CONTENTS
 ●匿名の被写体…佐々木江利子
 ●物語しない快楽の場所…亀田純子
 [問題関心]「男」を応援するな…佐藤重男
 [時評/映画]愛と勇気と正義の王道「クレヨンしんちゃん」…高見ゆかり
       “つながり”のありか「ブラス!」…原のぶ子
        戦争という快楽「スターシップ・トゥルーパー」…芹沢清実 
 
 発行:1998年6月17日 編集発行:UNIT評論98
 連絡先:芹沢 清実 〒360-0026 121-1-603
 E-mail:CXL02651@niftyserve.or.jp
 ご意見ご感想などおよせいただければうれしくおもいます。

●わかりあえないもどかしさ”を、いまこそ直視したい●

 五月二十四日、日本児童文学者協会の付設研究会に出席しました。そこで提出されたのは、いま現在における「児童文学」というジャンルの存在理由を問うものだったのではないかと思っています。
 「子どもの居場所・児童文学の居場所」というテーマで、四人のパネラーが語ったのですが、中西新太郎さん、佐藤洋作さんの話から浮かび上がったのは、日本社会の変化のもと、子どもの感覚とおとなの感覚との間に大きなズレが生じているということだったように思います。
 中西さんは「消費社会」をキイワードに、生身のものではない他者の視線のなかで成り立つ「子ども文化」にひたって育った子どもたちは「わたしたち四十代以上の人間とは、<普通>−身体や自然にたいする感覚−がちがう」と指摘しました。
 佐藤さんは、そうした感覚のもとで子どもたちが抱え込んでいる、むかしの子どもとは異なった困難性について語りました。それは、「かっこいい・かわいい」など、消費文化のもとで一元的に提示される価値感覚のもとで成功できない子どもの自己喪失感です。
 こういった子どもたちにたいして、児童文学は届くことばを持っているのだろうか。
残念ながら、パネルディスカッションのなかでは、かみあった論議とはなりませんでした。
 子どもとおとなの感覚のズレに加え、子ども研究と児童文学とのあいだにある距離や会場とのやりとりでは創作と評論とのあいだの距離まで実感させられる展開でした。
 このズレ、距離感にこそ、問題の核心がありそうです。伝わらないことのもどかしさにヤケになったり途方にくれることなく、どうにかして伝わることばを探していきたいと、考えているところです。                     (芹沢)


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●匿名の被写体たち●
   佐々木 江利子

<セルフ・ポートレイトとしての児童文学>
 最近読んだ本の中で、笠原美智子の『ヌードのポリティクス』(筑摩書房一九九八年二月)が群を抜いて面白かった。この本は、現在もおびただしい数で再生産し続けられている、男性の撮影者と男性の鑑賞者を想定された女性ヌード、あるいは女性像に対する、女性写真家たちによる女性(あるいは男性)の写真、特にヌード写真について論じたものである。
 現代女性写真家の多くが、セルフ・ポートレイトという<撮影者と被写体が一致するユニークな表現手段>を、自らの表現に用いていることについて、笠原氏はこの本の中で以下のように述べている。

  女性とは何か、という命題に対して、彼女たちの関心は<自分>へと向けられる。 (中略) こうして長い間、男性の枠組みの中で捉えられ、阻害されてきた歴史に鑑 み、<女性>について取り組もうとしたとき、彼女たちがまず自分を選んだのは彼  女たちの真摯な態度ゆえだろう。
 さて、児童文学において、女性作家作品のいくつかについて考えるとき、この本はいくつかの示唆を含んでいるように思われる。一つは、女性作家におけるセルフ・ポートレイトとしての児童文学である。もう一つとして、児童文学における「子ども」のポートレイトのあり方についてである。
 例えば、『わたしはアリラ』(掛川恭子訳岩波書店、一九八五年。原著一九七六年)を例にとって考えてみる。ハミルトンは少女アリラの一人称によって、アメリンドであり、「太陽」である兄とは異なる存在の自己を、書くことと語ることという<ことば>によって獲得してゆく物語である。ハミルトン自身、アリラと同じくアメリンドの血を引き、<ことば>によって表現の主体となっている。それを、作品における自伝的要素と呼ばず、作家自身のセルフポートレイトとして捉えることも可能なのではないか。マイノリティの立場としての自分自身を作品という客体とし、自分自身を他者や環境の中に改めて配置し、鑑賞者(読者)に提示する。そうした手法を通じて、少女、あるいは女性と家族、民族、共同体について、改めて問いかけているのだろう。
 日本においては、八〇年代に登場した森忠明、岩瀬成子などの作家群に対して、「私へのこだわり」という共通の姿勢が指摘されたことがある。彼らの作品は一見、執拗に自らの子ども時代の鬱屈に固執し続けているように見える。しかし、そうした作家群のセルフ・ポートレイト的な作品の試みとは、女性ヌード同様、現在も再生産され続ける「元気で明るい子ども」像へ、揺さぶりをかけようとした試みだったのではないか。
 例えば、子ども向け雑誌や子ども向け媒体のグラビアを見ても、そこで登場する子どもは均整のとれた体と明るい表情の子どもたちであり、半ズボンに運動靴、女の子なら赤い服といった似たような服装の子どもたちの像は巷にあふれている。そこには、岩瀬成子作品に登場するような太った少女は決して登場しない。一部の愛好者向け以外のヌードが常に若く、均整のとれた女性の写真であるように、意識的あるいは無意識的に、「明るく元気な」子ども像以外の子どもは除外されている。憮然とした表情の子ども、太った子ども、病院に入院している子ども、そうした子ども(あるいは少女)を語る主体とさせ、存在感を与えた岩瀬や、村中李衣らの作品は、従来の「こども観」を問い続けるものになっている。

<子ども、あるいは少年という匿名の被写体>
 しかし、岩瀬成子らの作家群以降の、九〇年代に登場したいくつかの児童文学、あるいはヤングアダルトとよばれるジャンルの、女性作家による作品を読んでいて、非常に気になっていることがある。それらは、梨木香歩の『西の魔女が死んだ』(楡出版、一九九四年)、『裏庭』(理論社、一九九六年)、小川みなみ新しい森(講談社、一九九七年)、魚住直子『超・ハーモニー』(講談社、一九八七年)などを読んでいて、強く感じたものだ。
 いずれも、問題を抱えた子どもが、作品で起こる出来事を通じて、ありのままの自分自身を受入れる、あるいは、何らかの問題解決の糸口を手に入れる、といった物語の枠組みを持っている。しかし、これらの作品の主人公たちは一様に無個性であり、読後に個人としての印象を残すキャラクターとして描かれていない。
 また、それらの作品に共通していることは、主人公が置かれている境遇の問題の根源あるいは作品の深層意識に、主人公である子どもの親の世代の問題があることだ。
 例えば、小川みなみの『新しい森』では、父親のいない十三歳と八歳の兄弟が登場する。少子化が進み、環境汚染が進んだ近未来では、十三歳の兄は将来に期待をかけられたエリート研究者として生きることを余儀なくされている。精神を病んだ母親の故郷である東京で、ある夜、兄弟は生死を懸けた危機を体験する。そして、その事件の翌日、なぜか母親の病は癒されている。
 「魔法をといたのは、あなたたち二人。きのうホテルからの3ーDTがおわったあと、急に楽になってするすると魔女ののろいがとけたの」(『新しい森』)
 ここでは、いわば兄弟の冒険とは、かつてそこで子ども時代を過ごした母の「現在」の呪いを解くための冒険なのである。その構造は梨木香歩の『裏庭』でも同様である。彼らは母親、あるいは母親の母親の再生のために、生と死の境界、あるいは異界へと旅立たねばならない(そこでは主人公の子どもと共に、より無垢なきょうだいが登場する場合が多い)。ここでは、子どもたちとは実は、親たちの問題を解決する手段であり、道具的な役割を与えられているにすぎない。
 本当に、ありのままの自分を受け入れることが必要なのは、親たちの世代なのだ。そうした箱庭療法的な作品世界に登場する子どもたちは、一様に窒息寸前で生気がなく、ただ、作品で次々に起こる出来事に反応しているにすぎない。一様に無個性で、自分たちの置かれた状況に立ち向かうことなく反応し続ける子どもたちの姿は、露出の度合いは異なるものの男性カメラマンの前で似たようなポーズ、視線をとりつづける、匿名の女たちの姿に類似する。そして、そうした作品は「悩める子ども」という、匿名の新しい子どものステロタイプを再生産し続けているにすぎないのではないか。
 ヤングアダルトという名称で、子どもであることにしがみついている大人たちを読者対象に選択した時から、児童文学は子どもへ直接語りかける言葉を急速に失いつつあるように思われる。同時に、児童文学に係わる大人たちは、現在、子どもという他者への通路を諦めつつあるのかもしれない。

 …私たちの想像を越える犯罪を起こす子どもたちに向かって、いまさら豊かな人間ら しい心を持てと問いかけても始まらない。そんな子どもにならないためにすぐれた文 学作品を読めというのさえむなしくなってくる。…
  西本鶏介「一九九七年をふりかえる」(『日本児童文学』一九九八年五−六月号)

 子どもの異変が大人社会を脅かしている昨今とはいえ、地下鉄で、町で、すれちがい忙しそうに傍らを走り去って行く子どもたちは、それぞれに自分の問題を抱えているのだろう。その上さらに、彼らに親の世代の問題を委託する必要があるのだろうか。また児童文学は子どもへ語りかけることを断念する必要もまだないだろう。
 少年、あるいは少女の仮装をした大人のセルフ・ポートレイトではなく、映し出される客体でありながら、作品の枠を越えた存在感のある、子どものポートレイト。そうした作品が、現在の日本児童文学シーンに必要なのではないだろうか。


●物語しない快楽の場所 −グアナくんのおじゃまな毎日』より●                           亀田 純子

 『イグアナくんのおじゃまな毎日』(1997、佐藤多佳子、偕成社)は、一人称の「あたし」とその家族がイグアナを飼うことから始まる。そして、「あたし」がイグアナを飼う生活を<いいね!>と評価することで終わる。その生活は、はじめはストレスを伴うが、最後にはパパのかわいさやママのかしこさを知ることができるものだ。作品は、イグアナのヤダモンと、「あたし」や家族との直接的な関わりを語らずに、彼女らがイグアナのいる生活を営むことを語る。
 「あたし」や家族は、それぞれヤダモンと関わって生活していく。しかし、それぞれの関係は、ヤダモンと通じ合っていくことによってではなく、意志疎通が不可能なことによって機能していく。「あたし」を含めた家族は、ヤダモンを飼うことで、新たな生活を手に入れる。また「あたしは」、ヤダモンに接することで、自己表出の言葉を手に入れる。
 それぞれの関係は、相手との意志疎通が不可能なことに貫かれている。さらに疎通不可能性は、作品と読者の関係さえも侵食していく。
 まず、「あたし」を含めた家族が手に入れた新しい生活を見てみる。新しい生活は、家族とイグアナとの絆ではなく、家族自身の絆を深める。彼女らに必要なのは、ヤダモンの生きている、のんびりとしたそれでいて満たされている緑の時間である。家族は、ヤダモンのいる生活を、一方的に事件に仕立てながら、イグアナの時間を自分たちの思うように取り込んでいく。
 家族がイグアナの時間を含む新しい生活を得るために、ヤダモンは家族とは別の時間を、家族の意図の外で生き続けなくてはならない。ヤダモンと家族との意志疎通が不可能なことこそが、新たな生活の生産という、ヤダモンと家族の関係を成り立たせている。
 では、「あたし」とヤダモンの関係はどうだろうか。「あたし」はヤダモンと通じ合っているようにも見える。例えば、「あたし」がヤダモンの前の飼い主の勉とはりあって、ヤダモンに「来い! ヤダモン!」と手を伸ばすエピソードがある。嫌いな徳田のジジイの鼻を明かすためにも、「あたし」はヤダモンに、ジジイの孫の勉の手よりも、自分の手を選んでほしい。結果、ヤダモンは「あたし」を選ぶ。
 「あたし」は、ヤダモンの自分に対する愛着ではなく、気紛れがそうさせたのだと自分に言い聞かせる。一方で、<それでも、うれしかった。おいおい泣けそうにうれしかった>(p.234)と語ることができた。そこには、飼い主に懐かないペットが、偶然見せた飼い主への愛着が浮かび上がる。「あたし」とヤダモンの疎通不可能性は、普段飼い主に懐かないことの同意として、ヤダモンと「あたし」の交流の演出にすぎない。
 しかし「あたし」がここでヤダモンと意志疎通しているなら、「あたし」は<うれしかった>と語ることはできないだろう。その途端に「あたし」はヤダモンとの関係に引きずり込まれ、否応なく、その言葉に対する責任を負わなくてはならないからだ。「あたし」は、ヤダモンと意志疎通できないからこそ、言葉の齟齬なく、<うれしかった>と語ることができる。何の躊躇もなく、自分の感動を言葉に移し替えて語ってみせる。疎通不可能性は、「あたし」に、語ることと語られたことを一致させることで、齟齬のない、直接的な言葉を与える。
 家族や「あたし」とヤダモンの関係を貫く意志疎通の不可能性は、作品と読者の関係へと移行する。それは、作品の読者に対する語り方として機能する。
<愛が芽ばえたわけじゃないのだ。命って大事だって思っただけなのだ。どっちみち、そんな、はずかしいことは、口にできっこなかった。>(p.196)
 「あたし」はママに、ヤダモンを好きになったことを指摘され狼狽する。「あたし」が、デパートで3000円で売られている、放っておくと死んでしまうイグアナや、ヤダモンの野性を見たり、自分が死んでしまうことを思ったりしたことは、「あたし」が愛が芽ばえる、命は大事だと思うことで、表現される。そして、「あたし」は、表現したことを<はずかしいこと>であり、口にできるはずもないと語る。
 しかし、<そんな、はずかしいことは、口にできっこなかった>は、愛が芽ばえたこと、命が大事だということについて、具体的には何も語っていない。ただ、デパートに行った日のことや次の日の散歩のことが、愛を芽ばえさせ、命が大事だと「あたし」に思わせたことを、指し示すだけである。作品は、「あたし」の経験を、読者に対して客観的な言葉で描写するのではなく、一人称から生じる言葉<…口にできっこなかった>によって間接的に表現する。同時に、一人称から生じる言葉であることで、直接的に指示する。<…口にできっこなかった>は、口にできっこなかったこと以外のなにものでもない。それは、描写ではなく、指示なのだ。
 作品は、一人称に仮託して間接的に語ることで、逆に読者との齟齬もなく、直接的に指示ができる。「あたし」がヤダモンと意志疎通できないという安心感のもとに語ることができたように、作品も、読者と対峙し疎通することがないという安心感のもとに語ることができたのではないだろうか。
 意志疎通の不可能性は、作品の、読者に対する指示として機能する。言い換えれば、作品は、自らの言葉を読者に預けないという前提のもとに、直接言葉を伝える。語られたことは、作品から読者へ語られるのではなく、指示される。そこには、読者の介入する余地はない。
 作品が読者に語るのではなく指示するのならば、作品の言葉は、直接読者に届くだろう。読書において、語ることと語られたことが合致する。もはや読者は、物語を作っていく必要をもたない。的確に指示された物語を読めばよいのである。
 仮に、読者が本を読むとき、本に書かれていることを読者自身が意味付けすることで物語を構成していくことを、物語する、と呼ぶならば、作品は、読者が物語することを回避、または消去したことになる。それは、作品においての物語を作ることができないような無秩序さにあるのではなく、物語の直接的な指示性にある。
 『イグアナくんのおじゃまな毎日』は、それ自身、読者を必要としない。読者と意志疎通が不可能なこと、つまり物語しないことによって、読者は物語を作る以外の快楽を手に入れる。それは、物語を作ることなく直接作品に重なり合う快楽である。その時、物語は、作られることができないのではなく、作られること自体、意味を為さないのだろう。


 Be−子どもと本 例会のおしらせ

 <子どもと本>をキイワードに、新刊本を中心に、ジャンルにとらわれず話題の本 をとりあげて話し合っています。ぜひご参加ください。          
 ★毎月第3水曜日、午後6時30分より
  会場:日本児童文学者協会事務局
 (地下鉄東西線・神楽坂駅下車。神楽坂方面出口のすぐ右手、中島ビル5階)  
 ★7月例会=7月15日(水)      
  <テキスト>重松清著『ナイフ』(新潮社)   
 ★お問い合わせ・連絡先
  平湯克子まで  п放A・03−5376−3281  


<私の問題関心>
●「男」を応援するな●
       佐藤 重男

 いま、男どもが元気がない、といわれ、そんな元気のない男どもを励ましてやろうという動きがある。
 しかし、わたしからいわせてもらうと、男どもは元気いっぱいに相変わらず「ワル」をやっている。金融汚職から強盗殺人、果ては痴漢やセクハラと、どうしてどうして盛んである。
 それでもなお、男は元気がない、というのなら、元気がない、の元気とは何か、そのことをしっかりつかむ必要がある。
 そもそも、男どもは、それを隠したがっているのだから、「何」が見えてこないのはあたりまえだ。にもかかわらず、「応援してあげたい」という人たちがいる。
 そういう連中にはいくつか共通項があって、ひとつは「男が元気がないというのに、女が元気がいいのはけしからん」という徒だ。もうひとつは、男ががんばらなければ世の中真っ暗、という人たち。これは、意外に女性に多い。
 いずれも、世界は男が動かしている、と信じている人たちである。
 さて、わが児童文学の世界にも、男に「がんばれ!」と声援を送りたくてたまらない、そういう人たちがいて、現に、そんな気持ちを作品化している人もいる。
 佐藤多佳子の『しゃべれども しゃべれども』(新潮社)。主人公は男。そして、わき役として四人の人物が登場するが、そのうち、女はひとりだけである。
 面倒なので、結論をいってしまう(ついてこれない人は置いていくことにする)。
 三三七頁の長いお話であるにもかかわらず、結局、主人公も含めて四人の男たちは、本質的には何も変わらない。変わったのは女の十河ただひとりである(主人公=男に都合のいいように、である)。
 幕切れ直前、わき役の男たちは、再び闘いの場へと戻っていくが、十河はそうではない。彼女は、主人公の胸の中に飛び込んでいくのである。やれやれ、めでたし、めでたし、である。
 この物語は、要するに、いろいろあったけれど、男には社会参画という責務があり、また、それを果たすだけの能力を持っているのですよ、という応援歌であり、一方、女のしあわせは、男の胸に抱かれることよ、と諭しているのである。もっといえば、男はたとえ挫折しても、それがやがて勲章にもなり次のステージへのエネルギーともなる、つまり、再生の道はきっとあるのですよ、だから、あきらめないでガンバッテ、というのである。なんとも、男にとって願ってもない応援団登場である。
 では、女はどうか。再生の道は、……ない。したがって、これは、と思う男を見つけたら、どんなことがあってもしがみつくのですよ、というのである。
 ここまでいったら、勘のいい人はもう気がついたことと思う。もしかしたら、これって、痛烈な皮肉? それとも逆説? と。残念ながら、そう読めそうで、実は、やはり男への応援歌にすぎないしろものなのだ。
 なぜなら、十河の存在が、主人公やわき役の男たちの価値観に揺さぶりをかけていないし、先ほどもいったように、男たちは何ひとつ変わっていない。小学生の村林にしたって、自分の生き方が正しかったのだ、という自信を強めただけで、他者を見る目が変化したわけではない。ほかの連中にいたっては、論外である。
 いわれるように、男が元気をなくしているとしたら、それは、男中心の価値観への疑問が社会化し、そのことを問い直そうという空気に包囲されて、男どもが、いわば窒息状態に置かれている、そういうことなのだ。
 佐藤多佳子の真意がどこにあろうが、男中心の価値観に揺さぶりをかけないラブ・ロマンスは、元気のない男への応援にしかならないのは当然である。いってみれば、『しゃべれども しゃべれども』は、酸欠にあえぐ男どもに、酸素を送り込むようなものである。
 わたしたちがいまやらなければならないのは、男中心の価値観を延命させるために「がんばれ」と声援(酸素)を送ってあげることではない。ましてや、「男中心の価値観の死」は、あなたの大好きな男の死を意味するという宣伝にだまされてはならない。ぬるま湯にひたっている男どもにむかって「風邪を引かないでね」と声援を送ってあげることが、大好きな男を元気にしてあげることだとは思わない。「いつまでも甘えてんじゃないよ」といって、ぬるま湯の入った「たらい」をひっくり返してやるべきだと思う。
 もうだめね、といっているようで、もう少し時間をあげるからがんばって、といっているのが、魚住直子の『超・ハーモニー』(講談社)だ。家出していたオカマの兄が突然戻ってきて騒ぎを起こすという、奇抜な(うーん、時代はそうは思わないだろうが)設定で、どうなることやらと期待しながら読んだ。
 「なに、これ。かんべんしてよ」 読み終わって、思わず怒鳴ってしまった。それほどヒドイ。何がといって、終盤、主人公の響が頼んで兄の佑一が作った曲を川辺で演奏することになる。そこに、佑一の存在そのものを否定し続けていた両親が姿を現すのだが、この展開にはどうしても納得できない。これは、「家族」という枠組みを守るための、ただそれだけを目的とした妥協の産物でしかない。
 しかも、「家族役割」を優先させるあまり、大人たちの生き方を捨象してしまってはいないか。両親はなぜ「オカマ」の息子と向き合えなかったのか。それを阻んだのは何か。大人は理解しようとしなかった、それだけしか見えてこない(苦悩する父親とヒステリックな母親、このステレオタイプにもぞっとする)。
 そもそも、そんなことはどうでもよかったのだ。なんだかんだいったって血のつながった家族だもの、という賛歌を歌うためには、すべての問題を棚上げしてハッピーエンドにする必要があったのだから。
 でも、本当にハッピーエンドといえるのだろうか。両親は「オカマ」の佑一を認めたのだろうか。
 川沿いの道に立つ両親の表情をどう読み取るかによって、この作品の結末はまったく違ってくる。わたしには、両親が川沿いの道の上で佑一と向き合ったとは思えないし、彼の曲に耳を傾けたとも思えない。そこに立つことで、その姿を、響(そして読者)という取引相手に見てもらえればそれでよかったのだ。 こうして佑一は、認めてもらえないまま家を去ることになるが(そう、認めてもらったなどと勘違いしてはだめ)、響は取引に成功したことによって、「不良分子」の一人から父親の「共犯者」になってしまったのだ。というより、響は父親の遺産相続人になったのである。つまり、響が佑一に代わって、田村家の跡取りの座に納まっていくだろうことが、明示されているのである。この新たな力関係の変化は、母親にも影響を及ぼすはずである。「庭やフェンスをかざる植物を世話する」のが「ただひとつの趣味」だという関係にサヨナラする可能性も閉ざされていくことを予感させる。
 こうして、田村家の「家族という制度」は維持されていくだろう。火事でだめになった靴下工場(「男」)が、再び操業を開始したように。
 解体していい、解体すべき「家族役割」が巷に溢れているいま、「家族という制度は安泰ですよ」というメッセージが、誰を元気づけ、誰を失望させるか、いうまでもないだろう。「女よりも男のほうが、損なんじゃないだろうか」(p92)「おとうさんのほうがましだ」(p107)などなどの声援に、男どもは涙を流さずにはいられないはずだ。でもねえ、たらいの中のぬるま湯にひたって、鼻水と一緒に涙を流す男なんて、見たくもない。
 もちろん、こういう時代だ。ぬるま湯の入った「たらい」を蹴飛ばすことに、なんの遠慮もない、そういう作品が出てこないとは限らない。一日も早くそういう作品と出会いたい。だから、もっともっとたくさん、作品を読んでいこうと思う。

<時評/アニメ映画> 
●愛と勇気と正義の王道 −「クレヨンしんちゃん」の目指すもの● 
                        高見 ゆかり

 夏休みや春休みなど、学校が長い休みに入ると、それに合わせて子供向けアニメ映画というものが公開される。
 大抵はテレビでやっているもののスペシャル的なものだが、中には対象を広く持った大人の鑑賞にも耐えうるオリジナル作品や、最近では、マンガ、小説、ゲームからの映画化もある。
 それらのどれを観るかというのは、子供の年齢、性格によって変わってくると思うが、こと低年齢の子供に限ると、スポンサーである親の考えというものが一番大きく作用するように思う。
 その親がまず安心して子供に見せる作品が、アニメ映画の中には二つある。「アンパンマン」と「ドラえもん」だ。
 やなせたかし原作の「アンパンマン」はユニークなキャラクターと、わかりやすい勧善懲悪で、子供が最初に好きになるアニメと言ってもいいし、「ドラえもん」は現在子供を持っている親の、子供時代から引き継がれた夢のヒーローである。
 公開された映画は、アンパンマンは現在九作、ドラえもんは十九作。どちらも映画では愛や友情、環境保護などのメッセージが語られ、暴力、殺人、SEXは存在しない。
 その安心感が、定番映画として毎年上映される理由だろう。
 しかし、最近、この「子供向け定番」に並びつつある作品がある。それは「クレヨンしんちゃん」(臼井儀人.双葉社「WEEKLYアクション」連載中。テレビ東京系・金曜日アニメ放映中)だ。
 例え、マンガを読んでいなくても、アニメを見ていなくても「クレヨンしんちゃん」の名を知らないという人は少ないだろう。
 六年前、テレビでアニメ放映が始まった時に、幼児にしんのすけの喋り口調が大流行して問題になったことは記憶に新しい。元が青年誌のマンガということもあって、ネタは下品なものが多く、親の中には子供にアニメを見せないようにする人もいると聞く。
実際、一人、二人ならともかく、大人数の子供がしんちゃん言葉を使うのを聞くと「えーい、普通に喋れ」といった苛立ちを覚えたものだ。
 そのしんちゃんの映画が毎年、春、夏休み映画として公開されている。「アクション仮面VSハイグレ魔王」「ぶりぶり王国の秘宝」「雲黒斉の野望」「ヘンダーランドの冒険」「暗黒タマタマ大追跡」「電撃ブタのひづめ大作戦」の現在まで六作品。
 タイトルからしてお上品とは言えないが、内容はなかなかどうして凝っている。「アクション仮面〜」では特撮ヒーローを、「ぶりぶり王国〜」ではインディ・ジョーンズ張りの秘境冒険を、「雲黒斉〜」では時代トリップものを、「ヘンダーランド」ではメルヘンを、「暗黒タマタマ〜」では日本映画的なアクションを。そして、最新作「電撃〜」は洋物スパイアクションの味付けがなされている。
 物語的には、しんちゃんが何事かの事件に遭遇し、それから派生したトラブルに、家族、友達も一緒に巻き込まれてしまうといったパターンである。
 しんちゃんは生意気で口達者で「きれいなおねいさん」が大好きで、大人感覚では信じられないことを次々やってくれる。
 その両親である、みさえ、ひろしの夫婦も、図々しく、タフで俗物的である。
 ところがこの家族、実はものすごく結束が堅かったりするのだ。普段は「ケツデカオババ」などと憎まれ口を叩いていても、いざという時には、しんちゃんは両親や妹(五作目より登場)を一生懸命助けようとするし、逆にみさえ、ひろし夫婦もしんちゃんの危機には体を張って守ろうとする。
 しんちゃんの「冒険」とともに映画六作に共通しているのが「家族愛」で、実はこれこそが、しんちゃんの映画をただのギャグアニメで終わらせていない要素の一つと思うのだ。
 どんな好き勝手しているようでも、深い所では信頼しあっている家族というものは、一種理想である。そして子供にとっても、自分のためになりふりかまわず行動してくれる親というのは憧れではないだろうか。
 この場合のなりふりかまわずというのは、親の押しつけの愛情のことではない。カッコ悪くても本音でしゃべり、自分を愛してくれているということを示してくれるということなのだ。
 最近、若者が互いの感情に深く立ち入らない傾向にあると聞くが、その前段階の家庭でもそれが見られるように思う。早期教育がもてはやされ、おけいこごとに熱を入れる反面、しつけを学校に求めたり、友達親子と言って、子供と友達のようにつきあう聞き分けのよい親が増えているのだ。
 放任主義と言えば聞こえがいいが、諍うよりは沈黙を親が選んでしまっているように思うのは気のせいだろうか?
 過干渉は子供にとって鬱陶しいものだが、干渉しなさ過ぎも、子供に自分は愛されているのか?という不安をもたらしはしないだろうか。
 しんのすけの野原一家は全然格好よくないが、毎回、映画で繰り返される家族の再会のシーンには感動させられる。
 そしてまた、しんちゃんの映画では「友情」も欠かせないテーマである。
 その時々で対象は変わるが、弟一作ではアクション仮面としんちゃん。また、しんちゃんと飼い犬のシロ。二作以降でも、登場するキャラクターとしんちゃんの友情というのは必ず描かれている。
 「ブタのひづめ〜」にはテレビではおなじみの、しんちゃんの友達「春日部防衛隊」
が全員登場する。一人一人クセのある子供たちが、かなりいい加減ではあるものの、目的の場所を目指して協力して歩いていくのだ。そして危機になった時、なけなしの勇気を出して「春日部防衛隊」だからと虚勢を張りながらがんばる。
 恐いことや、危ないことには後込みするし、出来れば避けて通りたいなということをはっきりと言いながら、しんちゃんを含めた子供たちは「ヤルときゃヤル」のである。
 先に、互いに深い所まで干渉しない若者ということに触れた。
 傷つくことに極端に臆病で、言葉尻も決定ではない半疑問形を使う若者が多い中、彼らの欲しているものは、実は心を割ってつきあえる友人だという。ポケベルやPHSの流行も、「誰かとつながっている自分」という安心感を得るためなのではないか。物質的には満たされていても、今の子供世代は家族にも、友人関係にもそこはかとない不安を抱えているのかもしれない。
 しんちゃんの映画には、環境問題、自然保護といったお説教臭いものはカケラも出てこない。けれど、笑いながら見せる画面の中に、確かな家族の愛情はあるし、友情も存在するのだ。人間だれでも楽したいし、イヤなことはなるべくやらずに過ごしたい。それが本音だけれど、でもそれではいけないのだと、しんちゃんの映画は言っているような気がする。
 パンフレットの中で監督が、「子供たちに見て欲しいのは“炎の友情“」と書いている。
 映画「クレヨンしんちゃん」は、まともに言ったらシラケてしまう今の子供たちに、ギャグでくるみながら、愛と勇気と正義というものを伝えているのだ。

<時評/映画> 
                 
●“つながり”のありか −話題作「ブラス!」を観ました● 
                      原 のぶ子

 約半年間にわたるロングラン映画といえば、表の世界では「タイタニック」だが、裏の世界では、「ブラス!」があげられる。(なぜか、あちこちで評価が高い) 舞台は、1992年のイギリス北部の炭鉱の町。サッチャー政権のエネルギー政策転換によって、続々と閉山、大量解雇という状況下にあるこの町の、百年もの歴史をもつブラスバンドが、全英ブラスバンド選手権で優勝していく話だ。(といってしまえば、みもふたもないが)
 ラストは、だから当然、優勝に酔いながらの帰りのバスのシーンで終わる。
「みんな、いいか、『威風堂々』をやろう」。団長の指揮で、団員がバスの中で演奏をはじめる。その上にキャスト表、そしてスタッフ表のローリングアップ。思いきり、泣かされてしまったのだ、ここで。
 監督と主演俳優らが、一致して炭坑労働者の闘争支援を公言しているというこの映画には、見る者にとって、当然あるひとつの先入観が作用する。資本家と労働者階級の対立の構図、激しい組合つぶしと労働者の団結、そのパワーとエネルギー。
 しかし、その先入観には、冒頭のシーンから疑問符がつく。坑道から上がってきた坑夫たちが、シャワーをあびて、車で出かけるシーン。その道路わきに、炭鉱の閉鎖に反対するテント小屋が点在し、主婦達がたきだしをやっている。その光景には、活気がなく、まるでホームレスが食事をもらう時のような、くたびれた沈滞が漂う。十年前に激しいストライキをうった状況とは、どこかで大きく違う印象を与えるのだ。
 これが、作者の状況認識だろう、と思う。
 労資の対立は、構図としては持ちながらも、流れはすでにどうしようもなく、閉山の方向にころがっている。実際、炭坑の閉鎖が決まるのは、労資の激しいぶつかり合いの中ではなく、組合員の投票で、しかも4対1という大差でのことだった。そういう中でこのブラスバンドの団員達は、それぞれに生活に困窮し、地方予選に残りながらも、バンドの解散をよぎなくされる。しかも、指揮をしていた老いた団長は、炭坑特有の肺病に侵されていて、予選に勝利してバスから降りたった時、運転の止まった炭坑を背にして、路上に倒れ込んでしまう。
 イギリスの伝統産業であった何百という炭坑に、50年代頃までは何百とあったといわれるブラスバンドは、多分こうやって続々と解散していったのだろう。ブラスバンド自体がオールドな存在であることは、町の住人たちの無関心と、予選大会での盛り上がらないパラパラの客、団員の平均年齢の高さなどでわかる。(さすがに、決勝戦ともなると、そうでもないが。ただし、この映画のモデルとなったバンドは、その後スポンサーがついて、現在も健在とのことだ)
 決勝戦に出場するための三千ポンドが、ポンと手に入ったことと、死の床についた団長を励ますために、バンドは再び動きだし、大会の日を迎える。そこに、病院から抜け出して来た団長の、有名な長いセリフ。
「・・私の仲間たちは、ごく普通の正直で真面目な人間です。その全員が、希望を失っているのです。彼らは、すばらしい演奏をします。でも、それに何の意味があるのでしょうか?・・」
 そうやって、バスの中のラストに続く。失われていくものは、彼らの現実的なつながりである。親の代からの炭坑町で、隣同士がくっつき合った生活を共有してきた彼らには、バラバラにほうり出されていく明日がある。
 しかし、そんな深刻な現実を、“暖かい”映画に変えてしまう力もまた、そういう地域共同体そのものの中にあった、と作者は見ているように思えた。
 借金苦によって妻子に逃げられた団長の息子は、アルバイトのピエロの服装のまま、自殺をはかる。彼は仲間を裏切って、退職金ほしさに閉鎖に投票していた。組合を裏切ることの意味は深い。単に、政治的な結束を破ることにとどまらず、それは、地域共同体から排除され、親の代からの深いつながりを断ち切られてしまうことを意味する。しかもこの“地域”は、長い時間をただ共有しただけではなく、激しいストライキというきびしい生活を、共に助け合って生きのびてきた特殊な“地域”だった。
 しかし同時に、だからこそ、仲間には、彼を許すことができるのだ。「そんな話はいい。飲みに行こう」と。
 ラストのバスの中での会話も、象徴的である。唯一の若いカップルである、アンディとグロリア。この二人は幼なじみで、グロリアの祖父は、昔のバンドのメンバーでもあった(よそものは入れないバンドなのだ)。その彼女が言うセリフ。「ヨークシャー男は有名だものね、感情を見せないことで」「僕も見せないだろ」。その後に続くキス。
 ヨークシャー男であるという共通認識から生まれてくる“つながり”。その中で育まれてきた、安心感と人間信頼。人間を本当に信頼できる人間は、幸せな人間だと私は思う。特に、この現代において、そういう人間観を根に持つことは、彼らの人格をやさしくし、世の中を生きやすくしていく。
 失っていくものと、失われずにいくものとが共鳴し合って、エルガーの「威風堂々」が鳴り響くのだ。こんな人間的な行進曲は、初めて聞いた気がする。


<時評/映画> 
●「スターシップ・トゥルーパーズ」にみる戦争という快楽●   
                       芹沢 清実

 ともかくアドレナリンが出る映画だ。
 たびかさなる昆虫型エイリアンの襲撃で、人類が存亡の危機に立たされている未来社会が、「スターシップ・トゥルーパーズ」の舞台である。「ジュラシック・パーク」で一躍有名になったフィル・ティペットが担当したクリーチャー視覚効果は、九七年アカデミーの特撮部門にノミネートされた(「タイタニック」に阻まれ受賞ならず)。巨大な昆虫とのリアルな戦闘シーンは、実に迫力がある。
 敵を昆虫に設定したことに「リアルな戦争映画」として成功した理由がある。一連のベトナム戦争映画で、敵の姿が見えないことが多かったように、敵を人間的想像力が及ばないものとしないかぎり、娯楽映画として成立しなくなってしまうからである。
 監督はポール・バーホーベン。「ロボコップ」「氷の微笑」の、と言うのがわかりやすいかもしれないが、「トータル・リコール」で無機的に乾いたP・K・ディックの世界を汗くさい肉体労働者のドラマに仕立てた手腕が印象深い監督である。
 人々は兵役につかなければ政治に参与する「市民」になれないという軍国主義社会、軍に志願した青年が主人公である。彼がハイスクール時代の恋人や歩兵部隊で研修をともにする同期生たちとのかかわりのなかで、一人前の「戦士」になっていく成長物語として、ドラマは展開していく。
 ロバート・A・ハインラインの原作(原著一九五九、邦訳タイトル『宇宙の戦士』)は、根底にある政治思想が全体主義的だと批判されてきた。映画でも、ナチスを思わせる制服といったビジュアルや「犠牲者は数にすぎない」などのせりふが目につく。さらに幕間的に挿入される政府公報のインターネット映像は、国民を戦争に動員する全体主義のプロパガンダそのものだ。とくに「子どもたちもお国の役にたとうとはりきっています」というアナウンスのもと、幼稚園らしい場所で、嬉々として虫を踏み潰す「少国民」たちのグロテスクなシーンは強い印象を残す。
 こうしたファシズム的要素について、バーホーベンは、「あくまでネガティブなものとして象徴的に扱っている」とし、この映画はファシズム批判であり、アメリカ帝国主義批判として作られたと述べる(来日記者会見。上映パンフレットより)。たしかにそれはわかる。なかなか洗練されたやり方に、何度も大笑いさせられた。
 が、それにもかかわらず、映画全体の圧倒的な印象は、「戦争は楽しい」である。
 たしかに一瞬にして家族を失ったり、友の死を目前にしたり、悲しくむごいこともある。しかし、そうした試練をのりこえ、生死をともにするなかで、仲間と固い絆でむすばれる。何よりも自分の精神と肉体がぎりぎりまで緊張する地点に立ち会い、それを乗り越えて勝利する瞬間の幸福感といったら、たとえようもない。しかも、こうした行為によって「英雄」となり、輝かしい称賛を得ることまでできるのだから、やっぱり「戦争は楽しい」のである。
 先にわたしは、<それにもかかわらず>と書いた。これは、戦争やファシズムを批判する作品は「戦争は苦しい・悲しい」などのネガティブな表現をとるのが普通だという観点をあらわしている。先のバーホーベン発言も、同じ立場にあるように解釈できる。
 しかし実際には、この映画は「戦争は楽しい」ということを描ききることで、戦争批判としての表現たりえているのではないか。
 映画のラスト、起死回生の最終作戦に勝利した主人公たちをたたえるインターネット公報画面は、「さあ、きみも連邦軍に参加しよう!」と視聴者によびかける。うわー、やばい映画だな、こんなの見たらみんな戦争に行きたくなっちゃうぞー、どこがファシズム批判なんだよ、などと同行者と話しながら映画館の階段を降りるうちに、思いついた。
 こういう映画に、わくわくする自分は、やばいやつかもしれない。いや、そうじゃない。やっぱり戦争は楽しい。楽しいと思うやつがいるからこそ、志願して戦争に行くわけだ。シューティングゲームに似た戦闘のスリルも、生死をかけているという実感も、日常のなかでは失われているものだ。そうした非日常への憧れも、人々を戦争に動員するもののひとつなのではないか。
 受け手のなかにない感情は、ゆさぶりようがない。映画は、たしかにわたしのなかにもある「戦争は楽しい」と感じる心情をゆさぶり、それを見つめさせることに成功したのだ。
 つまりは、受け手にこういう反応を起こすことで、作品は戦争批判として機能するのではないだろうか。
 戦争や暴力について、道徳的な断罪をしても、あまり意味はないだろう。それらがなくならないのは、それなりの根拠が人間のうちに内在しているからだ。悪徳も美徳も、すべて人間における自然なのだとすれば、それをいったん認めてしまう必要があるだろう。
 先に述べたように、戦争やファシズムを批判する意図をもつ作品は、それらを「苦しい・悲しい」ものとするネガティブな表現をとることが多い。それはときとして、暴力や悲惨を外在的な悪とみて道徳的に断罪し、人間に内在する問題としては引きうけないことにつながりはしないか。

 言うまでもないが、わたしがここで考えているのは、「戦争児童文学」についてである。多くは自身の体験を語った「戦争児童文学」が、なぜ子どもに歓迎されないか。その反面、六十年代に「戦記マンガ」が熱心に読まれたのは、なぜなのか。
 どれほど「ためになる」ことでも、よそのおとなのつらい体験など、子どもの興味を引くことはむずかしい。もっと、おもしろくわくわくすることの方が、ずっといい。そして、戦争というものは、実におもしろくて、わくわくさせてくれるものなのだ。


 
 ・「UNIT評論98」の次回会合は、7月4日(土)昼12時より行ないます。
  会場は、地下鉄東西線神楽坂駅付近。年内に評論を書いてみようとお考えで、当通信に掲載されたものに「かみあうかな」とお思いの方は、
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 ・通信次号bSは、8月中旬発行の予定です。              

1998.6月発行「UNIT98通信」No.3