『児童読物よ、よみがえれ』(山中恒 晶文社 1978)

2 わが名は児童読物作家

 児童読物作家を自称して

 ぼくが日本児童文学者協会の会員であることを辞し、純粋に児童読物の創作を志向してから三年になろうとしている。しかし一般的にぼくは現在でも児童文学者とみなされ、作品は児童文学の場からの批評対象とされている。無理もない。今日の児童向創作の出版物はほとんどが造本体裁を統一したセット販売のためのものであり、たとえぼくが児童読物作家を自称し、作品が児童読物であることを力説しても、せいぜい作者紹介欄か後書きでふれられるだけで、実際には創作児童文学シリーズ全なん巻の一部として市販されているからである。
 あえて不都合だと言えば、そこで既に児童読物作家を自称するぼくがなんら抵抗することもなく出版資本に屈し、文学と称して読物を売ることに加担している点である。その結果ぼくが児童読物作家を自称することは、児童文学者一般への世間的な意味でのいやがらせではないかとか、アイロニカルな自己顕示へのパラドックスではないかとの疑いをかけられている。しかしぼくが児童読物作家を自称するに至ったのは、ぼくなりに内面的検討を積重ねた上での志向であり、単にパラドキシカルな効果を狙ってのポーズでない。ぼくはそれほど児童文学に義理を果さなければならない理由はない。
 ふつう児童文学者が児童文学と児童読物を対比させるとき、前者は芸術、後者は非芸術というとらえかたをする。従って児童文学には芸術としての理念が要求され、その根本理念は伝統的に理想主義によって支えられており、その継承さるべき根本理念は時代を超越した教育的有効性に於いて不易たり得ることを要請される。そして根元的には絶えず「児童文学とはなにか」と問い続けられ、読者である子どもよりも作家主体に力点がおかれている。作品はいかに子どもにアプローチしたかよりも、文体及び構成など芸術的完成度などといったものが重視される。
 それに比して児童読物の方は娯楽的興味本位の通俗なその場限りの消耗品といった蔑視的規定に甘じている。確かに一般的にはそう思われている。また部分的にそれは正当な評価とも言える。だが、ぼくは実はそこに厳密な意味での児童読物への志向の起点を求めるのである。
 今日のいわゆる良心的といわれる児童文学がなんらかの形で反体制を表明し、状況へのかかわりを語ろうとしていることは認めるが、その根元的な芸術的理念を支えるに使い古された理想主義的発想と、不易の教育的有効性への曖昧な視点からは、刻々変動し複雑に関連し合い流動する今日的状況に対するパースペクティブは成立しない。その大方が子どもが革命の主体たり得るかの幻想にとらわれて、結果として状況を図式的に矮小化して語り、状況に於ける個々の問題を点検し、自己増殖的に発展させることなく連帯へ解消するという固定化した観念の場からは脱出できないのも当然の帰結である。
 この限りに於いて現在の児童文学は芸術的良心故に反体制を表明せざるを得ないとしても、たかだか体制的キャパシティに包含された反体制的ステロタイプを量産しているに過ぎない。それは観念的には体制的思考を共有する二重構造的体制を成立させることになるし、ぼくの見る限りその傾向は現在確実に進行しつつある。しかし、とにかくそうしたなかに状況を意識すること自体、児童文学の不易性が失われるという児童文学論を唱え、老人だけがその不易性を全うし得ると信じて疑わぬものなどを含め、今日の創作児童文学は甚だ現象的に隆盛なのである。
 だがこんなことはぼくが今更わめきたてることもない。児童文学者のなん人かが、真剣にこの問題に突き当り、激しく懊悩しているが、見通しは必らずしも楽観的ではない。しかし、ここは児童読物作家の出る幕ではない。ぼくは厳密な意味での創作を志向している児童読物作家である。娯楽的興味本位の通俗なその場限りの消耗品といった児童読物に起点を求めているのである。
 ところで娯楽的興味本位という概念は極めて曖昧で、今日的状況からすれば読者である子どもたちの欲求を真に充足せしめるエンターテインメントは厳密な意味で皆無に等しい。いずれも欲求不満を惹起させる部分が大きい。なぜならば、それは刻々変動する社会状況において、絶えず変動する価値基準の座標を追求するのと同様に極めて困難で、あくまでもただいま現在の状況下における子どもを刺激し得るものでなければならない。そのためにも古い価値基準を破壊するエネルギーを持たねばならないし、その場限りの際物といわれようと絶えず目の前の子どもをとりまく状況へ肉迫しなければならない。そして、それがより今日的に尖鋭的であればあるほど、作家主体の自己告発と自己否定を伴ない、絶えず消耗品たらざるを得ないのである。通俗性が問題にされるが一般的な通俗度の基準もまた極めて曖昧であり、大方は体制的な小市民的範疇によるものではなかろうか。とすれば、その通俗性が体制への<有効な毒素>となり得る部分や、その可能性も見落せない。問題はそれをいかに有効な武器として読者である子どもを刺戟するかである。そこにおいて初めて、読者である子どもに密着した作家の思想ならびに状況を自分のものとし、それを読者である子どもの倫理に添加し得る資質が要求されるのである。その意味でも、ぼくはより通俗的で興味本位のその場限りの消耗品を生産することに意味を見出そうとしているのである。

 私はいま・・・・、児童文学はいま・・・・

 いま私は児童文学者佐野美津男、久保村恵及び若い児童文学研究グループの仲間たちとミニコミ誌「児童図書館」を刊行し続けている。既に十四号が発行され、現在二〇号の特集の立案にとりかかった。この小冊子に対する評価はさまざまであるが、日共系及びその同調者の児童文学関係者から、まさにダカツのごとく忌みきらわれていることだけでも、評価は明らかであろう。
 この「児童図書館」誌は一九七〇年六月、反安保街頭行動に参加した児童文学者と児童文学研究グループの結社六月社の事業の一環として計画されたものである。
 そのころ私は、日本読書新聞の<児童文学時評>を執筆していたが、そこでの発言が、読書運動組織の中で主導権を握っていた日共イデオローグやその同調者の機嫌を損ね、私の作品に対する極めて政治的な差別が公然となりだした。それと私がその<時評>でくり返し論じた全国青少年読書感想文コンクール課題図書の児童文学におよぼしつつある弊害についても、<時評>のパートナー以外の児童文学者はほとんど意識的に沈黙を守り続けた。更に公教育にかかわる反体制内の修正主義が児童文学にも波及し、児童文学作品の政治的な(それも極めて図式的な)部分だけの評価を先行させて、児童文学作品を公教育の素材へ組みこむことをもくろむ児童文学者や、それが児童文学を間接的に権力側へ癒着させることに目をつぶり、非文学的な政治的素材としての有効性だけの評価を正当化する日共系読書運動屋の似非評論が横行し始めた。
 こうした背景があって、私の六月社加盟は私に対する風当りを一層強いものにした。しかもそれがかなり組織的な形で行われていると気づいたのは、彼等のだれもが異口同音に政治的な同一パターンでのみ私を批判していることを、地域文庫や図書館で座談するたびに、座談参加者によって知らされたことによる。
 一方月一回発行八ページの「児童図書館」誌は五号にして編集方針をめぐり社内が分裂し、 団体加盟である<子ども反戦>のメンバーは六月社の解散を要請した。結局その時点で六月社は解散したが「児童図書館」の継続刊行を主張するメンバーは新たに六月新社を結成した。六月新社によって復刊した「児童図書館」はあくまでも児童図書普及のための新刊紹介を目的としたもので、その新刊書を選択する面にこそ主体的な力点が置かれ、特色を出すことが確認された。そして読者自身の児童図書選択の基準に資するため<児童文学誌上セミナー>を開設し、佐野が担当することになった。
 ところが、私や佐野がいるということで、これを児童文学評論誌と思い違いしたむきから「仲間ぼめしかない」などと批判が出て来た。だが自分たちの金と労力でかろうじて定期刊行している新刊紹介誌に自分たちの作品の悪口をのせるほどゆとりはない。そうでなくても私たちの雑誌などものの数ではない組織力の強さや系列の数を誇るあたりから、同一パターンの機械的なやり方で政治差別を受けている間は、例えどんな形にせよ、彼等を喜ばせる材料を提供する義務は全く無い。
 もし作品の批評を意図するなら、私たちはそのための条件を考慮した場を設定するだろう。そして単なる新刊紹介誌である「児童図書館」は現在日共系児童文学者たちから、ダカツのごとく忌避されながらも購読希望は確実に増加しつつある。
 一般に児童文学は政治と無縁のところに在ると思われている。いや一般ばかりではなく、児童文学者自体、児童文学評論家を自称するあたりも、自ら政治的状況の中で検証されていることに気づこうとしない。だが歴史的に見ても、公教育とのかかわりでこれほど政治的な分野はない。にもかかわらず児童文学者は政治的視点に立つことを生理的に忌避する。政治的オルガナイザーにとってこれほど都合の良い土壌はない。読書運動を通じ母親文庫の参加者が「新婦人」あたりと軌を一にして日共傘下に組織されて行く実情は実にもって美事というほかはない。そしてまた、このことを多くのジャーナリストも知ろうとしない。例えば商業新聞はもちろん、反日共を自認している書評紙に於いてさえ、こと児童図書欄となると、その執筆者に日共系児童文学関係者が並び、そのあい間に、極めて基本的な状況認識すら持ち合わせない無邪気なムード派が並ぶのである。あえていうが本紙(日本読書新聞)もまた例外ではない。そして私は仲間たちと、なお新刊紹介誌「児童図書館」の発刊を続けねばならないのである。

 教材「ノボルとソイツ」について

 さる高名な新劇の女優が、シンガー=ソング・ライターになった息子の前途を懸念して、ひどく大まじめに「あの子の作った歌が教科書にのるぐらいになってくれればよいのだが・・・」と言ったという話をきいたことがある。また、私が<児童文学者>ではなく、<児童読物作家>を自称していることで、私に多少とも横柄な口のきき方をしていた人物が、私の作品が国語教科書に掲載されていると知ってから、手のひらを返すように、私に対してばか丁寧な口のきき方をするようになったという、実に不愉快な経験もある。つまり世の中では家永裁判以来、社会科教科書に対して、多少胡散くさいものを感じているらしいが、国語の教科書などについては、未だに古風な権威主義が息づいているのである。そして、かく言う私もその権威主義を否定する地点に立ちながら、認識の甘さから重大な過ちを犯してしまった。それが現在、教科書にのっているこの作品「ノボルとソイツ」なのである。
 私は自分の被教育体験から、教科書に収録されている文章が、どれほどの名文であろうと、どれほどの諧謔性を持っていようと、それは決して心をふるわせるものではなかったし、くり返し読まされることから、ますます教材としての機能しか果し得なくなるということを忘れたわけではなかった。にもかかわらず、私は教科書に幻想を抱いてしまったのである。そして、私はいま許された紙数を最大限に利用して、このことについてのぶざまな言い訳と、引かれ者の小唄をうたおうと思う。それは<児童読物作家>としての私の義務であり、せめてもの償いであると考えるからだ。
 まず、この作品の書誌から始める。

1961年 講学館刊・児童月刊誌 <にっぽんのこども>五月号に発表(四百字十枚)。
1963年 国土社刊・愛と勇気・真実と平和の物語<文学の本だな>(小学編3・沢田慶輔・ 鳥越信 編)に収録。
1964年 三十書房刊・日本少年文学選集6 <よぼろの笛>(山中恒短編集)に収録。
1966年 盛光社刊・創作児童文学選集 <よぼろの笛>(前の改定版)に収録。

 この間、道徳教材(徳目=うそをつくな)としての使用許可の要請が三回文部省から出された。しかし、この物語は本来エンターテインメントな児童向けの読物であって、杓子定規的な道徳教材として扱われることは作者にとって甚だ不本意であるという理由で、それを断わった。ところがその都度出版社が私の使用許可を当てこんで道徳副読本あるいは教材セットに収録して、当然事後承諾せざるを得ない時点で諾否を求めて来た。これもその都度拒否したが、出版社によっては担当者の首にかかわるなどと恫喝やら、泣き落しやらがあり、私が敢えて訴訟も辞さないという態度に出て、社主の謝罪文と再版以降再録しないとの念書を提出することで決着をつけた例がいくつかある。
 それらの担当者はみな一様に私の態度に不審を抱いた模様だった。このような主張をする児童文学者はひとりもいなかったなどという話もきいた。私は現在、そこにこそ日本の児童文学伝統の体制志向性の問題を感じるのだが、その時点ではまだその問題に気づいていなかった。
 一九六六年、私は古い同人誌時代の児童文学者と研究グループをもった。そのときのメンバーのひとりが、国語教科書編纂の仕事を引受けたので、それに是非この作品を提供してくれと依頼された。私は道徳副読本の一件を話した。彼は従来の無味乾燥な教材文の中に多少ともエンターテインメントな要素のあるこの作品を入れることは、子どもたちのために是非必要なことではないか、また、これは道徳教材ではないという点を考慮して欲しいといわれた。
 私はさしあたっての反対理由が見つからなかったこと、及び「子どもたちのため」という概念的な内容を検討するほどの余裕がなかったこと、その時点で彼の志向するものと、私の志向するものとが、食いちがっていたはずなのに、個人的交友関係にそれを許容したこと、そして極めて決定的に教科書に対する認識の甘さがあり、私はそれを了承した。
 現在、私はたとえ国語の教科書であろうと、いや、国語の教科書である故に、なおさら許可すべきでなかったと深く悔み、恥じている。
 僅かな語句の入れ換えと、削除だけで、この作品がこれほど無残にも道徳教材に変貌させられてしまうとは思いもよらなかった。明らかに道徳教材であることは教師用指導書がその点を特に入念に指摘している。しかも、これだけの文章に八時間かけて授業しろというのだ。
 はっきり言って原作に当ってもらえば、わかることだが、原作はこんなぬめぬめした個性のない文体をもつ、陰湿でうすっ気味悪いものではない。確かに、この改竄について打つ手がなかったわけではない。当時、私はいくつかの公私に渉るトラブルを抱えこんでいて、このことを詳細に検討しなかった。しょうじき言って、トラブルにはうんざりしていた。その意味では、どう言い訳しようと、これは私の責任である。敢えてトラブルを辞せず熾烈な闘争を展開すべきであった。私はいま、極めて真摯に自己批判している。
 これは、もはや私の作品ではない。現在、私はこのことに対して戦う術を持っていない。昭和四五年四月に成立し、五月六日付で公布された新しい著作権法によっても、これはもはや、手のとどかぬところにある。
 第五款に「著作権の制限」というのがある。つまり著作権を主張し得ないケースについてのべている。その第三十三条はかっこづきで教科用図書等への掲載とあって、
<公表された著作物は、学校教育の目的上(1)必要と認められる限度において、教科用図書(小学校、中学校又は高等学校その他これらに準ずる学校における教育の用に供される児童用又は生徒用の図書であって、文部大臣の検定を経たもの又は文部省が著作の名義を有するものをいう。)に掲載することができる。
2 前項の規定により著作物を教科用図書に掲載する者は、(2)その旨を著作者に通知するとともに、同項の規定の趣旨、著作物の種類及び用途、通常の使用料の額その他の事情を考慮して文化庁長官が毎年定める額の補償金を著作権者に支払わなければならない。(傍線筆者)

 つまり、悪質な改竄については傍線(1)を適用することによって、著作権の権利を拒否出来るのである。そして、一旦、これをと作品を狙われたら最後である。例えどんなに著作者が拒否しようと教科書制作者は、傍線(2)の事務手続きを果しさえすれば、掲載自由なのである。著作者はその通知を受けとる自由しかないというわけである。
 そしてこの作品の掲載補償金として私に支払われた金額は、なんと三年間で、税込み三千円、手取り額一年間九百円である。金のことをいうのは、いやしいと思われるかも知れない。だが、そのいやしい金がこの世の中の仕組みを支えている現実から、私たちは逃避出来ないし、この年間手取り額九百円は、貨幣基準をつき抜けたとほうもない価値であることを思い知らされるのである。
 しかも著作権法によれば、この金額に不服を唱える場合、その金額についての不服を不服の理由にすることは出来ないと、用意周到にちゃんととどめを刺しているのである。
 いまさら、自らの手落ちによって生じた不利をなげいても始まらないが、私はさまざまな言い訳で、このことにあくまでこだわるつもりである。そしてこのこだわりを円形波の芯にして私自身、さまざまに学校教育のもつ意味にこだわって行こうと思う。
 とにかく、山中恒の創造したサイトウノボルはそんなソイツを組みふせてしまうほど、教材好みの禅坊主みたいなりっぱながきではないのだ。うそをついた自分のかっこうの悪さにやけを起して、まさに内ゲバをふるったのだ。私は今日の教育行政の頂点にある権力が望む、自律と克己の精神なんて、まっぴらごめんである。一九三一年に日本に生をうけて、その子ども期を完全に一五年戦争にシンクロさせられて、未曾有の狂気に満ちた天皇制ファシズムの教育をうけた私は、当時の私たちに「天皇陛下ノオンタメニ死ネ」と教えたり「欲シガリマセン勝ツマデハ」とうたわせたようなおとなにだけはなりたくないのである。
 もちろん、この作品を教材として教室で使用する教師諸賢とてもおなじであろうと思う。私自身、この作品をこうした形で教材化されたことによって、手ひどく引き裂かれたのである。恐らく、一度でもこの原作をお読みになった諸賢、及びこの拙文をお読みいただいた諸賢もまた、引き裂かれるであろう。その共通のいたみこそ、私たちが子どもにかかわりあうおとなとしての主体性を支えるものであり、そこに私は児童読物作家として連帯したいと思う。(なお、この作品は昭和五三年度改定で教科書から姿を消した。)

 なぐらなかった先生

 現在、ぼくはある文芸季刊誌に戦時下の児童文化の問題についてエッセイを書いていますが、その関係で取材のために、ぼく自身、小学生時代(国民学校時代)、教えを受けた先生方と接触することがしばしばあります。
 その先生方が異口同音におっしゃることは「昔はよく生徒をなぐった。ほんとうに申しわけなく思っている」ということです。実際、戦時中の学校を思い出してみますと、ぼくたち生徒はなぐられに学校へ行ったみたいなものです。ぼくの女房など国民学校時代、教室で一時間目が始まる前、気分をひきしめるためという理由だけで、毎朝クラス全員がまず一発ずつなぐられたというぐらいです。
 ところで、その先生が生徒をなぐるという行為なのですが、戦後の学校教育法第十一条によると、生徒に体罰を加えることは出来ないとなっています。で、戦時中はどうであったかというと、一九〇〇年の小学校令第四十七条が、やはり「体罰ヲ加フルコトヲ得ス」となっており、太平洋戦争下の国民学校令でも第二十条が「体罰ヲ加フルコトヲ得ズ」とあるのです。にもかかわらず、ぼくらは日常茶飯事のごとくなぐられました。では、その当時の先生方が法律を犯してまでなぐったのかというと、そうではないのです。そこでは、なぐることは懲罰の意味ではなく「皇国民ノ錬成」のために、つまりきたえるためであったというわけです。ですから、体罰としてなら禁止されるが、錬成のためなら許されるという理論がまかり通ったわけです。
 そんななかで、けっして生徒をなぐらなかった先生がいました。これは大変な抵抗です。けれども、その先生がただの一度だけ、ひとりの男子生徒をなぐったのだそうです。なぐられた生徒は、とっさに気絶したまねをしたのですが、初めて生徒をなぐってしまったその先生は、相手がそんな演技をしてるとも知らず、あおくなって保健室へ運び、介抱したのだそうです。一方、なぐられた生徒は、それまで、ほかの先生から年じゅうなぐられつけていたので、咄嗟に演技をしたらしいのですが、先生が本気で心配しているので、演技だともいえず、介抱をうけていたらしいのです。先生はそのことが心配で、何度も夢にまで見たというのですが、そのことを前年度の担任だった同僚に話をしたところ、
「あん畜生、先生にトンかましたといってたのはそのことだったんだ。先生は人がいいな。」
 と笑われたそうです。
 戦後、その生徒はヤクザの世界に足を入れ、何度もムショ暮らしをしていたらしいのですが、あるとき、先生は街の中で彼とばったり出会いました。いっしゅん、先生はそのときのことを思い出して、これはてっきり仕返しをされるなと覚悟したところ、彼はやにわに先生にとびついて来て、声をあげて泣き出したそうです。
 戦時中どちらかというと病弱な先生でしたから、彼はすでに先生は他界されたと思っていたそうです。その彼は、小学校時代、どの先生もおれをなぐったが、なぐらなかったのは先生だけで、先生のことはかた時も忘れなかった、ほんとうにご無事で、ご健康でよかったといって泣くので、先生は一度だけなぐったと告白したところ、彼は「絶対に嘘だ。自分はなぐられたことはなかった」と頑固にいいはったといいます。
 なぐって錬成することが時代的要請だった時期に、なぐらなかったというのも、これはよほど勇気のいる抵抗だったのではないかと思います。しかも、そのただ一度なぐったことで、先生は彼の仕返しを甘んじて受けて謝罪しようと覚悟したというのですから、これはやはり本ものだった気がします。しかもその先生は、戦時中自分が教師であったことの罪はいまなお、重くのしかかっていると話されました。それも、あたりをはばかるようにひっそりと。

 読者からの手紙

 職業として、子どもの物語を書き出してから十五年になる。その間、読者である子どもたちから、さまざまな手紙を受けとった。初期のころは、こんなけしからん内容の本を出版するとは何事か、修学旅行で上京する際には挨拶させてもらうから覚悟していろ、といったような脅迫状も何通かあり、私自身も若かったから、かっとなって返信で噛みつき返したりしたようなこともあった。
 いつも学期末や学年末の休みになると、読者からの手紙がふえる。それらの手紙の大部分にひとつのパターンがある。まず本のストーリーの内容、あらすじの説明がある。なかには何ページあたりにこれこれの伏線があり、それが何ページあたりから表面に出て来るといったふうな、可成り手のこんだ、念入りな解説もある。次に登場人物の行為についての解説が来る。登場人物に対する嗜好が述べられる。そして、残りの数行、手紙全体の量から言えば一割ぐらいのところで、登場人物と自分との比較があって、何年何組のだれそれということになる。ときには、最初にあげたストーリーの解説だけで十割というのもある。恐らく、最後まで書くのが面倒になり、そのまま封をしてしまったのだろう。
 これは極めて一般的な読書感想文の方式で、たまたま感想文に宛先があるということだけに過ぎないから、読んでいて一向に面白くもなんともない。つまり、その手紙を書いてくれた子どもが、どんな子なのか、字の書き方、字配りなどで想像する以外、さっぱり手がかりがつかめない。
 何も作者にねんごろにストーリーの解説をしたところで仕方がないように思うのだが、そのように書かないと、サマにならない、もしくは、そのようなパターン以外に感想を表出出来なくなっているとしたら、何とも気の毒である。そこにパターン化された読書指導といったものをいやおうなしに感じとらされてしまう。数多い手紙の八割までがこの種のもので、最近は特にそうした画一化が目立つようになって来た。
 もちろん、そうであっても、読者からの手紙はうれしいものである。
 元来おだてにのり易い私は、読者から「また、こういう本を書いてくれ」といわれただけで、大ハッスルして次の仕事に向かうことが出来る。また、そうしたパターン化された手紙にせよ、子どもが自発的に送ってくれた気持を有難く思う。前に述べたような脅迫状まがいの手紙など、最近の読者は書くひまがないのだろう。その点では、私の商売は直接子どもに向かい合っている教師と違い、可成り無責任で、居心地が良い。好意を持たれていない部分は気づかずに済むし、気づいたとしても、それによってこちらがやり方を変えなければならないというものでもない。気に入らなければ、二度と私の本など読まなければいいし、また読みもしないだろう。
 ところで、前に述べたパターン以外の手紙の中には、かなり傑作なのがある。一体、私のどの作品を読んだのか見当のつかないのや、おもしろかったのか、おもしろくなかったのか、わけのわからないのもある。
 ただ最近、目立つ傾向としては、主語が欠落している手紙が多くなったことだ。何を読んだのかの、何’を’が書かれていなかったり、具体的には何の説明もなく「あそこんとこが気に入った」などと書いてある。
 差し出し人側からすれば、お前の本なんだからわかるはずだということかも知れないが、私自身、子どもの本を書く商売なのだから、商品がたくさんあり、商品名を指定してもらわないことには、判断がつかない。それも、小学生ではなく、中学生、高校生からの手紙に多い。なかにはラジオのディスクジョッキーに送るリクエストカードまがいのイラストの豊富にはいったうれしいのもある。が、それも、どうしてその葉書を私宛に送ってくれたのか、いまだに真意がわからない。つまり、葉書全体の主語が欠落しているとも言える。
 勿論「いつ、だれが、どこで、なにを、どうした」という基本を学習しなかったということではなく、そうしたこと抜きに感情表出だけが前面に来ていると善意の解釈をしているが、正直なところ、近ごろの読者は、せっかちになって来たなあという感じがする。
 数日前にもらった女子高校生の手紙はうれしかった。作品を読んだ、作品についてまとまったことは何も言えないけれど、この本の作者に手紙を書いてみたくなった、というのだ。受験勉強のあいまに年下の兄弟たちの本から目ぼしいものをとり出して、息抜きに読むのだそうだ。何気ない内容だったが、私は不思議に感動を覚えた。

 奇妙な文章

 先日必要があって図書目録をひろげていたら、奇妙な文章にぶつかった。その文章によれば、七一年度のある読書実態調査によると、小学生の一ヶ月一冊も本を読まなかったという不読書者層(なんと舌をかみそうなソウ)が三〇%、中・高校生では五四%であると述べて、

<この憂うべき状態は、なにも昨年だけのものではない。ここ数年、継続してみられる状態で、日本の児童生徒の読書活動は健全なりとは、残念ながら言えない実状なのである。世界第二の出版国は、いったいどこをどう流れているのであろうか。あの洪水のように生産される図書群は、いったい、いつまで維持していけるものであろうか。/中・高校生といえば、近い将来、われわれのあとを継いでくれる若い世代である。読書活動からいっても、読書予備軍に属する人々である。この人たちが、こんなに本を読まない状態では、われわれは安んじて、あとを任せることができようか。まして読書は、人間の思考力を錬磨するだいじな営みである。その思考力を欠いた青少年が、どんな人間に成長していくか連合赤軍の例をとるまでもなく、あい継ぐ学生、青少年の事件で、われわれは、すでに、いやというほど思い知らされているはずである。>

 と書いているのである。まず前半「いったい、いつまで維持していけるものであろうか」を受ける主語は何なのだろうか?どうやら、洪水のように生産される図書群を指しているらしい。この書き手の主体的な立場はどうなっているのだろうか。この状態を否定しているのか、肯定しているのか、きわめてあいまいである。子どもたちが本を読まない実情は健全でないと前の文章でいっているが、後の文章は、世界第二の出版国が放浪しているらしいことを述べているのであって、放浪していることと読書実情がどう結びつくか、この文章からはわからない。
 続いて、この書き手は「われわれは安んじて、あとを任せることができようか」とおっしゃるが、いまの若ものは、こんな老朽化し、形骸化し、年よりばかりがでかいつらしている世のなかなんぞ、受けつぎたくないといっている。ごめんこうむりたいといっているのだ。とくに本を読んでる層は。
 つぎの「まして読書は――」と続くくだりから、よく読むと、本を読まないと連合赤軍になるぞとおどしているのである。私などは連合赤軍の連中は本の読み過ぎで、頭でっかちになりすぎた結果ではないかと考えているのだが・・・。
 ところで私は昭和一桁生まれも、まんなかである。生まれた年に一五年戦争が始まり、小学校時代、書店に本がなかった。敗戦後、大学へ行くまで、本を買いたくとも金がなかった。これは私ひとりだけの経験ではない。同世代みんなの経験である。だから、われわれの世代はみんなそろいもそろって、こんな人間に成長してしまったといわれるかもしれない。
 ところで、思わせぶりはここいらでやめておこう。この文章の書き手の正体が明らかになれば、本の洪水に対する書き手のあいまいな態度も、連合赤軍云々のおどしもわかってくる。この文章の書き手は、前全国学校図書館協議会事務局長・松尾弥太郎という人なのである。これは「優良児童図書目録七二年版」の”はしがき”である。
 現実に子どものおかれている状況も考えずに本さえ読めば、おとな好みのいい人間になれると考えている人たちがすくなくない。そして、おとなたちは子どもをおどしつけてまで本を読ませようとする。しかし、よく考えてみよう。おとなは子どものなれの果てであるし、むやみやたらに本を押しつけたがるおとなこそ、実は本を読んでいなかったのではないだろうか。

 吉田とし『むくちのムウ』(あかね書房)

 日本の児童文学界には、不思議な習慣があって、一冊でも著書を出版するとたちまち「児童文学者」の肩書きが献上されて、本人も平気で「児童文学者」を名乗るようになる。きのうまで「児童文学評論家」を自称する読書運動屋が一冊の本で、突如「児童文学者」を自称するようになったりする。多分、出版点数の僅少な”冬の時代”の名残りなのだろう。もちろん「児童文学者」を自称するのに資格を必要とするわけではないから、そのことに対して異議を申し立てるつもりはない。とにかくそんなわけで、今日の日本の児童文学界には、自称他称、実に数多くの児童文学者がいる。しかし厳密な意味で、児童文学の職業作家ということで認められる人ということになれば、その数はきわめてすくない。
 この本の著者は、その数すくないプロの児童文学者である。にもかかわらず、この作家の作品にジュニア小説の多いことから、一般的にはジュニアものの作家というレッテルを貼られ、その作品もそうした色めがねで見られる傾向にある。だがこの作家の作品は、疑いもなく児童文学とよばれるべきである。さきの『小説の書き方』(あかね書房)『おにいちゃんげきじょう』(理論社)同様、この作品も鋭い問題提起の上に、きわめてエンターテインメントな物語を構築して読者を引きつける。
 四年一組の神谷光男によって「むくちのムウ」と名付けられた村上六実。六実はもともと決して無口ではないのだが、あるとき、自分から強い意志を持って、もうひとりの「むくちのムウ」に変身した。その無口の六実をめぐって、四年一組の先生、子どもたちがさまざまな反応を示す。その反応のひとつひとつがきわめて個性的で、しかも実にリアルなのである。多分、読者はその説得力の強さに、自分までその問題の四年一組のメンバーになったような錯覚を起こすに違いない。
 ストーリィの構成からいうと、一種の謎解きの手法をとっているので、その結末がどうなるかという具体的な紹介は避けるが、ストーリィが終わったところでもなお、大きな問題が読者の前にどんと据えられる。
 もちろん、作者は初めからそうした問題提起をもくろんでいるわけではなく、むしろ、四年一組に起きたおかしな事件をきわめてユーモラスに描いて見せたのだが、ストーリィのおもしろさに引かれて読み進むうちに、いやおうなしにその問題にとりくまされてしまうことになる。そしてまた、作者は解答を求めているわけではない。にもかかわらず読者はさまざまな解答を用意しないわけにはいかなくなる。その結果、まんまと、もう一度読み返しさせられることになるだろう。
 何やらこの著者がかつて主宰した、児童文学同人誌のタイトル『だ・かぽ』つまりくり返しを思い起こさせるような不思議な作品である。実際に、本の結末が冒頭と同じ文章になっているあたり、なかなかのテクニックである。
 実際に起こりそうで起きないかもしれない、また起こりえないようでいて、起こる可能性もある、ぎりぎりのところにストーリィを設定したことからくる緊張感がこの作品の魅力になっている。意地の悪い趣味かもしれないが、ちょっと小生意気な女の子にこの作品を預けて、すました顔で、その子の顔を観察したら、きっとおもしろいだろうなどと考える。

 佐野美津男『なっちゃう』(フレーベル館)

 これは低学年向きには珍しく、父性的な肌合を持ち、一行一行にある意志を感じさせる文体でつらぬかれ、不思議な熱っぽさが伝わってくる作品である。
 あえて、珍しいといったのは、一般的に低学年を対象とした物語は、母性的な感じのものが多い。もちろん母性的であること全てを否定するものではないが、ストーリィのダイナミックな展開とか、ドラマチックな構成というより、日常的な生活を中心にすえ、こまやかな心くばりによる雰囲気的な面に重点が行ってしまう。不思議なことに作者が男性であっても、そういった母性的な傾向が強い。これは悪くすると、おとなの意識による、かわいらしさをべったり売ることになりかねない。ことによると、どこかにかわいらしくつくろうとする意識があって、作品全体を無意識のうちに、おとな意識のかわいらしさのパターン(型)にはめこんでしまうのかもしれない。
 その点でも、この作品はかわいらしさなど売ってはいない。物語の内容は「なっちゃうくん」という男の子、「なっちゃうちゃん」という女の子、ふたりの幼稚園の友だちが「なっちゃう」という決意のもとに「なっちゃった」変身の様ざまなエピソードで、次の七つの話がおさめられている。
 なっちゃうくんがおんどりに、なっちゃうちゃんがめんどりに、それぞれなっちゃうけれど、それが四本足のために騒動となる「うそじゃない ほんとだよ」
 ふたりで魚になり、金魚鉢で原始の海の体験をする「いそいで いそいで」
 ふたり合作の珍獣トラゾウで大騒動「しってるだろう もちろん」
 世界を暗闇にしようと暗躍する連中に荷担したなっちゃうくんとなっちゃうちゃんの対決「とけいをみたよ」
 なっちゃうちゃんの悪夢のなかに白馬となってとびこんで行くなっちゃうくん「ともだちだろ」
 幼稚園年少組の友だち、とよくんの愛犬が行方不明となった。それを探すためにふたりも犬になる「なんだ かんだ」
 赤いマキシの虫になったなっちゃうちゃんと、枯葉になったなっちゃうくん。冬の日のふたりの対話「ぴゅう・ぴゅう」
 なんでも、なってしまえばいいというものではなく、なっちゃったことにより持ち上がる、楽しさはもちろん、不都合、不条理もユーモラスに、ときには大変詩的に描かれている。しかもそれらの不都合や不条理がきわめて科学的に裏打ちされている。
 おとなの「○○になりたい」という願望はきわめて現実的で、その対象も、多少とも実現可能の効率のよいところへとせばめられていくのに対して、幼い子どもの「○○になりたい」願望は無限に対象を持つ。常識という合理主義などにしばられることなく、思いのままで、おとなの眼から見てめちゃくちゃな感じがすることがある。
 そうした子どもの願望を、作者はこの物語で描くというより、支えるという感じがする。実はこの支えるという姿勢が他の変身物語と違う点でもある。普通、低学年向けの物語の場合、作者の姿勢というものが不明確になりがちである。よほど強い作家主体をうち出さないと、一般的なかわいい子のお話というパターンに埋没してしまう。作者は父性をむき出しにして「なっちゃえ、なっちゃえ」と豪快にけしかける。
 どうか、この本を子どもに手渡し「なっちゃえ、なっちゃえ!」とけしかけてほしい。この本の願いを小さい読者はきちんと受け止めるに違いない。

 小沢正『のんびりこぶたとせかせかうさぎ』(ポプラ社)

 小沢正といえば『目をさませトラゴロウ』(理論社)で、一九六五年に登場した作家である。だが、デビューの早い割には作品はあまり多くない。ひとつのテーマをじっくりと考えながら、丹念につくり上げる型の作家であり、それだけに、作品には重ったるい感じがつきまとっていた。物語にはふんだんにギャグがちりばめてあるのに、うっかり笑えないといったうす気味悪さがあった。子どもたちの感想も「おもしろいみたいな、そうでないみたいな、よくわからない」というのが多かった。
 もっとも、変にわけ知りで見え見えのテーマ主義が横行するなかでは、こうした作風も貴重なものではあるが、この作家の作品が共通して持つ高度な寓意性からいえば、そうした受取られ方は当をえているのかも知れない。しかも子どもたちは「よくわからない」といいながら、最後まで付き合わされてしまうらしい。やはり「おもしろい」のである。恐らく、政治的プロパガンダである読書運動屋にとっては、一番扱いにくい作品をうむ作家なのだろう。
 この作家が早稲田大学新聞に寄稿したことで、日共イデオローグの鳥越信が、革マルの機関紙に寄稿するような作家の作品は以後認めないといったので、配下の読書運動屋どもはさぞ安堵したことであろう。
 ところで、こんどのこの作品は、きわめて単純明快な展開である。アニマン市のはずれの一軒家で、のんびりこぶたとせかせかうさぎが同居している。大変仲がいいが、性格はまるで反対。うさぎは熱中型で、ちょっとおせっかい。こぶたはのんびり型で、ちょっと馬鹿正直なほど鈍重である。こぶたは年中、大好物のキャベツの夢ばかり見ている。うさぎはそんな低俗な夢ばかり見ているものとは同居できないと非難する。こぶたはうさぎと別れたくないので、これからは高級な夢を見ると決意表明をする。
 ところがうさぎはこぶたの夢を機械で検査してしまう。こぶたは星の城でのパーティの夢を見るが、そこでもキャベツが現われてしまう。困ったこぶたは、どういうのが高級な夢か、うさぎの夢を機械で検査させてくれと頼む。実はうさぎも年中大好物のニンジンの夢ばかり見ていたので、大あわて。
 医者のところへ行って高級な夢を見る注射をしたり、寝ない工夫を凝らしたりするが、夢は宝島探検となる。だが掘り当てた宝の中味はほかならぬニンジン。うさぎの面目はまるつぶれ。それでも体面をつくろううさぎは、内心こぶたに引き止めてもらいたいと願いつつ訣別しようとする。こぶたはこぶたで、いったんいい出したら後へ引かないうさぎの強情さを知っているので、止めない。ついにうさぎは旅立つことになる。だが・・・。
 このうさぎとこぶたの性格の違いが非常におもしろく描かれている。そして、作者は、うさぎを実に小憎らしく書きながら、だからどうだという結論は出さない。やっぱりそれでも、こぶたはうさぎが好きなのだというこぶたの心情を描いて見せるにとどまっている。もちろん、単純な結論は引き出せないし、作者もそれを提示しようとはしない。にもかかわらず、読者をぐんぐん物語の世界へ引きずり込むおもしろさを持っている。
 恐らくここに象徴されている寓意性を理解するのは、作者の情況を知るおとなだけだろうと思う。しかし、読者が読み終わったあと、うっちゃりをくった気持にならないようにきちんと手当がしてある。小さい読者と読む比べてみてはいかが。

 わたしの育児観

 自分の子ども期を回想してみると、むかしの母親たちは、現代の母親たちほど、いわゆる<育児問題>にとらわれていなかったような気がする。たしかに婦人雑誌などには育児に関する記事もあったにはちがいないが、いまほど大げさなものではなかったろうと思う。子どもを育てるということが、生理的なものであって、<育児>といったタテマエ的な概念にとらわれるものではなかったような気がする。
 たとえば、ぼくらが子どものころ、学校から帰った悪童連が空き地などに集合すると、かならずといってよいほど、せなかに小さい妹や弟をくくりつけているのがいた。ぼく自身も長男で、下にたくさん妹や弟がいたので、その経験がある。あかんぼうをせおうことで、遊びに行かせてもらえた。母親も、あかんぼうをせおわしておけば、むちゃな遊びをしないと思ったのかもしれない。もちろん、そのころと、いまとでは、子どもたちをとりまく状況はお話にならないくらいのちがいはあるが、考え方によると、かなりらんぼうでもある。これなどは、<のびのび育児>というよりも<ほったらかし育児>(?)でもあったが、母親たちは、いまほど幼児にタテマエ的干渉はしなかった。母親たち自身の生活が、現在ほど合理的でないから、手が回らなかったといえばそれまでだが、いまほど<育児>に神経質ではなかった。
 ところが、現在では<育児ノイローゼ>とやらで自殺する母親がいるほど、<育児>という概念が、家庭生活の中で重視されてきている。事実、街の書店をのぞいてみると、家庭・婦人向け図書に、おどろくほどたくさんの育児書がならべられている。売れもしないものを出版社が出すわけもないから、これは結構売れているということなのだろう。現に本紙(読売新聞)に限らず、多くの新聞に<育児>関係のコラムがある。つまりいまや<育児>は商売として成り立つということでもある。
 それを証明するかのように、若い母親たちの様子を見ていると、育児書による育児学の実習をしているようなところがある。たえまなく子どもの手をふいたり、「きたないわよ!」と口やかましく忠告しているのは、多分、保健衛生に重点をおいた育児書を学習した母親であり、「うちの子はまだ、こんなことができない、あんなことができない」などと、年じゅうぼやいているのは、発達段階区分にやかましい育児書につきあったせいであり、まだ幼稚園、保育園にも行っていない子どもの行動に目を光らせ、「こんな主体性のないことで、ちゃんと世の中に出ていけるだろうか。定職にありつけるだろうか」などと心配しているのは、性格診断、心理分析を重点解説した育児書を買ってしまった母親ではないかと思うときさえある。
 そして、多分どの育児書も、きっと「子どもをのびのび育てましょう」と書いてあるにちがいない。「子どもをいじけるように育てよう」などといったら商売にならない。また、どの母親もみんな心から「子どもをのびのび育てたい」と思っているにちがいない。しかし、その母親たちに「子どもをのびのび育てるというのはどういうことか」と質問してみると、具体的な答えは出ず、育児書からのうけ売りの概念説明しかできない。そればかりか多くの場合「育てる」ということを「管理する」ことだと思っている。はっきり言って「のびのび」というのは、ワクにはめないということだ。
 近所の奥さんの話だが、泣きむしの長男に絶えず気合を入れ「やられたらやり返して、男らしくやっておいで」と保育園に送り出していた。ある日、めずらしくむすこが意気ようようともどってきた。「キックされたからやり返した」という。「だれにやり返したの」と奥さんは、いつも彼を泣かすだれかれを思いうかべながらたずねた。むすこはすましていった。「オンナ」。とたんに奥さんは絶望のためいきをもらした。
 しかし、子どもはそんなものなのだ。どの子もどの子も、まるで定規で計って、絵にかいたように、すなおで親のいうことをよく聞いて、明るくて、元気でよい子ばっかりなどということになったら、ひどく不気味ではなかろうか。まず、親が世間のおもわくやら、商業主義的な育児常識から、自らをとき放って、子どもがどんなとき、生き生きしているかを発見するところから出発すべきである。
テキストファイル化渡辺みどり