『児童読物よ、よみがえれ』(山中恒 晶文社 1978)

子どもはいつも幸せか

「どうして、いつまでも大東亜戦争にこだわり続けるのか」という質問をしばしば受ける。私の場合、最初から戦争にこだわってやろうという積極的な意思はなかった。
 子どもの読み物を専門に創作することを職業としている人間が、自分の子ども期について関心をいだくのは当然であり、私も例外ではない。ただ、私の生まれたのがたまたま十五年戦争勃発の1931年であったということから、子ども期をべったり戦争下に過ごしたこと、したがって、自分の子ども期を語るとすれば、戦争を抜きにしては語れないという問題をふくんでいる。
 そんな関係で、現在も私の机のまわりには、戦時下の子ども向けの雑誌、図書、楽譜、紙芝居などが山積みしているのだが、それをながめていると、ふと、子どもはいつの時代も不幸なのではないかという思いをいだいたりする。
 たしかに子どもはいつの時代でも、その時代の<あすの希望>の体現者として扱われている。そして、それなりに、おとなの側からの念入りな配慮がある。私たちの場合は「少国民」とよばれて、やがては天皇陛下のおんために死して、八紘一字の大理想を体現するものとして、厳しい練成がかせられた。たとえどんなにまちがっていても、目上の命令は絶対として受けとめねばならなかった。それにさからう場合は容赦なく体罰がくわえられた。
 あたえられた子ども文化財はすべてその線にそったもので、べったり「君が代」づけにされたのである。しかも、食い物をはじめとする生活必需物質は絶対量が少なく、絶えず飢餓感にさいなまれていた。
 こう書くと、強制収容所生活みたいだが、事実、国内が強制収容所だったのだから、ことさらこれを強調しても意味がない。にもかかわらず、私たち子どもは、親や教師、おとなの目を盗んで、結構に悪さをし、徒党を組んで、あちこち荒らしまわった。
 そして、その仲間には、ひとりやふたり、かならず、乳のみ子の弟や妹を背負っているものがいた。現在では、赤子を背負っている母親さえ、めったに見られないのだから、それだけでも隔世の感がある。それに、当時「生めよ殖やせよ」という国の要請で、よりよい国民であれば人的資源としての子どもの生産を目指ざしていたから、どの家庭でも、おおぜいの子どもたちがいた。したがって、親の目はとうてい、ひとりひとりにとどかない。親は兄に弟や妹を背負わせることで、危険なことはしないはずだと思っている。
 ところが、これは逆で、大きくフリーパスを背負わされたみたいなもので、子どもを背負った子どもは、やりたいほうだいのことをやった。自分のことを思い出しても、弟を背負って、がけからとびおりたこともあり、いま考えてぞっとする。
 こうした私たちの子ども期にくらべたら、いまの子どもは、相対的に恵まれていると思われる。
 生活物質不足の飢餓感はないし、正気とは思えない体罰的練成もないし、子ども向けの図書、雑誌、電波マスコミはうんざりするほどある。それに加えて、親、教師の管理体制が行きとどいているから、めったに危険な遊びでけがをすることもない。理髪店のおやじが「近ごろの子どもの頭にははげがない。わしらのがきのころにゃ、みんな頭に五銭ぱげがあったもんだ」という。
 だが、果たして、私たちの子ども期にくらべて、ほんとうに恵まれているのかということになると、これは疑わしい。たしかに、学校では体罰つきで「天皇陛下のおんために死ね!」と教えられることはない。だが、私たちが、親や教師の目を盗んで、ひそかに形成していた、子ども専用のコンミューンを、いまの子どもたちは一般的な形でもっているだろうか。子どもの論理で構成した子どもの価値体系を保持しているだろうか。
 いつの時代も、子どもはその時代の<あすの希望>の体現者としての扱いを受けると書いた。だが、その<あすの希望>はおとなにとっての<あすの希望>であり、子どもたち自身にとってのものではない。そのおとなにとっての<あすの希望>も、かならずしも親たち自身のものではなく、権力者の<あすの管理体制>によるものである。
 真に子どもが幸せであるという状態は、親をふくめておとな社会が幸福であるときだろうと思う。しかしそうした状況が来ることは当分望めない。
テキストファイル化内海幸代