5.一つの転換期-60年代・その1

『われらの時代のピーター・パン』(上野瞭 晶文社 1978/12/20)

           
         
         
         
         
         
         
    


 献身的発想とは異質の……という時、大きくわけて二つの方向が考えられる。
 一つは、これまで考えてきた『ビルマの竪琴』や『二十四の瞳』の延長線上での異質の発想であり、いま一つは、そうした方向そのものに対する異質の発想である。1960年代は、その意味で、日本の児童文学の枠組みが、大きく変化した時期だといえる。さきに、「献身の系譜」と名づけた流れに対して、この時期、「楽しさの系譜」といったものが、はっきり姿をあらわしてくるのである。前者の発想と関わりを持つものに、「少年文学の旗の下に」という宣言があれば、後者の発想に関わるものとして、「子どもと文学」(昭和35年)の主張(16)がある。
 ここではまず、「延長線上での異質の」と記した作品を一編抽出し、それが、どういう点で異質であるのか、また、なぜ「延長線上の」と規定できるのか、そのことから考えてみたい。
 『ビルマの竪琴』が、一人の上等兵の物語であった以上、ここでも別の上等兵を持ち出すことが適切だろう。それは、繰りかえし語ってきた長崎源之助の『あほうの星』(17)(昭和39年)の中の宮田上等兵である。宮田上等兵は、もちろん、第3話「鳩の笛」の主人公ではない。主人公ではないが、重要な役割を背負わされた人物である。物語は、敗戦直前の、中国大陸の日本軍、に初年兵が配属されてきたところからはじまる。
 上田二等兵は、貧しい百姓のせがれである。小学校を卒業すると、酒屋・八百屋・薬屋・呉服屋と職をかえて働く。戦争は激化し、かれも兵隊にとられる。絶対、兵隊にならないために、絶食したり、てんかんのふりをするが、結局、招集される。そこで、兵隊にとられた以上は、絶対、死なないように立ちまわらなければ……と考えるようになる。そのため、文字もろくに読めない馬鹿のまねをする。班長も隊長も、それに仲間の兵士たちも、そのたくらみにひっかかって、かれを馬鹿だと思いこむようになる。戦闘から除外されて炊事班にまわされる上田二等兵、そんな上田を、冷たい目で眺めて、事あるごとに叱りとばすのが、宮田上等兵である。宮田上等兵は、兵士たちに対しては厳しく、中国少年のリャンに対してはやさしい。二人して鳩を飼って楽しんでいる。宮田上等兵には、山口一等兵という親友がある。その山口一等兵が、討伐隊に加わって戦死する。気の立った宮田上等兵は、上田二等兵を何度も突き倒す。あとになって、その激怒が、親友の戦死のせいだと、上田は気づく。しかし、やがて意外な話を上田は知る。将校と下士官が、実は、山口の戦死は嘘だ、脱走したのだ……と話しているのを聞く。それだけではなく、山口一等兵も、宮田上等兵も、朝鮮人だ、というのである。

 上田は、今まで一番恐れていた宮田上等兵を、急に軽蔑する気持がわいてきました。
(ちえっ、朝鮮人のくせに、おれをなぐってばかりいやがったのか)
 上田は、アメリカとの戦争がはじまった頃、朝鮮人にも徴兵制度が適用されたことを、新聞でちらっと見たことがありました。
「やっと、ほんとうの日本人になれました」と、笑いを満面にうかべた朝鮮人の写真が出ていました。上田は、そんな記事には、興味がありませんでしたから、見出しを読んだだけでした。ただ、おれは兵隊なんかまっぴらだが、やつらは、そんなにもうれしいのか。長い間の劣等感が、軍人になることによって、いくらかでもはらいのぞけると思っている朝鮮人なんか、あわれなもんだぐらいにしか考えませんでした。
 上田は、ふと、宮田上等兵とリャンが、仲よくしている姿を思い出しました。そして、上等兵がリャンをかわいがるのは、日本の軍隊の中にいる、日本人でない者どうしの親近感からだなということに思いあたりました。
 朝鮮人は、内地では、不当にさげすまれていました。それなのに、戦争が不利になると、《名誉》という名をおしつけられて、戦場にひっばり出されて来たのです。


 宮田上等兵は、そうした上田の気持ちも知らないで、勇敢に戦って負傷する。そのうち、日本が無条件降伏して、宮田たちの部隊は、国民政府の命令下にはいる。ある日、炊事のひまに、上田は、ふと古新聞に読みふけってしまう。文字も読めない馬鹿のふりをしていたのに、その新聞読みを、宮田上等兵にみつかってしまう。宮田は、上田の卑劣なたくらみを見ぬき、なぐりかかってくる。それをのがれるために、上田は、山口一等兵の敵前逃亡の事実を持ちだす。朝鮮人だから、嘘をつかれていたことを知った宮田上等兵は、狂ったように笑いだす。それから数日して、中国共産党の八路軍が、宮田たちの部隊を包囲する。国民政府軍に武器が渡る前に、それを撤収しようというのである。スピーカーを通して、死んだはずの山口一等兵の声が流れてくる。無駄な抗戦をやめるようにという説得である。しかし、将校は、抗戦命令を出し、激戦となる。脱走しようとする上田二等兵は、じぶんの前を、リャンといっしょに脱出していく宮田上等兵に気づく。その瞬間、日本軍の銃弾が、宮田を射殺する。三分の二の死者をだして、無意昧な戦いは終わる。雪の大平原を、武装解除されて行進していく日本軍の生き残り。上田は、その中でも、うまく立ちまわって、牛車にのっている。しかし、体を楽させようとして車にのったため、逆に、凍えて発熱する。鳩笛の幻聴と、鳩の綿毛のような雪の中で、上田二等兵は死んでいく。
 筋書を抜きだすだけで、第一の点は明らかだろう。『ビルマの竪琴』が美化した日本の「軍隊」および「兵士」(水島上等兵)が、いかに悲惨きわまりない集団であり個であったかということが、淡々と語られていく。まず、ずるく立ちまわることによって、一切の苦役を避けようとする上田二等兵が、それである。この兵士の徹底した擬装馬鹿の姿は、いかに日本の兵士が、「献身」の発想から遠いものであったかを示している。
「彼は、リャンよりも下の地位に、自分をおくことによって、自分のあほうを決定づけることを忘れはしませんでした。命の安全をはかるためには、上田には、自尊心なんか問題ではなかったのです」
 もちろん、ここでは、上田の「ずるさ」を語ることが中心ではない。自尊心を放棄してまでも、馬鹿になりきらねばならぬ軍隊、上田をそのような悲しい人間にしむける日本の軍隊が問題なのである。あらゆる努力にかかわらず、上田は死んでしまう。
しかし、上田は、仲間の兵士や将校を欺いた報いとして、牛車の上で凍死するのではない。そこまでしても、なおかつ生命の安全をはかりえない状況の犠牲者として死亡するのである。ともすれば、「戦争を知らない子どもたち」にとって、この上田の死は、因果応報と受けとられやすい。そんなふうに読みとれる物語の展開がある。読者は、上田のずるさが徹底していくのを読むにつけて、このままで済むのだろうか、済むはずがない、という気持ちをかきたてられる。その結果、やっと復員帰国という間際になって、上田が死んだことで、ほっとしがちである。ほかのものが、雪の中を必死で歩いているのに、どうして上田一人が、そのずるさを貫き通していいだろうか、そう思いがちになる。上田をそうした人間にかりたてた状況が「抜き」にされかねないのである。そうした構成上の弱さを持っているとしても、作品そのものの目ざしているのは、上田もまた犠牲者であった、ということである。犠牲者が、おなじ犠牲者を嘲笑し(上田が、宮田上等兵を朝鮮人だと知って軽蔑する)、その犠牲者が、おなじ犠牲者を圧迫する(朝鮮人である宮田が、むりやり日本人に仕立てられて、上田をなぐりつける)。そういう構造を持った軍隊が描かれているのだ。これが、いかに『ビルマの竪琴』から対極の発想であるかは、明らかである。とりわけ、水島上等兵の、あの誇りにみちた自己犠牲像にくらべ、宮田上等兵の存在は、屈折しきった人間像を、わたしたちに伝える。宮田上等兵は、献身的になればなるほど(勇敢に戦い、自己の生命を投げだして日本のためにつくそうとすればするほど)、じぶんをみじめにし、まわりのものから特別視される。
 宮田上等兵は、「日本帝国」の軍人でありながら、水島上等兵のように、そのことを誇りにすることができない。水島上等兵のように、それを代表するシンボルとはなり得ない。いかに献身的になっても、その献身によって、かれの祖国は救われないのである。ますます図にのった日本の帝国主義は、朝鮮人の日本人化を促進するだけのことだろう。宮田上等兵は、その矛盾を忘れるために、じぶんの本来の姿を消去しなければならぬ。朝鮮人でありながら、日本人の姿をしなければならぬ。これは、次元こそ違え、上田二等兵が、馬鹿の姿をするのと同じあり方である。上田といい、宮田といい、本来の自己を故意に抹消することによって、やっとその生存を保持するのである。それが軍隊である。そうした非人間的世界を、長崎源之助は描く。これは、とりもなおさず、1945年以降、一つのシンボルとなった『ビルマの竪琴』に対する批判と否定ということができるのではないか。結果として、タテマエ時代が、すっぽり落としてきた真の戦争責任の追求を、10数年たって、日本の児童文学が、やっとはじめたのだ、ともいえる。
 事実、60年代は、水島上等兵に集約される「戦争」と「戦後」のとらえ方を、徹底して拒否する形の作品が輩出する。柴田道子の『谷間の底から』(昭和34年)にはじまり、奥田継夫の『ボクちゃんの戦場』(昭和44年)につながる学童疎開の物語群。そこでは、竹山道雄の描くように、きわめて牧歌的な戦争時代の、いかに現実の姿から隔離したものであったかを、当時の子どもの生活を再現することによって語りかける。早乙女勝元の『火の瞳』(昭和39年)から、おおえひでの『八月がくるたびに』(昭和46年)につながる被爆物語。それに乙骨淑子の『ぴぃちゃぁしゃん』(昭和39年)から、前川康男の『ヤン』(昭和42年)や柚木象吉の『ああ!五郎』(昭和43年)につながっていく戦場物語。いずれも、水島上等兵を通してみた「戦争」とは対極の発想に立っている。個人の誠意や献身度によって、どうしようもない状況が描かれる。『ビルマの竪琴』が、読者を、恩讐の彼方へ連れ去ろうとするのに比べ、60年代の作品を支えているのは、一種の怨念である。犠牲に供された人間の視点である。
 これは児童文学作品ではないが、奥崎謙三の『ヤマザキ、天皇を撃て!』(昭和47年)は、そうした犠牲に供されたものの発想を、みごとに集約している。戦争が終結して27年の歳月が経過し、なおかつ終結していない問題のあることを摘出している。ちなみにいえば、この「皇居パチンコ事件」の「加害者」奥崎謙三も、日本陸軍の上等兵なのである。さきに、「連続ピストル射殺魔」と騒がれた永山則夫の『無知の涙』(昭和46年)がでたが、「加害者」永山則夫のこの手記が、「戦後民主主義」の中に温存されてきた「非民主的状況」の告発とするならば、奥崎もと上等兵の手記は、おなじく「戦後民主主義」がカバーしてきた「非民主的なるもの」への告発といえるのである。この二冊の手記は、『ビルマの竪琴』にみられるような、個人的献身では片づかない問題が、わたしたちの中にあることを告げている。60年代の「戦争」児童文学と呼ばれるものが、常にその底にみすえていたのも、この「献身」の発想への批判である。もちろん、「戦争」児童文学と呼ばれるものの中には、水島上等兵の発想を引きつぐものもある。(18)それに、被害者である「わたしたち」という一面に主人公を限定して、「加害者」であったもう一つの面を無意識のうちに欠落させる発想もある。(19)そのことは別のところで触れたので割愛する。ここでは、『あほうの星』が、『ビルマの竪琴』と対極の発想に立ち、「理念」提示に終始しがちなタテマエ時代への反措定であったことを指摘すればいいだろう。
 しかし、なぜ、こうした「反献身的」作品を、『ビルマの竪琴』の「延長線上」にすえるのか、という点が残っている。
 それは、「献身」「反献身」にかかわらず、おとなの背負っている問題を(あるいは、背負ってきた問題を)、どうしても子どもに伝えねばならぬものとして、語り聞かせかせようという点で、そう規定するのである。もちろん、おとなと子どもは、別次元に住む人間ではない。昨日のおとなの問題、今日のおとなの問題は、そのまま今日と明日の子どもの問題にはねかえってくる。また、「献身」「反献身」の発想は、なにも、水島や宮田などのおとなを通してだけ語られるものではない。さきにあげた『八月がくるたびに』もそうだが、別の形で、子ども自身の問題として引きつがれている場合もある。たとえば、古田足日の『宿題ひきうけ株式会社(昭和41年)もそうだし、山中恒の『天文子守唄』(昭和43年)もそうである。子どもたちが、よって社会の不正を指摘するか、あるいは、個としてそれに対決するか、いずれかの形で引きつがれていく。いうならば、「延長線上の」というこの規定は、常に、「社会的問題」を問題とする発想の作品を指しているのである。『二十四の瞳』では、大石先生が、泣き悲しむという形で、献身性を発揮した。しかし、60年代の児童文学は、歪んだ状況の問題を、子どもたちが「考える」あるいは「行動をおこす」という形で描きだす。これは、一歩引きさがって考えれば、かつての主人公、つまりおとなたちの踏みだした道ではないのか。つまり、「戦争」児童文学の分野で、「反献身」の発想が生まれたのに比例して、「献身」をこえた(あるいは、含めた)「現代」の子どもを活躍させる分野で、異質の「献身性」が生まれてきたということでばないのか……。「献身の系譜」は、対象や、それへの関わり方こそ違え、子どもの参加、あるいは、社会的自覚の発現という形で、60年代を、斎藤隆介の「献身」の発想までつながっているのではないのか。時には、「貧乏小説」「社会的正義派」などと悪口を受げながら、60年代の児童文学ば、タテマエ時代の「理念」の消化過程を引き受けてきたのではないのか。その点をおさえて、この時期の「戦争」児童文学、あるいは、「考える」子どもを描く児童文学を、『ビルマの竪琴』とは異質でありながら、その「延長線上」にある、というのである。
 斎藤隆介の作品が、70年代のシンボルである、ということはすでに記した。そうした役割を、70年代において『八郎』なり『三コ』なりが果たすには、まず、時代思潮との関わりがある……ということを記しておいた。今、ここで、『ビルマの竪琴』から60年代までをふりかえり、そうしたシンボルとなる理由の一つに、「過去の発想」、つまり「献身の系譜」が存在した……ということを指摘しているのである。そうした発想が、常に内在し、斎藤隆介を押しだした、ということである。もちろん、斎藤隆介の作品が、つの時代を代表するには、それなりの理由も待っている。

 八郎はよ、心のやさしい山男であったから、男わらしがめんこくってよ、
 泣ぐな泣ぐな、おらが遊んでやるがらな。
 って言ったども、その豆みてえだ男わらし、あっちで大勢して土手築いて大騒ぎしている父母(おどあば)のほうむを見てはワイワイ、白い長い歯を剥いてエヘエヘ笑う、暗い海見てはワイワイ、泣いて泣きやまねえので、八郎もよ、おっきなおっきな山男だったどもつい悲しくなってセ、石臼みてえだ涙コ一粒ポローリとこぼしてな、
 んだば分外った。待ってれ!
 って言ったと。


 この独特の語り口が、その理由の一つである。これはなにも、東北のことばが、うまく生かされたとか、書きことばとして定着されたからとか、いうことだけではない。画一的な標準語で、児童文学作品がつくられるその発想にむけて、「表現」の問題を突きつけているからである。文体論といえば、しちむずかしい話になるだろうが、少なくとも、ここには、語るべき事柄に対して、それを躍動的に描いてみせる独自の文体がある。作品の平均化は、ことばの問題でもある。斎藤隆介は、ことばを通して、平均化する児童文学の作品群をのりこえたのである。
 さらにいえば、その骨組みの簡潔性である。筋欝のわかりやすさ、といいかえてもいい。複雑な心理過程を追う近代小説の方法とは逆に、強くたくましい主人公の行動だけを、骨太に描きだしてみせた。これは、世界の複雑性を、単純化してとらえる子どもの発想に適合する。単純で、力強く、リズム感があって、明確に目的を描きだす点。この目的が、タテマエ時代以来、さまざまに形を与えようと努力をつづけてきたその「理念」の問題に関わっている。与えるべくして、形を与えなかった「戦後民主主義」の児童文学の、その志とするところに、一つの形が与えられた、ということである。観念の生硬な提示ではなく、しなやかな生きたことばを通して伝達される「理」、「献身」の美しさは「変身」の時代に、人間を矮小化から解きはなち、同時に、「献身の系譜」が目ざしていた「社会的問題」に、一つの明確な目鼻を与えた、ということでもある。もちろん、「献身」の発想の是非は別問題である。(20
 「献身」「反献身」にかかわらず、児童文学の書き手が、何を伝えようとしたかという歴史がある。戦争に対して、あるいは、現状況に対して、「変革の意志」を基層にすえて、子どもに語りかけようとした流れがある、そうしたあり方に対して、児童文学の書き手が、子どもの「楽しさ」をどのようにひろげたか、また、それにどのような形を与えてきたか、という流れがある。それをかりに「楽しさの系譜」と名づけて、つぎに考えてみる必要がある。たとえ、この二つの流れは別ものではないと主張する考えがあったとしても……。また、その二つの方向性にどのような接点があるのかと問われるとしても……。

テキストファイル化藤井みさ