これは「女の子」の王国
荻原規子・勾玉三部作をどう読むか

佐々木江利子

           
         
         
         
         
         
         
     
 天沢退二郎の『光車よ、まわれ!』(筑摩書房)が出たのは一九七三年のことだった。これは、地上に抑圧され地下に押し込められていた〈水の悪魔〉の勢力が、地上を浸食しはじめたのに対し、地上の子どもたちが〈光車〉を探究することで戦う、光と闇の善悪二元論的構図の物語である。この作品に対し、宮川健郎氏は〈地下の魔ものから地上の秩序をまもる冒険活劇として読める。〉といい、
〈そして、そのことは、いささか古風な気もする。〉と述べている。

  天沢退二郎のファンタジーを支える骨格を古風だと思うぼくは、やはり、ぼくたち の現実が「生きられなかった可能性」を、地面の下からほり出さなければならないと 考える。(宮川健郎「現代日本のファンタジー―あるいは「原風景」の考古学について―」「日本児童文学」一九八三年六月号)

 それから五年後、荻原規子の『空色勾玉』(福武書店、現ベネッセコーポレーション、一九八八年、なお、九六年徳間書店より改版して三部作が発行される)は発表された。天沢退二郎の『光車よ、まわれ!』は地下の〈闇〉であり悪である〈水魔神〉側と、光車を求める〈光〉であり善である子どもたちの戦いであった。ここでは、〈水〉がもたらすものは「死」であり、〈闇〉の力に属する忌まわしいものだった。その構図は『空色勾玉』では反転する。
 〈光〉である「輝(かぐ)」とは、既に権力者であり、土俗の民の征服者である。神の子であるため不死であるが、それ故の非情さにより、物語では打倒されるべきものになっている。対する被征服者側であり、打倒する側になるのは光とは対極であり、対のものである「闇(くら)」である。地上を秩序と不死の光であまねく照らそうとする「輝」と戦う「闇」は、甦りであり「再生」を信じる一族だ。ここでは〈水〉は『光車よ、まわれ!』同様「闇」に属しているが、〈光〉に浄化と静めをもたらす、清めといった清浄なイメージを与えられている。
 従来の〈光〉と〈闇〉の構図を反転させた『空色勾玉』は、日本において「生きられなかった可能性」を現代に甦らせた物語として考えることができる。作品は戦後日本が敗戦によって否定したはずの神話の力を再び肯定し、「まほろばの国」の始祖が神であり、王とは神の血をひく者であるという結論でめでたく終わる。そして、それは天皇制に反対する者にとって、違和感をもたらすものに他ならない。戦後日本は天皇制に「象徴天皇」という曖昧な名を付けて、その実際を問うことはタブーのままだからだ。しかも、皇室に皇族ではない生まれの女性が嫁ぐ現代においては、シンデレラ・ストーリーは身近なものとなってしまった。そうした日本の曖昧な天皇に対する姿は、この作品を生み出す土壌となっているのだろう。
 また、この作品が登場した一九八〇年代は、「前世」に憧れる少女たちが不可思議な社会現象を起こした時代だった。ヒロインの狭也が前世は〈水の乙女〉であったという設定も、当時のそうした少女たちにはなじみ深く嬉しいモチーフだろう。そして、「甦り」を信じて現在の命を時に危険にさらす少女たちに、大人側は「これはフィクションです」と突きはなす以外の言葉を持たない。
 しかし、荻原規子と彼女の作品を支持する読者たちにとって、そうした批判はどうでもいいことのようだ。荻原はこの作品を、読書が得意で、自分の好むものだけを読み、場合によってはコバルト文庫系とマンガしか読書の対象ではなかったりする〈女の子のために書いている〉という。

 わたし自身がそういう女の子だった。だから今もわたしは、そういう本(やマンガ)の読み方を、四の五のいわずに共有できる女の子に向かって書いているのだと思う。たぶん、そういう女の子だけにしかわからないシグナルはたくさんあって、わたしもそのシグナルを解析できるとは思えないような人から作品を評価されると、あっそう、くらいにしか思えないのである。望外に褒めていただいてラッキー……でもそれだけだ。(荻原規子「読む女の子たち」「日本児童文学」一九九五年六月号)

 「あっそう」という荻原の一言には、そうした他者のシグナルとは交わりたくない、自分と共通理解のできる〈そういう女の子〉読者以外を拒む姿勢が現れている。しかし、作者がどう言おうが、作品自体は「そうではない」人々に向かっても開かれているのだ。では、作品とそのシグナルを解す者と解さない者との狭間で、批評はどんな言葉を用いればよいのか。
 作品の語りはレコードの針のように、文字に固定された一定の行をなぞりながら進む。その呪縛から解放されながら、しかし、作品に近づこうとする批評もまた、作品に見合う言葉で語られるべきなのだろう。荻原が先の論の中で、自分の作品をマンガ化したマンガ同人誌(例えば風野潮氏がデビュー前に編集していた「輝と闇(かぐとくら)」などが挙げられる)をもらうと、「すごく、すごく嬉しい」と述べているように。ならば、作品を語る言葉はモードを切り換えて語らなくてはならないのかも知れない。
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 荻原規子の勾玉三部作ひさびさに通して読みました! なんか、その後に続く『西の善き魔女』シリーズの材料がけっこう詰まってるなって感じしました。照日が美しくて怪しいおねーさまなところとか、稚羽矢のキャラクターとか、『西の善き魔女』の二巻目の構図とちょっと似てますね。ところで、照日と月代って、あれ、近親相監でしょー。稚羽矢だって喜々として女装するし、アブナーい。きゃーっ。あの姉弟ってどうなっちゃってんのって思いません? 女装といえば『白鳥異伝』にも出てくるし、主人公の女の子が男装するなんてあたりまえだし。大体児童文学でこんなことばっかりやっちゃっていーのか。
 えーと、私が好きなキャラはやっぱり流管かなー。あっでも阿高も捨てがたい。この本に出てくる人ってみんな美形ですよね。科戸(しなのど)も不器用なとこがけっこう好みです。稚羽矢とかは…、あー…、ショタコンじゃないから別にいいや。
 と、それはともかく、荻原作品は、やっぱりキャラクターがイイ! 主人公の女の子たちが強くて健気で前向きで、みんなお気に入りです。登場人物に絶対的な悪人がいないのもいいですね。
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 この文体で、天皇制を語ろうとして挫折した。おそらく、こうした文体で作品について語る読者たちは、批評の言葉では届かない世界で作品を楽しんでいるのだ。恐らく、作品における「王制」とは、読者の内的世界における秩序であり、「力」への欲望なのではないか。『空色勾玉』は秩序の乱れた〈光〉と〈闇〉の世界が統合され、新しい止揚された世界を築き上げることで終わる。それは、二つの相反する欲望を統合してゆく、十五歳の少女の内的成長の過程が「王国」として描かれているのだろう。
 『空色勾玉』に続く『白鳥異伝』(一九九一年)『薄紅天女』(一九九三年)もまた、物語の骨格は第一作と同様、十五・六歳の巫女、あるいは天皇の血筋の少女が、超能力を持ちながら、自分に自信が持てず、力に翻弄されている天皇の血を引く少年を女性として受け入れてゆく物語である。物語は少年が自分の力を統御することができるようになり、少年と少女の恋愛の成就(結婚)というハッピーエンディングで物語は閉じられる。作品の本質はグリム童話の「シンデレラ」や「白雪姫」同様、主人公が苦難の末、幸福な結婚を獲得することと、ヒロインの女性としての成長の過程が読者に共感を得ることにあるのだろう。
 三部作を通じ、主人公の少女は常に処女であり、少女と結ばれる少年も常に童貞という設定もその恋愛の純真さを強調する。また、彼女たちの恋愛の成就の障害として常に立ちはだかる敵対者は、近親相姦の末少年を産んだ母(『白鳥異伝』)、あるいは姉(『空色勾玉』)といった、少年を独占し、支配しようとする呑み込む母の要素を持つ女性たちである。それは、「兄」を守ろうとする臣下の女性(『薄紅天女』)でも共通するモチーフだ。女性の戦いに勝つことは、ヒロインの少女たちには避けて通ることのできない試練の一つであり、相手の男性をその〈母親〉から奪還するという、女性にとって普遍的な課題を描いたものでもあるだろう。
 また、勾玉三部作において、主人公たちの恋愛の成就という物語の背景としてある物語の事件の連なりは、常に男女間の出来事によるものである。例えば、『空色勾玉』における輝の大御神と闇の女神との対立とは、人間界を巻き込む大夫婦喧嘩といえるだろう。その他、近親相姦、嫁探し、息子による父の嫁の剥奪(『白鳥異伝』)、女神を得ようとする男たちの戦い(『薄紅天女』)など、作品における一見政治的権力闘争は実際は恋愛を契機に起きているものだ。
 荻原規子の勾玉三部作とは、現代に生きる作者が日本の古典文学作品から発想を得、それらの時代をイメージして作り上げた恋愛物語である。現実の天皇制と結びつけてこの作品が批評されることは、作品の本質に近しい読者は的外れなものとして違和感を持つだろう。しかし、作品は「日本の児童文学」として他の言語に翻訳されたとき、これが戦後の日本の児童文学における天皇制への感覚であると、みなされてしまう場にさらされることを忘れてはならないだろう。戦乱において主人公たちのために「その他大勢」の名もない人々が、時に自ら進んで主人公たちのために死んでゆくことなど、戦前・戦中の日本を一瞬思わせる。また、征服され、傷つけられた民族に対し、「輝」の王たちは常に謝罪することを知らない。

 …阿高は帝自身の顔を見、その声を聞くま でわからなかった。乞うことを知らない皇 は奪うしかなく、そのために、許されるこ とも知らないのだということを。『薄紅天女』 

 天皇に対して断罪も批判もせず、哀れみを感じ、そのまま受け入れる作品世界に、日本人が敗戦後も本質的に変化していないことを読み取ることも可能だ。また、坂上田村麻呂に「…だが、国の兵力を東北に導入すること自体は、それほど悪いことではない。人手があれば、開墾もできるからな。」(『薄紅天女』)と言わせているが、こうした、中央集権国家による歴史観を楽天的に肯定する文学作品に対して、東北出身のせいか、ひどく違和感を持ってしまう。
 荻原規子の勾玉三部作は、作者が限定した「読む女の子」読者に対してのシグナルであるとしても、「児童文学」という枠で発表された場合、大人としての倫理・生死観を問われる場におかれがちだ。勾玉三部作が国の王が神の子孫であることを基盤として成立している作品である限り、全くの手放しで作品を肯定することはできない。
 荻原規子は勾玉三部作の後、『西の善き魔女』シリーズを架空の「王国」を舞台にし、現実と物語の歴史・王権・政治とを明確に分離させた。そして、「児童文学」という枠を離れ、作者と趣味の一致した「読む女の子たち」に向けたものであることを明確にして、彼女たちの王国を築いている。それは、どこか女子校に独特な雰囲気にも似て、どんなに読者たちが「アブナさ」にときめいたとしても、荒々しい性の暴力や、大人の男女の歪んだ欲望からは守られた範囲の、華やかで汚れのない、少女が主体的に活躍する物語空間を形成している。
 そして、荻原規子作品の読みやすさと親しみやすさの特徴としての、活動的で美しい主
人公の少女や、少女とは幼なじみの出生の秘密を持つ少年、美形のキャラクターたちの活
躍や、場面を切り替わる寸前の軽いユーモアなどはますます健在で、後は物語は読むも読まないも、読者の「好み」の世界になっている。そのことは、作品にとっても読者にとっても幸福な選択であったといえよう。
【児童文学評論】UNIT2001 4号(VOL2)  2000/07/13日号