3

 わたしは、『ジャングル・ジムがしずんだ』の作者が、みずから否定しようとした「理念」中心主義にもどったのではないか……と言っているのではありません。「やぶれかぶれの、とほうもない空想」を目ざしながら、結果として、そうした原理にたどりついた……その理由を考えているのです。
「扉のむこうに何があるのか……」と、はじめに記しましたが、それをなぞった言い方をすると、「ジャングル・ジムの沈んだ地下の国には、何があったのか……」ということになります。
 この問いかけは、ファンタジー創造の新しい実験を試みた一作家の問題ではありません。現代日本の児童文学者が、何をよりどころにし、何をその発想の基軸にすえているか……という問題にひろがります。
 言うまでもなく、戦後の児童文学者は、憲法の志向する(……規定する、ではありません)理想的国家像あるいは人間像を発想の基軸にすえてきました。それは、他国の占領政策による押しつけ憲法であるにせよ、階級問題の欠落があるにせよ、そこに、人間の基本的理念が集約されていると考えたからです。
「与えられたもの」だから「守りぬく」のではなしに、そこには、それが成立した諸条件を排除しても、なおかつ人のよるべき原理が内在しているから「守ろう」とする考え方……。こうした考え方があるからこそ「民主主義」という理念が成立し、その理念に合致する幸福論が成立し、たとえば、『ジャングル・ジムがしずんだ』の「しあわせ」と「ふしあわせ」の発想も生まれてきたと思うのです。前川康男の『奇跡クラブ』(昭41・実業之日本社)の行きつく原理は、男女の価値は対等である……ということですが、この価値観も同じく右の理念に支えられて成立します。
 理念や原理と個人の発想のこの関係は、自明の理だ……と言われそうです。しかし、自明の理と考えられることを、あえて繰りかえすのは、はたして自明であるかどうか、わたしが、疑っていることによります。戦後理念といい、民主主義の原理といい、それをそのまま自明の理といってすませてきたところに問題があるのではないか。そうした考え方が、現代児童文学の「やぶれかぶれの、とほうもない空想」の展開を阻止してきたのではないか……と考えているのです。
 理念や原理を、自明の理として受け入れる姿勢には、それらを「無謬」の「固定したもの」として把える意識があります。それらが常に、おのおのの個人によって、創りだされ、維持され、修正され、発展させられる「有謬性の原理」であることを(誤謬内在の動的なものであることを)見落している点があります。そのため「やぶれかぶれの、とほうもない空想」の展開を目ざす場合にも、発想の基軸にある原理なり理念なりが、不動のスタティックなおもりとして作品を引きとめ、展開するはずの空想を、一点に引きもどす役目をはたしているように思うのです。空想の展開につれて、基軸にある原理も移り動く……(発展的にとらえられる……)と言えばいいか、空想の所産である葛藤の中で、それは何度もためされ、けずられ、歪められ、正され、事件と人間につれてダイナミックな本性をあらわしていかねばならないと思うのです。そうでないかぎり、いくら空想の翼ではばたいても、物語は出発した原理へもどってしまうのでしょう。物語の展開が、起点にすえた不動の原理の正しさを、証明する行為になってしまう。いや、時には説明するための道具になりはてる。ことばは、ついに、それ自体の世界をつくりえないままにおわるわけです。起点にもどっただけなのに、起点の確認行為を、高次の創造世界に達した……と錯覚することもおこるのです。
 発想の基軸にすえた原理を、スタティックな無謬のものと見るかぎり、「とほうもない空想」への志向性も、自縄自縛のおそれをまぬがれません。
 藤田省三は、共同研究『転向』(下巻)の中で、次のように言いました。

  「……絶えず民主主義をつくり、また再生産し拡大していくもののみが、民主主義者なのである。その意味で、民主主義者とは、民主化(傍線)主義者である。」

 こうした理念や原理の動的把握をさまたげ、逆に、絶対視・不動視を生む原因として、国家権力による個人へのなしくずしの侵犯ということがあります。おびやかされるから、それらに強くすがる……この自衛本能が、原理や理念を凝結させます。それらを柔軟な姿勢で受けとめることを押しとどめます。戦力の問題にせよ、人権の問題にせよ、民主主義を裏切る材料には事欠きません。そうした侵犯の事実を知っているからこそ、理念や原理を保持するために、それらを不動視し、無謬視するという姿勢……この姿勢が無意識のうちに、「発想の基軸」としてスタティックな原理を定着させ、そこに回帰する思考のパターンをつくりあげたとも言えるのでしょう。かくして、「やぶれかぶれ」の奔放なファンタジーは、その意図に反して、整然とした起点の原理に到達する……とも言えます。
 しかし、C・S・ルイスは、こうした不動の基軸は持っていなかったのか。フィリパ・ピアスは、無謬の原理をすえていなかったのか。
 ナルニア国のアスラン、またバーソロミューおばあさんの大時計を知っているものは、当然そうした疑問を抱きます。この疑問は、つぎのような考えを生みます。
「一つの固定した観念があり、もしそれを基軸に、ドラマが展開される場合、途方もない空想のはばたきが、それに規制されるとしたなら、『さいごの戦い』や『トムは真夜中の庭で』のような、スケールの大きい厚みのあるファンタジーは、生みだせなかったのではないか……。」
 この疑問にこたえるためには、「扉のむこう」「洋服だんすの奥」を調べてみる必要があります。

4

『魔術師のおい』にはじまり『さいごの戦い』におわるナルニア国物語は、架空の国の誕生から崩壊にいたる、長い歴史に仮託された人間の生と死の物語です。
『魔術師のおい』を創世紀とするなら、『さいごの戦い』は最後の審判、……その間にはさまる『ライオンと魔女』『馬と少年』『カスピアン王子のつのぶえ』『朝びらき丸 東の海へ』『銀のいす』は、それぞれ人間が、正義と考えるところを行い、悪を排除し、神の御心にかなうべく秩序を形成し、善に生きぬいた記録ということになります。たぶん、ここには、キリスト教信仰をその日常性の中に持つヨーロッパ人にとっては、親しい物語の再生があるに違いありません。
 人間の犯したあやまちのため、全知全能のライオン「アスラン」が、魔女のいけにえとなって切りきざまれ、やがて復活する。しわだらけの毛猿ヨコシマが、ロバの「トマドイ」を「アスラン」に仕立て、神をかたり、神をためす設定。全七巻のナルニア国物語に、一貫しているものはキリスト教信仰であり、キリスト教の教義と理念です。
 しかも、『聖書』的ともいうべきこの物語が、神と悪魔と人間の世界を描きながら、単なる聖書物語、単なる信仰の形象化におわらず、「聖書」も「神」も所有していないわたしたちを引きつけるのですから、問いかけないわけにはいきません。
 不動の価値観を発想の基軸にすえながら、これが、すぐれたファンタジーとなっているのはなぜか……と。
 リリアン・スミスは「独創的な想像力」と言いました。しかし、わたしたちは、それだけを抽出するには、あまりにも非キリスト教徒的なのです。
 リリアン・スミスにとって、キリスト教信仰は自明の理かもしれません。神なり聖書なりは問うに価しない問題でしょう。問うに値しない自明の理だから、ヨーロッパやアメリカの子どもの本を検討する時、評価のフィールドからはずされます。それを不問の前提として「独創的な想像力」を抽出します。しかし、キリスト教信仰は、わたしたちにとって、不問の前提、自明の理とするには、あまりにも異質の心情なのです。肯定するにせよ否定するにせよ、血肉化し、生活や風土の中に定着してはいないのです。
 わたしたちは、キリスト教の摂理のあまねく国々の児童文学を考える時、まず、それらの国々では自明の事柄となっている神を、念頭に置かねばなりません。それこそ、わたしたちにおける戦後理念、民主主義の原理に対置すべき「発想の基軸にあるもの」です。
 C・S・ルイスは、イエス・キリストにも比すべきアスランの御名において、善は祝福され、悪はしりぞくべきかな……と語りました。すべては神の恩寵、摂理のままに進行し、人はみな、その光の中において生き、死んでいくという発想。これは、まさに無謬・不動の原理です。スタティックな絶対観と言えば、これほど絶対的な価値観はありません。にもかかわらず、「やぶれかぶれ」とまでは言わぬにしても、「とほうもない空想」のはばたきを示したとは……。
 この理由は、次のように考えられます。
 わたしたちが絶対視している(……しがちな)理念や原理は(……「しあわせ」「ふしあわせ」の考え方や、憲法の理念は)、神をすべての発想の基軸にすえる世界では、絶対的なものでも不動のものでもないということ……。男女の対等性といい、民主主義の原理といい、すべては人為の理念、相対的価値、あやまり多いものにすぎないということです。
 わたしたちの児童文学が、発想の基軸にすえているものは、C・S・ルイスにおいては、足がかりでも基軸でもないということ。それらは「部分」であり、「うつろいやすいもの」であり、相対的な価値として眺められているということです。
 神だけが絶対で、人間がいかなる正義を行なっても、所詮は相対的価値観の世界から抜けだせない……という発想。こうした考え方が、たとえば『さいごの戦い』におけるノアの洪水的場面や、一切の現世の生の否定と、神の国での再生となってあらわれていると言えます。人為の理念、人為の原理に回帰することのない発想。これが、絶対的な価値観を基軸にすえながら、空想の奔放な展開を許しているのだと言うことです。
 フィリパ・ピアスの『トムは真夜中の庭で』の愛をみても解ります。トムも、真夜中の庭の世界で出会うハティも、永遠を前にしては限られた時間しか持っていないのです。永遠は神のもの、時間は人のもの……この限られた掟の中で、人は生き、人はめぐり会い、笑い、愛して死んでいくのです。「愛は永遠に……」という切なる願いも、「もう時間がない」という大時計の黙示録の前には、人間の切なる願いのまま消え去るのです。トムと、バーソロミューおばあさんの持ち時間が、それぞれ異質のものでありながら、神の永遠の世界では、同質の、交流可能のものとして把えられている構成が、そのことを示します。
 絶対であるものは、人の側には一つもない。すべては流れ消え去る……。こうした視点から相対視された人為的価値、こうした考え方を、発想の基軸にすえたファンタジー。発想の基軸のこの違いが、作品世界の広さと深さを大きく支配しているように思うのです。想像力の貧困や技術の熟・未熟以前に、発想を規制するものの違いがあるのです。

5

 神にそむくものは、そのまま悪魔に魂を売り渡すものだ……という考え方は、わたしたちにはありません。
 ヨーロッパの神に対置するものとして、わたしたちにも仏があります。しかし仏の思想は、広大無辺、地獄から天界までの六道を輪回して、常に人間の救済をはかります。この回帰思想を見おろす絶対者と、それに対峙する悪魔がありません。それ以上に、仏教信仰が日常性を規制していません。最後の審判に対置できるだろう「末法」の世の有様を、現代の児童文学者がファンタジーとして描いていないこと、(……また、描こうとは考えないこと)それよりも、別の主題を追い求めていることによっても解ります。わたしたちの発想の基軸にあるものは、絶対者不在のままに絶対視されてきた人為的原理なのです。
 この人為的原理が、いろいろな条件によって不動無謬の価値となり、独創的な想像力の展開を規制してきた……とは先にのべました。この規制を断ち切るためには、原理や理念に回帰する発想法を是正しなければなりません。そのためには、原理や理念が、まず「有謬性の人為的価値」であり、「修正発展可能」のダイナミックなものとして把えられる必要があります。じぶんのよって立つ理念や原理を相対視する目、動的なものとして把握する目がたいせつです。
 この視点は、神と悪魔の不在によって、わたしたちを虚無の深淵に立たせるかもしれません。しかし、人間の、人間によってつくられた価値を相対視する視点こそ、より人間世界における愛の意味、責任の重さを確認していくのではないでしょうか。ともかく、単純命題に落ちつきやすい児童文学を、「とほうもない空想」にかりたてるためには、この発想の足場にあるものを突き放してみることが必要です。
 事は簡単にはいきません。これは一つの手がかりを求める、わたしの手さぐりです。
「海外のファンタジーに比べて、日本のファンタジーは……」
という言い方があります。この判定の仕方には、両者の異質性を検証せずに結論するセッカチさを感じます。この判定法によれば、リリアン・スミスではないが、一切の責任は、個人の想像力に限定されてしまいます。しかし、『ジャングル・ジムがしずんだ』は、想像力以前の問題があることを、わたしに教えてくれました。

 クリスマスには七面鳥を……という通念があります。わたしたちは、ともすれば使命感に駆られて、固定観念の証明に奔走する場合があります。しかし、時にはクリスマスには七面鳥を……ではなくて、クリスマスにはワニを……と考える方がいいのではないでしょうか。百科辞典の規範をこえないで、「やぶれかぶれの、とほうもない空想」は生まれません。「とほうもない空想」は、レモン色のワニの存在を、まず、わたしたちの中に実感することからはじまります。クリスマスにはワニをどうぞ……。これは言うまでもなく、今江祥智の『かくれんぼ物語』の一篇です。(テキストファイル化田代翠)