『日本のプー横丁』(上野瞭 光村図書出版株式会社 1985/12/24)

第七章 ひげのプーさん登場・前後

 ああいうふうには書けないな。とてもじゃないが、ああいうふうには書けないな、とイーヨー
は思う。
 ああいうふう……というのは、「ひげのプーさん」こと今江祥智の書いた『友情の肖像』(理論社刊『今江祥智の本』第二十一巻)を指している。
 四十人あまりの人物について、その出会いとエピソード、それに作品賛歌を記したものである。出会いの仕方、付き合い方を語ることが、そのまま独自の作家論、人物論になっている。「ものを書く」ということは、イーヨーの場合、きわめて神経のぴりぴりすることで、奥歯などがぎりりと磨り減ることなのだが、ひげのプーさんのものを読んでいると、きっとおなじ思いがあるはずなのに、そうした苦労の影はまったくすがたを消している。時には、口笛で、『上海バンスキング』の主題歌などを吹き鳴らしながら書いたのではないか……と思いたくなるような楽しげな顔が浮かびあがってくる。
ひどくいやなことがあって不機嫌に怒っているプー。せっかく一杯飲もうと意気込んでいたのに、みんな帰ってしっまたので、「バカタレめ!」と宙をにらんでいるプー。「ふとっているというとは常に誤解をうけるものであって、淋しがり屋ではないと思われがちやが、そうやないで」と宣言するプー。イーヨーは、多少、ひげのプーさんのそういう顔を知っているので、鼻歌まじりにプーさんがペンを走らせているとは思わないわ、いつも「書かれたもの」の中から聞こえる口笛の音には感心する。
たぶん、ひげのプーの作品の愛読者のなかには、それが波の音であったり、麦わら帽子の日向の匂いであったり、おかっぱ少女の髪の匂いであったりするのだろう。
イーヨーわかつて『児童文学作家案内』なる雑誌に、ひげのプーさんのプロフィルを書くことがあった時、プーさんのことを、「ミダス王の手を持った人間」と記した。ギリシャ神話の中に登場するフリュギアの王様で、ディオニュソスに頼み込み、おのれの手に触れるるものすべてを黄金に変える力を得たあの人物である。現実のひげのプーさんが、ウイスキーやカツオのたたきや自分の娘を黄金に変えてしまったというのではない。もしそうなら、ひげのプーさんは、税金の

季節のくるたびに「アホンダラ!」と叫ぶ必要はなかったし、講演旅行にでかけるかわりに先斗町の料亭に日夜出没していたことだろう。
 イーヨーが、プーさんを「ミダス王」の喩えたのは、その独自の取捨選択の発想法にある。他人さまを「けなす」よりも「ほめる」、そのマイナス面よりもプラス面に焦点を当てる……といえばいいか、日常の言動はさて置き、少なくとも「書く行為」の中でプーさんは、手に触れるものすべてをプー風に調理してしまうのである。
 『友情の肖像』にはイーヨーも登場する。
 イーヨーはどのように調理されているのだろうか。
 イーヨーはかねがね、じぶんを小心者だと思っている。決断すべき時に、いまだその時にあらずと思ったり、いや、その時には違いないけれど、これは右すべきか左すべきかと足踏みをしてしまう。よくわかっているのである。これが、決断を避けるための怯懦な姿勢であることを。そうかと思うと、イーヨーは、「友情」より「わが思惑」を先行させる。「ちょっと一杯、飲むまいか」と肩を叩かれたりする時、「いやカミサンが待っているので……」など、ぶつぶつ口の中でいったりする。相手の思いに、結果として水をかけてしまう。意気に感じて、慢性腎炎のことも、二日酔いで次の日打ちのめされることも忘れて、「ええじゃないか」となかなか呼応できないのである。煙草には「淫する」イーヨーも、アルコールにはどうしても「淫しきれない」のである。それはせいぜい、不眠で困った場合の睡眠薬で、「酩酊の楽しさ」から程遠いのである。だからイーヨーは、酒を飲む場合、めちゃめちゃに酔っぱらうか、だんだん陰気くさく無口になるかどちらかである。イーヨーは、そのことをきっぱりいうことができない。ここでも優柔不断なのである。
 さらにいえば、だれかが困っている時、困ってめげている時、イーヨーは、じぶんの困っていること、じぶんのめげ続けていることを、どうしても先に考えてしまう。そういうことは、だれかに話してもどうにかなるものではないし……と手前勝手にきめつけてしまう。イーヨーは、じぶんがそういう場合、だれかの手を借りたこと、だれかに思いのたけを打ち明けようとしたことを忘れている。じぶん一人で苦境を潜り抜けてきたかのように都合よく錯覚している。
 つまり、イーヨーは、ひどく「いやみったらしい」のである。手前勝手でエゴイスト」で閉鎖的なのである。
 ひげのプーさんは、そういうイーヨーに気づいている。気づいていながら、みごとに裏返しにして描きだすのである。「小心」は「繊細」に、「狐疑逡巡」は「心やさしく」、「手前勝手な閉鎖性」は「自己のペースを崩さない男」というふうに。
 『友情の肖像』に描かれた人物は、右のようにプー的発想の産物なのである。少なくともイーヨーは、そこで、プーさんの手によって「小心翼々の小市民」から「感じやすく心やさしい人物」として蘇生させられている。
 文句をいう筋合いはない。多少くすぐったくても、イーヨーはプーさんの魔法にかかってふわりふわり飛んでいればいいのである。飛んでいるからこそ、飛ばない自分が見えるということもある。飛ばされるからこそ、そういう魔法をかけるプーさんの思いというものが見えるということもある。
 四十余人の「肖像」は、とりもなおさず、ひげのプーさんの「祈念」の結晶であり、常に求め続けている人間の在り方の投影にほかならないのである。モデルとして登場する人物たちは、さまざまな属性をもっている。プーさんは、ほぼそのすべてを見ている。しかし、プーさんはそこから、じぶんの価値観に呼応するものだけを抽出し、あざやかに塑型してみせるのである。
 こういえば、ひげのプーさんは目をとがらすだろうか。それが癖の、「アホンダラ」という罵声がとびだすようにも思えるし、そうでないようにも思える。
 イーヨーは、プーさんの発想にケチをつけているのではない。反対に、毀誉褒貶の弾丸の飛びかう(イーヨーも十発くらいは放っていることだろう)プーさんの、「やさしさ」の一端に触れているつもりなのである。ひげのプーさんには『優しさごっこ』という長編がある。その言葉こそ書名の枠を超えて、じつはプーさんの対人関係の基本姿勢をあらわしているのではないだろうか。
ああいうふうには書けないな……と最初に記したが、ああいうふうというイーヨーの感嘆は、そこのところからきている。ひげのプーさんは、イーヨーの肖像を「優しく」描いてくれたが、とてもじゃないがイーヨーには、プー風に、そんな風に、プーさんを書けないぞという嘆息である。
 それにしても、なぜプーなのか。プーさんの肖像なのか。
 イーヨーはここで、日本のプー横丁にはじめてじぶんの小屋をおっ建てた話しを書こうとしている。その話には、どうしても、ひげのプーさんが登場しないわけにはいかない。そもそも、プー横丁におけるイーヨーの「小屋掛け」は、ひげのプーさんの尽力なしには成立しなかった事柄なのである。もちろん、鍋や釜や窓枠や屋根板や、土台石や支柱や壁石や上敷やと、さまざまな人が手を貸してくれたことはある。それを忘れてはならない。しかし、小屋の設計と敷地の斡旋はひげのプーさんなのである。それだけではない。その日以降今日まで、プーさんは、時には腹を立てながら、時にはがまんにがまんを重ねながら、イーヨーに有形無形の力を貸してくれたのである。何度か「絶交状まがい」の手紙が、二人のあいだを行き来した。しかし、険悪な雲行きの果てに、イーヨーはプーさんを日本のプー横丁を生きるための「同伴者」と思い定めたのである。それは「戦友」の確認であり「仲間」の自覚といってもいい。お祭り好きのプーと自閉的イーヨー。アルコール党のプーとニコチン中毒のイーヨー。抜群の世話好きと抜群の世話ぎらい。めし・魚派とパン・肉派……。すべてに対照的なプーとイーヨーがどうして……と首をかたむけるむきもある。イーヨーはそのたびに、「要するに、これは愛と憎しみの関係なのであって」と、じぶんでもよくわからない言葉を口にして肩をすくめる。
 もし人生が、プー的人間一色ならば、また、イーヨー的人間一色ならば、どれほど索漠としていることだろう。プー横丁にはカンガやコブタやトルーやルーやイーヨーがいるからこそ楽しいのである。それが画一的な(?)登場人物ばかりだとしたら、プー横丁はプー横丁でなくなるだろう。それをだれが望んでいるか。だれも望んでいないと、イーヨは考えるのである。
 ここに一枚の葉書がある。
一九六八年(昭四三年)四月の日付けになっている。ひげのプーさんの挨拶状である。東京の国立から京都の上賀茂に、プーさん一家が転居した通知である。印刷された言葉の後ろに、ペンによる付記がある。
「二週間で、すでにわがうるささ、おわかりのことと存じます。以後、できるだけ気をつけながら襲撃します。いらして下さい。京都アパッチ」と記されている。
 それがそもそもの「はじまり」で……と思わないでもない。自転車で、ほぼ十分の距離にプーさんはやってきたのである。まだ、ひげをはやしていない。転居通知には、ドボルジャークの交響曲『新世界より』がかすかに鳴りひびいている。プーさんは、大学時代、京都に居た。イーヨーと同じように京都にいた。イーヨーとおなじ学校にいた。その頃、イーヨーはプーさんを知らなかったし、プーさんもイーヨーを知らなかった。イーヨーが京都から一歩もでなかったのに反し、プーさんは「花のお江戸」に生活の場をすえた。プーさんは、童話作家であり編集者でもある道を進んだ。今また、大学の教員として新しい方向に踏みだそうとしている。京都は、プーさんを歓迎している。そんなふうに思える。新居からわずかなところに鴨川は流れているし、背後には比叡山が悠揚とそびえている。プーさんは「書くぞ」と思う。じぶんの前に豊饒の時間がこれからひろがりそうな予感がする。酒はうまいし「成田」の漬物はうまい。プーさんが胸をはずませて、挨拶状の言葉を書きつけたのもむりはない。プーさんは、じぶんの喜びは人もまた喜びとするはずに違いないと思ったし、それを形にあらわすならば酒肴こそ万人の納得するところだと思ったし、プーさんの家はたちまち客人であふれた。
 十五年前の話しである。
 イーヨーは、その頃の日記をひっくりかえしてみて、今以上に灰色の時間に包まれていた自分を眺めてしまう。

三月七日(木)鞍馬口病院でレントゲン。十二指腸潰瘍。
三月十五日(金)朝、中学・高校の判定会議。午後、職員会議。A先生の辞任願いについて意見を述べたところ、M校長の意丈高な反論をくう。会議後、組合の臨時総会。諸手当、臨時割増給の廃止による現行給与の実質的減給の問題。私学経営の苦しさを、教職員の生活給にしわよせする発想である。
三月二三日(土)カント哲学のI先生をたずね履歴書を渡す。四十にして転職を考えなくてはなぬとは。
四月七日(日)プーさん、新居入り。朝十時より手伝いにいき、夕方、一旦帰宅。夜、プーさんの家で飲む。

イーヨーは、この日記の裏側にいるじぶんがよく見える。じぶんのことだから当然の話しだが、それは正直いって二度ともどりたくないじぶんの姿である。このすぐあと、イーヨーは平衡感覚の機能障害に見舞われ、頭痛と目まいと、足のしびれで、よく立っていられなくなる。注射とヘクサニシッドという薬で、何とか勤め続けている。イーヨーの症状をいいたいのではない。プーさんにとって「新世界」であった町が、イーヨーにとっては昨日に続くただの町であったことをいいたいだけである。プーさんの張り切った投球を受けるには、イーヨーのミットはぼろぼろだったということである。
プーひげさん(と)の話しを書きだすときりがない。おそらく、イーヨーが児童文学に関わるかぎり、それは続くだろう。イーヨーが「児童文学に関わる」ということは、ひょっとすると「プーさんと関わる」ということかもしれない。昨晩も(一九八三年五月二十一日の話である)、二人して講演の終わったあと、「梁山泊」でそういうことを口にした。ひげのプーさんはウイスキーを、イーヨーは生ビールを飲んでいた。ほぼ半月ぶりの「対面」である。プーさんの横には、プーさんの伴侶となるべき人がいて、プーさんの教え子だったひとがいて、プーさんの原稿を取りにきた人がいて、みんな女性だった。イーヨーは、ジョッキ三杯でまず完全に酔っぱらった。酔っぱらうと口が悪くなる。「あのね、プーさんや」などというかわりに、「おい、プー」と平気で呼び捨てにする。「おれはな、プー。おまえがいるから児童文学などやっているのであって、おまえがいなければ、児童文学などとっくにやめているぞ」。ひどい発言である。「子どものために書く」など宣言する作家が多いなかで、これは何たる言い草だろう。「まじめに」「児童」と「文学」の関わりを考えている人にっとてはたぶん、許しがたい言葉だろう。
鶴見俊輔さんがかつて、『児童文学アニュアル1983』(偕成社)の編集会議の席で、「お互いの背中を流し合う」たぐいの言葉であるかもしれない。プーさんはよく肥っている。これまでに何度か、イーヨーは、その脂肪部をつまんだことがある。「すごい肉だなあ」と感嘆したことがある。もちろん、素面の時にそんなことをするはずがない。だいたいにおいて、そういう時は、イーヨーが、「カラミティジェーン」になっている。プーさんが「カラマレゾーフの兄弟」の立場に甘んじている。脂肪部位の感触からいうのではないが、「背中を流し合う」とすれば、プーさんのそれは、流しごたえのある背中である。しかし、イーヨーには、プーさんの背中を洗い流し、また反対に……といった考えはない。それは情景としては微笑ましいが、「もの書き」のすることではない。
一時、プーさんやイーヨーたち(?)を指して「京都学派」という俗称が使われたことがある。
「ふつう京都学派とは、座談会(イーヨー注・昭和一八年、太平洋戦争さなかの雑誌『中央公論』収載「総力戦理論の哲学」を指す)の出席者、高山岩男、高坂正顕、鈴木成高、西谷賢治の四人のグループをさしてよばれる」「また、座談会には出席しなかったが、このグループと殆ど同じ思想的立場にたっていた柳田謙十郎も、京都学派のなかに入れてかんがえられるばあいが多い。しかしこれらの京都学派の哲学をそだてたものは、むしろ西田哲学であり、京都学派の転向原因をさぐるためには、その発想のパターンになった西田哲学にまで遡ってかんがえなければならぬ……」「ところによっては、西田―田辺―世界史グループにつながる、ひろい意味での京大哲学の意味に用いたところもある」と後藤宏行は書いている。(『共同研究・転向』中巻・平凡社・一九六二)
イーヨーは、過去において時局に便乗したような「学者たち」の俗称を、日本のプー横丁に持ち込むことに首をかしげてしまう。それならいっそ、「兇徒学派」「匈奴学派」とでもいえばいいのにと考える。たまたま、プーさんもイーヨーも京都にすんでいるため、そうした俗称が使われているのだろうが、「学派」を名乗るほどイーヨーもプーさんも「学的」ではない。
「プー、おまえがいなければ……」という酔余の発言は、だから、「日本のプー横丁におまえさんがいてうれしい」というイーヨーの感傷的言辞なのである。そこには、「いろいろあったが、ようやってきましたな、プーさんや」という嘆声も混じっている。そりゃそうだろう。ひげのプーさんは、離婚後、男手ひとつで娘を育ててきた。その十余年は、言葉にすれば簡単だが、一年一年が、一日一日が、時には一分一秒が、泣き笑いの交錯した、怒りと憂鬱の混在した長い時間だったに違いない。プーさんだってめげるのである。ただ、イーヨーと違って、「めげるじぶん」を受け入れようとはしない。三分前めげていたとしても、来客のベルの音と共にそういうじぶんを脱ぎすてる。「親がなくても子は育つ」などと軽くいってのける。苦渋に満ちていればいるほど陽気に振舞おうとする。弁当を作り、洗濯をし、掃除をし、ガスの集金に応じる。そういう「主婦業」のなかにあって、プーさんは、恋も忘れず、イヴ・モンタンへの熱いまなざしも忘れず、映画を見、本を読み、芝居にでかけ、レコードを聞き、ビデオでドラマを収録し、教師稼業を続け、講演をやり、接客サービスのペースを崩さず、酒を飲み、だれかれをののしり、だれかれをほめちぎり、時には水練に通い、犬の散歩を続け、常に常に書き続けてきたのである。
感傷というものが、人間関係において、有害無益の何ものでもないとしても、こうしたプーさんをみていると、イーヨーならずとも、時には感傷的になるのではないだろうか。「戦争体験」というものが、それを潜り抜けた人にとって、特別の意味をもってそののち人生に影を落としているとすれば、プーさんと関わった「プー体験」というものは、それとおなじように、プーさんと交わったひとびとに影をおとしているに違いない。ただ、イーヨーにとって、その二つの「体験」に違いない。ただ、イーヨーにとって、その二つの「体験」に違いがあるとすれば、後者は前者と違って、完了した体験でなく、現在進行形の体験であるということだけである。
繰り返すようだが、プーさんのことを書こうとするときりがない。イーヨーはここで、「小屋掛け」の話しを書こうとしているのである。イーヨーの最初の本『戦後児童文学論』(理論社)がでたのは、一九六七年(昭四二)である。その頃、イーヨーは、プーさんのことをよく知らなっかた。そもそも、はじめてプーさんに会ったのは、一九六六年(昭四一年)五月のことで、その二十一日(土)、お茶の水の明治大学(大学院南講堂)で「日本児童文学者協会創立二十周年記念・児童文学討論会」(注)が催されることになっていた。

「前略、二十一日ごろ東京へ来たとき、宿はどのようにするか。二十一日、二日と泊まって、二十三日の月曜に理論社へ行き、小宮山氏と話すようにしたらどうかと、今江もおれも考えている。せまいが、うちにとまるか。上笙一郎が去年、京都へ行ったとき、君に話したこと、今江君の手紙で見た。(中略)上笙の善意もうたがわないが、こんどのこと、上には関係のないことだ。今江、古田の合議の結果である」

五月十三日付、古田足日の葉書である。
「中略」とした個所は、たとえていえば、「映倫」がベッド・シーンに入れた「ぼかし」のようなものである。古田足日が、「露骨な性表現」をやっているというのではない。古田がそんなことをするはずがない。それどころか、古田はそこで、イーヨーの動揺する気持を軽く叱責したのだが、それがイーヨーだけに止まらなかったからカットしたわけである。
こういう「自主規制」をやりながら、イーヨーは、改めて、「他人さまの書簡を引く」ということについて考え込んでしまう。「私信」を引くということは、時と場合によっては「闇討ち」に似ていないでもない。もしイーヨーの私信を、だれかがそのエッセイの中で使ったとしたらどうだろう。イーヨーだって激怒したり困惑したりするに違いない。古田には最初に電話で断ったとはいうものの、それとて無限にいいというものではない。
イーヨーが、他人さまの手紙を、捨てもせず、きちんと年度別に残しているというところに問題があるのかもしれない。
ケストナーの『雪の中の三人男』(一九三四)を読むと、失業中の主人公に母親のハーゲドルン夫人がつぎのように語る個所がある。
「お金を持っているということは、たいていその人の責任ではないのです。多くの人は、ただ神様が、やさしい思いやりをお持ちだからこそ、お金があるんだと、わたしは思います。神様は、その人たちをおつくりになる時、何もないよりましだとお考えになったのです」
さしづめ、イーヨーは、「何もないよりましだ」という「神のおぼしめし」で、お金のかわりに他人さまの手紙を持っているのかのしれない。
「私信」は、それが書かれた時代とそこにいた人びとを蘇らせる。だからといって「私信」で時代史を編めるものではなかろう。それは私権侵害以外のなにものでもない。「引用」は、「私信の書き手」の善意を示すものに限り、それもイーヨー一人にはねかえるものでなければならない。そういう「原則」を忘れないでおこうと、イーヨーはぶつぶつ呟く。

「ティーチ・イン」と銘打った二十一日の集会は、討論参加者としてイーヨーにもお呼びがかかっていた。声をかけてくれたのは、雑誌『日本児童文学』の当時の編集者・塚原亮一である。その一つ前の編集長・来栖良夫の時から、イーヨーは精力的に原稿を送り込んでいた。日本のプー横丁「主従関係」はないであろうが、それにしても、だれが相当の発言権を持ち、だれがどういうことを考え、だれがだれと親しくて、だれとだれいがみ合い、だれが多数の著書を持ち、だれが著書を一冊も持たず……などということは、まったく知らなかった。イーヨーの「プー横丁理解」の程度は、ほぼ十年前の「児童文学実験集団」のあたりで止まっていた。それも、ひどくあいまいなままである。
昨年、(一九八二年)遠藤豊吉と顔を合わすことがあった時、イーヨーは「はじめまして」と挨拶して、遠藤豊吉から、「はじめてじゃないですよ、児童文学集団でいっしょだったでしょう」と軽くたしなめられ、(あれ、そうだったかな)とじぶんの記憶力の貧しさにあきれたことがある。イーヨーは、じぶんでも、「児童文学実験集団」のメンバーはだれそれで……と記しているくせに、ほんとうは、その半数近い「仲間」を知らなかったのである。大石真、神宮輝夫、鈴木喜代春、江部みつる、上笙一郎、それに山中恒がそうである。イーヨーの「プー横丁の理解」もっぱら古田足日を通してであり、古田足日とそのまわりにいるものが「プー横丁」の住人(いや、居住希望者)だと思い込んでいたきらいがある。
こういう「認識」の幅の狭さは、今もイーヨーにあって、「プー横丁情報」のほとんど八割方は、ひげのプーさんを介してのものである。イーヨーは自己閉鎖的なのである。テレビの昼番組に『笑っていいとも』というのがあるが、そこで、タモリがいう「友だちの友だちは、みな友だち」という言葉、あんなふうにはいかないのである。
たとえば、最近、「宅間英夫追悼集編集委員会」なる集合体から、京都こどものとも社もと社長の追悼文集のため一文を寄せよ……という依頼があった。ひげのプーさんも発起人である。イーヨーは、宅間さんをしらないわけではない。ひげのプーさんに紹介されて、いろいろな席で何度も顔を合わせている。宅間さんが入院した時、富田病院へカミサンといっしょにお見舞いにもいっている。しかし、それは、プーさんが世話になった人ということであって、イーヨーには、宅間さんとの「つきあい」というのがまったくないのである。常にどこかで、多数の人がいるなかで、立話をした程度なのである。
ひげのプーさんはそうではない。宅間さんの書き残したもの、プーさんの話してくれたことから推測できるとおり、言葉ではいいつくせないほどの深い関わりを持っているのである。
ひげのプーさんは、じぶんがこれほど深い関わりを持っているのだから、プーさんと親しいものは、すべておなじくらいの関わりを持っているに違いないと考える。プーさんでなっくても、プーさんの家に出はいりしていたものは、イーヨーが、それなりの関わりを持っていたと考える。違うのだなあ……と、イーヨーはいつも憮然とする。そう思い込んでいる人びとに、そうじゃありませんよ」といってまわるのは大人気ないし、第一、だれがどう思い込んでいようと、地球の自転に変動はきたさないのである。
こういう場合は、ひげのプーさんの家で顔を合わせた記憶、宅間さん自身の書いたものから「追悼文」をまとめあげればいいのかもしれない。やってみれば、できるかもしれない。しかし、それは明かに「人間関係」の「粉飾」であって、どこかでじぶんと人とを偽ることになる。
癌で倒れた乙骨淑子。縊死した詩人の黒瀬勝己。この二人の「追悼文」を書くようにはいかないのである。二人は、イーヨーの中を走り抜けていった。先日亡くなった寺山修司の言葉を借りれば、キャッチ・ボールの関係があった。たぶん、宅間さんもそれとおなじように、ひげのプーさんの中を走り抜けていったのだろう。ボールを投げ、ボールを受け、またそれを投げ返し……といった関係があったのだろう。だが、それはあくまでプーさんとの間のことであって、イーヨーとの間のことではない。
こういうことをいうから、「イーヨーは冷たいやっちゃ」とプーさんは不機嫌になるのである。わかってはいるが、だからといって、「友だちの友だちは、みな友だち」というふうにはならなないのである。
イーヨーは、日本のプー横丁の住人についてまったく無知であった。(今だってほとんど変わっていない。)そこまで記した。だから、一九六六年の時点でイーヨーに声をかけてくれるひとだけが、日本のプー横丁の住人に思えた。紙面を提供してやろうという来栖良夫も塚原亮一も、いってみればその頃、人生の海底に埋没しそうなイーヨーにとって、救命ロープを投げてくれる人だったといえるだろう。イーヨーは、ただ書いた。胃と腸が交互に潰瘍を起こし、神経が細いピアノ線となって鳴りひびいた。児童文学における「戦後」の問題♀毫を書き続けることは、イーヨーの浮沈に関わる問題だった。その道がどこにつながるか。そういうことはまったくわからなかった。
その頃、上笙一郎が京都にきた。学会の仕事なのか、講演なのか、覚えていない、上笙一郎に会うのは、「児童文学実験集団」以来のことだった。イーヨーにとって上笙一郎は「日本のプー横丁からきた男」だった。上笙一郎に限らず、かつての「児童文学実験集団」のメンバーの多くは、「日本のプー横丁」に「小屋掛け」を終わっていた。上笙一郎の「老成」したような喋り方は以前とまったく変わらなっかた。上笙一郎は、イーヨーの書いたものを読んでいるといった。あれなら理論社あたりで本になるのではないかといった。何なら小宮山社長に会った時、仲介の労をとってもいいといった。
イーヨーは、出版社のことなど、足指の爪の先ほども知らなっかた。それははるかか遠く、バビロニアの首都とおなじだった。さりげなく「社長」のことを口にする彼が、バビロンの首長の親しい友人のように思えた。イーヨーは、上笙一郎を「神」のごとく仰いだ。考えもしなかったことが、今、この男の手で開かれようとしている。感激のあまり、イーヨーは、じぶんのしっぽを何度も噛みしめた。しっぽは、ほこりっぽくて、にがかった。
それから、三通の手紙が上笙一郎からきている。理論社のほうに持ち込むから目次を作成しておくように……ということと、雑誌連載のイーヨーの評論に理論社側は注目しているということと、かりに出版を了承してくれても、本になるまでに一年二年はかかるかもしれないといった内容である。
突然、古田足日から電話がかからなかったら、イーヨーは「バビロンの首長の友」の夢をみ続ていただろう。

「いま、今江祥智から電話があり、きみの戦後論を理論社から出すことが、だいたいきまったという。ほうしたことは、実際、本になるまではどこまで確定か、安心できない部分がいつまでものこっているが、とにかくよかった。こっちも肩から重荷がひとつおりた感じ。おっての連絡は今江氏からあるだろう。(以下略)」(一九六六・四・二〇)

古田足日の葉書である。先の葉書よりほぼ一カ月前の日付である。そして同日、ひげのプーさんのはじめての手紙が到着し、イーヨーの「小屋掛け」は、がぜん現実化し始めたのである。
消えずに今も困惑の思いが残っている。十七年前の話しなのに、その時感じた狼狽の思いが、今もイーヨーの中を走る。イーヨーを助けようと投げられたロープは二本。「助けてくれ」と叫んだ時、上笙一郎が最初にロープを投げてよこしたのである。古田たちは、それとは別に、溺れているイーヨーのためにロープを投げる相談をしていた。イーヨーはそれを知らなかった。そのロープこそイーヨーを救いあげる強力なナイロン・ザイルだったとしても、先のロープが「くもの糸」だったとはいえないだろう。
イーヨーはひどく気まずい思いで上笙一郎に手紙を書いた。古田足日と、いぬいとみこと、まだ会ったことのない今江祥智がロープを投げてよこしてくれたことを。また、今江祥智にも書いた。上笙一郎がかくかくしかじかのロープを投げていてくれたことを。それが古田足日の五月十三日付の葉書に記されているのである。
こうしたことは、どうでもいいことだろうか。書かれたものを読む「読者」にとっては、どうでもいいことかもしれない。それどころか、じつにくだらないことかもしれない。しかし、日本のプー横丁に「小屋掛け住まい」を始めようとするイーヨーにとっては、触れずにおれなかったことなのである。一冊の本が生まれるためには、いろいろな人が手を貸してくれたということを忘れるわけにはいかないのである。
この時点で、イーヨーは、まだプーさんに会っていない。ひげのプーさんがいかなる人物あるかも知らない。二十一日の「ティーチ・イン」がすぐ目の前にきている。
イーヨーは、カバンに胃薬と頭痛薬と目薬をつめ、歯ぶらしと手拭いと雨傘をつめ、そして「バビロンの首長」たるこれも未知の小宮山量平氏に会うため、架空の本のための「目次一覧」を滑り込ませたのである。

注  『児童文学討論会』は、第一部「伝統と創造――未明伝統批判などをめぐって――」として、与田準一、関英雄、いぬいとみこ、中村新太郎、塚原亮一、西郷竹彦が参加。第二部「思想と方法――戦争児童文学を中心に――」として、石森延男、前川康男、古田足日、西本鶏介、石上正夫、イーヨーが参加。第三部「これからの児童文学」として、藤田圭雄、上笙一郎、斉藤英夫、今江祥智、小沢正が参加した。司会は、菅忠通、横谷輝、神宮輝夫。
なお、右の文中のケストナーの作品訳者は、小松太郎ではなかったかと思っている。
テキストファイル化高松佐知