私の問題関心- 批評としての伝記論をめざして
奥山 恵

 蓮實重彦の『映画の神話学』(泰流社、一九七九、ちくま学芸文庫、一九九六)。この映画論を読んだとき、私は、こんなふうに伝記論を書いてみたいと思った。蓮實は言う。《筆を走らせれば書けてしまいキャメラをまわせば撮れてしまうという批評と映像の頽廃の渦が、償いがたい錯誤を隠蔽していはしまいかという反省をおこたらせ、映画と存在との無定見な共存を許している》。この《書けてしまい》《撮れてしまう》というところに、蓮實は、映画というものが無意識のうちに繰り返しているおきまりの「記号」や「しぐさ」を見ようとする。そして、そうした映画的「記号」や「しぐさ」が隠している《錯誤》を引きずり出すとともに、できあいの「記号」や「しぐさ」を逸脱している貴重な映画的「記号」や「しぐさ」に改めて驚いてみせる。
 子ども向けの伝記もまた、映画と同じく量産されることの可能なジャンルである。書こうと思えば、だれでも書けてしまう。そして、なんとなく安心して読める。ここにもやはり、伝記というものを成立させるおきまりの「記号」や「しぐさ」があるのではないか。こういうパターンをたどれば伝記になるという要素があるのではないか。それがどういう《錯誤》を隠しているか、またその一方で、おきまりの伝記的「記号」や「しぐさ」を逸脱した貴重な「記号」や「しぐさ」はないものか。そういう問題意識で、私も、伝記論を書いてみたいと思ったのだ。

 これまでの伝記論といえば、多くの子ども向け伝記がいかに杜撰に史実に反することを書いてきたか、という指摘にとどまり、事実に反してでも実現しようとした伝記の「記号」や「しぐさ」の批評には達していない。無自覚な《錯誤》の批評には達していないように思う。たしかに、子ども向けだからと史実がおざなりにされていいものではない。ひとつの人生をめぐる意外な史実が、既成の想像力、平凡な人生パターンを裏切ることは何をおいても面白いことだ。その意味での「事実」の力というものは、やはり重要だと思う。ただ、あくまで作品の場合、事実と想像の境界はどこまでいっても不明瞭でしかありえないのだから、事実か事実に反しているかを厳密に指摘するだけの伝記論では、どこにも行き着けないのではないか。必要なのは、史実をねじまげてもそれなりに成立してしまう伝記らしい想像力とは何か、それを許している《錯誤》とは何かをこまかく見ていくことだろう。
 ところで、ジャンヌ・ダルク、キュリー夫人、ヘレン・ケラーという女性偉人をとりあげた子ども向け伝記については、そのヒロイン像のパターンとそれらが隠している《錯誤》を浮き彫りにした論考がすでに出されている。言うまでもなく、斎藤美奈子の『紅一点論』(ビレッジセンター出版局、一九九八)である。ただ、この論考の場合は、もっぱら批判的な指摘が中心である。おきまりのヒロイン像を逸脱したような面白い伝記は見当たらなかったということかもしれないが、『紅一点論』を読むと、伝記のばかばかしさばかりが印象に残ってしまい、刺激的だがすこしさびしくもある。
 蓮實の映画論が面白いのは、私たちがなんとなく慣れてしまっているおきまりの映画的「記号」や「しぐさ」を鮮やかに浮き彫りにするとともに、さらにパターンを逸脱するいくつかの魅力的な「記号」や「しぐさ」――たとえば、ゴダールやヒッチコックの――に触れているところでもある。
 私は別に伝記延命論者ではないが、しかし、子ども向け伝記の中にもばかにできない作品は、少数ながら生まれてきたという気持ちもある。批判にとどまらず、魅力的な伝記については、そこでどんな伝記らしからぬ「記号」や「しぐさ」が実現されているかをなんとか語ってみたいと思うのだ。

 たとえば、私の頭の中には、次のような伝記作品が、点滅を繰り返している。新美南吉の『良寛物語』(学習社文庫、一九四一)。吉野源三郎の『エイブ・リンカーン』(岩波少年文庫、一九五八)。古田足日の『コロンブス物語』(フォア文庫、一九九〇)。秋元寿恵夫の『人間・野口英世』(偕成社、一九七一)。日向康の『果てなき旅』(福音館書店、一九七九)……。これらの作品は、どこか子ども向け伝記らしくないところがある。どこかおきまりの伝記パターンを逸脱するところがある。
 南吉の『良寛物語』は、少年時代の良寛の内面の揺れが、異様に丁寧に描かれていて(「川」や「屁」など南吉の少年小説系列の作風に近いだろうか)、伝記的な時間の流れ方とは異質な時間感覚があるように思える。直線的でない時間とでも言おうか。そういう作品が一九四一年という戦時下で書かれたことの意味や、相馬御風などが書いた南吉以前の良寛伝との比較、また、現代の良寛伝との比較なども含めて、考えてみたいことはいろいろとある。また、吉野源三郎の『エイブ・リンカーン』は、何度も書き継がれ、書き直されているが、そのたびに、リンカーンという男はだんだん「暗さ」を増していく。同じ時期のリンカーン伝といえば、池田宣政の『リンカーン』や沢田謙の『リンカーン』もあるが、それらと比べても、吉野作品におけるリンカーンの「暗さ」は、印象に残る。一方、秋元寿恵夫の『人間・野口英世』は、既成の野口英世伝をあからさまに意識して書かれている。その意味でもすでに伝記らしくないところをねらっていたわけだが、近い時期の寺村輝夫の『アフリカのシュバイツァー』(童心社、一九七八)と比べつつ、英世と同じ学者でもあった作者の独自の方法を捉えたい。 その他、古田足日の『コロンブス物語』は、作品半ばで、当のコロンブスが死んでしまう構成になっていたし、日向康の『果てなき旅』は、田中正造が、年齢を重ねるに従いどんどん「未熟」になっていくところに多くのページを割いていた。とにかく、どの作品も、妙な個性を感じさせる。
 しかし、だからこそ、これらの作品は、伝記らしいと私たちが感じる「記号」や「しぐさ」とはそもそも何であったのかを改めて考えさせてくれる。そして、そこからの逸脱が、人間や人生というものの意想外で具体的な一面を垣間見せてもくれるように思えるのだ。(古田足日のコロンブス伝については、「古田足日のふたつの伝記――「伝記作法」とそこからの逸脱――」『日本児童文学』一九九七・九ー一〇、日向康の田中正造伝については、「歴史小説としての伝記」『日本児童文学』一九九二・一〇、でそれぞれ論考を試みましたので拙いものではありますが読んでいただければ幸いです。)

 それにしても、伝記というジャンルそのものは、売り上げから言ってもはっきりと下降線をたどっているらしい(『本の話』一九九七・二)。子どもの読書調査などでも、よく読まれている本の上位に伝記はあまり入らなくなった。定番だった教科書教材からも伝記は消えつつある。とはいえ、伝記を成立させてしまう伝記的「記号」や「しぐさ」は、形を変えても残っていくだろう。その意味で、もうひとつ気になっているのは、現在、書店の一角を占めている芸能人関係のたくさんの本である。ブレイクしたミュージシャンや俳優の「本音」の話。生い立ち。サクセス・ストーリー。若い人たちの生き方のひとつのサンプルとして、今、かつての伝記に近い位置にあるのは、もしかしたら、これら芸能人関係の本かもしれない。もし、そうだとしたら、これらの本にはどんな「記号」や「しぐさ」を読むことができるか。また、かつての伝記とは違う独自の「記号」や「しぐさ」はあるのか。このあたりまで論を繋げることができたら、伝記論もさらなる広がりを持てると思うのだが……。

 しかし、今のところ、どれもこれも、仮説や漠然とした印象の域を出ていない。その一方で、目を通すべき伝記の量の多さにひるんでしまうところもある。どこまで行き着けるものか、われながら甚だ心配ではあるが、いろいろな意見交換、情報交換をする中で、考えを深めていかれたらと思う。
 ここに挙げた以外でも、伝記らしくない面白い伝記があれば、ぜひ、教えてください。

「児童文学評論UNIT2001」No.1 2000/01