G 猫に関する一章

民話について
『私の児童文学ノート』(上野瞭 理論社 1970)

           
         
         
         
         
         
         
    
 ペローのコントには、すべて、説教がついています。庄司薫の『赤頭巾ちゃん気をつけて』ではないが、『赤ずきん』には「気をおつけ、やさしげな男に……」というように。女性週刊誌的警告です。
 その中で、『長靴をはいた猫』、これについている教訓ほど、主人公の猫を無視したものはありません。

 ひとつ。おやじの遺産より値打ちのあるもの。それは頭のよさと、それの使い方である。 ふたつ。美人を手に入れるのは、なんといっても、若さとハンサムであること。それに、 馬子にも衣装だ。カッコイイ服装。

 つまり、粉屋の三番息子が、王様をあざむいて、美人のお姫様と結婚できたのは、これすべて、粉屋の息子の頭のよさ、若さ、ハンサムであることによると、この教訓では受けとれるのです。
 しかし、この息子が、それほど切れ味のいい頭を持っていたかどうか。こいつには、首をひねってしまいます。
 粉ひき屋とろばは、兄貴たちに持っていかれました。だから、ただひとつの遺産である猫を前にして、この息子の考えることは、こうなのですから。
(こいつを食っちまえば、それで人生は一巻の終りだ。せいぜい、猫の皮で手袋をつくるくらいだ。あとは飢え死にか。ちくしょう!)
 はなはだ、お粗末な発想であります。
 佐々木喜善の『聴耳草子』によれば、飼猫が、浄瑠璃を語ったり、芝居の声色を真似たり、猫踊りをやったりするわけですが、粉屋の息子も、せめて、猫を前にして、もうすこし気のきいた利用法を考えるべきではなかったのでしょうか。
 もちろん、猫皮手袋や猫肉料理のかわりに、猫の吟遊詩人や猫のウィンナワルツを、というのではありません。
 この猫、死んだふりをして、ねずみをつかまえること、なかなか巧みなりと、そこまでは、粉屋の息子も観察しているのですから、あと一歩。たまには世の中の出来事を観察すれば、道は、おのずから開けたはずなのです。
 ハメルンの笛吹きをしのぐ、粉屋のねずみ捕り。この職業が、いかに貴重なものであるかは、ハンス・ジンサーが、つぎのように書いていることで明らかです。
 
 「ヨーロッパに到着してからあと、このねずみは、驚くほどの速さで、ヨーロッパ中  に浸透していった。白人が、アメリカ大陸を席巻した速さなど比較にならないほどだ  った。13世紀の終り頃には、多くの被害をあたえる厄介な動物となってしまった
 (中略)あの「ハメルンのねずみ捕り」にまつわる伝説は、1284年か、あるいは、 ほぼその頃のことであると考えられている。(中略)ねずみ殺しは、重要な役人であ  ったし(『ロメオとジュリエット』第3幕参照のこと)、おそらく、かれらは、今日
 のわれわれと同様に、科学者とか、あるいは、芸術家とか、自認していたことであろ
 う。」(『ねずみ・しらみ・文明』第11章)
  
 しかし、粉屋の息子は、そうした巨視的な観察をしなかったおかげで、カラバ公爵などになったのですから、せっかちに「時代」や「状況」を見抜くのも、よしわるしです。
 問題は、猫のほうで、たとえば『虎猫と和尚』の話(『聴耳草子』第94番)のように、長年のあいだ、和尚が虎猫の面倒みてやった。だから、虎猫のほうも、和尚のために、棺おけを宙にうかせて、和尚を名僧にしたてあげた。これなら話はわかります。だが、ペローの猫のほうは、粉屋のおやじにかわいがられこそすれ、息子のほうには、あやうく食われるところだったのです。
 それをまあ、長靴や袋をもらって、東奔西走。ついに、猫の皮で手袋をつくるしか能のない男を、王様の入婿にしてやったのです。だから、せめて、フランス・アカデミーのへぼ詩人に、つぎのように書かれてしかるべきだったのではないでしょうか。
  
 ひとつ。猫は食用動物にあらず。あわてて、手袋にすべきものにあらず。頭のよさとは、 この事実を、よくわきまえているかどうかによってきまる。
 ふたつ。ジーン・セバーグのような美人を手に入れんとするなら、猫を粗末にするべか らず。 

 ふたつめの教訓、これは蛇足でしょう。いや、蛇足以上に、「ジーン・セバーグのような」という個性的な規定は、民話の世界を否定するものであります。
 「名づけ親」なんて仙女が出てくるから、はて、いかなる名前を、主人公の王子や王女がつけてもらったのか。待ちかまえていると、最後まで、固有名詞不詳であるところが民話性なのですから、猫を顕彰賛美することも、邪道だということになりかねません。
 主人公たる人間は、あくまで「髪ゆいの亭主」然たれ。常に動物は、それを補佐せよ。とは、柳田国男の『桃太郎の誕生』にも触れてあることですから。
 とにかく、粉屋の息子は、頭のよくない男で、猫のほうが、かしこかった(寝太郎説話をはじめとして、民話では、こんな連中が、当然のこととなっています。)この優劣の価値体系が、逆転したところから、近代の児童文学がはじまったといえましょう。
 宗教的世界観の後退と、科学的合理主義の抬頭。ひらたくいえば、猫は、それぞれ名前を持つようになり、それと引きかえに、もう長靴などはかなくなった、ということです。
 石井桃子の『山のトムさん』、稲垣昌子の『マアおばさんはねこがすき』、それぞれ、わたしの好きな作品ですが、ここに登場する猫ども、ミチル、チル、チョロ、シマキチなど、一人前に、ほかの猫と識別できる名前を持っていますが、もう賢明さから、ほど遠い存在であります。
 マアおばさんのおしりの力で、即死1、重傷後死亡1、軽傷1、というにいたっては、猫の皮手袋の比ではありません。
 マインダート・ディヤングの『びりっかすの子ねこ』にしても、渡辺義通の『猫との対話』にしても、なんと人間の自信にみちあふれていることか。おお、粉屋の息子、いまいずこ、といったところです。これは、クロ、プリン、ヨタロウと、わが家にわらじをぬいだことのある猫と、わたしとの間にもいえることであって、ふと、「時には粉屋の息子のように」と、呟くときもあるのですが……。

テキストファイル化佐々木 暁子