教え子」だった。古参は「教え子」教員たちを呼び捨てにし、「教え子」教員たちも、古参の手足となって動くことをさほど不自然に感じなかった。「親藩」「譜代」にあたるこの教員グループは、独自の親睦組織を持っていた。その酒の席で、「旧子弟」が懐古談にふけるだけではなく、時には学園の在り方、「外様」教員の下馬評をやることを、イーヨーはだいぶ経ってから知った。
 学園の基本方針は、厳しく、より厳しく、生徒の服装や頭髪を規制することだった。それが建学精神を発揚することにつながり、生徒の非行化防止に役立つと、古参たちは堅く信じていた。のちに生活指導と名をかえたが、学園の中心は、長い間「補導係」にあった。「補導」の教員たちの名前は、生徒たちのあいだで常に「おそれ」と「おびえ」をもって語られていた。
 だれも悪人はいなかった。古参も「教え子」教員たちも、一人一人話し合ってみると、それぞれに癖はあるものの、気のいい人びとだった。とりわけ、古参は人情家で、学園を、「勤務先」と考えるよりも、「わが故郷」として心から愛していた。
 しかし、『歎異抄』の言葉を待つまでもなく、この善意がどれほどの息苦しさをうむものか、古参たちは考えたことがあるだろうか。「古兵・新兵」といった「軍隊的序列」にも似た「子弟関係」が支える「愛校心」。「出身者・非出身者」という徳川時代を連想させるような別組織が生きている「宗教学園」。それが有形無形に学園の雰囲気を形成し、教室にはねかえっていかなかったといえば嘘になるだろう。
 もちろん、これは、イーヨーの勤めていた学園の話だけではないのかもしれない。政治家に派閥があり、様々な職場に学閥・閨閥があるように、「ファミリー」の発想は、人のいくところすべてに息づいているものかもしれない。帰属することは人を安心させる。ただの個人であることほど人を不安に陥れるものはない。その意味で、人が何かに帰属しようとすることを責めることはできないだろう。問題は、じぶんの帰属集団を絶対視することにある。あるいは、帰属意識と価値観を混同し、そうしたじぶんや、じぶんの帰属集団を冷静に眺め返す目を喪うことにある。

 話が、ひどく横にそれた感じがしないでもない。しかし、イーヨーの所属した(帰属ではない)学園を語ることは、イーヨーの児童文学と関わっている。のちにイーヨーは、『ちょんまげ手まり歌』(理論者・一九六八)を書く。この物語は、右に粗描した学園での体験なしには生まれなかったものである。学園は、物語の土壌であり発酵母体だった。誰が藤巻玄蕃さまなのか、?之助なのか。それを語るには、学園の粗描ではすまなくなるだろう。
 今、イーヨーは、同僚の西光義敞と、京福電鉄の駅をあとにして加藤秀俊氏の家に向かっているところなのである。
 西光義敞も、イーヨーとは違って鬱屈した思いを抱いている。力で規律を保とうとする学園_空気に、憤懣やる方ない気持ちを抱いている。「生徒の話を聞く。ただ聞くだけでいい。それだけでいいから」と職員会議のたびに発言し、かすかな嘲笑と異端を見る目を向けられている。学園内でだめなら、「外」に話し合いの場を持つことによって、鬱屈しがちなじぶんを立て直そうと考えたとしても、すこしもおかしくはない。たとえイーヨーの落ち込んだクレバスと、西光義敞の落ち込んだクレバスが別のものだったとしても、「落ちこんでいること」に変わりはない。だれかに話すことによって、それぞれの閉塞状態から抜け出したいという点では一致する。だれか……という時、たまたま二人が加藤秀俊氏を思い浮かべたというのは、二人がそれまでに、氏の『文化』(平凡社・一九五七)を読んでそのその独自の視点に注目していたということ、とりわけ加藤氏が、その頃同じ京都に住んでいたということによる。その一冊は、当時、軽視冷遇されがちな「週刊誌」読者大衆に焦点を当てることにより、その後の二十余年かけて、イーヨーたちの国に定着する「文化の在りよう」をみごとに指摘したものだった。
 これについて、リースマンやライト・ミルズやフロムの書物をあげ、また先例としてのアメリカ大衆文化を持ちだし、モデルがあっての文化論だという指摘があるかもしれない。しかし、加藤氏がアメリカ文化のなかにモデルを読み取るまでに、そしてそれを、日本の文化形態の未来図として読解するまで、「文化人」の誰もが、そうしたことに本格的な取り組みをしなかったのである。加藤氏は後に「無目標社会」論を書くことによって批判を受けるが、加藤氏の最初の指摘は、今日でも生きている。
 話がまたまたそれたが、もとへもどそう。
 訪問の目的は、あらまし電話で告げてあった。加藤秀俊氏はすぐに二人を書斎に通してくれた。話は、本のことから学園の現状に及び、やがて西光義敞が僧侶ということもあって宗教のことに移った。『中間文化』の著者は、おだやかに喋った。著者のその時の年齢からは想像できないほど老成した話しぶりだった。決して感情に激することのない人なのか、激することがあってもそれを自分の内側に抑え込む人なのか、とにかく加藤氏の態度は、あいまいな感覚的な言葉や考えから、きっぱり一線を引いた明快さがあった。
 話の間中、イーヨー肺のあたりに痛みを感じていた。話に相槌を打ち、それなりに笑い、言葉を挿しはさみながらも、どこかで笑っていないじぶんがいることを感じていた。
 それは、加藤秀俊氏にも、西光義敞にも、まったく関係のないことだった。一九六二年の夏のある午後以降、イーヨー一人が抱えねばならぬ内側の「裂傷」のせいだった。「裂傷」は、胃袋や胸のあたりに石ころのように存在感をひろげ、別の生きもののように絶えずイーヨーの内側を這いまわっていた。そいつは、突然、指で胃壁を突ついたり、爪でイーヨーの脳の奥をひっかいたりした。目の前の風景は、その瞬間霧のなかに包まれ、湖やボートや太陽や空や、そこにはない別の風景に取ってかわった。話し相手の言葉が消え、イーヨーの絶叫だけがひびいた。
 これは、加藤秀俊氏にも西光義敞にも聞こえなかった。だから、イーヨーは、やたらに煙草を吸い、話のなかにむりやりじぶんをねじこんだ。
 …どんな職場にも、あなたたちの学園とおなじような問題があるに違いないですね。不満は、あらゆる階層の人びとのなかにあると思います。だから、どうでしょう、ひとつ日本人の不満を考える会を作っては……。
 その夜、加藤秀俊氏が提案してくれたことは、そうだった。
 …二人でも三人でもいいから、月に一回、話し合いの会を持つんです。ただね、あまり自己暴露的なことはやらないほうが、長続きすると思いますよ。それから、できるだけ働いている人が集まれるようにすることですね。会の名前は何でもいいんですが、あっさりと不満の研究会というのはどうですか。
 加藤氏の提案に異存はなかった。雑誌『思想の科学』のサークル案内に第一回の会合日時が掲載され、そののち五年にわたって続く「不満の会」が、一九六三年(昭三八一月にスタートした。
 イーヨーは、このうちの三年間にやや積極的に関わっている。四年目以降の推進役は、その頃も現在も、おなじ大手商社に勤める柴谷正博(全啓)である。三年目に、西光義敞もイーヨーも半ば体を引く気になったのは、それぞれが別の関心事が大きくなってきたからである。イーヨーは、じぶんの「裂傷」を引きずっていた。それを一時的にせよ忘れるために、この会に首を突っ込んだ。他人(ひと)さまの不満に触れることで、それが相殺されたとは思わない。「裂傷」は常に疼き続けていた。しかし、それがどれほど根深いものであっても、時間はその上に瘡蓋をかけるだけの力を持っている。痛みをみつめて何もしないより、何かをするほうがいいに決まっている。「裂傷」は「不満」ではない。不満は「裂傷」を語れないところから生まれる。イーヨーは、最初のあいだ、それを「会」とは関わりのないところに置いて眺めていた。しかし、一年半も経った頃、それを「会」のなかに持ちだして語ろうとするようになった。その意味で「不満の会」は、イーヨーの蘇生になにがしかの力をかしている。それだけでなく、イーヨーは、この会に参加することによって、そこから生まれるじぶんの不満をテコにして、「書く」ことにもどり始めたのである。先に記した『空は深くて暗かった』もそうなら、「教訓」付きの『人生論」もそうである。のちに『戦後児童文学論』(理論社・一九六七)に収載したエッセイのいくつかは、この会の歩みを横にして考え始めたものである。


 「不満の会」には、大きく分けて三つの時期があったといえる。
 第一期は、会の名付け親・加藤秀俊氏が参加していた期間。第二期は、その頃、同志社大学の社会学部教授だった鶴見俊輔さんの研究室を定例会場にしていた期間。第三期は、イーヨーや西光義敞がおりたあと、柴谷正博が世話役をつとめた期間である。
 別の言い方をすれば、第一期八回は、「書かれたもの」を中心に話し合いが進んだ時期である。佐藤忠男の『日本人』、阿部進の『現代っ子気質』、山口瞳の『江分利満氏の優雅な生活』などをテキストに、そこにある不満を考えるということがタテマエになっていた。会場は、楽友会館、某茶房、京大人文化学研究所と固定せず、おまけに無原則、相互理解の欠如のまま出発したため、わずか六人のメンバーなのに、たちまち潜在化した不満が生じた。今、『不満の会・その歩み』(一九六五)という小冊子を読み返してみると、その六人がそれぞれに、第一期の会の在り方に批判的だったことがわかる。


 「―不満を持って皆出席しているものばかりと思っていたのに、全く不満を持っていない人がいると云うことにおどろいてしまった。(堀内)
  ―このころ、わたしは教育現場におけるわたしの不満を、授業の改善という行動的エネルギーに変えようとしていた。それが不満の会に不満なまま、積極的参加をしないあいまいな態度を生んでいた。(西光)」


 イーヨーもまた、読書会形式の例会に、すっぽかされた思いを抱いていた。会を重ねるにつれて、第一回のメンバー以外に、いろいろな人が顔をだす。それは一つの会が会としてかたまるために必要なことである。しかし、談論風発、他人の不満の分析指摘はそれでいいとして、そこにじぶんの不満を問いつめることがなぜでて来ないのだろう。人文科学研究所に会場が移ってからは特にそうである。「人文」の学者諸氏は「不満」を楽しんでいる。「自己暴露を避けること」とはそういうことだろうか。イーヨーは、「不満の会」を続けることが不満を増幅するというきわめて奇妙な気持に、会が終わるたびにとらえられた。胃はしくしくと痛んだ。
 加藤秀俊氏が渡米することになった。第八回の例会の折り、突然告げられた。やや投げやりな気持になっていた最初からのメンバーは、それを聞いてさほどうろたえなかった。驚かなかったといえば嘘になるが、そのことで「会」の行く末を考え暗澹たる気持になるには、それぞれが「会」に距離を置きすぎていた。「不満の会」は、不満を残したまま雲散霧消しても、だれも文句をいわなかっただろう。 
 イーヨーは、その時まで鶴見俊輔さんを知らなかった。学生時代に別れを告げ、先に記した「学園」に就職した時、書名にひかれて買った一冊の本に「鶴見俊輔」と著者名があった。黄ばんで少し疲れているが、今も書棚の隅においてあるフォルミカ選書の一冊『哲学論』(創文社・一九五三)である。


 「―古来の哲学わすでに死滅したと云わないまでも、老衰状態に陥り、動脈硬化お呈している。この中に新生の気が溌剌と燃え上ってくるためにわ、いかにこれお把握し直せばよいのだろおか」
 「―道徳論わ、どこかでしっかりと自己反省とむすびついていないと、思想としてネウチをもたぬものとなる。つねに『自己おふくまざる集合』として『日本人』おとりあげ、『戦犯』おとりあげ、『封建制』おとりあげ、「官僚主義」おとりあげるとゆう、ぼくたち進歩的御用学者の学風わ、学問お思想からそらす役割おはたしている」


 これは、そのなかからアト・ランダムに抜きだした言葉だが、イーヨーはまずこの「表記法」のその時驚いた。著者が「言文一致」の文体を目指していることは間違いないだろうが、これでは「お」や「わ」や「ゆ」といった仮名ばかりが目について、言葉で指すものよりも言葉そのものに足をすくわれるではないか。こういう文体を目指すものは、よほどのへそまがりか過激な日本語改造論者に違いない。鶴見祐輔の『母』という本を、小学生の頃、目にした記憶があるが、一時違いのこの著者は、その人と関係があるのかどうか。「どおゆう」人か。
 それからだいぶ経って、イーヨーは『誤解する権利』という本を読んだ。映画『お洒落狂女』について書かれた一文は、そののちも時どき思い返すほどの印象を残していた。それが、知っているといえば知っている「鶴見俊輔」という人のすべてだった。
 鶴見さんは、「不満の会」の第二回の例会に、登山帽をかぶりジャンパー姿ですっとあらわれた。楽友会館の室内は、冬の二月の夜のせいでひどく暗く感じられた。イーヨーはもちろん、それが鶴見さんだとは知らなかった。テーブルの端にいたイーヨーには、じぶんの名前を告げるその声がよく聞きとれなかった。あの人はだれなのだろうと思った。
 「あなたはあの頃、こっちがいくら元気をだそうと思っても、全部生気を吸いとってしまうんだなァ。じわッ、じわッと、吸いとられる感じだから、こっちまでやり切れなくなってくるんだな。そして、オシッコがでない。もうだめだ、そんなことばかりいってるんだから……」
 つい最近、ある会合でイーヨーが鶴見さんと同席した頃、鶴見さんは、それが特徴の驚いたような大きな目をむいて、イーヨーに呵々大笑したことがある。
 イーヨーは、今でもあの頃とそう変わりませんよと笑い返したが、「不満の会」におけるイーヨーの姿は、鶴見さんのいうとおりだったのだろう。イーヨーは、死にかけている自分、死にそうな自分、充分気づいていたのである。自分の内なる「裂傷」のせいか、あるいは光線のかげんか、イーヨーもまた、その時の鶴見さんを、どことなく暗い影を引きずっている男だなと感じた記憶が残っている。登山帽の男は、なぜ丸坊主頭なのだろう。この男は何を仕事に暮しているのだろう。イーヨーはその時、それが『哲学論』や『誤解する権利』の著者であるとは、まったく想像さえしなかった。
 ところで、加藤氏がアメリカ行きを告げた時、会場を提供しようといってくれたのが鶴見さんである。
 「私の部屋を使えばいい。不満といっても、職場の不満から政治家の不満まで、さまざまなものがある。この会が、そういう日本の不満を集めて、考えるようになればおもしろいと思いますね。手はじめに、メンバーの一人一人が、じぶんの不満を報告することから始めてはどうでしょうね。」
 「不満の会」は、ここから第二期に入り、「教師の不満」(第九回例会・井上省三)に始まり「あるナースの不満」(藤林百枝)まで、二十一回、二年余にわたる報告・発表となった。
 今、小冊子を開いてみると、「医師の不満」「看護婦の不満」「ある部落出身者の不満」「ある管理職の不満」「女子大生の不満」「ある銀行員の不満」「坊さんの不満」「ある営業マンの不満」「受付事務員の不満」と、その間に語られた「不満」が肩を寄せ合っている。イーヨーもまた、「ある妻の不満」として四回にわたって発表している。これは、イーヨー自身の「裂傷」を語るため、それもできる限り「自己弁護」を避けるため、故意に「妻」の視点から「夫」の裏切りや動揺する心情を語ろうとしたものである。「書くこと」によって「超える」ということがある。それがそのまま、イーヨーの蘇生につながらなかったとしても、少なくとも「不満の会」でおのれを告げることは、イーヨーの「死にいたる病」への阻止効果はあったに違いない。それよりも何よりも、イーヨーにとってもっとも強烈な印象を残したのは、「鶴見俊輔」という人に出会ったことである。二年余にわたる例会での鶴見さんの発言は、言葉のやりとりのおもしろさを超えて、人間存在のおもしろさというものを如実に伝えてくれたのである。


 鶴見さんは、『今江祥智の本』第一巻(理論社・一九八一)の解説の結びに、つぎのように書いている。
 「―それからさらにニ十年たって、高度成長の社会が作り出す無気力と荒廃が明らかになった今、作者は、処女作のこおとおなじく明るい音楽を吹きならすことはむずかしいだろう。それでも、『優しさごっこ』や「ぼんぼん」には、『山のむこうは青い海だった』の明るい音楽がなおこだましている。(中略)『山のむこう』の著者がその後の作品の著者として、今もおなじく、どんな条件の下にも幸福であろうとする姿勢を保ちつづけているからである。幸福であろうとする努力が、現実から眼をそむけることなく、なされていることが、今江祥智の作品に私が感動する理由の一つだった」
 この的確な「今江祥智讃」は、同時に鶴見俊輔その人に投げ返せる言葉でもある。どのような状況の下にあっても、現実から眼をそむけることなく、幸福であろうと努力することに、じぶんの在り方をすえた人。その姿勢こそ、『空は深くて暗かった』この一時期の、「不満の会」での鶴見さんから、イーヨーの学びとった「教訓」である。


 「ねずみ色の封筒」を見るたびに、そうした風景が脳裏をよぎる。
 「―教訓ソノ一。病気ニ絶対カカラナイヨウナ健康ナ人間ハ、アンガイ、深ク自分ノ生キテイル意味ヲ考エナイモノデアル。死ヌコトヲ忘レルモノデアル。ダカラ、人ハ、時々、病気ニナッテ、アア、俺モ死ヌヨウニ決マッテイルノダナアート思イ出スベキデアル。『人生イカニ生キルカ』ナドイウタワゴトハ、ソレカラデイイ。死ヌコトヲ知ッテカラデモマニアウ」(前出『人生論』「病気について」より)

テキストファイル化伊藤美穂子