『児童読物よ、よみがえれ』(山中恒 晶文社 1978)

夏のくるたびに
 また、夏がやってきた。夏がめぐってくるたびに、私は「また」と思う。四季を通して、他の季節ではそんな言い方はしないし、そんなふうにも思わない。こと夏についてだけは、「また」と、毎年思い続け、いままた29回目の「また」になった。
 そのとき私は、北海道庁立小樽中学校(現・道立小樽潮陵高校)の2年生で、満14歳のやせこけた少年であった。いまはウイスキーのテレビCMで全国に名を知られるようになった余市郡大江村大字仁木の農家へ泊り込みの勤労作業に来ていて、栄養失調からくる慢性の下痢に苦しんでいた。
 その日の空は澄み切って、体調の芳しくない私には、目が眩んで、まっ暗に見えるほど不気味なまでの明るさだった。私が宿泊していた家のラジオは故障したままだったので、級友と国鉄駅のそばの疎開者の家までいって、重大放送というのを聴いた。生まれて初めて聴く天皇陛下の声は、ひどく人間ばなれしていて耳慣れない抑揚だけが気になった。ラジオはハウリソグと雑音がひどく殆どの意味が聴き取れなかった。それがいわゆる終戦の詔勅であることを知ったのは1時間ほど後のことだった。それまでは、いよいよアメリカ軍の本土上陸が開始され、天皇が総決起を呼び掛けたのだと思っていた。
 日本が戦争に負けたと知ったとき、私は死んで天皇陛下にお詫びをしなければと思った。それまで私たちは敵に捕えられ生き恥をさらすことは死よりも恐ろしいと教えられていた。級友と話し合い、先生やおとなたちの死に方を見届けた上で、それに習うことにした。
 私たちのまわりには、そのために死ぬようなおとなはいなかった。やりかけの仕事にせっせと精出していた。その仕事を片づけてから死ぬのかと思った。どのおとなも、そんなことは口に出さなかった。
 数日後、援農作業は打ち切りとなり私たちは学校へ戻った。「天皇陛下の御為に死ね」と私たちを叱咤激励した先生方は、そんなことなどいわなかったという顔をして息を殺していた。何人かの軍人が自決したというニュースがあった。私たちはひそかに、どの先生とどの先生は自決するだろうとリスト・アップした。ついに誰一人自決しなかった。やがて先生方は「自分たちは為政者にだまされたのだ」と被害者の席へ居すわってしまった。
 そのとき私たちは大日本帝国の少国民として敗れ、更に信頼していたおとなたちの裏切りに敗れ、二重に敗れた。けれども、おとなたちは敗れなかったように思う。彼らは「敗戦」を「終戦」と称し、「占領軍」を「進駐軍」とよんで、素早く民主主義者になってしまった。おとなたちにとっては、「敗戦」は「終戦」と言抜けられる程度の、永い人生の中の極く些細な出来事なのかも知れなかった。けれども私たち子どもにとって、敗戦はすべてだった。この世に生をうけたとき満州事変と呼ばれる戦争が始まり、私たちは学校で、天皇陛下の御為に死ぬこと、ただそのことのために学んだ。学ぶという形をとった厳しい錬成鍛錬だった。敗戦したことと天皇陛下の御為に死ねなかったことで、私たちの受けた教育はすべてご破算になり、意味のないものになってしまった。
 つぎに私たちは必死で民主主義というものを学んだ。その民主主義も現実には、学ぶそばから、戦争に敗れなかったおとなたちによってねしまげられてきた。その権力を持つおとなたちが、〈日の丸〉だ〈君が代〉だとわめき、民主主義否定の上に成り立つはずの〈教育勅語〉まで、学校へ持ちこもうとしている。残るのは〈御真影〉だけである。
 そして、また夏がやってきた。私たちが敗れた夏が……。私は私の子どもたちに、もうあの目の眩む不気味な空の下で、誰もが口をとざして、天皇陛下やら国やらの為に死ぬことだけを侍ち続けた夏を迎えさせたくないと思う。たとえ子どもたちが、戦争なんか関係ないと言おうと、古い話だとせせら笑おうと、私たちの夏のことを語り続けようと思う。語ることで、告発される何かがあるうちは語り続けたいと思う。いま、あの夏のことをばかにして、時の流れを引きもどそうとするおとなたちが権力を持ち続けているうちは、ばかのひとつ憶えのようにくり返えそうと思っている。私たちの世代はほんの一部を除いて、いまも敗れ続けている。夏がめぐってくるたびに私はそれを思い知らされる。
 いま、私たちの町にまっかなサルビアの花が咲く夏がきた。私はあのときのおとなたちの年齢になっている。そのことをひどく不思議に思う。夏がくるたびに不思議に思う。

33年前の作文

 私は自分ではそれほどとは思わないのだが、雑駁さと軽率の故に、想い起こすたびに恥ずかしさで身の縮む経験をいくつもしている。もちろん、この先そうした過去をつくらないという自信もない。そして、ときにはそのやり切れなさを緩和したい、あるいはそこから解放されたいと願い、それを文章にし一般公開することにより客観化し、ある程度の免疫を獲得することができた例もある。
 しかしとても免疫性などえられないだろうし、また免疫を求めてはならない過去がある。それは〈戦争体験〉である。この戦争体験と児童文学のかかわりについては、佐野美津男の連載誌上セミナー「戦後児童文学を調べ直す」(『児童図書館』誌)にゆずり、私自身の個体験の一部について述べて見たい。私は戦時下の自分の子ども期を想い起こすたびに、自分は優れて戦争協力者であり、小さな督戦隊員であった。つまり被害者ではなかったことを自覚しないわけにはいかない。確かに当時の子どもたちは、おしなベて、そうならざるをえない状況に置かれていたといえなくはない。
 次に掲げる文章は1941年末、当時国民学校初等科4年生によって書かれた「大東亜戦争の起った日」という題名の作文である。

〈十二月八日この日は、いつになく早く起きた。顔を洗い、玄関へ新聞を取りに行こうとした時、急に何時もよりはげしいラジオのピアノの音がした。僕は何げなく耳をそばだてた(ママ)「あ、お母さん臨時ニュースだよ」と大きな声で母に言った。病気で寝て居られた母は、むっと起き上り、ラジオに耳をかたむけられた。「帝国陸海軍は本八日未明西太平洋に於て米英陸海軍と戦闘状態に入れり」ラジオは幾度となくくりかえされた。「とうとうやったぞ」と僕は大きな声で思わず叫んでしまった。その時の声が余り大きかったので、妹はびっくりして「爆弾が落ちるよう」と言って泣き出してしまった。お母さんは「大変な大きなことになりましたよ……海外の日本人はどうなるかしら」とひとりごとのようにおっしやってラジオに気をとられた。するとすぐお母さんは、大神宮様に御燈明をつけて何事か祈られた。「さあこれからだ」僕の心はこの時程勇み立った時はなかった。「さあ、これがら大人も子供も一体で総力戦だ、さあ覚悟はよいか、がんばろう……」と自分で自分をいさめた。ラジオは盛に「敵は幾万ありとても……」と力強い軍歌の連続で勇み立っている(ママ)学校に行くと運動場のあっちでも、こっちでも、戦争の話をしている。第二時間目に全校でラジオのニュースを聞いた。我が皇軍のものすごい活躍だ(ママ)「米英の軍鑑をごう沈、げき沈、ほばく……」皆思わず拍手かっさいした。その時私は我が皇軍の有難さをしみじみ感じました。昼から校長先生の宣戦布告のお話があって、それから三嶋神社に武運長久のお祈りをした〉

 実をいうとこの作文の作者は私自身なのである。これは先日、神奈川県平塚市立港小学校の創立百年展に出品された校誌「うしほ」(第30号・昭和17年3月)から、コピーしたものである。私はこれと対面したとき、激しい悪寒に襲われた。全身に粟粒を生じるほどの不気味さであった。それと、当時のことを昨日のように思い浮かべた。文中のゴシックのところは全て、教師の添削した箇所である。
 最初のところで母は「北京のお父さんは大丈夫かしら」といった。2番目のところは事実無根である。当時、私のところに神棚はなかった。「うちは門徒(真宗)だから、門徒物知らずで神棚はいらない」と普段、母が豪語していたのである。この校誌が出たとき、私はうそを書いたことになると教師に抗議した。教師は受付けなかった。翌日、私は学校へ行かないとごねた。母が近所の雑貨屋から神棚を買ってきて、柱にうちつけた。3番目は「女王の海賊の血を引くものたちと、海賊倭寇の血を引くものたちとの決戦だ」となっているのを、倭寇は海賊ではないと削除されて、代りに入った文章である。4番目は元の文章には全くなかったものである。
 もちろん、そんなことをいっても、この文章が戦争を讃えていなかったなどということにはならない。そればかりではなく、各クラスから一名の代表作として、級友や校友たちをアジテーションしたことは事実である。私は教師と共犯関係にあって、戦争を讃美した幼い戦争犯罪者であった。
 だから私は、人間らしい生き方をしようとするような子どもを登場させる〈戦争児童文学〉とよばるものに、リアリティを感じる資格がないのではないかとさえ考える。私はそうした生き方を拒否す小天皇制ファシストであった自分に限りない恐れを抱いているのである。(本文中に引用した作文は現代かなづかい・当用漢字に改めました)

国民学校へのこだわり

昨年(1974年)末、私は雑誌連載の一部をまとめて、『ボクラ少国民』(辺境社)を出版した。これは1939年春、小樽市稲穂尋常小学校から神奈川県平塚市の小学校へ転校した私自身の個体験として被教育体験を、当時の関係資料で裏づけ、さらに一般化の方向で戦時下の初等教育と天皇制ファシズへのこだわりをしつこく論じたものである。私自身〈児童読物〉の創作を専門にする作家であることから、自分の子ども期へのこだわりはかなり強い方だと思うが、自分の子ども期を子どもに語ることを試みようと材料を集めているうちに奇妙なことに気付いた。
 これほど教育関係の図書が出ているのに、戦時下の初等教育を論した独立した著書が少ないこと、教育の思想史、政策史、制度史などでは概括的に論じられてはいるが、私たちの被教育体験の中で世代的共通項ともいえる紀元二千六百年祭とか大日本青少年団などがほとんど触れられていないか、あったとしても極端に概略的であるかのいずれかであるということ。確かに私が小樽中学(現潮陵高校)の2年生だった1945年秋、文部次官通達で教科書をぬりつぶすという作業の過程で、それまでの学校教育はご破算となった。しかし私たちの被教育体験そのものまでもご破算になったわけではない。それなのに世代的共通事象すら教育史で黙殺に近い状態にあることに二重にこだわりだし、子どもに語る以前に同世代への再確認のメッセージとしてしまった。
 現在、続編にあたる『ボクラハ銃後デ』(後に『御民ワレ』と改題)で国民学校問題を執筆中であるが、ここでもまた、国民学校がかなり邪けんに扱われていることを思い知らされている。一般教育史書ばかりでなく、先ごろ学制百年以来あちこちの小学校で創立百年記念誌を出しているが、それらでの国民学校の扱いも同様である。極端な例では年表の中で数行で処理している。どうやら余り触れたくないらしいが、創立百年というベクトルで捕えた場合、国民学校が不都合だからという配慮があるように思えてならない。つまり、戦前戦後を通じての百年という暦年からすれば、それは5%未満でしかないが、戦前戦後の教育の建前評価からすれば、100%全否定のターミナルポイントをなしてしまうからであろうと思われる。
 しかし、私はこの扱いに不満である。私は国民学校は明治創成期以来の日本の初等教育の異端の庶子ではなく正統の嫡子であろうと考える。その嫡出証明は昭和16年3月29日付文部省の「国民学校制度実施二関スル訓令」に明らかである。この訓令で橋田邦彦文相は明治以後の教育は教育勅語を基礎としたが「十全ナラザルモノ」があったから「国民学校制度ニ在リテハ特ニ我ガ国教育ノ本義ノ徹底ヲ期シ克ク大国民タル資質ヲ啓培シテ忠良ナル皇国臣民ノ錬磨ヲ主眼トスベキコトヲ明確ニセリ宜シク今次ノ改正ハ国民的世界観ノ確立徹底ヲ図ラントセラレタルモノナルコトヲ諦観スベシ」と述べている。国民学校教育こそいわば学制以来の戦前教育の粋であり成果であったといえる。その点を見逃して、これも故意か無意識か不明だが、国民学校を鬼子、もしくはまま子扱いする真意がわからない。そこに私はこの一種流行のような創立百年記念行事の怪しさを感じてしまうのである。数年前、皇太子夫妻を招き、そのためPTAがそろいの訪問着を作ったなどという話をきくにつけ、教育というものが常におとな主体の営為に焦点が絞られ、教育を受ける側、受けた側はその営為の対象としてのみしか存在を許されていないことを思い知らされ、私は国民学校における被教育体験をトータルな日本百年の初等教育の異相としてこだわり続けたいと思うのである。

1枚の賞状

 現在、次妹と同居している母の所へ年始に行き、母のへやの戸ぶくろの中をかきまわしたら、私の国民学校初等科時代の賞状類が多数でてきた。昭和19年3月29日付の「右者軍人援護ノ趣旨ヲ体シ/至誠克ク援護二努メ其ノ績ヲ挙グ/仍テ茲ニ之ヲ賞ス」などという賞状は、せいぜい郵便はがきに毛の生えたほどの大きさである。物がなくなり、紙も極端に節約しなければならなかった時代のものであるが、それを見ているうちに、私はたとえようもなく、恐ろしくなってきた。
 この賞状は、私がせっせと戦地の皇軍兵士に慰問文やら年賀状やらを出したり、少々できのよい軍人援護の作文を書いたりしたことでもらったものである。ことによると、私の作文や慰問文を読んだがために、決死隊や特攻隊に志願した若者がいたのではないか。いや、いたはずである。私はその文章で「天皇陛下のおんために立派に死んでください。ぼくらも続きます」と、書いたにちがいないのだ。きっとそれは、そのころの慰問文のパターンだったかもしれない。けれども、私自身の手で、鉛筆をなめなめ書いたものだ。
 戦時下の子どもは「欲シガリマセン勝ツマデハ」といわせられて、被害者だったと思われている。しかし、その年齢に見合った、戦争への協力で、部分的に加害者であったことは否定できない。今年はこの一枚の賞状のもつ意味を徹底的に考えたいと思っている。

8月15日、そのとき子どもであったこと

 毎年夏が来るたびに、8月15日がめぐって来るたび、あのとき満14歳の少年であったぼく自身に例えようもない哀れみをおぼえるのである。ぼくの敗戦体験はごく一般的なものだった。北海道庁立小樽中学(現潮陵高校)の二年生で、余市郡大江村仁木の農家に泊まりこみの援農作業に来ていた。栄養失調からくる慢性下痢に悩むやせて小さなぼくに、その日の空は明るすぎてかえって目もくらむような不気味ささえ感じさせた。正午の戦争終結の玉音放送も、受信器のせいか雑音がひどく内容はほとんど聴きとれず、天皇のかん高い祝詞のような口調を、本土決戦の決意を求められたものと解釈した。一時間後、日本降伏を知り、こんどこそほんとうに目もくらむ思いがした。
 ぼくらは小学校から国民学校にかけて、日本は神国であり不滅であるとくり返し教えられてきたし、大東亜戦争は百年戦争で子子孫孫の代まで続けられると観念させられてもきた。事実、1941年12月8日以後半歳の戦果はそれを信じて疑わないようにする効果があった。それなのに敗戦という思いも及ばぬ事態になったのである。
 ぼくは戦争が敗戦で終わったことで、ひそかな恐れを抱いた。天皇陛下にお詫びするために自決しなければならないのではないかと思ったのである。ぼくは息を殺して周囲のおとなたちの様子をうかがった。おとなたちが自決するのを見て、その作法を確認した上で自決しようと思った。だが、おとなはそのことにひと言も触れなかった。監督の教師も放心状態のぼくらに、軽挙妄動するなといっただけで、腹を切る気配も見せなかった。
 数日後、ぼくらは学校へもどった。ぼくらは、日ごろの言動から当然自決するであろうと思われる教帥をひそかにリスト・アップして監視していた。だが、そのだれもが自決しなかった。
 そればかりか、その中から、日本が神国だなどというのは甚しい迷信だという教師さえ現れた。そのとき、ぼくはどうして、その教師をなじることができなかったのだろう。かつて日本が神国であると教えられたときのように、どうして、素直にそれを受けとめてしまったのか。そんなことは初めからわかっていたのだとこともなげに語る教師に、それならどうして初めからそれをぼくらに語らなかったのかとつめよるべきではなかったろうか。それができないほど、ゆがめられていた自分を例えようもなく哀れに思うのである。
 錬成という名目でふるわれる教師や先輩たちの暴力を、ぼくらは大東亜戦争に勝ち抜くため、天皇陛下のおんためと耐え続けてきた。数日前まで宮城遥拝が粗雑だとぼくらをなぐりつけた教師をなぜ糾弾できなかったのか。教師たちはぼくらをそのように文字通り錬成してしまったのである。「千萬の軍なりともことあげせずとりて来ぬべき男とぞ思ふ」という理想像にむけてぼくらをしつけてしまったのである。ぼくらの魂は「自由」を知らなかった。「自由」とは背徳であり、敵性思想であると教えられてきた。
 敗戦によって、ぼくらの受けた教育がその場でご破算になったのに、ぼくらは告発できる自由な魂を持ち合わせなかった。魂が自由であることのすばらしさを知らなかった。その14歳の夏のぼく自身を悲しく哀れに思うのである。
 そのときからぼくは、おとな一般に敵意を抱くようになった。身すぎ世すぎでぼくらを錬成したおとなを憎むようになった。
 にもかかわらず、ぼくもかつて、ぼくらを錬成し思想善導したおとなたちの年齢になってしまった。しかもぼくは現在、子どもの本の作家として、かつてぼくの前におとながいたように、子どもの前に立ちはだかっている。かつてのおとなが子どもであるぼくにしたようなことを、いまぼくはしていないと言い切る自信はない。ぼくが物理的に子どもになれない以上、それは確かめようもない。
 だから、ぼくは子どもたちに魂の自由であることのすばらしさを語り続けたいと思う。ぼくたちおとなのあやまちを告発できる魂のやどることを願っている。
 1945年8月15日満14歳の〈皇国の少国民〉であったぼく自身を哀れに思うたびに、ぼくはそれを強く思う。そしてそのときのおとなたちを告発し続けることによって、自らのおとなの体質をも告発できるのではないかと考える。1941年12月8日、国家が強力にぼくらの前に立ち現れ、その姿を韜晦させた1945年8月15日を思うたびに、国とおとな、おとなと子どもの関係に、ぽくはこだわり続けたいと思うのである。
テキストファイル化藤井みさ