〈新しい物語〉より〈安心な物語〉に需要が集まっている?
『ハリー・ポッターと賢者の石』を支持しない理由

芹沢清実

           
         
         
         
         
         
         
     
 世界的なベストセラーになった児童書、と話題になり続ける「ハリポタ」だが、わたしの周囲でも関心は高かった。でも、いざ読み終えると「夢中で読んだ」とか「早く二巻が読みたい」などの声は、あまり聞かない。なぜそんなに売れたのか、その秘訣を知りたいという声は多いけれど、おとな読者の反応は醒めているようだ。
 その原因は、あまりの前評判の高さにもありそうだ。ファンタジー読者ならどうしても「はたしてこれは、『指輪物語』『はてしない物語』のように、ファンタジーのパラダイムをぬりかえる作品なのか、いなか?」(井辻朱美「翻訳時評 ハリポタ旋風」―「日本児童文学」二千年3―4月号)とおおいに期待して手にするだけに、どうしても読後は、その期待が大きすぎたという感想を持つのではないか。「かつての成功したジャンルのなつかしさの集大成」がもたらすここちよさを「いま人類の集合的な意識はどこかで求めていたのかとも思う」という井辻に、わたしも同意しないではない。が、そこは認めつつも「でもなあ……」という不満がくすぶってしかたないのも事実だ。
 あまりに既視感が強い物語は、わたしのような〈ファンタジー好きのおとな読者〉を、けっしてわくわくさせることはない。そういう物語が、〈子ども読者〉―その多くは、いわゆる〈ファンタジー的なもの〉にゲームやアニメで慣れ親しんでいる、という意味ではけっこうすれっからしだと、わたしはイメージしている―を、ほんとうにとらえるのか。わくわくさせるはなし=〈新しい物語〉であるという価値は、エンタテインメントの生命ではないか、という思いがぬぐえないのだ。
 おおざっぱなはなしで申し訳ないが(ま、いつものことか)、日本のエンタテインメント市場では、想定される読者の欲求ごとに、それに沿った〈物語〉が提供される、いわば〈ジャンル生産〉システムが成立している。よりポピュラーな欲求をみたす商品が、大量生産される。今なら、疲れて慰められたい人には『葉っぱのフレディ』はじめ各種絵本、それでも生きろと励まされたい人には326(ミツル)と五木寛之。古くはもっとわかりやすく、銃と女と権力がほしい人に007、波乱と陶酔と男がほしい人にハーレクイン。戦闘ものと美少女ものという二大ジャンルをもつアニメや、〈ファンタジー的〉なRPGも含めた「かつての成功したジャンル」は、おおむね現実には実現不可能な欲求の数々を実現する〈仮想現実〉の楽しさを提供する。
 魔法物語のスタイルをとりながらも、ハリポタが実現する欲求は、やはりそうしたものの一種なのだ。前半は、「あなたは選ばれた人だったのです」物語―井辻のいう〈召喚〉パターン、風間賢二はよりわかりやすくシンデレラ物語と評した―。後半は、学校(寄宿舎)物語。いずれのステージでも、主人公はひたすら一人勝ち進んでいく(コンピュータゲームのように戦闘で負けたりエナジー値が尽きたりでゲームオーバーになることもないのが、本という媒体の手軽なところだ)。
 まず前半について。わたしはシンデレラよりハリウッド映画『プリティ・ウーマン』を連想した。ハリーが魔法学校の入学用品をそろえる買い物シーンは、ジュリア・ロバーツ演じる娼婦が金持ちの御曹司に連れられて高級ブティックに行くシーンによく似ている。しいたげられた境遇にあった者が、以前なら近づくこともできなかった憧れの場所で、よい顧客として一般より高級な品をみつくろってもらえる。以前自分を見下した者は、しょせん店員あるいは「マグル」にすぎないのに対し自分は選ばれた者だという満足が、高級ブランド商品の取得という場面で示される。ハリポタの重要な設定のひとつ、〈人間界=マグルの世界/魔法の世界〉は、一見魅力的なのだが、もしこれが〈弱者/強者〉の構図を反転させるだけのものならつまらない。
 同じような不満を、後半の寄宿舎物語でも感じた。エリート学寮とダメな学寮という、伝統的な対立構図。それをみごとにくつがえす主人公たち。これもまた〈おごる強者/くつがえす弱者〉の図の反転だ。しかも判定は人間世界の学校と同様、点数によるものだというへんが、どうにも眠気をさそう。
 ハリーは、ブランド品や点数性に象徴される既存のシステムを前提に、「選ばれた者」としてシステム内での勝利を着々と手にしていく。この〈一人勝ち〉の快感は、とりわけ日ごろ自分を弱者と認識している読者を強く引きつけることだろう。
 なるほど、どの世界にも強者と弱者は存在する。両者を分別し、強者の支配を正当化するシステムがあり、それに支えられて強者はおごり弱者はわりをくう。刺激的なファンタジー作品は、そのシステムのからくりをあばき、支配構造をくつがえす主人公の戦いを描いてきた。指輪、ナルニア、ゲドなどの古典はもちろん、小野不由美の「十二国記」シリーズ、2月にコミックス最終巻が出た竹宮惠子『天馬の血族』。この要素は、いわば現代ファンタジーの定番かもしれない。だから、反権力・革命はもう飽きた、別のものを出せという読者がいても不思議はない。
 ハリポタの保守性は、そんな声に応えるものなのだろうか?ここでファシズムなど引き合いに出すのも野暮だが、超ベストセラーなどというもの、どこかいかがわしいところがあると疑う方が健全な気もする。
【児童文学評論】UNIT2001 4号(VOL2)  2000/07/13日号