J 借り暮しの思想

メアリー・ノートンの小人たち
『私の児童文学ノート』(上野瞭 理論社 1970)


 ジュール・ルナールの日記の中に、つぎの一句をみつけたのは、ずいぶんむかしのことだ。
  怠惰は夢想し、勤勉は思索する。
わたしは、ながいあいだ、このことばを、うらめしげな目つきでにらんでいた記憶があるのだが、いったい、勤勉であることが、怠惰にまさる何ものを生みだしてきたというのか……。
「知らない土地へ行こうぜ。おれたちは、あたらしい生活をはじめるんだ。」
と、太鼓を打ちならして叫ぶライナー・ツィムニックの『タイコたたきの夢』……これを、おろかな夢想家への諷刺と受け取ることは、たやすいが、ここには、夢想と怠惰をむすびつける何ものもないのである。
 それどころか、町をすてて旅にでる太鼓たたきたちは、思索家以上に勤勉でさえあるのだ。橋をつくり、川を渡り、舟をつくり、海を渡り、角材をかかえて騎士とわたりあう。城をこわし、風車をつくり、仲間の墓標にたじろぐことなく、夢を追い求めて果てしない行進をつづける。そして、ついにたどりついたところが、自分たちのすてた町だとしても、ツィムニックは、この夢想家たちを笑いとばすことで、物語のケリをつけようとはしないのだ。
「むかしむかし、どこかで、あたらしい暮らしをはじめるなんて、この町の城門から出て行った奴らがいたぜ。」
と、笑いとばす門番の兵士たち。その中から、つぎの朝、まるで物語のふりだしへもどったように、ひとりの兵士が、
「知らない土地へ行こうぜ。あたらしい暮らしをはじめるんだ。」
と、太鼓を打ちならし、叫びながら立ち去っていくのである。
 勤勉なる思索は、この兵士を笑うだろう。しかし勤勉なる(?)夢想は、この兵士を、いや、太鼓たきを笑うことができないのである。
 チュコフスキーは書いている。
   ……石橋を叩いて渡る堅実で旧弊なひとは現在を持っているが、空想するひとは未来を持っている……。
 わたしは、ルナールのことばの配列をかえることによって、それがいかに矮小な観念であるかを指摘しているのでははない。ファンタジーはすべて、勤勉なる夢想の中にこそ、その発祥の地を持っている……ということが、いいたいのである。
「おねがい。あたしたちを絵のようにきれいにして……」
「ものすごいお金持ちになりたいんです。考えられないくらいの……」
「空を飛べる、きれいな翼があればいいのに……」
 ネズビッドの傑作『砂の妖精』をささえているものは、この、シリル、アンシア、ロバート、ジェインたち子どもの、それこそ怠惰なる夢想なのだ。この怠惰な夢想を一笑に付すことなく、勤勉に追い求めて行った時、あのカタツムリのつのの先に目玉のついたサミアドが、ネズビットの前に出現したのである。「もし、空を飛べたら……」「もし、小人がいたなら……」という考えは、勤勉なる思索の生みだしうるものではないだろう。それは、怠惰な夢想の所産である。
 しかし、怠惰な夢想は、ファンタジーを予感させるとしても、それは同時にそのままでは、ふくらまないゴム風船であり、帆走法の欠けたヨットである。ゴム風船を大きくふくらませ、ヨットに風と航法を与えるのは、勤勉なる夢想である。怠惰な夢想を笑うことなく反芻するとき、ベッドは南の島や過去の時代へ飛びだし、コトコトいうネズミの音や走りすぎるアブラ虫の影は、「借り暮し屋」の小人たちにかわるのだ。
 もちろん、わたしは、メアリー・ノートンのことを言っているのである。ノートンの、『床下の小人たち』から『空をとぶ小人たち」にいたる四冊の物語は、なかなか巧みに、夢想と思索、勤勉と怠惰の価値判定を示しているように思うのだ。
「おまえのようなものがいてな、アリエッティ、しきたりなんかかまわずに、いきなり、なにかする。それで、わしら、借り暮しのもんが、すっぱり根だやしになるんだ。おまえには、じぶんのしたことが、わからんのかね。」と言う小人の父親ポッド。
「なんて、しょうのない、わるい子なんだろう。なんだって、また、こんな、なにもかも、やりだしたんだね。いったい、なんで、人間と話なんかしたんだね。」と、頭をかかえこむ母親のホミリー。
『床下の小人たち』は、娘のアリエッティが、タブーを破って、人間にみつけられ、少年と話しあったことから、大恐慌をおこす移住と脱出のドラマだが、それをタテ糸とすれば、ヨコ糸は、親と子、現状維持派と冒険派、すなわち世代の問題となるわけである。
 アリエッティが、はじめて『野に出た小人たち』として、陽の輝き、大地の匂いを前にしたとき、両親と正反対に胸をふくらませるのである。
「これが、ながいこと、あこがれていたものだわ。心にえがいていたもの。きっとあると思っていたもの──いつかは、手にはいるのがわかっていたものなんだわ。」
 床下から垣根のそばの古靴へ、古靴から森番小屋の壁の中へ、そこから、やかんの中へ、そして、リトル・フォーダムとよばれる模型の村へ、転々と移住をくりかえしていく三人の小人たち。それは、それぞれが、わたしたちのミニチュアであると共に、わたしたちの生活態度、わたしたちの思考方法の原型を提示しているのだ。
 慎重で、タブーに忠実で、そのくせ、この上ない家族思いであるポッド。ポッドは、こつこつ仕事に打ちこむことを生きがいとし、できれば人知れず一定の場所で暮していきたいと考えている。この点では、わたしたちのまわりの、下積みのがまん強い人間をあらわしている。しかし、どうしても移住しなければならない時には、惜し気もなく古巣と別れていく小人でもある。
 それに対して、ホミリーは保守的であり、その視野は、じぶんの身のまわりにしか及ばない。こまごまと家財道具をためこみ、あくまで移住をきらう主婦として登場する。嘆きやすく、耐えるに弱く、物事の表面をみて一喜一憂する小人である。放浪の小人の若ものスピラーに対しても、「かわいそうに、家もなければ教育もない。育ったんだって、よくいう下水っぱたで……」
と、いささか軽蔑をこめて言いはなつホミリーである。家や教育のないことを見下すあたりは、見栄っぱりな今日の「教育ママ」「しつけママ」そっくりである。
 さらに、アリエッティは、また、スピラーは、そして、ヘンドリオリの家族は……と、それぞれを規定することはたやすい話だ。しかし、わたしは、ノートンにおける小人の慎重なる思索と勤勉なる生活態度が、アリエッティやスピラーに代表される一見怠惰な夢想の前に、はなはだ色あせて行くことを指摘すれば、事たりるのだ。
「どうして脱出するか。これでおしまいだわ」と首をひねり頭をかかえこむポッドとホミリー。その苦悩を前にして、『空をとぶ小人たち』の中で、アリエッティのしていることを考えてみれば解るだろう。彼女は、プラターさんなる悪い人間に、屋根裏部屋に閉じこめられながら、じぶんの体よりも大きい「ロンドン画報」を読みふけっているだけなのだ。
 これは、ピンチに落ちこんでいる慎重派をいらいらさせるだろう。目先の危機に心をうばわれている実際派には、きわめて不真面目に見えるだろう。しかし、小人たちの現状況に、まったくふさわしくないこの無駄な画報への耽溺が、結果として気球の制作を思いつかせ、屋根裏部屋から、ミス・メンチスやポッドさんの模型村へ三人を脱出させるのだ。
 もし、アリエッティが、ソフィ家で、人間の男の子に話しかけなかったならば、こんな危険な移住と脱出は起りえなかっただろう。ホミリーは、そんなふうに不足を言うこともできる。暗い床下の中で、ポッドの借り暮しによって、ホミリーは、その生涯を平穏におえることも可能だったろう。それはそのとおりだ……としても、それは同時に、ポッドやホミリーに、ついにみずからの手で「生きること」を知らせずに終わったことになるだろう。
 大地や、青空や、床下以外の世界へのアリエッティの夢想が、慎重で勤勉な思索家の生活をゆすぶり、世界の広さ、人生の起伏を、小人の両親に教えこむのだ。そして、わたしたち読者は、アリエッティやホミリーやポッドの苦難を見ることによって、すばらしい人生を、夾雑物を取りのぞいたかたちで知ると共に、そこから、夢想と思索、勤勉と怠惰の効用と価値を、じっくり検証する機会にめぐまれるということだ。
 ポッドは、リトル・フォーダムの豊かな生活をすてて、ひっそりと粉ひき場で暮す決心をする。危険な移住にあきあきしたホミリーは、たぶん、そこで最後のやすらかな生活を送ろうと考えるだろう。しかし、メアリー・ノートンは、まるでツィムニックの絵物語のように、その結末をこう書き記すのである。 
   ……このお話しもまだつづくのですが、こんどは、あなたがたの話す番なのです。いろいろなこ   とが、これからも起こるでしょう――あなたが頭にえがくことは、きっと、わたくしの推測と同   じようにあたっていると思います。アリエッティは、もちろん、スピラーと結婚します。(これ   はだれにもわかっていることです。)そして、すばらしい冒険にみちた生活をおくるでしょう。   ――両親の生活にくらべたら、ずっとずっと自由な生活です。ポッドとホミリーは、この子ども   たちが、ボートにのってあんまり遠くまで旅にでるので、びっくりしてしまうでしょう……。
 安定を願う世代。夢想をテコにして、平穏無事な勤勉な思索からとび出していこうとする世代。ノートンは、読者に下駄をあずけることによって、わたしたちの夢想の行方をみつめている。わたしたちは、悪いプラターさんのような模型村をつくるか、アナグマに片足をかじられたポットさんのような模型村をつくるか、それは自由だ。しかし、誠実にして勤勉、思慮深くて緻密、そんなポッドさんの前からさえ、借り暮し屋の小人たちは逃げだしていったのだ。このことは、覚えておいていいことではないだろうか。
 ポッドやホミリーでなくても、人から「見られる」ということは不快なことだ。しかし「見る」ということが、わたしたちの精神構造の発達に大きく関わる以上、見られたり見たりすることを否定するわけにはいかない。そこで、この小人たちを、その道具利用法や閉鎖的生活様式から「見る」ということも大切だろう……と考えるのだ。この見方は、異質のロビンソン・クルーソー物語として、「借り暮し屋」を把えることになるだろう。それと同時に、佐藤さとるのコロボックルたちや、いぬいとみこの『木かげの家の小人たち』と比較してみることも、勤勉な思索家の仕事として残される。しかし、怠惰な夢想家は何をすればいいのか……。
「プライスさん。ぼくにも魔法を教えて。一晩のうちに世界の小人たちの比較研究が一切合切のっているような本がつくれるような……。」と、ベドフォード州のおばさんの家へあずけられたケアリイやチャールズやポールのように頼み込むべきなのか……。

 わたしは、メアリー・ノートンの借り暮し屋の物語の中で、ホミリー婦人にもっとも興味を持った。もし、この小人たちの世界に、『主婦のブルース』を持ちこめば、この人が一番頭にくるのではないかとさえ考えた。
    おお人生は悩みよ。楽しくはないの
    恋なんかしない間にふけちゃった
    これが人生というものかしら
    思いどおりには」いかないものね
 ノートンは、この意味ではすぐれた女性ということができよう。ホミリーのような勤勉な女の生活を、勤勉なる夢想によって、みごとに 対象化したのだから……。
 もし、ルナールが、この物語を読んだとしたら、何と日記に記すだろうか。
    ……本日はくもり。
 案外、そんなことだけかもしれない。

テキストファイル化安田夏菜