『日本のプー横丁』(上野瞭 光村図書出版株式会社 1985/12/24)

第六章  『海』


 電話のあったのは九月の中頃である。
 イーヨーの家は、連日、とんとん、がんがん、音に包まれていた。
 家の土台が腐って、西側に倒壊の恐れがでたため、ジャッキで建物を持ちあげ、大工さんが補強工事を始めていたのである。
 「原稿をお願いしたいんですが・・・・・・」
 電話のその言葉に、イーヨーは悲鳴をあげそうになった。
 玄関口から茶の間を通って、イーヨーの仕事部屋まで、畳はすっかりめくりあげられている。土足で家の中を歩いている状態である。連載中の長篇の原稿はストップし、主人公の親子は、目と鼻の先にいるくせに顔を合わせるのかどうかもわからない。おやじどののほうは、馬にゆられて裏山を越えようとしている。せがれのほうは、お牢破りの真最中である。それに、じりじりしながら出番を待っている刺殺者の影。
 イーヨーは、電話口でぶつぶつ呪文を唱えた。
 あぶだら・かたぶら。(声をかけてくださるのはありがたいんだけれど、肝心のその原稿を書く時間があるかどうか。それに、仰言っているテーマでは、どうもよく納得できないのであって、わたしは、いわゆる「童話」というものに批判的であって・・・・・・)
 呪文だから、理路整然とした私見ではない。講演依頼を断る時など、この呪文は効き目を発揮することがある。イーヨーは呪文を唱えながら、相手が本気でイーヨーに声をかけてきたのかどうか、はっきりするのを待っている。「事のついでに」声をかけてくださる人がある。そうかと思うと、無作為抽出法でイーヨーに声をかけているのではないかと思われる人もいる。いつか、「今江祥智先生は講演料が高いそうですので、ひとつイーヨー先生に」といった電話がかかってきたことがある。プー横丁の作家たちは「うな重」なのか。松・竹・梅の値札をぶらさげているのか。いずれの場合にも、しめくくりの呪文を唱えるしかない。「まことに残念ながら、つぎの機会にでも・・・・・・」
 電話の向こうの編集者氏は、イーヨーの呪文を聞きながら、それにいやまさる呪文を唱えた。「今回のこの企画には、児童文学関係の方を一人もお願いしていないのです。どうか、そのためにもぜひ、お書きいただくとありがたいのでして・・・・・・」
 歌の文句ではないが、「あなただけを」という言葉は、自尊心をくすぐる呪文である。「おだてりゃ豚でも木に登る」イーヨーは豚ではないが、確たる信念の人でもない。おのれの呪文の声はたちまち弱よわしくなり、電話の切れる頃、相手の企画のほどもよく呑み込めないまま、イーヨーは豚に変身した。
 一九八二年(昭五七)の話である。
 原稿二十枚の依頼者は、文芸雑誌『海』(中央公論社)。冬に臨時増刊号をだすのだという。

 「前略、先日は、突然お電話を差し上げたにもかかわらず、お原稿をお引受け下さいまして、有難うございました。慎しんでお礼申し上げます。
 お電話でも申し上げましたことですが、この度の特集は、決して従来の狭い児童文学・童話といった考え方に立つのではなく、子どもを問うことが即、自分を問うことではないか、あるいは内なる子どもを見つめることにより、近代の人間観・世界観を問いなおす、そういうものとして、児童文学・童話を考えたいと思っています。又、文学的問題からいえば、寓話性・幻想性・物語性・虚構性といった問題がでてくるのではないかと考えています。
 そのような意味も踏まえた上で、『わたしの童話作法』というテーマのお原稿をお願い申し上げたのですが、児童文学論をお願いするには、確かに不適当なタイトルであったと思います。
 先生のお書きになりやすい表題をつけて下さいまして結構でございますし、スタイルも、いわゆる評論というよりも御随想風にしていただいて結構でございます。(ただ、これから子どもの世界、児童文学を含めた文学に向かおうとする若い読者にとっては、一つの指標として、やはり入門とか作法とか方法といった言葉が有効なのではないかと思われ、もし御迷惑でなければ、実作者の方法論というような意味合いのサブ・タイトルを考えていただければ、幸いでございます。)
 枚数は四〇〇字、十五枚〜二十枚、締切りは十月十五日(金曜日)でございます。
 御多忙のところ、本当に恐縮なお願いでございますが、どうぞ、よろしくお願い申し上げます。
 通常号の出張校正などで、御連絡が大変おそくなりましたこと、お詫び申し上げます。  敬具」

 編集者S氏のこの手紙は、九月三十日の日付になっている。イーヨーの手元に届いたのは十月の三日である。
 締切日まで十二日しかないことを、いいたいのではない。いや、それも多少あるのだが、それよりも、まだ見ぬS氏が、右の手紙でもわかるように、イーヨーに、「事のついでに」ではなく、声をかけてくれたことをまず記しておきたいのである。
 電話をもらった時、すぐさま仕事のできる状態ではなかったことは、冒頭に記した。布基礎の上にブロックを置いて、その上に柱を支える横木をすえて、床下工事が終わったのは九月の末日だった。
 イーヨーはその間、講義や入試委員会や学部の会議にでている。古田足日と鳥越信が、「国際児童文学館」のことで話したいとやってきて、今江祥智と二人して「梁山泊」で会ったのも、この畳のない時期である。ほぼ、この期間、風邪気味で、そうなると慢性腎炎のせいで変な夢を見る。

 ・・・・・・明け方である。イーヨーのかみさんと、その友達らしい人物が、狭い階段を降りていく。イーヨーも、そのあとから二、三段おくれて降りていく。地下には茶房らしいものがある。イーヨーが学生の頃、奨学資金をにぎって通った、三条河原町の「六曜社」にどこか似ている。入口に傘立てがあって、イーヨーは三人分の傘をそれに入れようとしている。茶房が消えて、茶の間が正面に見える。これが、茶房の中なのかどうか、よくわからない。食卓があって、それに坐っているのは長新太さんである。ほかには、だれもいない。長さんの前に、小鉢に盛った漬物が置いてある。長さんが手をのばす。手づかみで長さんはそれを食べようとする。イーヨーが質問したに違いない。長さんが答える。「食べるものがなくって、腹がへってね」イーヨーは二階へ駆けあがる。あわてている。今江祥智に、このことを知らせなくっちゃと考えている。階段を登りきったところにテーブルがある。その上に今江祥智が坐っている。彼の前に、襖があって、その隙間から、今江は次の部屋をのぞいている。イーヨーはぎょっとする。今江祥智の頭に毛が一本もない。それだけではなく、「エレファント・マン」のように頭が巨大に伸びている。イーヨーは次の部屋をのぞく。そこにCさんがいて、大忙しで荷づくりをしている最中だ・・・・・・。

 夢など見ないで、ぐっすり眠ったと思っている時でも、人は夢を見ているのだろう。しかし、イーヨーは、じぶんでは、ほんの時たまにしか夢を見ていないと思い込んでいる。『夢日記』を記した正木ひろし氏ではないが、そのほんの時たまの夢を、日記に書きつけている。生きた鰐が、布団の中に這い込んできた夢が、ここ一年の、もっとも鮮明に残像を漂わせた夢だった。これらが何を意味するかは、河合隼雄さんあたりに聞くしかない。
 イーヨーは、掌に、まるい小さな魂をのせて、それをころころころがしたり、握りしめたりするように、この風邪気味のあいだ、「書くべきこと」を考えていた。どうしてもよくわからなかったことは、最初にいわれた「童話の書き方」ということだった。
 かりに、それを「わたしの創作作法」といいなおしてみても、いったいどんな読者が、なぜ、そうしたことを読もうとするのか。『海』は何を考えているのだろう、という気持ちが消えなかった。
 イーヨーは、およそ「童話作家」ではなかった。それは、「童話」を書かないということではなく、たとえば『もしもし、こちらライオン』(理論社・一九七八)のような短篇を書くことがあっても、仕事の焦点はおおむね長篇小説に合わせているということだった。
 その理由の一端を、イーヨーは最初の評論集『戦後児童文学論』(理論社・一九六七)の冒頭にすでに記している。「なぜ童話について語らないか=一種の長いまえがき」がそれである。そののちイーヨーは、何冊かの評論集をだす機会に恵まれたが、そこで繰り返し触れてきたのも、「文学」として「児童文学」を考えるということである。
 「子どもの生活」に密着した「心あたたまる読物」、アニミズムの時期を生きる子どもにふさわしい「擬人童話」、そうしたものも悪くはない。しかし、プー横丁の作家が、そこに居を構えるということは、別に「教育の親戚としての読物」を書くためではないだろう。それでなくても、「カロリー計算済・栄養価満点」のレッテルを貼りたげな「安心・無害」の「童話」が氾濫している。児童文学は、「発毛促進剤」なみの「子どもの精神育成剤」なのか。結果としてそういう働きがあるとしても、プー横丁の作家は、最初から栄養士でも管理栄養士でもないだろう。いつから「精神管理栄養士」を兼任するようになったのだろう。こうした風潮は、児童文学が「文学」であるとするならば、本来そこに内在する「文学の毒」を忘れ果てた所業とはいえないのか。
 プー横丁で「ものを書く」ということは、何よりもまず、どきどきわくわくする独自の物語世界を創りだすことにある。「ありえない世界」の「ありえない出来事」を、「ありうるかもしれない世界」の「ありうるだろう出来事」として描きだす仕事である。
 そうした世界の構築にのりだした時、作家は、「うさぎ穴」に跳び込んでいくルイス・キャロルのあのアリスのように、一種のめまいを感じるだろう。「うさぎ穴」の向こうは、彼が想像力によって創りださねばならぬ世界であるのに、彼の用意した「設計図」や「地図」どおりに、人物が、事件が、風景が、展開するとは限らないからである。
 それだけではなく、アリスの体がさまざまに伸縮したように、作家自身も、どんどん伸縮し、変身しなければならないからである。
 机の前で、原稿用紙の枡目に文字を刻みつけるだけではすまなくなる。彼の思いは、もう一人のじぶんとして、書き続けている物語のなかに滑り込み、子どもの形をとり、子どもに対立する大人や悪魔の形をとり、やがてまぎれもなく、その世界の存在者として「ふしぎの国」をさまよいだす。
 そこで出会う「三月兎」や「気違い帽子屋」は、「現実世界」の既成の価値観や人間観かもしれない。意識するとしないにかかわらず、「現実世界」の美徳も悪徳もこの「鏡の国」には投影される。いや、そればかりではなく、「こちら」では作家自身が気づかなかったおのれの暗闇さえ、じぶんの前に立ちはだかる。彼は、じぶんの物語のなかを手探りで進んでいくのである。
 物語を書くということのなかには、そういう冒険の旅が含まれている。
 決して、既成の価値観や予定した人生訓の、言葉による肉付けではないのである。そういう「童話」がかつて存在し、今なお受け入れられているとしても、(そして、それを児童文学だと思い込んでいる人がいるとしても)それは、「文学」としての児童文学とはたぶん無縁の事柄なのである・・・・・・。

 イーヨーは、掌のなかの、まるい小さな魂を握りつぶす。「書くべきこと」とは、そういうことなのかどうか、もう一度、掌のなかでころころころがしてみる。

 具体的に、作品に即して、イーヨーはじぶんの「創作作法」(?)を書いたことがあった。今江祥智にいわれて始めた仕事で、結果として二十余人の作家や漫画家や作曲家が、「おのれの手の内を示す」体の一冊の本になった。『想像力の冒険ーわたしの創作作法ー』(理論社・一九八一)がそれである。共編者・今江祥智、灰谷健次郎ともども、イーヨーもはじめて、じぶんの作品の成り立ちの一端を記した。
 混沌の闇のなかから、物語がそのおぼろげな形をあらわすまでの過程を、自作『日本宝島』(理論社・一九七六)に即して考え直したものだった。自作の「解説」ではなく、自作を足がかりにして、「書くとはどういうことか」をイーヨーなりに確かめようとした。それは、まったく別の作品を書くのとおなじくらい、難渋する仕事だった。
 『海』は、もう一度そうした仕事を要求しているのだろうか。それとも、そうしたことをまったく知らないまま、気軽に何かを書かせようとしているのだろうか。

 イーヨーは、締切り一週間前にS氏に電話をかけている。すこしばかり書き始めたが、それは「創作作法」でも「技法」でもないだろう。じぶんの作品よりも「海外」の作家の作品に触れて、「児童文学を書く」とはどういうことかを考える形になる。それでもいいのか。ついでにいえば、締切日より二,三日は遅れそうだが、その点もいかに・・・・・・という内容である。
 S氏はいう。確実に原稿がいただけるのなら、締切りのほうは構いません。また、お書きいただく内容のほうも、そちらでお書きいただきやすいように自由に考えてくださって結構です。

 イーヨーがすでに書き始めていたのは、オトフリート・プロイスラーのことである。プロイスラーの『小さい魔女』(一九五七ー大塚勇三訳・学習研究社・一九六四)は、出版の翌年、ドイツで優良児童図書に選ばれた。しかし、イーヨーはすこしも感心しなかった。もし、この作家が、『クラバート』(一九七一ー中村浩三訳・偕成社・一九八〇)を書かなかったならば、プロイスラーを誤解したままに終っただろう。なぜなら、『小さい魔女』には、いわゆる従来の「童話」に共通する紋切型の発想しかないのに、『クラバート』にはそれを踏み越えた独自の発想がある。児童文学が「文学」として当然備えねばならぬ、「人間の光と闇」への凝視がある。物語としてのおもしろさがある。それはどういうことか。
 イーヨーは、プロイスラーの『クラバート』を持ちだすことによって、現代児童文学のおもしろさ(あるいは幅と深さ)がどこまできているかを伝え、もしかりに、この領域で「ものを書くこと」を考える読者がいるとすれば、跳び越えるべき高いハードルが存在することを示そうとした。
 『クラバート』が「魔法使い」の物語であるため、イーヨーは「魔法」という言葉を比喩的に使った。「ものを書くこと」は、「現実世界」のなかに「もうひとつ別の世界」を創りだすことである。いってみれば、それは読者に魔法をかけるのとおなじことである。読者は、「ありえない世界」をまざまざと目の前に見ることになる。架空のその世界が、魅力に満ちていればいるほど、この「現実世界」の息苦しさや滑稽さが改めて感じられるはずである。これは、子ども・大人を問わず、わたしたちが「現実世界」で、さまざまな形でかけられている「常識」という名の魔法を、解き放つことにつながっている。すぐれた魔法をかけることが、わたしたちをハタラキ蜂やウサギやモルモットに変えている「この世の中」の魔法を解くことになる・・・・・・。
 イーヨーは、そうした考えを記したあとで、すこしだけ自作に触れ、『児童文学を書くということ』の原稿を締めくくった。

 十月十六日(土)。昼前ぎりぎりに自転車で郵便局に持ち込んだ。この日、イーヨーは、夕食のおかずとして小芋を炊いている。仕事をした一日の終わりに料理をすることは、ここ何年来のイーヨーの楽しみである。もともと、寝たっきりのばあさまや、体のままならぬじいさまがいて、イーヨーのかみさんがその世話で疲れ果て、やむなくイーヨーが台所に立つことから始まったのだが、ばあさまもじいさまも数年前に昇天、今では「義務」も何もないのに、流しの前で芋の皮をむいているのである。かみさんといっしょに、自転車にまたがって、スーパーへ買物にいくのが、イーヨーの一種の精神療法といえるのかもしれない。イーヨーは「もの書き」専業ではない。女子大学の教員でもある。講義以外に両手の指の数ほども会議にでなければならない。そいつがまた延々と続く場合がある。会議、懐疑、怪奇・・・・・・と、そのあいだ呪文を唱えていたりする。玉ねぎを刻む、ミンチをこねる、衣をまぶす、だし加減をみる、フライパンの後始末をする、鍋を洗う・・・・・・といったあの一日のもっとも充実した時間が、会議のおかげでふいになることがある。そうした日は何となく締まらない。
 この日、鍋のなかで色づいた小芋に削りカツオをまぶそうとして、イーヨーは昔ながらのやり方で、ごしごしとカツオブシを削っていた。豆腐屋のラッパの音が聞こえたような気がした。右手を機械的に動かしながら、ふと脇見をした。空耳かと思った。つぎの瞬間、イーヨーの右手中指の爪に鋭い刃が食い込んでいた。
 十月十八日(月)。夜、『海』のS氏から電話。原稿、確かに受け取りました。内容、よかったです。成程、仰言ろうとすることがよくわかり、自由に書いていただいてよかったと思っています。とりあえず、お礼の電話いたしました。
 イーヨーは、何となくほっとし、すぐにテレビにもどった。「中日ドラゴンズ」が「大洋ホエールズ」を相手に、セントラル・リーグの優勝をかけての野球試合の真最中だった。別にイーヨーは「中日ファン」ではない。しかし、行きがかり上、その成り行きに注目していた。野球のきらいな時代・・・・・・というよりも、野球に熱中することを変に軽蔑していた時代、イーヨーは、プロ野球とアマ野球の区別もつかなかった。ショートとライト、レフトの区別もつかなかった。それが、いつか喫茶店で今江祥智と待ち合わせていて、彼のくるまで、備えつけの『デイリー・スポーツ』を読んでいたら、「おや、おぬしもスポーツ新聞を読むのか。墜ちたな」と顰蹙されたことがある。そこまで変わるのに三十年かかった。それがいいことなのか悪いことなのか、わからない。よかったようにも思えるし、それほどのことではなかったようにも思える。ただいえることは、他人さまがあれほど夢中になる理由が、イーヨーなりに納得できたことである。野球について語ることが、この章の目的ではない。時間を先に進めよう。

 十一月二十日(土)。S氏の電話から、ちょうど一カ月余り経っている。平穏無事な一カ月だったわけではない。
 入試委員会、カリキュラム委員会、学部会議、学科懇談会、評議会、教授会、岡山での父兄会と、講義やゼミ以外に会議が続くなかで、かみさんが寝込んだり、イーヨーの瞼の痙攣が止まらなくなったり、わずかの隙間をみつけて『ユリイカ』の原稿を書いたりしていた。何よりもまず再開しなければならぬ連載長篇の原稿が、九月中旬に中断のまま、まだ宙に浮いている。加えて、この日の翌日にあたる十一月二十一日(日)、イーヨーは、じぶんの所属している大学で、はじめての「児童文学セミナー」を開催しなければならない。講師として、谷川俊太郎、灰谷健次郎、今江祥智の三氏を予定している。会場確保、会場整理、諸経費の折衝で、学生部、学生会、会計、学部事務室と駆けまわらなければならない。受講申込者の受付その他の事務は、イーヨーの研究室の助手さんやアルバイトさんやゼミ生が当ってくれるとしても、セミナー終了後のサイン会、会終了後の慰労会準備など、雑用はつぎつぎ立ちはだかってくれる。おまけにこの日、学園祭と学内での父兄との懇談会が重なっていて、とにかく出席しなければならない会には、お座なりにしても顔をだし、やっとこさ家にもどったところ、速達で茶色の大きい封筒が届いていた。
 差出人は『海』編集部、宮田毬栄となっている。

 「『子どもの宇宙』のために御協力くださいまして、ありがとうございます。
 もっと早くお便りを申し上げるべきだったのですが、担当者から原稿を見せられましたのが、校了寸前の、もうすでにゲラ刷りになっている時期でしたので、忙しさに追われて、遅くなってしまいました。
 まず、お詫び申し上げます。
 お願いいたしました『児童文学をどう「書くか」』というテーマは、こんどの特集のなかでも、もっとも大切なものの一つでした。
 児童文学者として、立派な業績を残されているイーヨーさんにぜひとも書いていただきたいと編集者がのぞんだのもそのためでした。たいへんな期待があったのです。
 お書きいただいた原稿を拝見して、こちらの意図の説明の仕方が不十分なことがわかったのです。
 もっと具体的な書くことの方法について、わかりやすく書いてほしかったのでした。
 御連絡申し上げて、書き直していただくにも、もう時間がありませんでした。
 それに、完成された文章を書き直すということが無理だったでしょう。
 そういうことで、『子どもの宇宙』には掲載させていただくことを断念せざるを得なかったのです。
 お詫びとともに、原稿とゲラを送らせていただきます。
 原稿料につきましては、後日、お届けさせてください」

 封筒には、イーヨーの原稿と、それを二段組みに組んだ校正朱筆入りのゲラ刷りと、右の手紙が同封されていた。イーヨーは、一瞬、狐につままれたような気がした。それが過ぎると、猛然と腹が立ってきた。
 よくいうよ、おまえさん。人に原稿書かしておいて、今になって気にいらないからと突っ返してきて、それで金だけ払えばいいんでしょとは何だ・・・・・・という気持である。手紙の言葉はくそていねいだが、いっていることはそうじゃないか・・・・・・という気持である。
 イーヨーは、めったに腹を立てたことがない。気が短いくせに、じぶんではそうでないと思っている。むかむかすることがあっても、おおむね、「クソッタレ!」という呪文とともに呑み込むからである。そいつが胃袋に堆積して叛乱を起こすことがある。手紙を読んで、珍しく、これは呑み込むべきことではないとイーヨーは思った。
 『海』の臨時増刊号「子どもの宇宙」が店頭にでたのは、つぎの日である。場所によっては、イーヨーのもとへ原稿が舞いもどってきた日、店頭に並んでいたのかもしれない。
 よくやるよ・・・・・・と思ったのは、このタイミングのよさにあるのではない。どのような理由があるにせよ、依頼して受け入れた原稿を、(S氏の十月十八日の電話を頭に置いている)一通の手紙だけで突っ返してくるその無神経さに、むかむかしたのである。それも、向こうさまが入手してから一カ月経って、雑誌が発行されるその時期に、である。
 いったい、イーヨーに直接原稿を依頼し、それを受け取り、感想と謝意を電話口でのべたS氏は、何一つ発言権のない、しかも原稿の内容も「判読できない」ような、ただの「子どもの使い」だったのだろうか。
 宮田なにがしなる編集長(だろう)の手紙には、直接担当のS氏のことは一言もでてこない。いや、でてきているが、それは「担当者から原稿を見せられたのが・・・・・・」という個所だけである。そのあたりを読み取ると、まるでS氏は、「判読力」も「発言権」もない「無能」な使い走りに思えてくる。
 『海』では、そういうことになっているのだろうか。編集長の「判読力」が絶対で、他の編集部員は、はるかに「判読力」の劣るただの使い走りということがまかり通っているのだろうか。
 イーヨーは、S氏からきた原稿依頼時の手紙を考える。こういう言い方はよくないと思うが、それは「無能」な人の手紙ではない。「文学」について、それなりに「判読力」を持った人の手紙に思える。だからこそ、イーヨーはそれに応えようとし、原稿を送り、それに対するS氏の電話の言葉で「ああ、一つの仕事が終わったわい」と、テレビに目をもどしたのである。S氏の言葉は、S氏個人の言葉であると共に、『海』の言葉であったはずである。少なくとも、これまでの仕事では、担当編集者の発言は、その出版社を代表していた。
 ところが、宮田編集長の手紙によれば、『海』は違うというのだ。S氏の発言は、何ら『海』を代表していないのだということになる。どうなっているのだろう。たぶんに問題は、この宮田毬栄なる編集長が、S氏とはまったく別の「判読力」を持ち、一編集者の「判断」や「対応」など、てんで信用していなかったということにある。
 編集長殿はいう。「児童文学をどう書くかは大切なテーマの一つであって・・・・・・」と。イーヨーは、いわれるまでもなく、そういうことはわかっているつもりである。しかし、この編集長、すらりといってのけたけれど、「児童文学」という言葉で、具体的に何をどう考えていたのだろうか。どのような作家の、どのような作品を、念頭に置いていたのだろうか。
 これは大事な点である。児童文学といった場合、いまだにこの言葉を、「童話」と同義に考える狭い視野の人がいる。大人のなかに特に多くて、じぶんが子ども時代に読んだアンデルセンの作品や未明童話あたりを、そのまま「子どもの本」の唯一の規準にしていて、児童文学という言葉を聞いた場合、すぐにそれを重ね合わす人がいる。そうかと思うと、『くまのプーさん』や『星の王子さま』が児童文学だと思い込む「現代忘れ」の人もいるわけで、おおむねこのあたりの「理解者」は、どこかで、「童心主義」の幻影を、後生大事に抱えている。
 イーヨーの知っている文学専攻の大学教授のなかにもそういう時代錯誤の人がいて、かつて学生に、「きみ、児童文学というのは、ルイス・キャロルの『ふしぎの国のアリス』がそうでしょう。それ以後、イギリスには目ぼしい作品などないでしょう」とのたまい、イーヨーをぎょっとさせた。J・R・タウンゼンドやキャサリン・ストー、ローズマリ・サトクリフやK・M・ペイントを知らないのは多少がまんするとしても、トールキンやC・S・ルイスくらいはどうして思い浮かべられないのだろう。無知は恥じる必要はない。読めば納得するようになるだろうし、学べば解消する。しかし、無知が傲慢と手を結ぶ時、それはまったく人を傷つける以外、何もないのである。
 奇妙な固定観念にとらわれた人ほど、児童文学への誤解も激しく、その偏見の増幅度も大きい。そして、そういう人びとは、いまだ後を絶たないのである。こういう状況が存在する。「児童文学という言葉で、あなたは何をどう考えているのか」と、イーヨーがいいたくなるのもむりはないだろう。
 編集長殿はさらにいう。「児童文学者として、立派な業績を残されているイーヨーさんに・・・」云々と。編集長殿。あなたは、何を指してイーヨーの「立派な業績」と仰言っているのか知りませんが、いったいイーヨーの書いた長篇作品を、一つでもお読みになったことがあるのでしょうか。他人さまに、何々の「書き方」といった原稿を依頼なさる以上、依頼相手の作品の一つくらいはお読みになっていられるのでしょうね。もしそうなら、「立派な業績」などという社交辞令的なほめ言葉を使わず、イーヨーのどの作品にどう興味を持っているから・・・・・・と、具体的にお書きになるべきではなかったか。「文学」に関わる人間は、作家・編集者を問わず、そうしたことで結びつくものだと考えるのですが。それとも、あなたは、敬意を払ったふりの言葉だけを使用し、ほんとうは、イーヨーの作品など一篇も読んでおられないのではないでしょうか。だからこそ、平気で、無神経に、きわめて無礼に、手紙一本で原稿を突っ返すなどという行為をやってのけられるのではないか。
 イーヨーは、もうひとつ、この編集長殿に質問し、返答してもらいたいな・・・・・・と考えたことがあった。それは、たとえば、「子どもの宇宙」に登場している大江健三郎とか野坂昭如とかの場合である。この編集者は、その原稿を読んで気にくわないと思った場合、手紙一本で、それも一カ月も経って、雑誌発行日の前後に、やはり突っ返すのかどうかということである。『海』は、どんな作家の場合でもそうするのだ・・・・・・というなら、それは一つの解答である。解答ではあるが、解決ではない。たとえ、どのような執筆者に対してもそうするのだ・・・・・・と主張してみても、そのやり方の不遜さは消えないだろう。ふつうの編集者なら、そうした場合、まず執筆者に会いにでかけるだろう。どうしても時間のない場合は電話をかけるだろう。理由や事情を説明し、話し合いをするだろう。これは、編集者の最低のエチケットである。『海』には、そうしたエチケットがないというなら別である。
 それとも、大江健三郎や野坂昭如の場合は、手紙一本で片をつけない、編集者としての義務と責任を尽くすというのだろうか。もしそうなら、『海』は、あるいは編集長殿は、(イーヨーの場合、手紙一本で片をつけたつもりになっていることで、また、そうしたやり方を平気でやれるということで)ひどい「差別意識」の持ち主ということになる。成人文学の世評の定まった作家に対する責任の取り方と、じぶんの知らないイーヨーのような児童文学者へのそれとを、はっきり区分したことで、その心情、その考え、その姿勢のほどは明らかになる。
 そういう人が「文学」に関わっている。人間表現という一つの営みに関わっている。その人にとって、「文学」とは何なのか。書くという行為、その行為にひそむ意味、あるいは書かれたものの重みなり存在理由なりを、果たして人間として「判読」できるのだろうか。
 十一月二十三日(火)、イーヨはその編集長に葉書を送っている。これは笑って済ますようなことではないので・・・・・・と、そこに記した。 
 梨のつぶてである。
 何いってんだ、たかが児童文学者が・・・・・・。そう思っているのかもしれない。もしそうなら、その傲慢は、イーヨー個人に対するそれだけではなく、児童文学への蔑視、文学そのものへの蔑視である。推測でものをいうことはよくないのかもしれない。しかし、年末に原稿料が払い込まれたことで、余計な推測をしてしまう。手切金を払うように、金で片をつけたつもりになっているなら、それはもう度しがたい頽廃である。この原稿料は、執筆者として当然受け取るべきものである。話はそこにあるのではなく、『海』が、一篇の原稿を掲載拒否し、それを月遅れの雑誌でも返品するように無造作に投げ返したやり方にある。
 イーヨーは、じぶんの原稿の内容について、何ら忸怩たる思いを抱いていない。この章の中程でも触れたように、それでよかったのだと考えている。しかし、編集長は「意図」の違いを楯に「それではよくないのだ」と繰り返すかもしれない。その場合、イーヨーは、それでは、あなたにとって児童文学とは何なのか。児童文学の現状、あるいは現在とはどういうものなのか。もう一度、もとにもどって問い返すしかない。

 イーヨーは、今日も自転車で走っている。昨日も一昨日もそうだったように、自転車はほぼ二十年来のイーヨーの足である。この自転車暮らしのなかで、イーヨーは何度も舌打ちをした記憶がある。それは、自動車の一旦停止の無視と、狭い通りでのスピードをあげての追い越しである。ドライバーたちにすれば、何をとろくさい乗物でぎこぎこ走っているのだ・・・・・・という気持になるのかもしれない。自転車で横断中、すぐ鼻先まで車のボディを近づける手合いもいる。速度、頑丈さ、大きさ、スタイル。どれをとっても自転車の比ではないだろう。しかし、それはドライバーの属性ではないのである。走る機械の、道具の属性なのである。ドライバーたちは、時どきそれを忘れる。そういう道具にのりなれていると、時として人は、道具の属性を、じぶんの力や価値と錯覚するものらしい。
 イーヨーはそれを考えると、ひどく憂鬱になる。こうしたことは、何も自動車とドライバーの関係に限ったものではないのだろう。『海』は、そのことを改めて考えさせてくれた。

 「生まれてはじめて、海というものを眺めた日のことを、わたしはよく思いだします。海は大きい。海は広い。わたしの視線は、岸から沖のほうへさまよっていって、解放されることを望んだのです。ところが、その先には、水平線がありました。なぜ水平線などというものがあるのでしょう。わたしは、人生から無限を期待していたのです」  

 これは、トーマス・マンの短篇『幻滅』のなかの言葉である。サン・マルコ広場にあらわれた奇妙な男が、「わたし」に向かって語りかけるその言葉のなかに記されている。その男によれば、まことに人生とは、人間の想像力を下まわる「仕切り」に満ちた狭いものであるらしい。

 付記 十二月十日・金曜、S氏の手紙が届いている。これを引用しなかったのは、イ ーヨーのせめてものエチケットである。

 P・S 右の『幻滅』は、岩波文庫版・実吉捷郎訳のものをイーヨーなりに書き改め たものである。
テキストファイル化伊藤紀代美