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日本と外国の子どもの本の問題点

A ファンタジーにおける「通路」の問題
アンデルセンの作品をめぐって
『私の児童文学ノート』(上野瞭 理論社 1970)

           
         
         
         
         
         
         
    
 笹の道のその木戸を通って、ひとりの娘が突如武士の日常生活にはいりこみ、やがてまた、おなじ木戸をくぐりぬけて、行方知れずになるという話は、言うまでもなく山本周五郎の短編『その木戸を通って』の梗概です。
 娘は侍の妻となり、その侍の子どもまでもうけたというのに、武家屋敷の木戸のかなたへ消えて行くという結末。その哀愁のほどはさておき、この場合、笹の道のその木戸は、いったい何をさえぎっているのか……。そのことが、わたしにはひどく気になります。
 たぶん、侍屋敷のその木戸は、侍たちのうかがい知らぬ個人的体験、つまり娘の過去の異常な体験をさえぎっているのでしょう。それが、どのように甘美なものであるか、また悲惨きわまりないものであるか、それは問わないとしても、この場合、木戸の果している役割は、あくまで個人生活の特殊性、あるいは個人体験の独自性をさえぎるだけのものであって、そうした特殊性、あるいは個別性を包括する秩序、つまり、人間の手になる掟を、何ものからもさえぎってはいないように思うのです。木戸のむこう側にも、こちら側にも、体験の相違はあるにしても、パラレルな人間的秩序が存在し、たまたま、その娘は、その人間的秩序の枠内で、他人の体験しえない衝撃なり心の傷なりを受けたということ……。つまり、人間である限り、誰かがこうむる衝撃と傷がかくされているだけであって、木戸を間にはさんでの内と外には、常に、人間の葛藤と相剋しか存在していない、ということになります。
 わたしは、この作品を読んだ時、たとえば、安藤美紀夫の『ジャングル・ジムがしずんだ』や、前川康男の『奇跡クラブ』といった作品を思い浮かべたのですが、この連想は、ひとくちに言って、ジャングル・ジムや百貨店のエレベーターといった「通路」が、じつは、武家屋敷のその木戸と同じく、少しもわたしたちの日常的秩序や価値観を、何ものからもさえぎっていないと考えたからです。
 それにしても、たまたま、山本周五郎の短編小説を思いおこしたということは、じつは、アンデルセンの作品の世界に、右のような「木戸」があったかどうか、ふと思案したところからきています。
 たとえば、C・S・ルイスや、フィリパ・ピアスといった現代児童文学のファンタジーの場合ですが、『ナルニア国物語』や『トムは真夜中の庭で』においては、それぞれ木戸のかわりに、洋服だんすや、大広間の裏口の扉といった「通路」が設定してあるのです。主人公の少年少女たちは、その「通路」を通り抜けることによって、わたしたちの日常性を否定した異質の世界にはいりこんでいきます。
「通路」のむこうには何があるのか。ルイスの場合には、全知全能のア スランの統轄するナルニア国があり、ピアスの場合には、バーソロミューおばあさんの過去の世界があります。あきらかに、この両者の展開する異質の世界は、人間の掟をも包括する「神」の摂理の行きわたった世界なのです。「通路」の彼岸に、「神の秩序」が厳然と行きわたった世界があるということ……これは、わたしたちのファンタジーと海外児童文学のそれとを、明確に裁断する根本的な異質点です。そこで、ピアスやルイスから遡行して、アンデルセンの場合ですが、そこにも「通路」が介在し、人間の日常的世界と神の秩序を、明確に区切っているのかということは、どうでしょう。
 アンデルセンの『パンをふんだ娘』という作品をみますと、ルイスとおなじ、キリスト教信仰と教義の息づく世界の描かれていることが解ります。しかし、ルイスにおけるナルニア国と人間世界のように、彼岸と人間の日常的世界は、二つに分割隔離されてはいません。彼岸というのは、主人公の娘インゲルのおちこむ泥沼の底のことですが、この異質の世界と人間世界は、交通可能になっているのです。その高慢さによって、母親を嘆かせ、また主人夫婦の善意も踏みにじった地上の声だけではなく、天上の声も、インゲルは聞くことができるのです。それは、インゲルの運命をあわれに思った女の子の声で、女の子は、年老いて神に召され、天国に行っても、なおインゲルの身を、痛み悲しんでいるのです。
 天の声も、地上の声も、さえぎられることなく地の底にとどく世界。ここには、ルイスやピアスにみる「通路」による世界の遮断はありません。
 強いて「通路」にあたるものを抜きだせば、インゲルの沈んでいく泥沼ということになります。しかし、この泥沼も、「通路」と言いきるには弱いものです。右に記したように、一方的であるにせよ、コミュニケーションは断絶することなく成立しているのです。天と地と地下、その相互の世界は、一貫して交通可能の状態を保っているのです。
 ルイスの場合やピアスの場合とは、まったくの対照的です。ルイスやピアスの場合は、洋服だんすや大広間のドアをくぐった瞬間から、日常的世界は消失し、異質の世界にのみ生きねばなりません。相互交通を欠いた二つの世界が対峙し、両者をつなぐ糸は、ふしぎな「通路」だけになっています。
 これは、どういうことを意味するのか……と言うと、アンデルセンにおいては、あきらかに「通路」なしでも感得できた「神」の世界が、今日では「通路」をくぐりぬけることによってしか感得できなくなったということ。つまり、ヨーロッパにおけるキリスト教信仰の後退なり衰微なりをあらわしていると、わたしは思えるのです。
 現に、アンデルセンの時代に、きびすを接するようにして登場してきたフリードリヒ・ヴィルヘルム・ニーチェ。かれはやがて、「神は死せり」というエポック・メーキングな発言によってキリスト教と対峙するわけですが、そのキリスト教信仰こそ、アンデルセンの発想法の基層にあるものであり、また、ニーチェ以後の、ルイスやピアスにみられる作品発送の基軸になっているものなのです。
 ただアンデルセンは、この衝撃的発言の洗礼を受けるには、少しばかり早くその生涯を閉じたということであり、逆に、ルイスやピアスは、その衝撃の波紋から、不幸にも身を避けることのできない時代の作家だった……ということになります。
 C・S・ルイスの『魔術師のおい』には、そのことが期せずして提示されています。
 この作品の出版されたのは一九五五年。しかし、物語の時代設定は、さかのぼること約六十年ばかり過去の時代、一八八六年……ということになります。これは、『魔術師のおい』の冒頭の――

 「名探偵のシャーロック・ホームズがまだ生きていて、ベーカー街に住んでおりました。」

ということばからの推定です。コナン・ドイルによる「ホームズ」執筆の開始が、一八八七年。第三短編集『シャーロック・ホームズの生還』の出版が一九〇五年。ただし、主人公ホームズに関して言えば、一八九七年の冬の朝にはじまる『僧房荘園の冒険』以降、「ロンドンを引きはらって、サセックス丘陵で、学究生活と養蜂と専心するようになって……」しまうのですから、(『第二の血痕』冒頭のワトソンのことば・参照。)『魔術師のおい』の時代は、一九〇〇年のすこし前と区切ることもできそうです。
 ちなみに、アンデルセンの童話の執筆時期は、一八三五年から一八七〇年頃まで。(一八七四年九月執筆の自作自注によると、一八七二年クリスマスに『新しい童話と物語』第三部第二集が出た……とあります。)この童話執筆の後期ともいうべき一八六九年に、ニーチェは、バーゼル大学に就任。そして、発狂が一八八九年だとすると、ホームズ名探偵の活躍期にあたるわけです。(この点、日本児童文学々会編の『アンデルセン研究』にのせた私の小論の年代照合は謝っています。ルイス・キャロルの『鏡の国のアリス』は、ニーチェの活動期にはいるとしても、『ふしぎの国のアリス』はそれ以前の作品になります。ホームズ名探偵と、アリスの作者。いや、それにもまして読者の方に、おわびします。)
 さて、C・S・ルイスは、一八九八年の生まれですから、この時代には、ニーチェの衝撃的発言が、すでにヨーロッパに一つの波紋をひきおこしていたことは容易に想像されます。しかし、わたしが「期せずして」C・S・ルイスの場合……というのは、なにも『魔術師のおい』の時代設定が、ニーチェの活動期ときびすを接しているからではありません。『魔術師のおい』中で、アンドルーのおじのことばとして、さりげなく書きこまれた次の一節によって、そういうのです。
 少年ディゴリーにむかって、アンドルーおじは言います。

「わたしの名づけ親は、この上なく非凡な人だったからでな。じつは、ルフェイおばあさんは、この国で、妖精の血を伝えた最後の人間のひとりだったのだ。(中略)だから、ディゴリー、おまえがいま話しているあいては、まさしく妖精の名づけ親をもっていた、おそらく最後の人間なのだ。」

 C・S・ルイスは、アンドルーおじにこう語らせることによって、アンドルーのおじの所持している指輪……黄色と緑の指輪の魔力と、それを入手するにいたった経過を示すわけです。しかし、このことばは、指輪の神秘的な威力、あるいはアンドルーおじの魔性を、わたしたちに告げるだけではなく、「最後の妖精」と関係のある「最後の人間」と言うことにより、この地上から、妖精や魔性のもの、呪術的世界やそれに対峙する神の恩籠の世界、そうしたものが退行し衰微し、姿を消しつつあったこと、また、現実感を喪失しつつあったことを告げている、と思われるのです。アンデルセンにおいては、日常的な人間生活の中に、すみずみまで感得できた神の秩序。それが、跋扈跳梁する悪魔と共に、人間界から遮断され、不可視で交通不能の状態に退行していきつつあったということ。神も、悪魔も、妖精も、ともにこの人間世界では不信の目で眺められるようになった。そのことを、アンドルーおじのことばは、期せずして、わたしたちに告げていたということです。(テキストファイル化大塚菜生

 アンデルセンの場合はいざ知らず、「神は死せり」という呪文は、ドーバー海峡を渡り、ロンドンの街にも浸透していたということになります。(もちろん、「神は死せり」という呪文は、ニーチェのキリスト教の論理批判からのみ生まれるものではなく、一八五九年のダーウィンの『種の起源』。一八六七年のマルクスの『資本論』第一巻に象徴される史的唯物論の潮流。さかのぼっては一七〇〇年後半にはじまる産業革命の波。それらに複合条件によって生まれています。)その結果が、「最後の妖精」を名づけ親にもつ「最後の人間」というアンドルーおじの心細い自負になり、呪術的世界や神性の、現実からの後退・衰微だけでなく、ファンタジーの世界での、「通路」なしには神にも妖精にもめぐりあえぬ構造を、定着させるにいたったのだと、わたしは考えます。
 神々の退行は、必然的に、神に対峙する魔性の退行をもともないます。魔性の退行・衰微は、人間の、魔性からの隔離を生みます。アンデルセンの場合、人間は何の手続きも道具もなしに、魔女ともなりえたし、魔法使いともなりえたのに、そうした世界が終焉するのです。
 たとえば、アンデルセンの『野の白鳥』ですが、この作品の中の悪いおきさきは、人間であると共に、呪術をふるう魔女でさえありました。
   「声の出ない大きな鳥になって飛んでいけ!」
 おきさきは、そう叫ぶことによって、十一人の王子を、十一羽の白鳥に変えてしまうことができました。おなじように、『ぶた飼い』の主人公の王子も、ただの人間であるだけではなく、魔法の能力を持っていました。
   「いとしの君よ、アウグスチン!
   あわれや、すべて水のあわ!」
 こんな歌をうたう不思議な壺や、どんな曲でも、どんな時代の歌でもかきならすことのできる「がらがら」をつくることができました。
 人間でありながら、そのまま魔力を発揮できる世界。呪術行使の可能な世界。これこそ「通路」の介在を必要とする以前の、ファンタジーの大きな特徴の一つです。たとえば、アンデルセンより古い、ペローのコントの世界にもみられるとおり、『ねむりの森の美女』の継母になる女は、人間であると共に人食い鬼、人食い鬼であると同時に、王様のおきさきなのです。
 『親指姫』では、子どもを欲しがる女が、市場へ買物にでかけるように気軽に、魔女のところへ行きます。十二シリングの金を払って、大麦のたねを一粒もらい、それをまいてチューリップそっくりの花を咲かせます。その花の中から親指姫をつみとります。魔女との交通。不思議な種子の効力。親指姫の誕生。このどれひとつを取ってみても、不可思議な出来事が、人間であるその女には、何の不思議さも感動も引きおこすことなく、ごく当然のこととして受け入れられてしまうのです。
 ここには、魔女と人間をさえぎる「通路」も、また、人間の呪術の産物である親指姫とを隔離・遮断する境界線もありません。境界も通路も介在しない世界の存在。この世界で発生するドラマの不思議さは、わたしたちを驚かせるにしても、当の主人公たちの心を、さほどゆすぶるものではないのです。たとえば、『空とぶカバン』の主人公……。
   「そこで、この男が、それをおとしますと、ビューッと、男をのせたまま、煙突の中をつきぬけて、雲の上まで飛び上りました。そして、どこまでも、どこまでも、飛んでゆきました。カバンの底が、ミシミシいうものですから、男は、カバンがこわれやしないかと、たいへん心配しました。」
 右の程度の心の動揺なのです。アンデルセンが、「これは、世にもふしぎなカバンでした。」と不思議がるほどに、主人公の男は、カバンを不思議がってはいないのです。手に入れたカバンが、こわれやしないかと、心配するだけなのです。
 しかし、『人魚姫』はどうでしょうか。
 境界も通路も必要としない世界……と言いましたが、この作品には、あきらかに、人間と人魚という境界線が引かれています。人魚の六番目の姫は、その境界をこえるために、魔女に「声」をさし出します。そして、はじめて「足」を手に入れ、人間の王子のそばへ行くのです。こうした手続きの必要な物語を、境界・通路不在の世界と言ってすませるかどうか……。
 わたしは、はじめ、境界・通路は、人間の日常的世界から異質の世界にはいる扉……かつては、人間の日常的秩序に密着していたはずの、そして今日では、それと隔離してしまったところの神の摂理のあまねく世界にはいるためのもの……と言いました。そこで、この点から人魚姫の行動を考えてみると、どうなるか。人魚姫は、異質の世界にはいっていくことになるのでしょうか。人魚にとって、人間の世界は、たしかに異質の世界ではあるけれども、わたしたち人間にとっては異質でも異常でもない世界です。人魚の六番目の姫は、この人間の日常的秩序の中にはいることによって、得るものと言えば、王子(人間)の関心だけです。それもつかの間のよろこび。人魚姫は、王子の愛さえ獲得することができないのです。まして、人間と等しなみの姿になっても、神の恩寵に浴するわけではなく、また、人魚の生存の意味を確認できるわけでもなりません。ただ、人間的な、あまりにも人間的な生活に参加するだけであって、その人間生活は、絶対的な価値座標である神の秩序の前には、異質であるどころか、人魚の世界とパラレルな、相対的な世界なのです。こうした相対的な世界への参加を、果して異質の世界への転入ということができるのか、どうか……。
 本来「通路」は、それを境にして、人間の日常的秩序を明確に截断するものであった……と言いました。とすると、人魚の、人間の日常的世界への転入は、決して異質の世界への転入とは言えないことになります。そればかりか、もし「通路」によって隔絶された異質の世界へ転入するのであれば、どうしてこの物語のように、人間となった人魚姫のもとへ、海底の声が、また波間の人魚の声が、とどくことがあるでしょう。
 夢破れた人魚姫は泡沫となります。姿・形を失います。その人魚姫の耳もとへ(と言っても、泡沫に耳はありませんが)、空気の精の声が、また人間界の船上のさざめきが、伝わってくる構成になっているのです。
 境界や通路であったはずのない魔女の呪い。それを通り抜けながら、人魚姫においては、それ以前の世界と、それ以後の世界は、決して断絶もせず、交通不能にもなっていないということ。ここに、現代ファンタジーの通路意識(と言っても、もちろんヨーロッパの話ですが……)とは、まったく異質の構造を、アンデルセンの場合、感じるのです。「声」を渡し、「足」を手に入れることは「通路」ではありません。きびしい愛のあかしにすぎません。そうしたきびしい試練を経たからこそ、神の救済が待ち受けているという発想です。
 『パンをふんだ娘』同様、『人魚姫』にも天と地と海底のコミュニケーションがあります。一本の予定調和の糸で結ばれています。
 アンデルセンの作品に、『おとっつあんのすることはいつもよし』という、オプティミズムに支えられた作品がありましたが、まさに、アンデルセンのファンタジー全体が、「神の御心にかなうことはすべてよし」というオプティミズムに支えられているわけです。
 一切の存在物に、等質の価値と可能性が付与されていること……これをアニミズムと言ってしまえばそれまでです。しかし、現代のファンタジーが、「通路」と「手続き(通過方法)」と、時には「通路通過資格条件」まで付与されて、はじめて「神」の前に立てるのを考えると、アンデルセンの場合には、人間が手続きなしで「神」を可視できること、これはまた、何としあわせな話ではないかと、皮肉の一つも言ってみたくなるのです。
 「おそれ」と「おののき」の息づく世界。人間の秩序と、神の秩序の一体感。アンデルセンの作品を支えてきたものは、これです。そして、この一体感が、ヨーロッパの精神構造の中で後退し、解体しはじめた時に、はじめてファンタジーは「通路」を意識しなければならなくなったのです。
 ルイス・キャロルは、C・S・ルイス同様、たぶんに敬虔なクリスチャンだったのでしょう。しかし、かれが、うざぎの穴を、不思議の国への「通路」として発見した時、神の秩序は後退し、時代思潮は、合理的な実証主義によって浸蝕されはじめたのでしょう。もちろん、これは全く逆説です。
 いずれにしても、「その木戸を通って」どこへ行くのか。これは、今後にも尾を引く大きい問題です。今のところは、ルイスもピアスも、かつてアンデルセンがそうしたように、狭い「通路」をくぐることによって、わたしたちを神の御元へいざなってくれます。
 しかし、地獄にも極楽にも、すでに背を向けて久しいわたしたちは、そうしたヨーロッパ的信仰を、「通路」のむこうに知ったからとて何になるでしょう。わたしたちは、ファンタジーの「通路」のむこうに、どのような世界を用意すればいいのか。山本周五郎の作品『その木戸を通って』の娘同様、行方知れず……で終っていいかどうか。ファンタジーという時、そのことが、わたしには、とても気になるのですが……。

【注】「通路」の成立は、正確に言えば、一八六三年のチャールズ・キングズリーの『水の子』ということになるのかもしれません。煙突掃除の少年トムは、その物語の中で溺死します。溺死することによって水の子となります。「死」を「通路」とすることによって「自由」<神の恩寵の世界>にはいります。キングズリーは、ダーウィンの考え方<種の変化要因は環境による……>と神学の統一をめざしたと言われています。神の秩序に主人公がはいるためには、「死」という「通路」をもうけざるを得なかったのです。キングズリーとルイス・キャロルの関係は衆知のとおりです。なお、主人公を貧しい少年と設定しなければならなかったのも、時代風潮と関係があるでしょう。マルクスの『資本論』第二巻第三篇第八章「労働日」第三章「搾取の法的制限をかくイギリスの産業諸部門」には、キングズリーの時代の少年たちが、いかにひどい生活をしていたか、いろいろ記されています。(テキストファイル化與口奈津江)