『日本のプー横丁』(上野瞭 光村図書出版株式会社 1985/12/24)

第十三章 お葬式

 あの年はひどい年だったな……と、イーヨーは考える。ほんとうはあの年だけがひどいのではなくて、そのあたりの何年かがひどいのであって、だから、あれは前ぶれのような年だったな……と、とんとんとんと大根を刻む。
 春から夏に移ろうとしていた時期に、右眼をなぐられ、夏から秋への移り目に、自転車から転落し、吐血入院したおやじさまが、癌だと分かったのは、秋の終わりだし、そういえばあの年、正月早々から、ばりばりばりと……。
 イーヨーは、刻んだ大根をボウルに移し、人参の千切りに取りかかる。
 八千五百人だったかの機動隊が導入されたのが朝の七時。ダックスフントみたいな胴長のヘリコプターが、空中から催涙液混入の水を投下し始めたのが、一時間後の八時。下からも放水が始まり、水また水の中で、火炎ビンを投げ続ける東大安田講堂屋上の学生たち。それを、テレビで眺めながらパンをかじり、あわてて出勤して、夕方もどると、またその続きを見て、つぎの日も朝から続きを見て、結局、夕方の六時すこし前、学生たちが抵抗をやめるまで、イーヨーはテレビをにらみ続けていたのだった。あの頃、学園紛争は大学だけに止まらず、イーヨーの通っていた職場にも波及して、あれは「H反戦会議」と名乗っていたか、他校の封鎖に参加し、秋には「西本願寺乱入事件」として問題になり、処分の可否を問う会議が繰り返された…。
 電話の鳴ったのは、カイワレ草を洗い桶につけた時だった。
 日曜日のその時刻、めったと電話はかかってこない。夕飯の支度に一番いそがしい時だから、つい舌打ちなんかしてしまう。普段でも電話のベルが鳴ると、思わず眉をしかめるイーヨーだから、カイワレを洗い終るまで電話に手をのばさなかった。
 「もしもし、イーヨーさんですか」
 知らない声だった。知らない声でかかってくる電話にろくなものはない。なんとかメンバーズ・クラブだとか、凸凹証券だとか、高級マンション御利用をとか、まるでこっちが、縞の財布に五十両でもしのばせているみたいに考える奴ばかりだ。
 イーヨーは、会議があって台所に立てないだけで不機嫌になる男だから一九六九年(昭四四)の「湿地生活」を思いだしながら、「牛肉炒め大根サラダ」を作りつつあったその時も、クソッタレメと思わず口の中でののしった。
 「わたし、平山と申します。じつは、新村徹が危篤状態なので、こうしてお電話しています」
 イーヨーは、一瞬耳を疑った。(マ、待ッテ、チョット)という気持ちだった。
 「新村徹て、それ、トオルさんのことですか。ど、どうしてトオルさんが危篤なんです」
 「はい、昨夜、新村徹は、交通事故に遭いました。学校からバスで帰ってきたのですが、バスを降りて道路を横切ろうとした時、バイクが突っ込んできたそうです。すぐに病院に運ばれましたが、意識がもどらず、今も出血が止まらないそうです。申し遅れましたが、わたし、新村徹の妹の連れ合いです。病院では、かりに命を取り止めても植物人間になるといっています。じつは、今江さんのところに電話をしたのですが、お留守のようすなので、どこへ連絡すれば今江さんに伝わるかと考え、イーヨーさんのところへお電話したしだいです」
 イーヨーは椅子に坐り込んでしまった。今の今まで弾んでいた気持ちが、くたくたッとなえてしまった。(ウソッ!)と思った。ニコニコしているトオルさんの顔が浮かんだ。トオルさんは、いつもにこにこしていた。
 「イーヨーさァーん、いるゥ?」
 自動車で家の前までやってきて、門の外から声をかけたトオルさん。
 「これ、もらって。重いけど邪魔にはならんと思うんやけど……」
  そういってじぶんが改訂編集に加わった『広辞苑』(第二版・岩波書店)を手渡してくれた。
 「紹介します。この人は新村徹さん。『広辞苑』を作ったかの有名な新村出さんの孫で、おやじさんはこれまた、かの有名な新村猛先生。猛先生にはものすごうお世話になったのでありまァーす。トオルちゃんでーす」
 イーヨーは、ひげのプーさんから、そんなふうにトオルさんを紹介された。たぶん、ヘリコプターが、ばりばりと空中を旋回していたあの年に違いない。
 「烏丸車庫のパチンコ屋さんの前で、ばったりプーさんに会ったのよ。プーさんが京都に移っていたのは知っていたんやけど、あんなところで会うなんて、考えてもみなかったんよ」
 トオルさんは、プーさんとの再会をのんびりした口調であとで語った。
 「プーさんは、うちによく遊びにきていてね、姉のところにもきていたんよ。それでいろいろあったのやけど、今頃、パチンコ屋で再会するとはね……」
 トオルさんの喋り方は、プーさんとは反対に、ひどくスローである。一つの話題から別の話題に器用に跳び移れない。みんなで話し合っている時、どうしてもワン・テンポ遅れてしまう。話をゆっくりと反芻しているようなところがある。プーさんやイーヨーより若かったのに、その頃すでに、おっとりした「大人の風貌」があった。
 「もしもし……」
 最初の電話から三十分経つか経たない頃、さきほどの平山さんから第二の電話がはいった。
 「やっぱり、だめでした。今さっき、亡くなりました。十五分位前だそうです。今、病院のほうから連絡がはいりました。あとのことは、まだわかっていません」
 息苦しくなった。胸のあたりに圧迫感がひろがった。イーヨーは台所に立つ気がしなくなった。
 ひげのプーさん宅に電話を入れた。呼びだし音がむなしく鳴り続けた。プーさんは講演にいったはずだし、今頃はどこかで、夕食がわりのウイスキーを流し込んでいるはずだった。ひどく心がせいた。
 電話帖で「徳正寺」を探しだし、ダイヤルをまわした。徳正寺は、秋野等さん・井上章子さんの住いである。いつ頃からか、この二人は、プーさんを支える「心やさしい人」として登場していた。気がつくとイーヨーも、 旧知の間のように話したりしていた。しかし、この二人が、いつどのような形でプー・サイド二登場したのか、まったく知らないのである。プーさんも語らないし、イーヨーも聞かない。たぶん、今は亡き「こどものとも社」の宅間英夫さん同様、プーさんのいちばんしんどい時期に登場したのではないかと、推測するだけである。
 プーさんが、離婚直後の苦衷をボールのように握りしめ構える。そいつをズズズバーンとだれかに投げずにはおれない。イーヨーはとてもじゃないが、「捕手」をつとめていられる状態ではない。なんだ、灰色ろば奴、わしの球も受けてくれんのかと、プーさんはカッカする。その時、すばやくミットをはめてグラウンドにあがったのが、等さんや章子さんではないだろうか。
 電話で突然の死を知らされたトオルサンも、そういえばまた、プーさんのボールにミットを構えた「名捕手」の一人だった。
 徳正寺では、プーさんの漂着場所がわからなかった。イーヨーは、「梁山伯」に電話した。ダンサンこと橋本憲一さんと蛸井さんが、調理するすぐ前で、カワハギの肝をサカナに水割りを飲んでいるプーさんとお栄さんの姿が浮かんだ。プーさんはいなかった。
 もう一度電話帖を繰って、「ロージ・シェ・モア」を探した。これがイーヨーの思いつく最後のプーさんの寄港地だった。この店はプーさんの家のすぐ近くにあって、プーさんの好みからいえばめずらしく、西洋料理専門店だった。狭い店内で、十人も坐れば超満員になる。オーナーの青谷さんは、「トオルさんが……」と驚いた。プーさんはいないが、すぐに心当たりに電話してみるといってくれた。
 イーヨーはカミサンと二人、つましく夕食をとった。「牛肉炒め大根サラダ」は、いつものそれとは違い変に索漠とした味がした。テレビで大河ドラマ『山河燃ゆ』を眺めながら、イーヨーは、それとは別のドラマが、ストップ・モーションの形で頭の奥のほうに写っているのを感じた。
 九時にチャンネルをまわした。「やあ、またお会いしましたね」のおじさんが画面にあらわれた。『ザ・デイ・アフター』が始まり、しばらくすると電話のベルが鳴った。プーさんだった。
 「聞いた」とプーさん。声がかすれている。
 「うん」とイーヨー。画面に閃光が走った。
 すこし間があって、プーさんが聞きとれない声で喋りだしたが、イーヨーにはよくわからなかった。平山さんから電話を受けたことを繰り返すしかなかった。ブラウン管の中ではつぎつぎに閃光が走っていた。アメリカ合衆国に核ミサイルが降り続けていた。
 プーさんがまた呪文を唱えた。イーヨーはやりきれなくなった。
 「あのね、今、ミサイル攻撃を受けているところなんや。だからトオルさんのことは改めて連絡があると思うから、それまで待たんと仕方ないよ」
 話はつながっていないのだけれど、イーヨーとしてはそうとしかいいようがないのである。
 電話を切ってから、ああ、こういうことが前にもあったなと考えた。
 灰谷健次郎さんの『兎の眼』がでた年だから、一九七四年(昭四九)の六月である。前日から東京にいたイーヨーは、その日、プーさん父娘といっしょに新幹線で京都にもどることになった。プーさんもイーヨーも、帰りぎわに寄った小宮山量平サンの仕事場で、できたばかりの『兎の眼』をもらった。イーヨーはそれをカバンに押し込んだ。
 新横浜を通過した頃、プーさんが『兎の眼』を取りだした。挿絵、装幀の仕方に一言あり、それから頁をぱらぱらとめくった。
 「イーヨーさんよ、これは原稿の段階で読んだんやけど、なかなかの作品やで。ちょっと目を通しといたほうがええのと違うか」(注1)
 プーさんはカバーをはずし、表紙をさすり、見返しを眺め、奥付を丹念に見た。
 「いや、今はこうしとこ」
 イーヨーは、『兎の眼』のはいったカバンを網棚にぽんとほうりあげた。
 プーさんはちょっと眉をよせた。
 イーヨーの古い日記によれば、そこのところは、つぎのように記されている。
 「…東京駅『けやき』で夕食をよばれ、六時三十分の『ひかり』にのる。車中、プーさんと二人で大声で話し、大声で笑う。ああ、中年よ!」(六月二十七日、木曜の一部)
 その時はそれだけのことである。
 「ああ、こういうことが前にもあったな」というのは、それから何年か経っての話である。
 プーさん宅だったと思う。当の灰谷健次郎がいて、ほかにもだれかいて、お酒を飲んで手前勝手なことを話し合っていた時、『兎の眼』に話題がとび、それについてイーヨーがある雑誌に書いたということから、ふいにプーさんがこういった。
 「そやけどイーヨーは、『兎の眼』ができた時、読まんと網棚にぽんとほりあげてしもたやないか。わしはよお覚えてるんやぞ」
 イーヨーはひどくうろたえた。
 プーさんの言い方では、イーヨーが『兎の眼』などまったく軽視して、読むに値しない作品のように取り扱っていたことになる。イーヨーはそうだったのか。とんでもない。「網棚にぽんとほうりあげた」その年の十一月、イーヨーは退職したばかりの佐保女子短期大学の学園祭で講演することになり、一時間半にわたって熱っぽく『兎の眼』の話をしたのである。ただの「讃仰」に収支することなく、そこから派生するだろう危険性(それは読者の受け止め方の問題といいかえてもいい)に触れたつもりである。速読ではなく、四つに取り組んだ読み方をしたと思っている。それには、話し相手を隣に置いて、ざっと目を通すわけにはいかなかったのである。ばかげた話かもしれないが、イーヨーはテレビ・ドラマだって一生懸命に見てしまう。話しかけられたりすると、ひどく不機嫌になる。それとおなじで、本を読む時もまわりに人がいては困るのである。「網棚にぽん」というのは、イーヨーにとってそうした「背後」(?)がある。プーさんは、そこのところを「ぽんと網棚にのせて」いた。
 プーさんは意地悪だったのか。ただの早呑み込みにすぎなかったのか。
 電話を切ったとき「ああ、こういうことは……」とふと考えたのは、そのことである。また、いってしまったな……と思った。今度は『兎の眼』ではなく『ザ・デイ・アフター』であり、「網棚」ではなく「テレビ」だった。
 その日から(というのは、平山さんの電話のあった十月二十一日からということだが)一ヶ月以上経っている。そのすこし前から始まったイーヨーの右足ひざ内側軟骨の炎症は、未だに続いている。
 整形外科の医者は、レントゲンを撮り、「異常を認めず」と診断したが、立つ時、坐る時のこの激痛は異様である。腰骨にまでひびく。歩く一歩一歩が「タ、タ、タタタ…」である。ああそうだ……と思う。アンデルセンの『人魚姫』のことを考えてしまう。魔女のばあさまに、声と交換に人間の足を取付けてもらった六番目の人魚の娘は、まわりの人間にはわからないが、歩くその一歩一歩、錐で足の裏を刺されるような苦痛にさいなまれた……と記してある。これじゃまるで「醜い人魚のオジン」ではないか。
 人間は肉体の一部が故障すると、精神まで歪むものらしい。とくとくとくと規則正しい胸の鼓動に従って物事を考えるより、ずきずきずきと打電される故障部のリズムによって行動し物事を考えてしまう。
 この章は、特にそうかもしれない。イーヨーは「湿地の日々・一九六九」のことを書こうとして、なかなかそこに踏み込めない。トオルさんのことばかり考えてしまう。

 十二月二日(日曜)。井上美知子さんより電話。「はい、新潟、長岡からです」という。だんなは二階で、学校から持ち帰った仕事をしているし、一年生の息子さんは、すぐそばで『キン肉マン』を眺めているという。用件のついでに、こちらも、トオルサンが東京の町田市に移っていったのは昭和何年だったか聞いてみる。井上さんは、「あれは、わたしが結婚する前の年ですから、昭和五十年です」という。「昭和四十七年、わたしが大学院の一年生で、その頃から新村さんとは親しくお付き合いしていただいたと思います」という。
 イーヨーは電話を切ってから考えた。
 昭和五十年に町田に移ったということは、つまり一九七五年にトオルさんが桜美林大学の中国文学専攻の教員になったということである。そういえば特定の大学で席を持つまで、トオルさんは、立命や同志社の嘱託講師として中国語を教えていた。
 「よくもこれだけといいたくなるほどたくさんいる大学生に、ばかみたいに大きな口をあけて、四声の発音練習をやっているのよ。いやあじっさいに疲れるねえ」
 トオルさんは、自転車を押しながらゆるやかなテンポで喋る。
 「そういう授業が、一日二齣も三齣もあると、さすがにいやになるんよ。大学にでない日は『広辞苑』の改訂の仕事やしね、これもまた繁雑きわまりない作業で、こっちはこっちなりにしんどいね」
 たぶん、トオルさんが中溝町の家にいた頃のことだろう。中溝町の家は、イーヨーの住いから自転車で五分位の距離にあって、板塀に囲まれた閑静な邸宅だった。もと桂小五郎こと木戸孝允の屋敷で、それを新村出氏が買ったと聞いたことがある。そうではなく、別のだれかの旧宅であったとしても、それはトオルさんに関係はないなと、イーヨーは考えていた。
 おやじさまが戦前「思想犯」として逮捕されたことも、じいさまが「名誉の称号」を受けた大学者であったことも、確かに新村徹の背中に気づかずにのっかかっているのだろうが、イーヨーは、そういうふうには考えないし、そういう彼ではなく、児童文学を共に語り合える仲間の一人としてトオルさんと付き合ってきたつもりである。
 中溝町のその家は、今、財団法人ナントカになっている。イーヨーは、その家に、原稿のコピーを取りにいったり、戦中の子どもの雑誌を借りにいったりした。
 雨の夜、タクシーにのっていて追突され、ムチ打ち症になった時、あの独特の首枷(?)を貸してくれたのも彼である。
 「イーヨーさん、ぼくのやつ使いなさい。ぼくも追突されたことがあってね、その時使っていたやつなんだけど、首は大事やからね、これ役に立つと思うよ」
 今度は役に立たなかったのである。平山さんの電話のあと、トオルさんの首枷のことを思いださずにはいられなかった。
 中溝町の、広いがやや暗い感じの家から、彼が下賀茂の家に移ったのは、一九七二年(昭四七)だろう。イーヨーの日記には、「四月三日、月曜。自転車で徹さんの新居を見にいく。その足で生協へいく」と記されているからである。
 イーヨーは、カミサンといっしょに、トオルさんに案内され、台所から二階までぐるぐる見てまわった。そのあと、奥さんの香代子さんのいれてくれたお茶を飲み、「それじゃ、また」と自転車にまたがった。それから彼が東京に越すまで、何遍その前を自転車で通ったことだろう。春も夏も秋も、トオルさんは、家の前にある道路分離帯に作った草花に、水をやったり手入れをしたりしていた。「やあ」と手をふり合った。
 イーヨーの日記にはトオルさんがたびたび顔をだす。一九六九年では、たとえばつぎのとおりである。

 「九月六日、土曜。プーさんより電話。岡林信康がきているからこいよ……という。困ったなと思うが結局でかける。すでに徹さん、有馬敲がきている」
 「九月十日、水曜。夜、『らんぶる』で「成人講座」の打ち合わせ。前まえからの約束なので体を気にしながら出席。土方鉄、片山寿昭、 プーさん、徹さん、それにイーヨー。京都市教育委員会より二名出席」
 
 その頃、プーさん宅には、時どきフォーク・シンガーがきていた。岡林信康が「バッドマン」の歌ではなく、「フグのずぼら屋」のコマーシャル・ソングをうたったこともあった。イーヨーが「呼びだし」を受ける時は、かならずといっていいほど、トオルさんも呼びだされていた。
 この時、イーヨーがためらったのは、ほぼ二週間ばかり前の事故のせいだった。自転車で宝カ池南の急坂、通称「狐坂」を駆け降りていたイーヨーは。急カーブの地点で砂や小石にタイヤをすくわれた。あっという間に坂の片隅に叩きつけられていた。スピードをつけた自動車がつぎつぎ右折する個所だった。こわれた自転車をかつぎ、足を引きずるようにして整形外科までいった。胸骨不全骨折で、その日から疼きと微熱が続いた。それが九月の二十日頃まで続いた。プーさんの電話も、「成人講座」の打ち合わせも、その欠勤中の話なので、イーヨーは頭を抱えたのだった。
 学園長が「見舞い」と称して突然イーヨーの家にあらわれ、イーヨーの胸のあたりをじろじろ眺め、ギブスをしていないことで不信の色を浮かべたのもその時の話だった。ギブスは要らない、安静にしていろ……といったのは医者である。診断書を学校に届けにいったイーヨーのカミサンが帰ってくるなり、今日は気分をこわした……といったのもその時だった。教頭のFが、診断書に目もくれず、欠勤が多いのは「サイド・ビジネスがすぎるからやないのか」といったそうである。
 もう一つ、イーヨーの欠勤中に「もめごと」が起こった。「H高校反戦会議」を名乗る六名の生徒が、竜谷大学全共闘の学生と共に、西本願寺に突入し、御影堂から阿弥陀堂まで土足で駆け抜け、「親鸞精神を問う、宗教教育はこれでいいのか」と気勢をあげた。
 宗派立のイーヨーの学園は、「未曾有の一大事」として会議を開き、二一対七の票決で処分を打ちだした。票決は半数近い教師の欠席の中でなされた。処分内容を一任された監察委員会は、一名退学、五名自宅謹慎という結論を下した。
 退学の一名は、その春、日吉ヵ丘高校封鎖事件に参加した一年生のKだった。この問題をめぐって、「へそまがり会」という有志の酒席で「調子づいた発言」をしていたイーヨーが、同僚からいきなり右眼をなぐられたのである。五月のはじめで、その時も、イーヨーは疼きと微熱で一週間休んだ。右眼は血走り、周りは紫色にはれあがり、頭痛も続いた。
 イーヨーをなぐった男は、イーヨーがもっとも親しくしていたSと言う英語の教師で、その時、血相変えてビールびんをにぎりしめ、イーヨーに詰めよった。ビールびんでやられていたら、ひとたまりもなかっただろう。彼は、まわりの同僚に押し止められ、ビールびんの一撃はあきらめたが、こぶしでまともにイーヨーを一撃した。
 「なに故に、なんのために、いかなる思いから」と、そののち今日に至るまで、Sの詰めよった理由を考えるのだが、その時もそうだったように、今も一撃の理由はわからない。強いていえば、イーヨーが、「高校生の叛乱」を、その頃続発していた「大学生の叛乱」同様、「ゴジラあらわる」というふうに、ひどく楽し気に見ていたことではないのか。怪獣ゴジラこそ人間の「罪と罰」の投影であり、「核」の象徴であり、もう一ついえば、人間の管理体制破壊願望の代行者であり……などと考えていたイーヨーは、現実に起こった「叛乱」を、じぶんに関わりのないドラマと思っていたのかもしれない。いざといえばへっぴり腰になるくせに、隣国の騒乱を眺めるごとく、安全席からあれこれ言挙げするな……と、Sはいいたかったのかもしれない。欠勤して一週間目にSがイーヨーの家にきた。「失明でもしていたら辞職するつもりだった」といった。眼帯をはめていたイーヨーは、「見えるよ、もういいよ」といった。それからイーヨーもSも、そのことにはそのことには触れず、イーヨーが学園を去るまで、それまでとおなじように付き合った。
 Kの退学処分が発表された翌々日、Kは「反戦会議」の仲間に支持されて、学園正面玄関で
「ハンスト」にはいった。自宅謹慎を命じられたTやKNが、ハンドマイクを握って登校生に呼びかけ始めた。廊下をデモろうとした少数の「処分撤回」支持生徒たちを、応援団や体育系クラブ員の有志が阻止しようとした。こぜり合いが起こった。
 ハンスト三日目に支援にあらわれた竜谷大学全共闘の数人は、応援団の生徒たちにつぎの日押しだされた。
 イーヨーが日曜日、あかね書房から頼まれたペローの訳稿を作っていると、TとKNが電話してきた。「今までの仲間もついてこない絶望的状況になりました。ハンストに加勢するものは、担任の手でチェックされ父兄が呼びだされています」という。イーヨーは、じぶんにできることは、この学園を辞めることだな、そうでなければ、この生徒たちの問題をまっすぐ受け止めたことにはならないのだなと思った。辞めなかったことによって、イーヨーはそれまでの「デモ・シカ先生」から「ダメ教師」になった。
 ハンストが五日目で中止された直後、授業中のイーヨーに緊急の電話がかかってきた。カミサンだった。イーヨーのおやじさまが血を吐いたという。かつてイーヨーがそこを飛びだした壬生の家にタクシーで走った。医者はなかなかきてくれなかった。夕方、病院を探し求めて、やっと城北病院に運び込むことができた。胃に穴があいているといわれた。十月四日のことである。単なる胃潰瘍ではなく、癌であることはすぐわかった。おやじさまはもう一度秋を迎えることなく、つぎの年のパリ祭の日、この世を去った。

 「十月五日、日曜。おやじさまを昨夜入院させて、ばたばたとなに一つ準備のないまま『聖母』の『児童文学講座』に参加。古田足日、いぬいとみこと久しぶりに会う。分科会失敗。午後のシンポジウムも、じぶんにうんざり。それでも謝礼一万円也をもらう。いい学校だ。中川正文さんも講師の一人。よっぽど就職のこと頼もうかと思ったが春のことがあるし、それはあんまりと思い止まる。終って、プーさん、徹さん、古田、イーヨーの四人で飲みにいく。プーさんのおごり。古田を宿へ送り、徹さん宅に寄って帰る。カミサン、おやじさまは癌らしいという」
 
 中川正文さんの「春のこと」とは、こういうことである。イーヨーは、プーさんの「大学教師暮し」にその頃羨望の思いを抱いていた。プーさんの人柄もしからしめるところだろうが、大学とは、プーさんを見ていると、「酒はうまいし、ネエちゃんもきれいや」と、当時「フォーク・クルセイダーズ」がうたう「天国」みたいに思えた。「酒」と「ネエちゃん」はプーさん一人にまかしておいてもいい。おなじ「学校づとめ」なら、せめてじぶんの自由になる時間をプーさん並に持ちたいものだと、イーヨーは切望した。聞くところによると、プーさんの「大学づとめ」は中川正文さんの斡旋だという。イーヨーは「大学の教師」などは、大学院をでて博士課程なるものを修了し、研究助手からこつこつ努力して成るものと思っていたから、プーさんを見るまでは夢にもそういうことは考えなかった。プーさんはその意味で、突如あらわれた「希望の星」みたいだった。「あなたも大学教授になれる」という奇蹟的見本のように思えた。
 イーヨーは京都女子大学に中川正文さんを訪ねていった。おそるおそる「プーさんみたいな口」はないものだろうかと斡旋方を頼み込んだ。正文さんは「なんとかします、考えときましょ」といってくれた。イーヨーは、せっせと手紙を書いた。哀願調、懇願調、嘆願調、請願調の数十の手紙が、それから一年にわたって正文さんのところに舞い込むことになった。正文さんが、イーヨーのこの「愁訴」に困惑し、あきれはて、時には腹立たしく思ったとしてもすこしもおかしくはない。おかしいのはイーヨーのほうで、じぶんの勤める学園から脱出できるかもしれないと思ったとたん、それまでの耐性ががらがらと崩れてしまったのである。そして、約束どおり、正文さんは、一年目に岐阜県にある聖徳学園女子短大に連れていってくれた。条件は、八齣十六時間で週三日。給与は月四万五千円で交通費は半額支給ということだった。
 イーヨーはうめいた。週三日というのは「御の字」である。しかし、新幹線で通わなければならないその短大の給与は、イーヨーたち親子三人の生活をよく支えるものではなかった。ちなみに、当時のイーヨーの月給はつぎのとおりである。本俸六万八千五百円、諸手当いれて額面八万八千五百円。税金・掛金を差し引いて、手取六万五千百八十二円。
 少しも自慢にならないが、それから二年後(一九七一年)の日記にこういう一条がある。
 「九月二十六日、日曜。散髪。石森延男の『咲き出す少年群』を読む。もう一銭もない」
 「九月二十七日、月曜。一万円をだす。貯金通帖の残高五千円也」
 中川さんもプーさんも不足の分は原稿を書けばいいといったが、だれがイーヨーのところに仕事を持ってきてくれただろう。たとえそういう殊勝な編集者がいたとしても、イーヨーにはとても仕事をこなす能力はなかった。今も昔も、この点には変わりがない。考えに考えた末、せっかくの短大の口をイーヨーは断ったのである。
 さて、時間をすこし先に進める。二年間を一跳びする。

 「一九七一年(昭四六)十二月二十二日、水曜。『未決事項としての差別問題』をひたすら書き続ける。夜、『畑かく』。前まえから話し合っていた『子どもの芸術を考える会』をやるかどうかの打ち合わせ。新村徹、斉藤寿始子さん、イーヨーの三名。イノシシ鍋なるものをつつき、それでは来春三月十八日(土)に第一回の準備会を開こうや……というところまで決める。この会は、きわめて地味な勉強会ということを原則にする。終ってトオルさんと居酒屋へいく」(日記より)

 この日のことを記すのは、これがきっかけでほぼ四年にわたる研究会が続いたからである。それまで、プーさん宅や出版記念会などで、不定期に顔を合わせていたトオルさんと月一回、イーヨーは話し合うようになった。雑務一切を斉藤さんが引き受けてくれた。イノシシ鍋を前にして考えた会名は、発足と同時に「子どもの文化を考える会」と改められた。今、その機関誌ともいうべき『年刊児童文化』(一九七六年十二月二十五日発行・斉藤寿始子編集)の第二号を見ると、イーヨーがトオルさんたちと何をしたか……ということがすこしわかる。
 第一期(一九七二年度)いわゆる「幼年童話」と呼ばれるものを考えること。
 第二期(一九七三年度)いわゆる「ファーストブック」あるいは「赤ちゃん絵本」「幼児の絵本」について。
 第三期(一九七四年度)「絵本」を読む。
 第四期(一九七五年度)「少年少女小説」の再読再考。
 この四年間に大の大人が寄り集って午後いっぱい潰して、四十冊をこえる「子どもの本」を読んだことになる。『はけたよはけた』(松谷みよ子)、『だるまちゃんとてんぐちゃん』(かこさとし)から『べえくん』(筒井敬介)や『かいぞくオネション』(山下明生)まで。谷内こうた、レオ・レオニの絵本から時代を遡行して、佐々木邦『苦心の学友』や高垣眸の『怪傑黒頭巾』まで。
 参加者は最初、今関信子、嶋路和夫、稲内恵、長井美和子、斉藤寿始子、新村徹、イーヨーと少人数だったが、第四期の頃には以上のメンバーに加えて、プーさん、三宅興子、島式子、船越晴美、村田拓、村田孝子、横川和子、横川寿美子、竹下桃子、松扉博、栗本哲弘、迫田敏、増田弓子と、二倍強にふくらんでいる。
 「六月二十九日、土曜。研究会。終って、斉藤、阪倉(注・島式子)、三宅、今関の四氏を、プーさん、徹さん、長井さん、イーヨーの四人が自転車の荷台にのせて、府立大学前の『山家』までいく。そのあと、徹さんの家にお邪魔する」(一九七四年度)
 「山家」はトオルさん宅の近くの小料理屋さんだった。会のあと、有志はいつもお酒を飲みにいった。昼間の「子どもの本」の話とは変わって、八方に話題がとび、歓談が続いた。トオルさんは、あからめた顔をにこにこさせて、やはりすこし遅れたテンポで相槌を打っていた。
 ここに顔を出す長井さんが、じつは新潟長岡からイーヨーに電話をしてきた井上美和子さんである。
 プーさんに『たくさんのお母さん』(あかね書房・一九七八)という物語がある。そこに登場する一人目のおかあさんのモデルが、その井上さん=長井さんである。
 「一九七三年(昭四八)四月十一日、水曜。朝、『6』でプーさんと会う。プーさん、暗い顔で、右肺下部異常と記した紙切れを見せる。すぐに長井さんに電話する。一日だけでもいいからプーさん宅に手伝いにいってくれないかと頼む。(以下略)」
 長井さんはかくして、プーさん宅に「おかあさん代行」兼「お手伝いさん」として「出勤」するようになったのである。まだ大学院生ではなく、大学生だったのではないだろうか。イーヨーは、この研究会の前から長井さんを知っていたから、長井さんならプーさん宅のハウス・キーパーとしてりっぱにやってのけるだろうと考えた。もちろん、それを頼むことは心苦しく、また申し訳ない気持ちだった。今だってその時のことを考えると、あれでよかったのかどうか、頭を考える。なにしろプーさんは、離婚という、「人生の騒乱」に直面したばかりだったからである。プーさんも大変だったろうが、長井さんも大変だったのである。
 この長井さんの大変さ加減をよく理解し、それとなくはげましたのが、トオルさんとその家族である。
 トオルさんの突然の死について、イーヨーは長井さんに、いや、井上美和子さんに電話しないわけにはいかなかった。

 「お電話ありがとうございました。本当に信じられなくて、10分20分と時が経たないと、どういうことかわかりませんでした。新村先生のきちょうめんな字のお手紙のことや、深夜、上賀茂から先生の自転車にのせてもらって帰ったことや、ぎょうざ鍋をごちそうになったり、いっしょにクリスマス・ケーキを焼いたり……次から次と、私にとって忘れられない時代のことが想いおこされ、落ち葉をもやしながら、いてもたってもいられなくて、とにかくお葬式に行くことにしました。(以下略)」(一九八四年十月二十三日葉書より)

 トオルさんの葬儀・告別式は、二十四日、相模原市の西善寺で行われた。長井さんは「お別れ」にでかけた。京都からプーさんも島式子さんといっしょにでかけた。
 プーさんは、お棺をかついだのだという。山中恒がその姿を見て、めったに涙をこぼさないのだが、あれには涙がでたな……といったそうである。その話を島さんからイーヨーは聞いた。
 イーヨーは、お葬式にはいかなかった。
 半月ばかり経って、足をひきずりながら別の『お葬式』(伊丹十三監督)にいった。

 注1 この個所のプーさんの言葉は、イーヨーの思い違いだそうである。原稿のコピーを見たプーさんから電話がかかってきた。しかし、削らずに残すことにした。いずれこのことについては触れるつもりである。
 注2 イーヨーは今、一ヵ月半のひざの疼痛に耐えかねて、ハリ治療に通っている。ハリを打ってくれるのは、プーさん推薦の近藤レイ子さんである。今さらながら病院の整形外科の診療のあいまいさが情ない。もう一つ。この章で井上美和子さんのハガキを無断使用したこと、これまた申し訳ない気持ちでいっぱいである。悲しいことといえば、葬儀の日『児童文学アニュアル」の来年度よりの刊行を中止するという手紙のきたことである。これについての「お葬式」はまだしていない。(つづく)  
テキストファイル化兵頭知子