「だんご鼻」の魅力―手塚治虫

『われらの時代のピーター・パン』(上野瞭 晶文社 1978/12/20)

           
         
         
         
         
         
         
    


 映画『がんばれベアーズ』のウォルター・マッソーではないが、鼻の大きい人物にはどこか喜劇的要素がある。喜劇的要素という言葉が不適当なら、滑稽感といいなおしてもよい。その滑稽感が、逆に緊迫したドラマを作り出す……といえば『サブウェイ・パニック』で、この映画の中のウォルター・マッソー扮する警部補が、地下鉄乗っ取り犯人とマイクでやりあう場面は、まさに圧巻だった。別に、鼻の大小が演技を左右するわけでもないだろうが、あれがアラン・ドロンやクリント・イーストウッドなら、感じは違っていただろう。悲愴感は強調できるとしても、人間くささのようなものは薄れていただろうと思うのだ。このことは、『スケアクロウ』や『弾丸を噛め』のジーン・ハックマンにも通じることで、たとえば『フレンチ・コネクションU』のポパイという刑事役、これはジーン・ハックマンのあの独特の鼻なしでは、あれほどもみごとなドラマにならなかったのではないだろうか。もちろん、監督であるジョン・フランケンハイマーの腕のさえもあるだろうが、映画がただの刑事物語に終らず、奇妙なあたたか味を漂わす人間のドラマに昇華した点は、その刑事役の鼻のせいだったように思えてならない。
 こういえば、鼻なら、エドモン・ロスタンのシラノ・ド・ベルジュラックの鼻、あるいは、芥川竜之介の禅智内供の鼻をあげるむきもあるだろう。それらが、映画俳優の鼻よりも、古典的名声をはせていると指摘を受けるかもしれない。しかし、わたしが冒頭からウォルター・マッソーやジーン・ハックマンを引きあいにだしているのは、鼻の優劣を論じるためではない。多少は、かれらのそれを賞賛したい気持もあるが、要は、手塚治虫の鼻を考えた結果の連想である。どうして、手塚治虫は、『鉄腕アトム』のお茶の水博士以来、『火の鳥』の猿田彦にいたるまで、かくも巨大な鼻を描き続けるのだろうか。いや、それだけではなく、じぶん自身の鼻までだんご鼻に描き続けるのだろうか。わたしは、手塚治虫本人に会うまで、(出版記念会と児童文学講演会と二度顔をあわせただけだが)じつは、彼の鼻を、彼自身の描く戯画的自画像のそれと、そっくりおなじように思いこんでいたきらいがある。
 たとえば、ここで触れようとする『鳳凰篇』の一場面、都の役人が片目片腕の我王をむりやり引ったてようとする個所がそうである。大仏殿建立に伴い、鬼がわらの製作を強要しようという場面である。役人は、我王の鼻の大きさにあきれる。つぎの場面、突然のように地面の中から作者が顔をだす。そして、「となりの鼻がちいさくみえま〜す」と一言いれる。役人は、場違いな作者の出現に腹を立て、むちでそのベレー帽の上からぶったたく。その顔、その鼻、をわたしはいっているのだ。わたしは、手塚治虫の鼻を、イチゴかイチゴジャムのようなぶつぶつのだんご鼻だと思いこみ、実際にそうではない彼の鼻を見たあとでも、虚像のそれこそ手塚治虫の鼻にふさわしいと、ひとりぎめしてきたということである。
 なぜ、かくもみにくい鼻の表現に手塚治虫は情熱を傾けるのか。『火の鳥』「鳳凰篇」は、そのことを間接的に解きあかしているように思えるのだ。『火の鳥』全体の解説は、多くの手塚ファンによって語られていることだから横に置くとして、「鳳凰篇」はこの大河漫画の中でめずらしく求道者の物語となっている。
 いうまでもなく、この篇には、大和の彫刻師・茜丸と、生まれながらに不幸を背おった我王の二つの流れがある。茜丸は、上昇志向型の人間、我王は破滅型の人間として最初登場する。上昇志向型という場合、この人物が、芸術の領域で技をみがき、余人の到達できない独自の世界を完成させたいと願うことを指している。すくなくとも、茜丸は、大仏殿建立の責任者に選ばれるまでは、彫刻という世界で、最高の表現をすることだけを目ざしている。そのために、盗賊だった我王に右腕を不具にされたことも忘れようとする。むしろ、その不幸を転機にして、名声よりも真の芸術を求めようとする。ブチに出会い観音像を彫ることも、正倉院の鳳凰画を見てそれを彫りあげることも、名声や地位のためではない。しかし、この上昇志向が、我王との鬼がわら製作技くらべの前後から、出世志向に変質する。それは、上昇志向のふいの下降である。高く、どこまでも高く芸術の道を追い求めたたものの堕落である。茜丸は、一度は火の鳥によって、人生の何ほどでもないことを知らされたのに、その真実を忘れて名声にのめりこみ、その結果、焼死していく。
 一方、我王は、その誕生と共に不幸と同居する。身体的不幸のため、差別され蔑視され、怨念の塊となっている。上昇志向どころか、人生の中で志向すべき方向さえ持っていない。人を殺し物をうばい、そうしたみずからの行動を省みることもないまま流されていく。文字通り破滅型の人物である。この我王に転機がおとずれるのは、テントウ虫の化身である速魚との出会いである。我王は、じぶんの鼻がみにくくはれあがっていくのを、速魚のせいだと思いこむ。そして、速魚を殺す。速魚の愛を自覚するのは、殺害後である。それを契機にして我王は、じぶん自身の怨念にしか関心のなかった閉ざされた人物から、はじめて、じぶん以外の生命体にもいつくしみを感じる人物に変わる。虫の化身・速魚は、我王にとって、最初の「他者」への自覚となる。やがて、良弁僧正との出会いを介して、その「他者」が、速魚だけではなく、苦悩する人間全体を含むようになる。年貢米のために餓死する老婆。疫病に絶望する村人の姿。そうした現実が、我王の第二の転機をもたらす。彼は、魔よけ像を彫り、そこで、苦悩や怒りを、殺人ではなく、別の形で表現し訴えることを知る。第三の転機は、宝物泥棒として逮捕され、土牢の中に二年間ほうりこまれることである。我王は、ここで、さらに人間の苦悩を深く静かに形象化することを学ぶ。第四の転機は、良弁僧正の死である。即身仏(ミイラ)となった僧正の姿から、いかに偉大な人間も、所詮、巨大な世界の中では無に等しいものだということを悟る。第五の転機は、大仏殿の鬼がわら製作である。この製作にあたり、我王は、未来の人間の姿を知覚する。火の鳥の導きによるのだろうが、未来永劫に亙り、生命あるものは、現在とおなじく苦悩し消滅するものであることを見てしまう。
 最後の転機は、残された右腕さえも斬り落され、都を放遂されることである。ぼろくずのように投げだされた我王は、人間世界をはなれる。自然の中にじぶんを置き、じぶんを包みこむ光や空や樹木や鳥の声にはじめて涙を流す。我王は命のふしぎさに感動する。はじめ、怨念のとりこでしかなかった我王が、やがて他者への愛に目ざめ、そうしたものさえも消滅することに気づいたあとの、これは、短い一回限りの命をいつくしむ姿である。やがて人もじぶんも死ぬだろう。一切の人間的価値も消滅するだろう。しかし、そうであればこそなおさら、このつかのまの人生をそのまま受けいれねばならぬ。そう悟った我王である。我王は、茜丸の死をとむらい、人知れず消えていく……。
 わたしは「鳳凰篇」を「求道者の物語」といったが、それは右のあら筋で納得してもらえるだろう。茜丸も我王も、ともに何かを追い続けねばいられなかった人物だということである。もちろん、「追い続ける」といえば、『火の鳥』全篇がそうで、「黎明編」も「未来編」も一貫して登場人物たちが、不死や永遠の生を求めて活躍した。その中であえて「鳳凰編」を求道の発想というのは、ここに、芸術と人生についての強い問いかけがあるからである。完全な美や真実の表現を追い求める茜丸が、そのはげしい志向性にもかかわらず、純粋な塊をこわしていくのは、所詮、その芸術が「個人のわざ」であるためだろう。茜丸は、ついに自己という枠から抜けだせない。それに反し、我王は最初から自己の完成など願っていない。むしろ自己を放棄し、おのれのおろかさと悲しさを噴出させるだけである。じぶんのわざ、じぶんの姿形、そうしたものすべてを否定している。この無意識なる自己否定が、我王に人間存在の自覚をもたらす。我王は「個人」の枠をふみこえ、真の生命のありようを感得する。この一篇を読み終わった時、より純粋な存在として我王に感動するのは、芸術を含めて人間の営みすべてを何ものでもないとする強烈な自己否定のせいだろう。その我王のシンボル・マークが鼻である。とてつもなく大きく描かれた鼻である。
 猿田彦から猿田博士まで、この鼻をみにくいものとして自覚する人物に描かれている。我王もまた、じぶんの鼻をそんなふうにとらえている。しかし、読者はこの鼻ゆえ、この人物たちに引きつけられる。そのみにくさを強調されればされるほど、この鼻の魅力に取りつかれる。ということは、手塚治虫はひそかに、その鼻の中に、精神の好奇さと人間のあたたかみをシリコーンのように注入していたということにはならないか。いや、わたしは、はじめに、手塚治虫はなぜじぶんの鼻をだんご鼻に描くのか……といったが、我王を知るにいたって、それは、手塚治虫の強烈なる反俗性のシンボルにさえ思えてきたのである。
 手塚治虫は、それこそ世俗的に声名をはせた人物である。しかし、かれはそこに安住することも、そうした世界の自己を否定することもできない。そのことをひそかに伝えるために、よりみにくく、より滑稽に、彼はじぶんの鼻を描き、それを作品世界の分身たちに拡大強化して付与しているのではないか。その意味で、彼は、栄光を前にした茜丸であるとともに、それを否定する我王でもある。わたしたちは、手塚治虫の滑稽化したその鼻に注意を払う必要がある。考えてみれば、『がんばれベアーズ』のウォルター・マッソーも、その鼻ゆえにうすらとぼけた役立たずに見えた。しかし、彼が少年野球チームをいかにみごとに再生させたかは、この映画を見たものなら、だれしも納得しているところである。「花より団子」ではなく、「鼻には団子」である。いや、これは、結びの一言としては、ハナハナまずいしゃれではあるのだが……。

テキストファイル化中島晴美