有害な恋愛ものを

佐藤重男

           
         
         
         
         
         
         
     

 わたしは、子どものころから多感にして多情なB級嗜好人間であった。発想がひどく通俗的であり底が浅い。そのかわり、情にもろく、喜怒哀楽がはっきりしていた。これは、B級嗜好人間としてかけがえのない長所だと思う。
 ただ、多感にして多情であることは、夢想家・ひとりよがりになりがちで、現に、思春期から青年期にかけて「空想とひとりよがりの世界」に浸っていて、その十年間余りというもの、悲しいかなガールフレンドの一人もいない状態が続いた。
 もっとも、当人はそれを不幸なことだと自覚したことがいっぺんもなく、ありがたいことだといおうか、文字どおり「不幸中の幸い」であった。
 さて、そのようにして中年になり、いっそう多感にして多情なB級嗜好人間として磨きがかかってきたいま、日本の創作児童文学を手にするたびに、欲求不満を募らせている。 というのも、「恋愛は人を豊かにする」なんていう、お子様ランチというか、教科書的な「恋愛もの」はあっても、「恋愛は人をダメにする」という「有害」作品がないことだ。
 なぜ、日本の創作児童文学は人をダメにする恋を描かないのか。それは、「悪い恋」イコール「悪女」「捨てられた女」といった通俗的なイメージを連想させるからだ。これらは、どちらも男の側からの視点であるが、そういう男女の二項対立(見る者/見られる者」)に反対するフェミニズムの観点からというよりは、無垢な子どもに「悪い恋」は不向き、という戦後民主主義的な「通俗批判」がブレーキをかけているのではないかと思われる。
 しかし、考えてみれば、お子様ランチ風の作品だって「恋愛は人をダメにする」シーンに満ちあふれている。
 授業中ボーッ、とする。食欲が落ちてからだが弱る。親友とのつきあいがおろそかになる、などなど。一般論からすればやってはならないこと、あってはならないことだろうに、でも、恋をすると、子どもでもそれをしでかす。中には、小学生だというのにキスのことで頭がいっぱい、という状態になる子さえいる。どんな教科書的な児童文学作品であっても、ことほどさように、通俗に汚染されてしまう。
 ところが、日本の児童文学は、それらのことすべてを「ほほえましいもの」に言い換えてしまう。逆にいえば、ほほえましい限りにおいて子どもの恋愛は、清く美しいものとして、したがって高尚な行為として「公認」されるのだ。
 恋愛に下賤も通俗もない、などといいたいのではない。「恋愛は人を豊かにする」という通説をこそぶち壊す、そんな児童文学があっていい、戦後民主主義的な発想から自由な恋愛ものを読んでみたい、そう願うだけだ。
 読んでいて、からだが自然に反応してしまう、そんな物語をだ。甘いレモンの香りのする(そんな匂いなどかいだことがないが)、人畜無害なしろものではなく、おどろおどろしい、ドロ沼、生き地獄にも似た、あまりにも非人間的な、こてこての通俗、B級恋愛ものを、だ。抱腹絶倒のラブ・コメディも読みたいが、まずは、通俗であって通俗を超えた、そんな「人間をダメにする」恋愛ものを読んでみたい。